東京つけ麺の元祖「東池袋大勝軒」に迫る!~ラーメンの歴史シリーズ その3~

執筆者: しんたた

 

つけ麺の元祖「東池袋大勝軒」

ラーメンと並んで人気のあるつけ麺。
麺とスープが別々に提供され、ざる蕎麦のように食べるスタイルが一般的。
このスタイルを最初に始めたのが東池袋大勝軒と言われています。

東池袋大勝軒は行列のできるラーメン店の元祖とも言われていますね。

 

いまでも行列の絶えない店、東池袋大勝軒の歴史に迫ってみたいと思います。

 

「つけ麺」という言葉自体は「つけ麺大王」という店が最初と言われています

 

 

山岸一雄氏の修行時代

東池袋大勝軒を構えたのは山岸一雄氏。
終戦後、山岸氏は東京に出てきて工場で働いていました。
山岸氏は職人を目指していましたが、10歳年上の従兄弟・坂口正安氏から「一緒にラーメン屋をやろう」と誘われました。


坂口氏を兄貴と慕っていた山岸氏は、一緒に阿佐ケ谷にある栄楽というラーメン店で修業を始めました。

大勝軒の創業

昭和26年、坂口氏は独立し中野に「大勝軒」を出店します。

山岸氏も創業メンバーとして大勝軒を盛り上げていきます。
売上を順調に伸ばした大勝軒は、昭和29年に代々木上原にも大勝軒を出店。
その際に代々木上原を本店、中野の大勝軒は支店にし、山岸氏に中野店を任せることにしました。

偶然の産物

山岸氏は、修行時代から賄いとして残った麺をスープと醤油を湯のみ茶碗に入れ、浸して食していました。
中野店の店長になってからもこの賄いを食べていたところ、それを見ていたお客様が興味を惹き、食べてもらったら高評価でした。


「これをメニューにしたら売れるかもしれない」


と感じた山岸氏は試行錯誤を繰り返しました。
そして昭和30年、ついにメニューの一品として「もりそば」が完成しました。

東池袋大勝軒の誕生

昭和36年、山岸氏も独立し「東池袋大勝軒」を出店します。
山岸氏は研究を続け、より美味しいものを目指していきました。
山岸氏が一番大事にしていたのは「お客様への感謝の気持ち」。
その気持ちがお客様へと伝わり、東池袋大勝軒は人気となっていきました。

2度の休業

山岸氏は忙しさで無理が重なり、20代後半に下肢静脈瘤を発症。
昭和49年、あまりにも酷くなって店に立つことができなくなったために手術。
このとき3ヶ月ほど休業しました。


昭和61年、山岸氏を影から支えていた妻が52歳の若さで他界。
生きる気力を失った山岸氏は営業することができず「しばらく休みます」と貼紙をして無期限休業。
しかし、大勝軒を愛するお客様は、その貼紙に再開を望むメッセージを書き込みます。
山岸氏はそのメッセージを見て決意、7ヶ月後に店を再開させました。

閉店、そして復活

東池袋付近の再開発計画による立ち退きにより、平成19年3月20日をもって東池袋大勝軒はその幕を閉じました。
山岸氏の病状が悪化していたこともあり、続けていくのが難しかったというのもあります。
営業最終日、用意した400杯は朝9時20分に売り切れ。
なんと営業開始時間よりも前に400人が並び、そして売り切れてしまったのです。


しかし大勝軒を愛するお客様から復活を望む声が多数寄せられました。
平成20年1月5日、旧店舗から約100メートル先の場所に移転して再オープン。
このときも開店前から長蛇の列となり、用意した400食は約6時間で完売しました。

最後に

山岸氏は一線を退きましたが、山岸氏を師として学んだ弟子は100人以上いるそうです。
東池袋大勝軒の味は弟子によって引き継がれ、そして全国へと広がっています。お近くのお店もそのひとつかもしれませんね。
東池袋大勝軒が誕生してから50年以上。
つけ麺を食べながら、その歴史も味わってみてください。

 

 

 
 コラムニスト情報
しんたた
性別:男性  |   現在地:神奈川県  |  

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麺類ならなんでも大好き!

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