今回、妻のたっての希望でロシアを再訪する事になった。
2016年3月のロシア行の際にも妻を誘ったものだったが、その時は年度末でもあり、妻の予定が取れなかった。 その後あまり行きたいそぶりも見せず、自分としては「あまりロシアにはこだわっていないのか?」と思っていたが、妻は「今回どうしてもロシアに行きたい!」という意思表示をした。 日頃、滅多な事は口に出さない妻が意思表示をしたという事は「本気だ。」という事である。
無軌道な自分が、曲がりなりにも現在あるのは殆ど”妻のおかげ”と言っても過言ではなく、「下手をすれば、自分は現在存在していなかったのではないか?」とも思える無軌道ぶりであった。 ある時は妻、ある時は友人、ある時は子供達の賢母、ある時は共同経営者と、一人何役もこなし、人生を一緒に歩いてきた妻は、自分にとっては何ものにも代えがたい。
自分の齢も年を重ね、自分が計算しても人生の3/4半生期を過ぎ、「残りの人生をどう生きるべきか…」を考える歳になり、「今後妻が願う事は出来るだけかなえてやりたい!」と、常々思っている今日この頃の矢先の事でもあった。
大学時代は文学部でありながらも、ボウリング部のキャプテンとして部員を引連れて県内外を遠征して回った体育系女子でもある向うっ気の強い妻も年齢を重ねて、足腰も往年の頑健な身体では無くなってきた事でもある。
政治的には、世界情勢を鑑みると、自分としては”ロシア再訪”といった気分では無かったが、日頃より県内外の美術館めぐりやコンサート・演劇鑑賞に親しんでいる妻の目的は、こと『芸術の都・ロシア』の訪問なのである。
妻が、「一緒に行って欲しい!」と言うなら是非も無い。
「ならば、行こうではないか!」という事である。
今回の旅程は、当初から波乱含みであった。
旅行内容は前回とほぼ同じであり、内容が追加されたのはサンクト・ペテルブルクでの『聖ニコライ聖堂』とモスクワの『ノヴォデヴィッチ女子修道院』『モスクワ川周辺の夜景散策』が追加された事。
それと、日曜日出発だったのでエルミタージュ劇場での『白鳥の湖』のバレエ鑑賞と『エルミタージュ美術館』見学の日程が入れ替わった事だったのだがこれは良かった。
前回は、サンクト・ペテルブルクに着いた翌朝から『エルミタージュ美術館』見学で、広大な美術館を見て回り、早めの夕食後に、疲れ切ったままでのバレエ鑑賞だったので、前回旅行では、半数以上の方達が居眠りをしながらのバレエ鑑賞だった。
一番大変だったのは、仙台~成田間のANA便の出発時間の変更だった。
当初のANA便の時刻では、往復共に多少の時間の余裕が有ったので前回同様に、自宅から仙台空港迄高速道路:常磐自動車道を仙台空港迄行き、駐車場の送迎車輛で空港迄行くという楽勝パターンだったのだが、今回のANA便の時刻は、仙台発が遅くなり、成田発が早くなったために往復共に時間の余裕が無くなった。
おまけに、最近のANAの出発時間の遅れは今や日常的になってしまっている!
旅行会社からの資料である『旅のしおり』は出発の約一週間前に届いたのだが、ロシアへの出発時間と帰国時間は前回同様変わらなかったので前回同様の手順で12月24日(日)朝の一便でANA便での出発予定が、3日前の日本からの添乗員(李正美:リ・ジョンミ…両親とも在日韓国人で彼女のパスポートも韓国政府発行。)からの”出発前電話連絡”で「それでは間に合いませんよ!皆さんには集合時間8:20の更に30分前の7:50集合でお願いしています。」と言う寝耳に水の話だった。
前回は、殆ど同じパターンで十分間に合っている事と、彼女の殆ど”寝耳に水”の話を当然の如く言う口ぶりが気に入らず、「大丈夫なので、此方の予定通りで行きます。」と電話を切ったのだったが、いろいろと逡巡してみると、確かにANA便が到着する第一ターミナルから第二ターミナルへの移動や、12月24日(日):クリスマス・イヴ、年末といった、混雑に対する不確定要素が多い事、あまり信頼のおけないANAの出発時刻等々を考えるとマイナス方向にしか考えられず、12月22日(金)になってから出発便の変更を行う決断をした。
仙台→成田の夜間バスは除外し、素直に自宅からはタクシーでJR駅に向かい、常磐線で相馬→仙台、仙台→東京は新幹線、東京→成田は成田エキスプレスという予約は週末・年末・クリスマス・イヴという最悪の時期にも関わらず確保できた。
( 但し、ANAのキャンセル料は殆ど戻ってこなかった。)
更に迷ったのは自宅からの出発時間だった。今回からは、JALとANAの海外便は”インターネットチェックイン”という自分でチェックインや座席指定をしなければならず、しかもそれが”出発時刻の24時間前から可能”という、これまたタイトなスケジュールシステムであり、自分も初めての事とて手続き方法のシミュレーションをしたものの、24時間以上前なので実際どこまで手間取るのか予測がつかなかった。 結果としてチェックインはスムーズにいき、自宅は前日の12月23日(土)の12:00頃に出発できたが、全てがタイトな変更作業であった。
