【昔の東京五輪】昭和39年(1964)東京オリンピック雑学!海外の反応「日本すごい」

2020年に東京でオリンピックが開かれることで、改めて注目を浴びているのが1964年の「東京オリンピック」。どんな大会だったのかが垣間見れるエピソードを紹介。

執筆者: Latte Columnist
雑学!東京オリンピック(昭和39年)のエピソード

2020年には、東京にオリンピックがやっていきます。
リオオリンピックの記憶と興奮の余韻が残っている人もいるかと思いますが、もうすでに次のオリンピックに思いをはせている人も多いのではないでしょうか。

ところで、今から50年以上前の昭和三十九年に日本を沸かしたオリンピックがありました。
それが、1964年の「東京オリンピック」です。


今回は、改めて注目されているこの東京オリンピック(1964年)にまつわるエピソードを見ていきましょう。

 

 

175戦連勝!「東洋の魔女」に世界の震えが止まらなかった…

東京オリンピックにおいて大きな注目を浴びたのが、「東洋の魔女」こと、日本の女子バレーボールチームでした。
大松監督を中心としてまとめられたこの女子バレーチームは、175戦連勝という輝かしい記録をマークしている強豪でした。
非常に厳しい練習を積み重ねた彼女たちは、3セットを連取して見事金メダルに輝きます。

この活躍は、日本でも世界でも大きく報じられます。

現在も復刻版が販売されている「アタックNO1」という漫画にも、このエピソードが大きく取り上げられています。

今では14階級に分けられている柔道も、当時はわずか4階級!

「日本のお家芸」として知られる柔道。
現在は、女子・男子あわせて14階級に分けられている柔道ですが、東京オリンピックのときにはわずか4階級しかありませんでした。

当時は、軽量級・中量級・重量級・無差別級に分けられており、無差別級を除く3階級で日本人選手が金メダルに輝きました。

 

無差別級で金メダルを獲ったオランダ人選手のエピソードが感動的!

しかし、「最強の柔道選手を決める」とも言われている無差別級において、日本人選手がヘーシンクというオランダの選手に敗れます。

ヘーシンクにとっては大金星とも言える結果であり、興奮したコーチ陣が畳の上に上がってこようとしました。

しかしそれに対してヘーシンクが制止をし、きちんと礼をしてから畳を降りた、というエピソードが今も語り継がれています。


正しい柔道精神のあり方として、現在に通じるところもあるのではないでしょうか。

選手だけじゃない!建築物にも注目集まる。

オリンピックのときに主役になるのは、常に選手です。
ただオリンピックのエピソードは、それだけにとどまりません。

当時多くの競技が行われた、国立代々木競技場。

この競技場の建築を手掛けたのは、丹下健三という世界的に有名な建築家です。


最先端の技術と彼独自の技術を合せて作り上げられたこの競技場においては、客席に一切の柱を配していません。

吊り橋にも似た構造技術を使ったこの建物は、世界各国からの称賛を受けました。

 

 

「英語しゃべれんわ!せや、絵で伝えよ!」

トイレマークでよく見かける例のマーク「ピクトグラム」。

このピクトグラムの存在が出来たのも、オリンピックのとき。

 

 

英語が伝わらないならイラストで!

誰にでも一目で簡単に伝わる「ピクトグラム」は、日本発だったのですね。

 

特に、競技ピクトグラムはオリンピックにおいてデザインの改良を重ねながら受け継がれています。

 

 

え、このインフラもオリンピック景気で作られたの?

オリンピックのために超猛スピードで作られた公共交通やホテル、建物はたくさんあります。

 

東海道新幹線、地下鉄日比谷線、東京モノレール羽田空港線、首都高。

日本武道館、国立代々木競技場、ホテルニューオータニ、ホテルオークラ東京、ヒルトン東京…。

 

特にメイン会場であった国立代々木競技場は、オリンピック前年からの取りかかかり!

24時間休みなく着工し、開催ギリギリに完成したということです…。

その割には、世界からの評価が非常に高い建築物として有名な辺り、日本人の職人根性が伺えますね。

 

おわりに

2020年の東京オリンピックではどんなエピソードが生まれるのか、楽しみですね。

 

全国各地で様々な東京2020大会関連イベントが開催されるようです。

お近くで開かれるようでしたら、大会を盛り上げるために参加してみませんか?

 
 

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