今回のモロッコ旅行は移動日も入れて10日間という長い旅程だった。
旅行会社は何時ものC・T。 交通手段は自宅~JR相馬駅(専用駐車場)。
相馬→仙台空港はJR。 仙台→成田はANA。 成田~ドバイ間とドバイからカサブランカ間が往復共に、アラブ首長国連邦”の”エミレーツ航空”。
帰りの成田→仙台は後泊のロスを避けての夜行バス。 仙台→相馬:JR。
…という、10日間の旅程と移動日を含めて11日間というハードな旅となった。
※ 当初のモロッコ旅行では、『”憧れのサハラ砂漠と悠久の古代ロマン”モロッコ・エジプト7つの世界遺産の旅』という別ルートの旅程の予定であり、ギザでスフィンクスやエジプト考古学博物館でのツタンカーメン王の黄金のマスクやクフ王のピラミッド内部への入場観光を行い、三大ピラミッドも見る予定だったが最近のエジプトで多発するテロ事件により企画が今回の旅行に変更になった。
また、今回の様なアラブ首長国連邦(UAE)のドバイ経由では無く、航空会社も往復共にカタール航空でカタール国ドーハのハマド国際空港経由の予定だった。
カタールは他のアラブ諸国とその政治姿勢等に関しては一線を画しており、
位置関係に関して言えば、中東・西アジアの国家。首都はドーハ。アラビア半島東部のカタール半島のほぼ全域を領土とする半島の国。ペルシア湾(アラビア湾)に面する。南はサウジアラビアと国境を接し、ペルシャ湾を挟んで北西はバーレーンに、北はイランに、東はアラブ首長国連邦(UAE)に向かい合う。
湾岸協力会議(GCC)の加盟国。小国であるが、豊かな石油・天然ガス収入を背景に、アラブの春では中東各国に活発に介入した。
2014年、サウジアラビア、バーレーン、UAE(アラブ首長国連邦)の3か国が内政干渉を理由に駐カタール大使を召還。周辺諸国との軋轢が表面化した。
2017年6月、ムスリム同胞団への支援やイランとの接近に対して、一部のイスラム諸国(サウジアラビア、UAE、バーレーン、エジプト、イエメン、モルディブ、モーリタニアなど)がカタールとの国交断絶を表明した。
小さなカタールがここまで目の敵にされる背景にはテロ支援などの他に、父を退けて首長の座を奪ったり、女性が自由に運転できる文化など、湾岸諸国の体制を危うくしかねない要素があるからだ。
また、「アラブ寄り!」と言う偏見を持たれがちな、報道機関の「アルジャジーラ(アラビア語と英語でニュース等を24時間放送している衛星テレビ局。)」の本社はカタール・ドーハにある。
① 経営…1996年11月1日、カタール首長であるハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニーより5億カタール・リヤル(1億3700万USドルに相当)の支援を受けて設立。独立を保った報道姿勢を保ちつつも、会長には首長の親戚であるハマド・ビン・サーメル・アール=サーニーが就任しカタール政府を通じた経営という形がとられた(カタール政府以外にも、個人投資家達が加わっている)。
② 特徴…従来からの欧米(キリスト教文化圏)中心の視点とは異なるアラブ系メディアであり、アメリカのテレビがアメリカ社会、文化に偏向しているのと同様、アルジャジーラも当然アラブ社会(およびアラブ世界の一部を含むイスラーム世界)、文化に偏向しているが、これが直ちにアルジャジーラが反米メディアである事を意味しない。
カタールは、欧米諸国に対しては、イラク戦争では基地を提供する程度には比較的に穏健な姿勢であり、このアルジャジーラはカタール政府が西洋の近代的メディアを手本に創設したものである。また、パレスチナ自治政府の汚職などの問題を追及したり、イスラエル人が出演してヘブライ語で話すなど、他のアラブのメディアがやらなかったような事も積極的に取り上げる。
アルジャジーラは自らを「公正で政治的圧力を受けない、中東で唯一の報道機関である」と謳っている。実際に英国のIndex on Censorship(検閲に関する問題を扱う雑誌。1972年創刊)では、2005年に「アラブ諸国における自由な情報交換を促進し、検閲を拒否する勇気」の一例として紹介されているし、アメリカにおいても1999年のニューヨーク・タイムズ紙に「アラブ諸国で、最も自由で最も広い観点を持つテレビネットワーク」と評されている。 アナウンサーの出身国は、アラブ世界の広範囲にわたっており、本人達の宗教もイスラム教やキリスト教と多様である。服装面に関しては宗教色が強くなく、長らく「ヒジャブを着用するムスリマ女性アナウンサー」は見られなかったが、2003年アルジェリア出身の有名女性アナウンサーが開局以来初めての着用者として登場し話題となった。その後局上層部は露出が少なく慎ましいとみなされる服装を求める意向を強めていったらしく、2010年には服装ガイドラインを受け入れがたいとした女性アナウンサー達が集団で辞意を表明するという事件も起こった。
上記の様な、独特の気風を持つ国家であり、今後の動向が気になる国である。
「トランジットタイムが多少あれば垣間見てみたい…」とも思って下調べをしていたのだが、残念な事であった。
前述の様に、1日目:平成29年9月20日(水)…自宅を出てJR相馬駅より名取経由で仙台空港へ到着。 (旅は体力勝負、とにかく食べる事でもある。)
先ずは仙台空港にて腹ごしらえ。何時もの『本陣:牛タン専門店』にて。
ANA3232便にて成田空港へは16:00頃到着。 ドルとユーロは持って行ったので両替はせず、旅行会社での受付後は暫く食べおさめとなる日本食を頂いた。
成田からはエミレーツ航空21:20発でアラブ首長国連邦(UAE)のドバイへ。
流石エミレーツ、ドバイ迄は食事が2度出たがモロッコ料理も含め美味かった。
とても美味しかった羊の肉の煮込みがかけられたスパゲッティ
羊肉のシチュー
成田空港で仕入れておいた鯖寿司や助六寿司も平らげた。
トランジットタイムにはドバイ空港のカフェでくつろいだりした。 また、
ドバイ空港の免税店は品揃えが豊富な上に品質が良くて安価で凄かった。
チョコやナツメヤシの菓子等々の土産物は殆どここで仕入れたのだった。
有名で美味いチョコレートがビッシリ!