(結果としては、24日の出発日も混雑は大したことは無く、ANA便も遅れず、時刻どおりの様子だったし、出国審査やセイフティチェックもスムーズに行われ、「あの変更作業の労力と出費は、一体はなんだったのだろうか…?」とも頭をよぎったが、省みれば「やはり自分のスケジュール感覚には余裕が無かった。」と言わざるを得なかった。)
JR常磐線と東京行新幹線との待ち時間に食べた、JR仙台駅3階の鮨店『銀次郎』
妻の食べた”レディース・セット(鯨肉、中トロ、ボタンエビ等上ネタばかり)”
自分が食べた、”男の大盛ランチ(生ウニやイクラはレディースセット分)”
※ 本当は此方で食べたかったJR仙台駅1・3階にある、行列のできる寿司店の『北辰(ほくしん)鮨』。ネタは最高、ランチの”青葉:1,050円”と”特別ランチ:2,050円”は本当にお奨め。最近、仕事で仙台行の際はチャンスがあれば食べたい所だ。
11:00(ランチは11:00~14:00)前でこの行列。普段はこの3~4倍程。
ランチ(青葉:1,050円/人)…寿司ネタの部位や鮮度は抜群。
特別ランチ:2,050円/人…それでも、この日は寿司ネタが少々悪かった(休日明け)。
…生ウニ・中トロ・イクラ・ボタンエビ・鯨肉・サワラの塩焼き・子持ち昆布・トロ鰹・ビントロ等々。
仙台からの新幹線(つばさ号)は、インターネットチェックイン等の関係で2回変更してしまったので15:30の便しか無く、食事をしながら仙台駅でゆっくりした。
成田エキスプレスでくつろぐ妻
成田空港第2タ-ミナルビル・4Fで食べたとんかつ屋さん
腹が減っていたのか、気がついたらテーブルの食事は終わってしまっていた!
東北新幹線で東京駅には17:00頃到着。引続き成田エキスプレスで成田第2タ-ミナルビルに着いたのは18:30頃。 空腹だったので4Fで食事を済ませ、両替所で日本円からロシアンルーブルに両替をした後、宿泊先に向った。
宿泊は『東横イン成田空港』…最近は大阪・仙台・東京と東横インを使う事が多い。此処は朝食付きであり、会員になると20%の割引を受けられ、ネット予約をすれば更に割引を受けられる。
翌12月24日(日)は、5:00頃に起床して6:30頃に食事をとり、7:30の早すぎる時間に北ウィング3Fの受付カウンターで少々時間待ちの後、添乗員の李正美(確か韓国語では李は”リ”では無く、”イ”という発音だったと記憶している。)さんの説明を聴いた後、JALの手荷物預所で2人分のスーツケースを預けたのは8:30頃。ロシアへの出発は10:50(搭乗開始は10:30)なので時間が大分余ってしまった。
…が、「この位の余裕時間は必要なのだ、自分はせっかちすぎる。」と思った。
出発ロビーにはあまり気の利いた店が無く、間食用のパンやお握りを買った。
JAL421便のドヴォジェドヴォ国際空港(モスクワ)への出発は、定刻通りの10:50。
後は、『旅行予定:2日目』に書いた通りの事となった。
我々の搭乗した、JAL421便。
JALで出された2度の食事(ピンボケ)。
2度目の食事のカツサンドといつも頼む美味しい ”JALのビーフコンソメスープ”。
ドヴォジョドヴォ国際空港(モスクワ)での旅仲間達
オーバーブッキングのお詫びにシヴェリア航空から出された、硬い黒パン・サラダ・冷凍のままの鶏肉とインディカ(日本のジャポニカ米と違って美味しくない!)米のご飯。
自分達は、成田の出発ロビーで購入したお握りを食べる事ができた。
その後、再発行された食事券(600ルーブル/1人)を使って購入した4個のケーキ
…ホテルで食べようとしたが、満腹で少ししか食べれなかった(少々荷崩れ)。
結構美味しかった。
シベリア航空の旅客機(帰路に撮影)
前回の旅行時同様の、固いパンのサンドウィッチ…ドリンクは、水・コーヒー・チャイの3種類。
機種が、或いは機体が古いせいなのか、離陸まえから客室の中は灯油(燃料)の廃棄ガスの匂いが充満していて臭かった。「大丈夫だろう…」と考えた自分は迂闊にもマスクをせずにいて1時間半の飛行後には、完全に喉を傷めてしまっていた。
ロシアに着いたサンクト・ペテルブルクのホテル:”ソコス・オリンピック・ガーデン”では今までになく閑静なホテルで、2人共熟睡することが出来た…今回の旅では『東横イン』やモスクワのホテルも含めて部屋には恵まれた気がする。
