秋田(田沢湖・乳頭温泉・角館)旅行 - Latte

秋田(田沢湖・乳頭温泉・角館)旅行

  • 旅行期間: 2018/05/04 ~ 2018/05/06
  • 作成日:2018/05/25 15:16
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平成30年5月4日(金)…東松島出発。三陸自動車にて石巻港IC→登米IC。一般道を東北自動車道の若柳金成IC→盛岡IC迄乗り、田沢湖方面に向かい田沢湖遊覧の後乳頭温泉泊。

平成30年5月5日(土)…乳頭温泉から角館へ向かい、武家屋敷等を観光後西木温泉泊。

平成30年5月6日(日)…西木温泉を出発し、初めての秋田自動車道に乗り、大曲IC→東北自動車道経由で若柳金成ICで一旦降り、一般道で登米を経由し、三陸自動車にて登米IC→石巻港ICで降り、東松島での寿司昼食後妻のみ帰宅。 

 白濁湯の大好きな妻のかねてからの要望もあり、メインを『乳頭温泉』にして

今回、秋田を旅してきました。

 連休前半は、世の混雑を横目で見ながら相馬でのんびりと過ごし、後半に出かけましたが、観光地は混雑が無くユックリと過ごす事ができました。


 写真を見ると、自分は最近とみに白髪が目立つようになった。 

中国や韓国でよく言われる”共白髪(ともしらが)”という言葉がある。

「共に白髪の生えるまで末永く夫婦仲睦まじく生きて行こう。」という事だが、

自然体とは言え、自分も随分白髪が多くなった。 人は老いていくものだが、

出来れば、自分が納得できるような良い生き方をしたいものである。

 

 自分は休暇を温存するために、5月1日(火)~5月2日(水)は東松島で仕事をし、

5月3日(木)の午後に妻が相馬を出発し、寿司の夕食を食べてこの日は東松島泊。

 翌5月4日(金)、東松島の自分のアパートを出発。車を乗り換えて三陸自動車道の石巻港ICから登米IC迄乗り、一旦一般道の宮城県道4号線を東西に横断して、

若柳神成ICから東北自動車道に乗り、盛岡ICで降りた。

 盛岡ICから国道46号線を西進し、途中道の駅に立ち寄り、地元でとれた山菜の漬物やお握り、イワナの塩焼き等を楽しみながら、田沢湖を目指した。

 新鮮な食材を使った食べ物はいずれも、とても美味かった。


下は、地元産の野菜の浅漬け、おにぎり、イワナの串焼き、手作りパンなど。

普段は封印している、妻の大好きなパン…手作りでとても美味かったとの事。


 今回の旅は、何時もの様に見所満載の旅ではなく、余裕時間を多く設けた。

雫石川沿いに国道46号線を西進して雫石町をとおり、いくつもの仙岩トンネルを潜り抜けて田沢湖に出た。

※ 田沢湖(たざわこ)は、秋田県仙北市にある淡水湖。一級河川雄物川水系に属する。日本で最も深い湖であり、国内で19番目に広い湖沼である。 

地理…秋田県の中東部に位置する。直径は約6kmの円形、最大深度は423.4mで日本第1位(第二位は支笏湖、第三位は十和田湖)、世界では17番目に深い湖である(世界で最も深い湖はバイカル湖)。

 湖面標高は249mであるため最深部の湖底は海面下174.4mということになる。この深さゆえに、真冬でも湖面が凍り付くことはない。そして、深い湖水に差し込んだ太陽光は水深に応じて湖水を明るい翡翠色から濃い藍色にまで彩るといわれており、そのためか日本のバイカル湖と呼ばれている。 

古くから漁業が行われ、1715年(正徳5年)には固有種であるクニマスに関する最古の記述が出ており久保田藩主の佐竹氏および分家の佐竹北家(角館佐竹家)の献上品として利用されてきた。明治期末から田沢湖でクニマスの孵化放流事業も試みられ1935年(昭和10年)は約8万8千匹の漁獲高があったという。

 戦時体制下の1940年(昭和15年)、食糧増産と電源開発計画のために湖水を発電用水・農業用水として利用しようと、近くを流れる玉川からpH1.1という国内屈指の強酸性の源泉を含んだ水を湖に導入する水路が作られた。魚の絶滅を心配する声は当時もあったが、住民は国策に反対できる時代ではなく、約70人いた漁師はわずかな補償金と引き換えに漁業の職を失い、ほとんどの魚類が数年で姿を消した。その後酸性化が進み、玉川下流の農業用水の被害も深刻になったため、県は玉川温泉の水を中和する施設の設置を国に要望し、1989年10月に中和施設が完成した。これによって湖面の水質は中性化していったが、今なお湖全体の水質回復には至っていない。