色んな種類のナツメヤシ(砂糖は全く使わず、自然の甘味)もビッシリ!
長いトランジットタイムの後、ドバイから再びエミレーツ航空でモロッコ最大の経済都市のカサ・ブランカへ。
モロッコ料理のクスクスと羊の煮込み料理。
カサ・ブランカ(ポルトガル語で”白い家”と云う意味。)空港へ到着! 早速両替所で、円からモロッコ通貨”ディルハム”の両替を行ったが、12.5円/D程だった。
「やれ、モロッコにやっと着いたか…」
※「モロッコ王国」は北アフリカ北西部のマグリブに位置する立憲君主制国家。東にアルジェリアと、南に西サハラ(サハラ・アラブ民主共和国)、北にスペインの飛び地セウタ、メリリャに接し、西は大西洋に、北は地中海に面している。
地中海世界とアラブ世界の一員であり、地中海連合とアラブ連盟とアラブ・マグリブ連合に加盟している。
正式名称はアラビア語で、アル=マムラカ・アル=マグリビーヤ)。
通称、アル・マグリブ。「マグリブの王国」を意味する。
アラビア語の国名にある「マグリブ」は「日の没する地」「西方」を意味する。
「マグリブ」は地域名としては北アフリカ西部を指すが、モロッコはマグリブの中でも最も西の果てにある国と位置付けられる。中世には他のマグリブ地域と区別するために「アル=マグリブ・ル=アクサー」(極西)とも呼ばれていた。
アラビア語以外の多くの言語での国名である「モロッコ」は、以前の首都マラケシュに由来する。
トルコ語での国名は「Fas」で、1925年までの首都フェズに由来する。
歴史としては、先史時代にベルベル人が現在のモロッコに現れた。古代には沿岸部にカルタゴのフェニキア人の港湾都市が築かれたが、内陸部ではベルベル系マウリ人のマウレタニア王国が栄えた。紀元前146年に第三次ポエニ戦争でカルタゴが滅亡すると、マウレタニアはローマ帝国の属国となり、44年にクラウディウス帝の勅令によってローマの属州マウレタニア・ティンギタナとなった。
ローマ帝国が衰退すると、429年にゲルマン系のヴァンダル人がジブラルタル海峡を渡り、アフリカに入った。マウレタニアはユスティニアヌス1世の時代には再び東ローマ帝国の下に置かれたが、8世紀初頭に東方から侵攻したウマイヤ朝の軍隊がモロッコを征服し、モロッコのイスラーム化とアラブ化が始まった。アラブ人はモロッコを拠点にジブラルタルを越え、イベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、アル=アンダルスのイスラーム化を進めた。
この後は、アッバース朝、イドリース朝、ミドラール朝、ファーティマ朝、ムラビート朝、ウマイヤ朝、ムワッヒド朝、マリーン朝、ナスル朝、ワッタース朝、サーディ朝、ザイヤーン朝、そして現在まで続くアラウィー朝等、イスラム王朝の興亡の歴史を繰り返しながらも、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島のレコンキスタ軍(現在のスペイン)と戦う等の歴史を持つ国である。
その後、ポルトガルやスペイン、フランス等の植民地時代を経て1956年にフランスから独立、スペインも殆どの領有権を放棄した。
1957年にスルターン・ムハンマド5世が国王となり、スルターン号が廃止。
1961年にハサン2世が父の死去に伴い国王に即位。
1999年、父の死去に伴い、ムハンマド6世(現在の国王)が即位した。
これより、モロッコの首都であるラバトへとバスで向った。
(バスでの移動は、終始2座席1人掛けで楽だった。)下は、ラバトの街中の様子。
独特の店構え
ラバトにある、『ムハンマド5世廟』や『ハッサンの塔』を入場観光した。
下は、『ムハンマド5世廟』。
ステンドグラスやイスラミックな文様が施されていて壮観だった。
下は、『ムハンマド5世廟』の衛兵。
下は、『ハッサンの塔』。
下は、ラバトにある王宮の門。
これより、シャウエンに向かった。
シャウエンはモロッコの北西にある都市で、青色の建物で有名。
ムーレイ アリ ベン ムーサ ベン ラチェッド エルが、モロッコ北部のポルトガルの侵略と戦うための小さな要塞として設立した。
タンジェとスペインの飛地であるセウタに近いため人気の観光地である。この都市の名前は、町から見える2つの山の頂きから来ており、それは、ヤギの2つの「角」のように見える。約200件のホテルが夏にヨーロッパから訪れた観光客に食事を提供する。シャウエンの一角は青く色付けられた家および建物がある。