ロシア観光初日の12月25日(月)は、6:00頃に起床して朝シャンをした後、7:00頃からホテル:”ソコス・オリンピック・ガーデン”で朝食を取ったが、前回同様、ハム類はもとより鯖のオイル漬やスモークサーモン等、何を食べても美味しかった。
ソコス・オリンピック・ガーデン・1Fのレストラン
妻はフルーツ中心の食事だった。
サンクト・ペテルブルク市内観光の最初は、『聖イサク大聖堂』の下車観光だった。
聖イサアク大聖堂は、サンクトペテルブルク中心にあるロシア正教会の大聖堂である。
ドームの高さは101.5メートル。聖イサークダイ聖堂、聖イサーク寺院とも表記される。
聖イサアク大聖堂の名称は、ピョートル大帝の守護聖人、ダルマチアの聖イサアクに由来する。
従来のロシア・ビザンチン建築様式(ギリシャ十字の平面プラン、中央部に巨大ドーム、四方に小ドームを配置する)を基本に新古典主義様式によるファザードで建設された。外観に関しては、イタリアの建築家アンドレア・パラーディオの設計による。
世界で3番目に大きい寺院と云われ、軟弱地盤や構造上の問題で何度も建て替えられた。また、かつての第2次世界大戦時のドイツ軍による爆弾による被災状況が今も痛々しく残っている。
残念ながら、今回はドームの先端が修復中だった。
近くには、”ニコライⅠ世の騎馬像”が建っている。
ニコライ1世はロマノフ朝第11代ロシア皇帝(在位:1825年12月1日 - 1855年3月2日)、第2代ポーランド立憲王国国王(ミコワイ1世)、第2代フィンランド大公。
アレクサンドル1世の在位中から専制的な言動で知られていたため、即位時にデカブリストの乱(自由主義を支持する将校達によるクーデター未遂)が起こった。この計画を事前に察知していたアレクサンドル・ベンケンドルフ伯爵を登用、1826年に「皇帝官房第三課」を創設させた。 ベンケンドルフを長とする秘密警察はプーシキン、レールモントフ、ベリンスキー、ゲルツェンらを流刑にした。ニコライ1世の治世は専ら強権的な専制政治に貫かれ、1830年と1848年におこったポーランド立憲王国の自治権拡大運動を鎮圧した。この結果、それまで総督が統治していたポーランドは1830年の武装蜂起鎮圧後はロシアの直轄領となり、自治権も大きく制限された。また1848年には「ヨーロッパの憲兵」と称してハンガリーの独立運動を鎮圧した。
”ニコライⅠ世の騎馬像”
次は、聖イサアク大聖堂とネヴァ川の間にある”元老院広場”へ徒歩で移動した。
元老院広場 はネヴァ川の左岸に位置し、正面には聖イサーク大聖堂が面している。
広場の名称はソビエト時代の1925年、1825年のデカブリストの乱を記念してデカブリスト広場)と改称され、2008年7月29日に帝政ロシア時代の元老院広場の名称が復活した。なお、帝政ロシア時代はピョートル広場とも呼ばれていた。
広場の東側は旧海軍省に面し、西側は元老院議事堂(現在はロシア憲法裁判所が入居)に面している。広場の中心部にはピョートル大帝の銅像がある。
下は”ピョートル大帝の銅像”
次は、ネヴェ川を挟んで、昔の港からの”ペトロ・パブロフスク要塞”の下車見学。
ペトロ・パブロフスク要塞の名称は、ロシア語で「ペトロとパウロの要塞」という意味で、ペトロ・パウロ要塞、あるいはペトロ・パブロ要塞とも表記される。
正式名称はサンクト・ペテルブルクペテルブルク要塞。1914年から1917年にかけては、都市の名称が「ペトログラード」であったため、要塞もペトログラード要塞を称した。
下は、昔の港の船着き場跡地からの”ペトロ・パブロフスク要塞”
ネヴァ川の上流側に向かって右側には『エルミタージュ(冬宮)美術館・本館』が見える。
この後には、ランチを挟んで『聖ニコライ大聖堂』を見学した。
ランチをとった、レストランの入口
キノコのポタージュスープ
何やら、ポーク料理とジャガイモがメインだった。
デザートのアイスクリーム
『聖ニコライ大聖堂』は、ニコライの名を持つ聖人を記憶するキリスト教の聖堂。「ニコライ」はブルガリア語・ロシア語・ベラルーシ語・ドイツ語等における転写であり、ギリシャ語でのニコラオス、ルーマニア語でのニコラエ、英語でのニコラス等に相当する。「聖ニコライ聖堂」との転写を用いる場合、正教会の優勢な地域で主に用いられるブルガリア語・ロシア語のものが多いことから、正教会の聖堂が多い。
金色の屋根と青の色調をベースにした、ロココ調建築の美しい聖堂だった。
上の写真の右側の人達は物乞い商売の人達。
美しい、大きな鐘楼
聖堂からの帰りの道すがら、「何か光っていたので拾上げてみたけどお金?」と妻が手に持っていたのはなんと、観光客は殆ど手にする事のない10コペイカ硬貨2枚だった。 コペイカはルーブルの1/100なので、日本円にして約20銭程のお金である。聖堂の前で物乞いをしていた人達が捨てて行ったものなのか?
