香辛料を探せ!ヨーロッパ大航海時代とスパイスの歴史 -後編- (1/2)
前回は、古代エジプトやギリシャ・ローマ時代のスパイスの使われ方、そしてシルクロードでヨーロッパに渡った東洋のスパイスは、大変高価な物であったことをお話しました。
今回は、東へ渡ったスパイスのお話をします。
さて、一度インドに集められたスパイスには、東を目指したものもありました。
シルクロードの一方の終点である日本には、聖武天皇の時代に既にスパイスが伝えられております。
正倉院には1000年以上も昔に海を渡ってきた、ペッパー、シナモン、クローブが眠っています。
当時の東アジアでは、スパイスは香辛料ではなく、薬と考えられていたようです。
中国の漢方医学では、ペッパー、ウイキョウ、キャラウェイ、シナモン、クローブ、ナツメグなどのスパイスが、薬種として使用されておりました。
正倉院に残されているスパイスも、貴重な薬として渡ってきた物なのでしょう。
今では、数々のスパイスが簡単に手に入る時代ですが、当時は誰も見たことのない貴重な薬でした。
財宝にも匹敵するようなスパイス探しは、長い間のヨーロッパ人のロマンでした。
さらに冒険心をあおったのが、東洋を旅したベネチア商人、マルコポーロが書いた「東方見聞録」でした。
スパイスを惜しげもなく使う中国の都市や、黄金で出来た宮殿を持っているジパング(日本)など、ヨーロッパ人の目を東洋に向けさせる内容で、東洋の事情を初めてヨーロッパに伝えたものとして知られ、海の冒険家達を生み出しました。
当時の陸路はアラビア人達に支配されていたので、東を目指す冒険家達は海へと乗り出して行きます。
15世紀、地球がまだ丸いと信じられていなかった頃、大航海時代が幕開けとなります。
ヨーロッパの港を後にした冒険家達は、ポルトガルのエンリケ王子とその部下によるアフリカ喜望峰到達、スペインのイザベル女王の支援の元、イタリア人コロンブスのアメリカ大陸到達と、次々と未知の領域を制覇していきます。
その中で、最もスパイスに近付いた人物が、ポルトガル人のバスコ・ダ・ガマでした。
1498年、ガマは120トンという小さな船で喜望峰を回り、ポルトガルを出航してから10ヵ月後に、インド西岸のカリカットに着きました。
インドに数ヶ月滞在する間、マルコ・ポーロが「東方見聞録」に記した「胡椒海岸」の現地調査を行い、船をスパイスや金銀財宝でいっぱいにして帰国しています。
こうして、インドで直接スパイスを買い付けることに成功したポルトガルは、スパイス貿易の海路を握り、これによってアラビア商人達の陸路スパイス取引き独占は崩壊してしまいます。
さらに16世紀には、ポルトガル人のマゼランが、東洋におけるスパイスの集散地、マレー半島南端のマラッカを攻略し、ポルトガルにさらなる繁栄をもたらします。
しかし、帰港したしたマゼランを国王が冷遇したため、マゼランはスペイン王に仕え、スパイスの原産地を求めるスペイン船団を指揮して、大西洋航路を目指します。
この航海によって、大西洋から太平洋へと抜ける南米大陸先端のマゼラン海峡が発見され、ついに世界一周が可能になったのでした。
しかし、地球が丸いということを証明した偉大な航海だったのにも関わらず、その代償は大きく、5隻で出発した船団のうち、スペインへ帰り着けたのは1隻、18人の乗組員だけで、マゼラン自身も途中で命を落としています。
当時の国王カルロス5世は彼らの偉業を称え、生き残った乗組員に盾を与えています。
その盾にはナツメグ、シナモン、クローブを組み合わせた紋章が彫ってあったということです。
北と南、東と西では風土も料理も異なるヨーロッパの中で、スパイスを上手に使いこなしているのがフランスと地中海地方です。
世界有数の美食大国フランスの歴史を辿ると、イタリアに行き着きます。
スパイス交易で莫大な富を築いたベネチアの大富豪メディチ家から、フランス王家に嫁いだカタリーナ・ディ・メディチによって、最高水準のイタリア料理が、フランス人の優れた味覚により洗練され、今日のフランス料理の元となりました。
カテリーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ
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