着いた日の夜のシャウエンのホテルの軽めの食事。
食後のデザート。
ホテルの部屋から見おろしたシャウエンの街の夜景。
イスラム教は、唯一絶対の神(アラビア語でアッラー)を信仰し、神が最後の預言者たるムハンマド(マホメット)を通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ、従う一神教である。
ユダヤ教やキリスト教の影響を受けた唯一神教で、偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。アッラーを崇拝するが、アッラーとは、もともとアラビアの多神教の神々の中の一人であったが、ムハンマドがメッカを占領すると、他の多神教の神々の像は全て破壊され、そして作ることや描くことも禁止され、その神(アッラー)だけを崇拝するようになった。
イスラム教の教典(聖典)としてすべてのムスリムが認め、従うのは、アラビア語で「朗唱されるもの」という意味をもつクルアーン(コーラン)唯ひとつである。クルアーン(コーラン)はムハンマドが最後の予言者として語った内容が、ムハンマドおよび後継者の代によって編集され、書物となったものである。
アダム・ノア・アブラハム・モーセ・イエスなどの預言者たちが説いた教えを、最後の預言者であるムハンマドが完全な形にしたとされている。
イスラム教に帰依する者(イスラム教徒)は、アラビア語起源の言葉でムスリムといい、ムスリムは、自らの教えの名を、アラビア語で「身を委ねること」、「神に帰依すること」を意味するイスラーム の名で呼ぶ。「イスラーム」は「神への帰依」を意味すると解されており、「ムスリム」(イスラム教徒)は「神に帰依する者」を意味する。
また、「イスラム」という名称は、創始者(または民族)の名称を宗教名に冠していない(即ち、ムハンマド教とならない)。
これは、他の主要な宗教とは異なるとされており、この理由には諸説あるが、主な宗教学者の解説によれば、イスラムが特定の人間の意志によって始められたものではないこと、及び国籍や血筋に関係なく全ての人々に信仰が開かれていることを明示するためであるとしている。
※ 昔、フランスやスペイン等のヨーロッパ諸国は文明後進国であったと言う。
食事も手づかみで食べていた7~8世紀の時代以降に、同じユダヤ教を祖とし、「キリスト教の興隆があっても人々は一向に幸せにならないではないか…?」
として、7世紀に興った文明先進国のイスラム教の国々からは、天文学や数学、医学等多くの文明がもたらされて恩恵を受けたと言われる。
翌朝のシャウエンのホテル。 1日5回のサラー(イスラム教のメッカへ向けた礼拝)を促すアザーン(肉声での呼びかけ)は朝の5時半頃から始まる。
このアザーンは、現在はスピーカーを使っているのであるが、朗々と歌う様に心に響いて来るものもあればそうでないものもある。”上手下手があるらしい。”
ホテルの朝食。
とても美味かった”チャイ『フレッシュ(生)ミント・ティー』”
朝のホテルのテラスから見下ろした、朝靄の中のシャウエンの街並み。
ホテルでの朝食後は、バスでスペイン風の世界遺産の街テトゥアンへ向かった。
ベルベル語では「ティタウィン」と呼ばれていた。ティッタウィンとはベルベル語で「目」を意味するが、この地に湧く泉の比喩表現である。
白い壁の家が多く、市街地などでは家々が密集している地域が多い。特にメディーナと呼ばれる旧市街地は低層の白い家々が立ち並び職人らが多く住み、この部分が世界遺産となっている。
公用語こそアラビア語であるが、アラビア語モロッコ方言が主に話される。リーフ語(ベルベル語)を日用生活に使う少数派もいる。スペイン語やフランス語も仕事や学問の分野では使われている。主な宗教はイスラム教だが、キリスト教徒の少数派もいる。また、メラーと呼ばれるユダヤ人地区も残る。これはヨーロッパでいうゲットーに似たもので、町から隔てられ、夜には門を閉ざされていた。
下は、テトゥアンのメディナ(旧市街)やスーク(市場)の様子。
いたる所に”ラウンドアバウト(信号の無い交差点)”がある。
※モロッコでは、緑色を基調とした色使いやデザインが多い。
”イスラミック・グリーン(平和の色)”と云うのだそうである。
”イスラミック・グリーン”の塗装色が目立つ!