それにしても珍しいものを手にしたものであった。
上は10ルーブル、左は1ルーブル、右は2ルーブル、下が10コペイカの各硬貨。
10コペイカ硬貨以外の裏側には全て、”双頭の鷲(鷲の紋章の一種で、頭を2つ持つ鷲の紋章。主に東ローマ帝国や神聖(西)ローマ帝国と、関連したヨーロッパの国家や貴族などに使用された。現在でもセルビア、アルバニア、ドイツ、ロシアなどの国章や、ギリシャ正教会などで使用されている。)”が刻印されている。
次は『血の上の救世主教会』の入場見学。入場料は250ルーブル/1人。
上記教会については何度も説明をしたが、ロシア皇帝アレクサンドル2世は、「解放皇帝」と呼ばれ、農奴解放を初めとする「大改革」を行ったが、次第に反動化していった。同時にナロードニキ運動の急進化に伴い、ナロードニキの一部はニヒリズム、テロリズムに走り、1881年3月1日ついに皇帝もテロの標的となって斃れた。行幸先から帰る皇帝の乗った御料車が運河に沿って通る中、女性革命家ソフィア・ペロフスカヤによって指揮された「人民の意志」のテロリストは皇帝を狙って手榴弾を投げた。手榴弾は2人のコサック衛兵を負傷させたが、皇帝は無事であった。しかし現場を見るために御料車を降りた皇帝の足下に別のテロリストが爆弾を転がして爆発させ、瀕死の重傷を負った皇帝は担ぎ込まれた冬宮(エルミタージュ)で一時間後に崩御した。
教会の建立は、アレクサンドル2世の跡を継いだアレクサンドル3世によって先帝を弔うために行われた。教会はグリボエードフ運河の河畔で、アレクサンドル2世終焉の地に建設された。
血の救世主教会の建築に関しては、一般にサンクトペテルブルクにおける他の建築とは様式において異なると見なされる。すなわちペテルブルクの主な建築物が、主としてバロックおよび新古典主義様式であることに比べて、この教会の建築がロマンチックなロシア・ナショナリズム、中世のロシア建築の影響を色濃く受けているとする立場である。
確かに玉ねぎのような形状の屋根や無数のモザイク画に彩られた壁面を見たとき、一般にモスクワの聖ワシリイ大聖堂(生神女庇護大聖堂)や、17世紀のヤロスラヴリの教会建築を思い起こさせる。ピョートル大帝以来、西欧化を推進してきたロシアにおいては、建築においても伝統的なロシア様式が否定され、ヨーロッパの建築様式が主流となっていた。その西欧化を体現してきたともいうべき都市ペテルブルクにおいてさえ、聖ワシリイ大聖堂のようなロシアを象徴する建築が無意識的に望まれてできたと考えられる。 その一方で、聖ワシリイダイ聖堂と比較すると、全体の構成のより自由な点や優美さなどはモスクワに代表されるロシア的なものとは異質であり、やはり、ペテルブルクの建築であるとの評価もある。
血の上の救世主教会は、アレクサンドル2世の暗殺というロマノフ家にとっての悲劇がきっかけになって建立された建築物である。このため、『聖書』の中から悲劇的な要素の強い主題とした面積7500平方メートル以上のモザイク画によって壁面が装飾されている。その一方で、教会は無数のトパーズ、青金石(ラピスラズリの原料)および他の半貴石で飾られていて豪奢な印象を与えているのも事実である。
前回、自分は外側の写真撮影にかまけていて入場をしていなかった。
『血の上の救世主教会』の正門側…一番高い塔は修復中で残念だった。
美しく壮大だった”イコン”の数々。
教会の裏側
その後我々は、クリスマスや新年飾りのイルミネーションで賑わうサンクト・ペテルブルクのメインストリートである”ネフスキー通り”で、何時もの『オネギン』と言う土産物店で買い物をしたり、約1時間程の散策の時間を与えられた後に、早めのディナーを取り、”エルミタージュ劇場”でバレエ『白鳥の湖』を観賞した。 ディナーをとったレストラン
レストランの看板
サラダとパン
メインディッシュは”キエフ風カツレツ”…?