これよりスーク(市場)へ入る。
スークの門構え
ベルベル人愛用の独特の帽子。
鍵が多数(7~8個)付けられた貴金属店
スークの中
モロッコ独特の民族衣装…中の着用は自由との事:パジャマだったり…
果実類も豊富である。
スーク(市場)からの出口。
出口付近にある城壁の大砲跡。かつてはカスバ(砦)であったことが伺える。
シャウエンに戻って、これよりメディナ(旧市街)観光へと向かう。
先ずは腹ごしらえ!
硬かった名物料理の”ケバブ(牛肉串焼き)”…イスラムの国では豚肉は食べない。
葡萄とメロン
青の街”シャウエン”観光。
何処でも、モスクは大きかった。
独特の出で立ちのバブーシュ(革のスリッパ)を履いた現地の観光ガイドさん。
…殆ど喋らなかった!
カスバ(砦)の前にて。
シャウエン(山羊の2つの角)が見渡せる広場にて…
※ ヘンナ(イスラム風のイレズミ)の店の看板…但し、2週間程で消える。
街中の様子。
ガイドさんと一緒に
これよりバスに乗り、”フェズ(本来はフェス)”へと向かう。
フェズには夕暮れに着いた。
早速、フェズのホテル”エル・ミーンズ・ザラー・フェズ”に入った。
すぐさま、レストランにて夕食をとった。
カレー風の味付けのフィッシュ・フライ等々
※ フェズはフェスとも表記される。
イドリース朝、マリーン朝などのモロッコに存在した過去のイスラム王朝の多くはフェズを首都に定めていた。首都が他の都市に移された時であっても、フェズはモロッコ人にとって特別な都市であり続けている。
数世代前から町に住み続けているフェズの住民はファシ(ファーシー)と呼ばれ、彼らの間では独特の方言が話されている。ファシの間にも方言の差異があり、旧市街では北部方言、新市街では南部方言が話されている。
予定と異なり、最初はフェズ市内の観光からスタート。
最初は、フェズの王宮の門。
左から、フェズの現地ガイドのスミルさんとモロッコガイドのマダニさん。
美しい門だった。
正門の門の銅板は、オレンジで磨かれて光沢を出すと言う。
スペインのアル・ハンブラ宮殿でも見た、タイルのイスラミックデザイン。
埋め込みタイル装飾の壁
これよりメディナ(旧市街)に入る。
メディナの入口にあるフェズ最大の美しい、”ブー・ジュルード門”
1913年に建造。入り口は幾何学模様に彫刻が施されている。
”ブー・ジュルード門”の外からの模様
リバーシブルになっていて、中からはイスラミック・グリーンの美しい門構え。
中のスーク(市場)ではいろいろなものが売られていた。(下はフレッシュミント)
パン屋さん
店の前には肉が丸ごと置かれてれていた。 切り売りをするのだろう…
下は、”ブー・イナニア・マドラサ”
…14世紀にブー・イナニア王によって建てられたマリーン朝最大の神学校。
下は、”カラウィン・モスク”
9世紀に、チュニジアから移住した裕福な商人の娘ファーティマ・フェヘリーヤにより建てられた建物。 祈りの場所から学問の場所となり、イスラム神学だけでなく、自然科学、医学、数学、化学、天文学、歴史、地理、言語学なども学ぶ大学として発展し、各時代の多くの学者やスルタン、政治家達が関わった。
また、12~13世紀は西洋のキリスト文明の学者との文化交流の場としての役割を果たした。
再びスーク(市場)のなかへ…
ごった返すスークの中
彫金店の中に入る。
美しい彫金の皿
銀細工の湯沸し
お土産を物色中の妻
いくら歩いても楽しいスーク(市場)の中!
スーク(市場)にある民家を訪問してチャイ(フレッシュ・ミントティー)を頂く。
菓子をふるまう奥さん
その後、丘の上の絶景スポットからフェズの街を一望できる丘へ向かった。
沖縄にも有った”ラウンド・アバウト(信号の無い交差点)”。
モロッコは右側通行だが、モロッコの交差点では”ラウンド・アバウト”が多く見られた。交差点などでは円の中の車輛が優先となり方向転換をしていき、交差点に差し掛かった車両は一旦停止するなどして円の中の車輛の通行を邪魔してはならない。 運転の下手な人はこの円の中を何度もグルグル回ったりするらしい。
フェズの街をいざ一望せん…
フェズの”旧市街”、”旧新市街”、”新市街”、”新々市街”等が見渡せた。
丘を降りて陶器工房へと向かう。 土の材料をこねる場所。
ろくろの様なものを回しながらの陶器造り。
絵付け作業。
素敵なアラベスク紋様。
手作業での埋め込みタイル造り。
幾何学模様が美しい埋め込みタイルのテーブル
素敵な文様の陶器類。
お気に入りのイスラミック・グリーンの鉢をゲットしてご満悦の妻。
イスラミック・グリーンの鉢。
陶器工房を出てメクネスの市内観光へと向かう。
メクネスは、モロッコ王国の首都ラバトから東に130km、フェズの西60kmに位置する都市。 城壁に囲まれた都市で、1675年から1728年までアラウィー朝の首都が置かれた。北部には、聖地ムーレイ・イドリスや古代ローマ遺跡で世界遺産に登録されているヴォルビリスの古代遺跡がある。
下は、メディナの中にあるスーク(市場)への入口
カメラを向けた途端に、指をスリスリしてお金を要求する店のおばはん。
ごった返しのスークの中
バブーシュ(ラクダと山羊の革で出来たモロッコ特有の靴)が一杯!
トンテンカンテン!と”スーク内で一番うるさい”金物店が並ぶ店の界隈
メディナの中にある、イスラミックな建物。
共同の水汲み場
狭い路地を馬車が行き交う。
中のモスクでは、礼拝をする人達を見る事が出来る。
ロバもラマ(ロバと馬との子供)も多かった。
フェズでは有名な”タンネリ(なめし革工房の染色場)”を見学。
この店で、男物:2足と女物:3足のバブーシュ(表が山羊の革、底がラクダの革で出来た履物。羊や牛の革は後で硬くなったり臭くなったりして良くないとの事。)の高級品を購入。合計\15,000程と高かったが、おまけを一杯せしめた。
何故か?自分はこの店で執拗に山羊の革ジャンを勧められた。自分は若い20歳代の頃バイクに乗っていた時期があり、その時は”ヤンピー”という子羊の革で出来た革ジャンを着ていたが、これが非常に肌触りがよく、柔らかで大のお気に入りだったが、その山羊の革ジャンはそれに似て、とても柔らかかった。
今も自宅には、裏にボア付きの革ジャンを持ってはいるが、この店に置いてある様な若向きの革ジャンを着る様な年では無かったので丁重に断ったが、これがまたあまりに執拗に勧めて来るので、フェズのガイドのスミルさんが教えてくれた「スンマヘンナ!」という断りの言葉を”大阪弁”で言ったら、相手は腹を抱えて笑いだし、素直に引き下がったのが未だに不思議で憶えている。
写真は、タンネリの中の革を染色するための壺
下はバブーシュの一部(右下の先の尖がった黄色が男物)孫娘は左下のバブーシュ(革ではない)が大のお気に入りで、ボロボロになるまで履きつぶしている。
昼食は、”イカのタジン(水を使わない蒸し鍋)料理”
パンプキン風のスープだった。
タジン鍋料理の中身
下は、タジン鍋の蓋(穴が開いていない)
手造りのパン
チャイ(フレッシュミント・ティー)を入れてくれる人…高い位置から注ぐ事により、表面の泡にゴミやカスを浮かしてティー自体の旨みをすするのだそうだ。
モロッコ人は、ヨーロッパ系、アラブ系、アフリカ系といろいろな血が混じり合っており、純粋なアフリカ系の人口は少なく、総じて色白な人が多い。
昼食が終わり、真っ直ぐな”風の道”を通って再び市内観光に戻る。
”ムーレイ・イスマイル廟”は修復工事が行われていて見学が出来なかった。
”ムーレイ・イスマイル廟”に隣接された美しい門。
特異な民族衣装の現地ガイドの”マダニ”さん
美しかった”エル・マンスール門”
”メクネス”の観光を終わり、これより”ヴォルビリス”へ向かう。
ヴォルビリスは、モロッコにある古代遺跡。フェズとラバトの間である。
ヴォルビリスは、北アフリカにおける古代ローマ都市の、最良の保存状態を誇る遺跡のひとつとして、ユネスコの世界遺産に登録されている。
古代には、ヴォルビリスはローマ帝国の勢力範囲の西限に位置する重要な都市であった。都市が建造されたのは、マウレタニアの王プトレマイオスがカリグラ帝に暗殺された後の西暦40年頃のことであるが、この町は紀元前3世紀来のカルタゴの施設群の上に築かれたと推測されている。「ヴォルビリス」の名は、ベルベル語の(キョウチクトウ)に因む。この花は一帯ではありふれたものだった。
ヴォルビリスはマウレタニア・ティンギタナと呼ばれていたアフリカのローマ属州の中心都市でもあった。この地は肥沃で、小麦やオリーブオイルなどを多く産出した。それはローマへと出荷され、この町に富と繁栄をもたらした。217年にはアントニヌス勅令を発してくれたカラカラ帝への感謝を捧げた「カラカラ帝の凱旋門」が建造された。
下は、ヴォルビリス遺跡への入口の”南東門”。
キャピトルとファーラムやバシリカ礼拝堂の遠景。
サボテンとその実…実は果実として食べられており、存外美味かった。
”オルフェウスの家”跡。
オリーブの圧搾工房跡。
石臼などが置かれていた。
圧搾機。
キャピトルとファーラムやバシリカ礼拝堂
キャピトルにはジュピター(ゼウス)が祀られていた。柱は修復されたもの。
ファーラムとバシリカ礼拝堂…ファーラムは、ローマ都市では常に中心に置かれ、市民の集会所となった所。
西暦212年当時のローマ皇帝だったカラカラ帝の、”カラカラ帝の凱旋門跡”