デザートのケーキ
相変わらずの、”エルミタージュ劇場”…投稿動画で書いた様に、今回の『白鳥の湖』の演舞は「素晴らしい!」の一言だった。
オデット(白鳥)とオディーヌ(黒鳥)の一人二役のプリマドンナが素晴らしかった。表現力もさることながら、他のどのバレリーナよりもスリムでありながら、身体の軸がしっかりしていて、最後の第4幕だったか、ジークフリート(王子)役の身体のガッチリしたプリンシパルが、オデットが片足の爪先立ちをしたもう片方の足を垂直に近く高々と上げる見せ場においてオデットを支えきれずにわずかばかりに、”ユラリ”と周囲に気付かせぬ程に揺れるのを見逃さなかったが、プリマドンナには一切それが無かった。自分の目は釘づけ状態であった。
今思い返しても「素晴らしい!」の一言である。
※ 劇場の緞帳にも、ロシアの国章でもある『双頭の鷲』が描かれている。
ロシアが、”東ローマ帝国の末裔であり、後継者である”と自認する証しでもあり、彼等の長い歴史をもってすれば、「たかだか建国から240年そこそこのアメリカ合衆国、何するものぞ!」といった気概を持つのは分からないわけでも無い…
上演中には、やってはいけない”フラッシュ撮影”をして、周囲の人達から窘められている中国人観光客達がいたが、彼等は幾ら注意をされてもそれを止めないそうなのである。 次に日の『エルミタージュ美術館』でも、翌々日の『エカテリーナ宮殿』でも同様だったが、ロシアのガイドさん達にとって中国人観光客は愁眉の的だった。
この夜ホテルに帰ったのは24時頃だったが、前日のままのセントラルヒーティングの適温のままにしておけば良かったのに、暖房を入れてしまったために暑くて熟睡できず、おまけに喉を完全にやられてしまった。
12月26日(火)は、前日同様6:00頃に起床して朝シャンをした後、7:00頃からホテルで朝食を取り、丸一日を掛けて『エルミタージュ美術館』の6時間の入場観光だった。
ロシア語の正式名称は(国立エルミタージュ)。「エルミタージュ」とは、フランス語で(隠遁者/世捨て人の部屋)という意味である。
小エルミタージュ、旧エルミタージュ、新エルミタージュ)、エルミタージュ劇場、冬宮殿の5つの建物が一体となって構成されており、現在本館となっている冬宮殿はロマノフ朝時代の王宮である。
1764年にエカチェリーナ2世がドイツから美術品を買い取ったのが、エルミタージュ・コレクションのはじまりである。
エカチェリーナによって冬宮殿の隣に自身専用の美術品展示室が建てられた(小エルミタージュ、1775年)。エルミタージュは当時のフランス貴族が建てた個人的な離宮を意味した。その後もエカチェリーナのコレクションは増加したため、東隣に施設が増築された(旧エルミタージュ、1787年)。なお、劇場も同じ頃に建設されたものである(エルミタージュ劇場、1786年)。
私的なコレクションであり、当時は一般公開されていなかったが、(アレクサンドル2世当時の)1863年に初代館長となったゲデオーノフによって市民も自由に観覧できるようになった。これと前後して新たに施設が増築された(新エルミタージュ、1864年完成) 1917年のロシア革命後は貴族から没収されたコレクションの集積所となった。 1918年には冬宮殿に存在した全ての研究、管理組織を建物共々、エルミタージュ美術館として統合することが決定された。この統合作業は第二次世界大戦後に完了した。1930年代には外貨の獲得を目的に政府によって西側諸国への所蔵品の売却が行われている。2014年12月、近接する旧参謀本部の建物を改修して新館がオープンし、印象派を中心に展示している。
投稿動画にも書いた通り、絵画の展示物は、”ダ・ヴィンチ”、”ラファエロ”、”ティツィアーノ”、”エル・グレコ”、”ベラスケス”、”ゴヤ”、”ルーベンス”、”レンブラント”、『新館』の”ルノワール”、”セザンヌ”、”モネ”、”ゴッホ”、”ゴーギャン”等々、1470年代~1900年代の名作がズラリと展示されており、紹介すれば枚挙に遑が無く、ネットで確認戴いた方が良いので割愛しますが、両美術館でもすべてを展示しきれないほどの貯蔵量。
今回の現地ガイドさんは、「エレナ」さんというサンクト・ペテルブルク大学の極東学を学んだという現地出身のガイドさん(前回は「ナターリア」さんというジョージア:昔の”グルジア”出身の方。)で日本にも留学経験があるとの事だった。
『エルミタージュ美術館・本館』の前…バロック調の豪壮な建物である。
『エルミタージュ美術館・新館』の前。
展示物に圧倒される妻
”舞踏の間”
絢爛豪華な部屋の数々
素晴らしい”イコン”の数々
時を告げる黄金の時計
カルバッチオの『リュートを弾く若者』
レオナルド・ダ・ヴィンチ『聖母ブノア』
ティツィアーノ『ダナエ』
ティツィアーノ『懺悔するマグダラのマリア』
エル・グレコ『使徒ペトロとパウロ』
レンブラント『(見初められたポセイドン神から身を隠そうとする)ダナエ』…リトアニア独立運動活動家の青年によって硫酸がかけられ2回程刃物で切付けられた。