ヴォルビリス遺跡の観光後には、2泊目となるフェズに戻ったが、流石に歴代の王朝が首都を構えた地とあって都市機能は充実され、佇まいも美しかった。
何時もの”ラウンド・アバウト”
ホテルの部屋からの眺め。
モロッコの通貨”ディルハム”…全てムハンマド6世国王の肖像が描かれている。
その日の夕食。
5日目:平成29年9月24日(日)…ホテルにて朝食後、フェスを出発して”砂漠の街エルフード”へ。
この日は、アトラス山脈を越えて、約9時間程もバスに乗る大移動日であった。途中、”モロッコのスイス(或いは軽井沢)”とも呼ばれるイフラン(スキーも出来る)リゾートにてモーニングコーヒーを楽しんだり、ミレルトにて昼食の鱒料理(ホイール焼き)等を楽しんだりしながら、エルフード着。 化石館見学後にホテルへ。ホテルは、『エル・アチ・エルフード』
写真は、エルフードへの大移動の際の車中からの街の風景。
露店のカフェ
写真は、”モロッコのスイス”と呼ばれるイフランの風景。
モロッコ特有の”アトラスライオン”の石像と共に…
レストランにてモーニングコーヒー。
世界各国の若者が集うという大学のキャンパス。
バスを降りて、皆でアトラス杉の中で森林浴を楽しんだ。
アトラス山脈を越えての大移動日なので、車窓からの景色を紹介:一般の民家
民家
タジン鍋料理の店。
並ぶタジン鍋
喫茶店などでたむろする男性の多い事…
水のない、乾いた川
高原地帯とあって、ラウンドアバウトの林檎のモニュメント。
昼食は、ホテルのレストランでの鱒料理とか…
いざ!レストランへ。
鱒のホイール蒸しとおかず類
美味しかった鱒のホイール蒸し。
デザートのケーキ
途中の、オアシスが見える場所での写真撮影の際に、椰子の葉で作ったラクダの人形を10ディルハム/個で売りに来た民族衣装の男性。目が鷹の様に鋭かった。
オアシスの家…日干し煉瓦で作られていて、耐久性が乏しい。
オアシスの中にある家々。
土産物の”ナツメヤシ”の菓子売りの人…ドバイのそれより品質は落ちる。
やっとエルフードのホテルに着き、妻は少々お疲れ気味…
ホテルでの小休止の後、ホテルの道路向かい側の『化石館』へ出掛けた。
化石はどれも素晴らしいものばかりだった。
古代の化石が閉じ込められた大理石の置物
素敵な化石のテーブル
妻は、カンボジア以来探していた、胡椒や薬味を磨り潰すための、化石入りで大理石の石臼をゲットしてご機嫌だった。
右の黒い器が、化石入りで大理石のその石臼。
大いに盛り上がって楽しかった、ホテルでの夕食。
脇では、モロッコの民族音楽が奏でられていた。
翌早朝、4時半起きで4WDに分乗し星空観賞の後、月のサハラ砂漠をいざ出発。
朝日観賞地点に到着。
ラクダの手綱を曳き、走り回って写真を一杯とってくれた唖のガイドさん。
朝ぼらけの中、白い不思議な日の出を観賞
テントでの朝食を取るべく、出発地点へいざ出発。
正面から見ると、外に飛び出ているラクダの目
「さらば、サハラよ!」
ラクダ体験に関しては別料金で、一人分が40€か45$か45ディルハムか\5000
自分は、大差はないが一番率が良いので二人分を\10,000を前日に払った。
ラクダに乗る乗らないは自由であり、3名程の女性が徒歩で参加したが、ラクダで片道約30分。徒歩では45分程かかる。これは一寸した拷問であり、細かすぎるサハラ砂漠の砂に足を取られながらの往復1時間半余りの徒歩での参加は、見ている方が気の毒になるほどに、ヘロヘロで息も絶え絶えで大変な様子だった。
ラクダの出発地点でのテント前で朝食を取ったが、チャイやミルクティーやコーヒーを飲みながら、バターや蜂蜜やジャムを付けての手作りパンは美味かった。
素朴な食事だったが、とても美味かった
テント前での旅仲間との食事風景
一旦ホテルに戻り、冷たいシャワーを浴びて砂や汗を洗い流し、ワルザザードへいざ出発。
アラベスクが美しいホテル玄関前のタイル
途中で地下水道跡を見学
井戸の説明図
昼食は、肉団子のタジン鍋。途中ではアルコールはあまり置いていなかった。
パンプキンスープ
ミートボールが多くは言ったタジン鍋
これまた途中では、有名な”トドラ渓谷”にも立ち寄った。
写真は、ピクニックを楽しむ現地の人達。
奥は、トドラ渓谷のホテル
涼しかったトドラ渓谷の河原で憩いのひと時
やっとワルザザードのホテルに到着!
美味かった夕食
レストラン内
ホテルのテラスで寛ぐ
翌朝のホテルの中庭にて
ホテルからのワルザザードの市街の様子
美味しいお菓子の原料となる”ナツメ椰子の実”
9月26日(火)、17世紀の豪族が所有していたという有名な『タウリルトカスバ』の観光後、アイトベンハドゥを観光後ティシュカ峠を越えマラケシュへ向かう。下は、『タウリルトカスバ』
、『タウリルトカスバ』前での記念撮影
その後、サボテンシルク(リュウゼツランの繊維で編んだシルク)の店へ行く。
お試しのマフラー
自分用のイスラミック・グリーンのマフラーを購入。
その後、要塞都市”アイト・ベン・ハドゥ”への入場観光をした。
『アイト・ベン・ハドゥ村』は、日干煉瓦造りの古い”クサル(要塞化された村)”の一つで特別な歴史があるわけでもないが、その現実離れした不思議な景観は迫力ある”空間芸術”とも言われ、小川のほとりの斜面を利用して立体的に造られ、来るものを拒むような巨大な門構えで城壁がぐるりと巡らされており、銃眼が配置された塔が一定の間隔をおいて何本もそびえ、村内の道がまるで迷路の様にその間をぬっていてまるで難攻不落の要塞を想起させる。
現在ここに住んでいるのはベルベル人の5~6家族だけで、殆どの村民は小河 順の対岸に造られた新しい村の方に移り住んでいる。
『アラビアのロレンス』、『ソドムとゴモラ』、『ナイルの宝石』、『ハムナプトラ2』、『ターミネーター』等の映画のロケ地としても使用された。”モロッコで一番美しい”と云われるこの村は、ユネスコの世界遺産に登録されている。
下は、対岸からの”アイト・ベン・ハドゥ”
これよりイザ、”アイト・ベン・ハドゥ”へ!
”アイト・ベン・ハドゥ”の対岸の村
旅仲間達
この小川の橋を渡って”アイト・ベン・ハドゥ”へ行く…大雨の日は渡れない。
”アイト・ベン・ハドゥ”へと入る。
村内への入口
個人の住宅の中は丸見えだった。
日陰で涼やかな部屋の中
台所
まるで迷路のような”アイト・ベン・ハドゥ”の村の道
売り物の織物
腕輪などの飾り物
『ターミネーター』のロケに使用されたと言う場所
村内の絵描きさん
見事な『アイト・ベン・ハッドゥ』の絵
妻は下で休憩
村の頂上へ
頂上付近のモデルさんに10ディルハム払って記念撮影をしたら音楽を奏でてくれたので、調子をこいて踊っていたら「ナイス、ジャポーネ!」とスペインからの旅行団体の女子からお声がかかった。(何故、日本人と分かった?)
”タンタカ、スタタカ、スタンタン”ってが!
添乗員の須藤さんと一緒に。
内の民家でフレッシュミント・ティーをいただいた。
ティシュカ峠のレストランでの昼食
クスクスと野菜の煮込み
標高:2,260mを示す標識。
サラー(礼拝)を行う人々
いよいよマラケシュに到着し、早速ジャマエル・フナ広場へと向かう。
モロッコの正式名称はアラビア語で、アル=マムラカ・アル=マグリビーヤ)。
通称、アル・マグリブ。「マグリブの王国」を意味する。
アラビア語の国名にある「マグリブ」は「日の没する地」「西方」を意味する。
通称:モロッコは”マラケシュ”に由来する。カサブランカ、ラバト、フェズに次ぐモロッコ第4の都市である。 フェズ同様古くから王朝の首都機能を果たし、何かとフェズと比較される。 イメージカラーとしても対抗軸にあり、フェズ・ブルーに対してマラケシュ・レッドと云われる。
"ジャマエル・フナ広場"は、11世紀後半にマラケッシュが首都であった頃から街の中心となっていた広場。かつては公開処刑なども行われていた。現在も、大道芸人や飲食物、金属細工を扱い屋台などがところ狭しと軒を並べ、混然とした賑わいを見せる。 屋台の絞りたてオレンジジュースは名物のひとつで、日本のみかんジュースに近い甘さがあるが、屋台によっては衛生面に問題があり、腹を下すという話もたまにある。古くからモロッコの観光名所の一つとなっているが、近年、治安が極端に悪化。観光客への安全を考慮し、広場に面したレストランなどから風景を眺める形式を採るツアーも増えつつある。
モロッコに来た人たちは大抵、この広場の活気と熱気に感動して「凄かった!」と感動をし、「一度は見てみるべきだ!」と勧める場所なのである。
現地ガイドの”マダニ”さんの奢りで、飲み物を飲みながら此処の2階から広場を見学後、自由時間があてがわれて夜のジャマエル・フナ広場を見学した。
屋台見学前にまず一服。
猿やコブラのダンスあり、羊の脳みそを食わせる所あり、何でもござれだった。
動画もたくさん撮ったのだったが、掲載出来ずに残念な事である。
同行多義仲間が撮影してくれた記念写真
広場の売店内
その後やっとホテルに到着。
モロッコでの最後のホテルとあって結構良いホテルだった。
翌朝、9月27日(水)先ずは”マジョレール庭園見学”
南国の植物がいっぱい!