その後必死の修復作業が行われたが、かつての輝きは失われたと言われる。
レンブラント『放蕩息子の帰還』
『エルミタージュ美術館・本館』1Fのインターネットカフェでの昼食。
『エルミタージュ美術館・新館』にて
ルノワール『ジャンヌ・サマリーの肖像』
セザンヌ『煙草を吸う男』
ゴーギャン『果実を持つ女』
ピカソ『自画像』
夕刻の『エルミタージュ美術館・新館』前。
この後、渋滞のサンクト・ペテルブルクの街中を1時間以上もかけてランチを食べに行ったが、『壺焼きシチュー』とは名ばかりの、蓋生地がベニャベニャの”壺焼き肉ジャガ”だった…多くの旅仲間が「これを食べに1時間以上もバスで来る必要があるわけ?」といぶかっていた。
テストランの入口
サラダとパン
『壺焼きシチュー!肉じゃが?』
黒パンを発酵させて作った酸っぱい飲み物”クワス”
12月27日(水)も、前日同様6:00頃に起床して朝シャンをした後、7:00頃からホテルで朝食を取り、半日を掛けて『エカテリーナ宮殿』の観光後、モスクワへ移動予定だった。
エカテリーナ宮殿は、サンクトペテルブルク中心部から南東25kmの郊外の避暑地ツァールスコエ・セローに存在する、”金色と青色と唐草模様”が基調のロシア帝国時代のロココ建築の宮殿。
宮殿の名前は、ピョートル大帝の后でもあった、第2代ロシア皇帝エカテリーナ1世(在位:1725年 - 1727年)に由来する。エカテリーナがドイツの建築家を雇って夏の避暑用の離宮として1717年に作らせたのが最初のもので、その後、第4代ロシア皇帝アンナ(在位:1730年 - 1740年)がロシア人建築家に命じ増築させた。
第6代ロシア皇帝となったエリザヴェータ(在位:1741年 - 1762年)は母のエカテリーナが建築させたものが時代遅れで不便であるとして抜本的に作り直すことを決定、壮麗・壮大なロココ調建築に入れ替えるよう、既に冬宮殿建設に関わっていた宮廷付き建築家バルトロメオ・ラストレッリに命じた。建設は1752年5月から4年の歳月をついやし、1756年7月30日に全長325メートルの現行規模の宮殿が完成した。とりわけ「琥珀の間」が有名である。琥珀は、第二次世界大戦のレニングラード包囲戦中にドイツ軍に持ち去られたが、1979年から始まった復元作業により、2003年に完全に復元された。
1791年、日本人の漂流民大黒屋光太夫が帰国を願うため、エカテリーナ2世(在位:1762年 - 1796年)に謁見した場所としても知られる。
相変わらず美しかった、ロココ調建築様式の雪の『エカテリーナ宮殿』。
宮殿内の『鏡の間』
陶器で造られた、暖炉カバー。
美しかった部屋と調度品の数々
『エカテリーナⅠ世像』
『エカテリーナ宮殿』観光後に、ミニフォークロアショーを観ながら食べたレストラン『ポドボリエ』。
ハムやサラダ等。
ミニフォークロアショーの実演状況
早い話が、ピクルスや野菜の漬物
ボルシチ(赤カブのスープ)
ロールキャベツ
入り口付近で、飾り物の熊と同化した妻。
その後我々はサンクト・ペテルブルクのプルコヴォ空港へ向い、
17:30発のシベリア航空S750便にてモスクワに向かった。今度は、飛行は順調に行われ、モスクワのホテル『ホリディ・インタガンスキー』でディナーをとったのは20:30頃。
ホテルのディナー。
12月28日(木)の早朝、朝食前にホテル近くの24時間スーパーマーケットに小物を買い出しに出かけたのだったが、地下鉄入口近くの前回のスーパーは閉まっていて、別な露店で2㍑の水を2本(45ルーブル/本)買っただけだったが早朝の散歩には丁度良かった。現地ガイドの”タチアナさん”に、後で聞き直してみると別な店だった。
ホテルの前。 通勤の人達は日本人と分かっても別段珍しがらなかった。
ホテル前からのスーパーマーケットへのモスクワの街の早朝の夜景。
スーパーへの地下道
地下鉄への入口…前回は地下鉄に乗ったがとても素晴らしかったし安全だった。
間違えた別のスーパーマーケット。
ホテルでの朝食の後に、我々はバスで1時間半程のセルギエフ・ポサードへと出発し、先ずは『マトリョーシカ工房』にて、世界に一つだけのマイマトリョーシカの絵付け体験をした。
下は、マトリョーシカの絵付け体験。
工房の様々なマトリョーシカ
「な~んちゃって! マトリョーシカ。」
『マトリョーシカ工房』を出て、いざランチへ…
ランチのレストランは、入り口は違っていたが、前回と同じ所でした。
パンと野菜スープ
この餃子のサワークリーム和えはなかなか美味かった。
「さあ、いざセルギエフ・ポサードへ!」
セルギエフポサードの入口
セルギエフポサードの入口のフレスコ画の美しいイコン(聖母子や聖人の絵)。
森の中の『ウスペンスキー(就寝女神:マリア)大聖堂』
『大食堂』…この中にも大きな礼拝堂があり、イコンや聖櫃が置かれていた。
森の中の『トロイツキー(三位一体)大聖堂』