サボテンシルクの原料”リュウゼツラン”の前で。
市内の”クトゥビアの塔”観光
マラケシュのランドマーク:クトゥビアのミナレット(尖塔)
メディナ散策
香辛料の山!
”バヒア宮殿”の入場観光
ハーレムの跡
スーク(市場)の中を通って”ジャマエル・フナ広場”に出ると、昨夜の喧騒とは打って変って静かで、空いている店も殆ど無く、寂しい限りであった。
昨夜とは打って変って閑散とした”ジャマ・エル・フナ”広場
”ジャマエル・フナ広場”前からの馬車の乗車体験
「自分の甥っ子によく似ている!」と言われ続けた旅仲間と共に同乗
「なっ、なんと…!」 妻が広場で”ヘンナ”をしてきたー!
下は、露店から10ディルハムで手に入れた”ファーティマの手”のキーホルダー
ファーティマとはイスラム教の創始者ムハンマドの娘で、彼女は手に”ヘンナ”をしている時、2人の息子がジハードに出掛ける際に抱擁して乾ききっていなかった彼女の”ヘンナ”が息子達の衣装に付着した。息子達2人は激しい戦いだったにも拘らず無傷で生還した。この事により”ヘンナ”は厄除けの象徴ともされた。
ファーティマは、予知能力者としても知られた有名な女性である。
ファーティマは身を削るようにして戦いで傷ついた兵士たちの介護に当ったとも言われ、”ファーティマの手”は守りや癒しの象徴ともなったと言われる。
また、ファーティマはシーア派の祖である4代目カリフ:アリーの妻でもある。
イスラム世界での”一夫多妻”は、コーランによる教え(イスラームにおける天国 は、信教を貫いた者だけが死後に永生を得る所とされる。キリスト教と異なり、イスラム教の聖典『クルアーン』ではイスラームにおける天国の様子が具体的に綴られている。イスラームでは男性は天国で72人の処女と関係を持つことができるとされる。また決して悪酔いすることのない酒や果物、肉などを好きなだけ楽しむことができるとされている。)もあるが、別な側面では、
”戦いで夫を失った寡婦に対する保護”と言う意味合いでもあったとの事である。
※ この日は珍事もあった。
北海道から一人参加で来ていた旅仲間がいて、この方とは夕食で一緒に酒を飲んだりして、お洒落で、陽気で愉快な人だったが、彼はこのジャマエル・フナ広場で、靴磨き屋に「1ドル($)」と声をかけられ、安いので頼んだところ「1足で1ドルなので両方で2ドルだ。」と云われ、挙句は「アルガンオイルを使っているので全部含めて10ドルだ!(アルガンオイルを使って革靴を潤わせて、一体どういう効果があると言うのだろうか…?)」と云われたらしい。
憤った彼は「ふざけるな!」と2ドルをたたきつけて帰ってきたと憤慨していたが、それを聞いた現地ガイドの”マダニ”さんは腹を抱えて笑っていた。
旅は、これだから面白い。仲間の失敗談も楽しい思い出である。
広場前のレストランでイタリアンな昼食
ピッツァ
デザートのフルーツ
ホテルへの帰路でのイスラミックなイルミネーション
9日目となる9月28日(木):マラケシュを出発しカサブランカ経由で帰路に就く
”ベルベル帽”を被った物売り
カサブランカにて『ハッサン2世モスク』の観光。
帰路でのエミレーツ航空での機内食は相変わらず美味かった。
妻の分は、羊の煮込みは売り切れて、鳥料理しか配られなかったとの事!
絶品だった羊の煮込み料理。
日本では羊は食べるが山羊はあまり食べない。稀に、沖縄では祭りなどの際には”ヒージャー”と称して山羊の煮込み料理を食べる。独特の臭みがあるのでよもぎ葉等を入れる。「精が付く。」らしいのである。
モロッコでは羊よりも山羊を多く食べるという事である。”アルガンの実”等の香辛料の実を多く食べたりするので風味も良いらしいのである。 現地ガイドのマダニさんは、旅行中放牧の山羊を見るたびに「美味しそう!」と叫んでいた。
成田到着前は、サーモンのホイール蒸しの様な日本食。
イスラームとは”天国”という意味でもあるとの事。
アラビア半島のメッカ(現在のアウジアラビア:サウド家のアラビアの意味) でのムハンマドによる布教から始まったイスラム教(個人的にはその男性中心主義過ぎる教義には疑問があるが…)は、ハサン2世の政治経済等の西欧協調政策の影響もあってか、モロッコにおいては”IS”や”テロ”といったイメージとはかけ離れており、国内での多少のテロ事件等はあっても敬虔な祈りに包まれた”穏やかな国”というイメージであった。
余談ではあるが、キリスト教においてもかつては男性中心主義の社会であり、女性は差別されていたとの事である。
【モロッコ旅行記・終了】
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