大食堂の中には、聖人の聖櫃(中には不朽体が入っていて信者は見れるそうな。)
大食堂の中の礼拝所。
高さが88mの大鐘楼…当時ではロシアでは最高の建物だったそうだ。
『聖水汲み場』…後ろは『ウスペンスキー(就寝女神:マリア)大聖堂』
撮影が許された礼拝場の内部。
聖人の聖櫃(中には不朽体が入っていて信者は見れると云われる。)
聖人の聖櫃(中には不朽体が入っていて信者は見れるという。)
八端十字架(上が罪状札、下は罪人に長い苦痛を味あわせる為の足台)
さあ、いよいよ『ウスペンスキー(就寝女神:マリア)大聖堂』への入場見学。
撮影は禁じられ、女性はスカーフ着用が原則で、男性は脱帽しなければならない。
名残惜しかったが、セルギエフ・ポサードに別れを告げてモスクワへと戻る。
モスクワでの現地ガイドは「タチアナ」さんという、神田のYMCAへの語学留学の経験を持つ女性で、愉快な熟年の女性で日本語はマアマアながら賢い女性だった。
前回の、名前を覚える気もしなかった、日本人を馬鹿にした様な老女とは全く違っていた。
セルギエフ・ポサードからの帰り道では、前回はダーク・ダックスの『灯火(夜霧の彼方に~♬)』という前近代的なビデオを流していたが、今回タチアナさんが流したビデオは『果たして、スターリンは殺されたのか?』という、リアルな政治ものだった。 以前、自分が読んだ同内容の書物では、犯人はスターリンの前では道化を演じていたと言われる、次のソ連邦第4代最高指導者の「ニキータ・フルシチショフ」だったが、今回の首謀者は「ベリア」だった。ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤは、ソビエト連邦の政治家。
ヨシフ・スターリンの大粛清の主要な執行者(実際にベリヤが統轄したのは粛清の終結局面のみだったにせよ)とみなされている。彼の影響力が最高潮に達したのは、第二次世界大戦後からスターリンの死後にかけてであった。「エジョフシチナ」として知られるニコライ・エジョフによる大粛清の恐怖と猛威のもとでエジョフを失脚させて権力を握り、自らも粛清に加担した。スターリンの死後は第一副首相として、自由化推進のキャンペーンを実施したが、このキャンペーンは、ニキータ・フルシチョフらとの政争の敗北によるベリヤの失脚、そして死刑執行とともに終焉した。
タチアナさんは、流した後もこのビデオを流した意図や注釈も付け加えずに、シレッとしていた。自分が少々諮問すれば答えたのみで、他の旅仲間達からは一切何の質問も無かったがソ連時代を考えれば隔世の感がある。
また、「今回選ばれて新しくモスクワ市長になった人物は汚職塗れの疑いがあり、一向に市民の利益を考えてくれない。」…等と辛口のコメントが多かった。
かと言って彼女は反体制側の人間では無く、「プーチンは我々ロシア国民を守ってくれている。だから、我々もプーチンを守る。」と言っていた。
後は何やら「私は尻軽女!」などとおどけて皆を笑わせていた。
…ソ連時代の当局は「モスクワを世界の首都に!」と本気で考え、世界中のどの都市よりも壮大な建築物ばかりを建て急いでいたとの事であった。
セルギエフ・ポサードの帰りに立ち寄った、『ノヴォデヴィッチ修道院』寺院の美しさもさることながら、眼前の池はチャイコフスキーがバレエ『白鳥の湖』の構想を練った所。
下は、「チャイコフスキーがバレエ『白鳥の湖』の構想を練った所」と言われる池。
美しかった、帰路のモスクワ川近郊の夜景。
帰り着いたホテルにてディナーをとりながら披露された”マイ・マトリョーシカ”
”マイ・マトリョーシカ”と、帰りの土産物店:ロシアン・プレゼンツで購入した、
妻ご愛用の陶器『グジェリ』
翌12月29日(金)は、いよいよロシア旅行最後の日、『クレムリンへの入場観光』と『赤の広場観光』となった。
クレムリンは、ロシア連邦の首都、モスクワ市の中心を流れるモスクワ川沿いにある旧ロシア帝国の宮殿。ソビエト連邦時代にはソ連共産党の中枢が置かれたことから、ソ連共産党の別名としても用いられた。現在もロシア連邦の大統領府や大統領官邸が置かれているため、ロシア政府の代名詞として用いられる。正面には赤の広場がある。
ロシア語では「クレムリ」となり「城塞」を意味する。中世ロシアにおいて多くの都市は中心部にクレムリンを備えていた。モスクワの他、ノヴゴロド、ニジニ・ノヴゴロド、カザン、アストラハンにあるものが有名である。しかしながら、日本語内において単に「クレムリン」と言った場合は、モスクワにある宮殿を指すことが多い。モスクワのクレムリンはそれらのなかでも最も有名かつ壮大なものである。城壁の総延長2.25km。20の城門を備え、内部には様々な時代の様式による宮殿や大聖堂(寺院)が林立している。
『クレムリン』の入場前…後ろは入場門。
『クレムリン』の入場門。
かつて、スターリンがここで起居したと言われる建物。
ここは、生神女福音大聖堂(しょうしんじょふくいんだいせいどう)だったか?
生神女とは正教会において聖母マリアを指す「神を生みし女」「神の母」を意味する各言語における称号の、日本正教会における直訳的な訳語である。
『大砲の王様』
『鐘の王様』
生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー大聖堂)側面…1475年から1479年にかけて建立。
設計はイタリアの建築家アリストートル・フィオラヴァンティによる。大聖堂広場の北側・グラノヴィータヤ宮の北隣に位置する。5つのドームを持つ。全高38m。内陣には、フレスコ、イコンによって飾られる。帝政時代には皇帝の戴冠式が挙行された。現在でもロシア連邦大統領就任式でロシア正教会による祝福が行われる場所である。
右下が、モスクワの現地ガイド「タチアナ」さん。
生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー大聖堂)正面
生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー大聖堂)正面のフレスコ画によるイコンが素晴らしい。
生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー大聖堂)正面左脇の建物の”錨”の付いた十字架
…ノアが辿り着いて”錨”を下し、安住の地を得た事を表しているという。
アルハンゲリスキー大聖堂…1505年から1509年にかけて建立。設計はイタリア・ミラノ出身の建築家アルヴィン・ヌオヴォ。5個の丸屋根を持ち内陣にはタタールのくびきからロシアが解放された絵やイコンによって飾られる。イワン雷帝他歴代皇帝の納骨保管所となっている。
『クレムリンへの入場観光』を終え、出口を出ると、そこは『赤の広場』である。
後ろは、『ロシア歴史民俗資料館』。
旅仲間達と共に…
ロシア最後の食事…『グム百貨店』の3Fのフーヂコートでのランチ選び。
セルフサービスの陳列ケース
牛肉のジュレ(牛肉と煮汁の煮こごり)が美味かった。
菓子パンもなかなか食事に合っていた。
『グム百貨店』の1Fの有名なアイスクリームや屋さん…50ルーブル/1個
『グム百貨店』の食事を終えて外に出ると、バス乗場からは『ワシリー寺院』が…
裏からのワシリー寺院もなかなか味わいがあった。
帰路のJALの機内食…食材がロシアの物なのか、往路とは食感が違っていた。
ロシア製のアイスクリーム
JALN2度目の機内食
成田空港へは、12月30日(土)の予定通りの08:35到着。
モスクワのドヴォジェドヴォ国際空港での出国手続きは相変わらず緩慢だった。
自分担当の管理官が隣の女性管理官とニヤニヤしながら話し込み、パスポートを無駄に開いたり閉じたりと5分程もかかってやっと返してよこした。彼等は無駄な時間を掛ける事が仕事だと思っているのだろうか? 旧ソ連時代のお役所仕事?
(また、今回の旅は何時にもまして「何事も無く、観光時間を削っても常に余裕のある集合を…」といった、添乗員の”リ・ジョンミ”さんの「ツアー・ディレクター業務をひたすら遂行させよう。」というものが前面に出過ぎた、少々気ぜわしい旅程だったようなきがする。)
結果的には間に合っていたのだが、乗継には1時間程しか無いので成田→仙台のANA1便は止めており、2便は18:50発だった。 折角なので、妻の言で『成田山・新勝寺』観光をすることにした。
成田山新勝寺(なりたさんしんしょうじ)は、千葉県成田市にある真言宗智山派の寺であり、同派の大本山のひとつである。本尊は不動明王。関東地方では有数の参詣人を集める著名寺院で、家内安全、交通安全などを祈る護摩祈祷のために訪れる人も多い。不動明王信仰の寺院のひとつであり、寺名は一般には「成田不動」あるいは単に「成田山」と呼ばれることが多い。
平安時代中期に起きた平将門の乱の際、939年(天慶2年)朱雀天皇の密勅により寛朝僧正を東国へ遣わしたことに起源を持つ。寛朝は京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、翌940年(天慶3年)、海路にて上総国尾垂浜に上陸。平将門を調伏するため、下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行った。新勝寺はこの天慶3年を開山の年としている。乱平定の後の永禄年間(1566年(永禄9年)頃)に成田村一七軒党代表の名主が不動明王像を背負って遷座されて伽藍を建立された場所が、現在の成田市並木町にある「不動塚」周辺と伝えられ成田山発祥の地と言われている。「また新たに勝つ」という語句に因み新勝寺と名づけられ、東国鎮護の寺院となった。
境内への入口…総門
聖徳太子堂
成田山新勝寺本堂前広場
寺への沿道には、”うなぎ(日本産)屋”がズラリ!
モスクワで買った、妻お気に入りの陶器『グジェリ』。
ドヴォジェドヴォ空港の免税店で買った、左からポートワイン、妻も飲むチェリー酒(2本)、スコッチウィスキー…全て1㍑瓶であり、2㍑/1人迄免税。
但し、75CL(センチ㍑)は、3本/1人迄免税。
この日のANA第2(3235)便は仙台着が20:00の予定だったが、若干遅れた為にタッチの差で仙台空港から常磐線名取への電車が出たばかりだった。
次の便は常磐線への接続が最終便しかないので仙台駅迄行き、待合室でコーヒー等を啜りながら最終便に乗り、タクシーで我が家着は24:00前だった。
次回からは余裕を持った行程を組み、余程の事が無い限り、飛行機を多用すべきと考えた、今回の旅程だった。
【 ロシア再訪・旅行記、終了 】
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