 水深測定…田沢湖が深い湖であった事は昔から知られていたが、初めて測定されたのは1909年(明治42年)、湖沼学者の田中阿歌麿が麻縄に重りをつけ沈めて、397mを記録した時だった。翌年、秋田県水産試験場が同様に413m、1926年(大正15年)には田中舘愛橘がワイヤーロープで425mを記録した。1937年(昭和12年)から3年間行われた吉村信吉の調査では大まかな地形が明らかになった。湖底には2つの小火山丘があり、湖底平坦部の北西寄りに位置する直径約1kmのものを振興堆、南岸近くの直径約300mのものを辰子堆と命名した。また大沢地区の近くに傾斜50°・深さ300mの断崖があることも発見した。

 水質…かつては火山性・ミネラル分の高い水質と流入河川の少なさのため、1931年(昭和6年)の調査では摩周湖に迫る31mの透明度があり、水産生物も豊富であった。しかし、発電所の建設と農業振興(玉川河水統制計画)のために、別の水系である玉川温泉からpH1.1(但し、流入時点では pH3.3~3.5程度)の強酸性の水(玉川毒水・玉川悪水と呼ばれる)を1940年(昭和15年)1月20日に導入した結果、導入から約7年後には、pH 5.0~5.5、約8年後には、pH 4.3~5.3 へと酸性化が進行した。酸性水を導入した結果、水力発電所施設の劣化も促進されたほか、農業用水も酸性化し稲作に適さなくなったため、農業用水(田沢疎水)の取水位置の変更や取水用水の中性化も行われた。

※ 現在の透明度(直径30cmの白色円板(セッキー円盤)を水中に沈め、肉眼により水面から識別できる限界の深さ。単位はm。)は8m程度との事。

 1972年(昭和47年)から石灰石を使った酸性水の本格的な湖水の中和対策が始まり、1991年(平成3年)には抜本的な解決を目指して玉川酸性水中和処理施設が本運転を開始。湖水表層部は徐々に中性に近づいてきているが、2000年(平成12年)の調査では深度200メートルでpH5.14 - 5.58、400メートルでpH4.91と、湖全体の水質回復には至っていない

 生物相の変化…1940年以前に生息していたとされる主な魚類は、クニマス、ヒメマス(十和田湖より移入)、ウグイ、アメマス、ギギ、イワナ、コイ、ナマズ、ウナギ。1940年の玉川悪水導入は魚類だけでなく、動物性プランクトンの分布相にも変化を与えている。魚類は酸性に強いウグイが残り酸性に弱いサケ科魚類やコイは確認されなくなった。一方、残存したウグイは優占種となったことで大型化した。

 辰子伝説…田沢湖周辺には、(イワナを食い)水をがぶ飲みして龍の体になった辰子と八郎がやがてめぐり合って夫婦になったという伝説がある。

※ 田沢湖のほとり神成村に辰子(タッ子、または金釣(カナヅ)子ともいわれる)という名の娘が暮らしていた。辰子は類い希な美しい娘であったが、その美貌に自ら気付いた日を境に、いつの日か衰えていくであろうその若さと美しさを何とか保ちたいと願うようになる。辰子はその願いを胸に、村の背後の院内岳は大蔵観音に、百夜の願掛けをした。必死の願いに観音が応え、山深い泉の在処を辰子に示した。そのお告げの通り泉の水を辰子は飲んだが、急に激しい喉の渇きを覚え、しかもいくら水を飲んでも渇きは激しくなるばかりであった。

狂奔する辰子の姿は、いつの間にか龍へと変化していった。自分の身に起こった報いを悟った辰子は、田沢湖に身を沈め、そこの主として暮らすようになった。

 辰子の母は、山に入ったまま帰らない辰子の身を案じ、やがて湖の畔で辰子と対面を果たした。辰子は変わらぬ姿で母を迎えたが、その実体は既に人ではなかった。悲しむ母が、別れを告げる辰子を想って投げた松明が、水に入ると魚の姿をとった。これが田沢湖のクニマスの始まりという。

 北方の海沿いに、八郎潟という湖がある。ここは、やはり人間から龍へと姿を変えられた八郎太郎という龍が、終の棲家と定めた湖であった。しかし八郎は、いつしか山の田沢湖の主・辰子に惹かれ、辰子もその想いを受け容れた。それ以来八郎は辰子と共に田沢湖に暮らすようになり、主のいなくなった八郎潟は年を追うごとに浅くなり、主の増えた田沢湖は逆に冬も凍ることなくますます深くなったのだという。一部では、タッ子(辰子)には不老不死の願望があったが、のちに夫となる八郎にはその願望はなく、たまたま同じ行為にふけるうち、「唯、岩魚を食ひ、水を鯨飲してゐるうちに龍體となつてしまつた」とも語り継がれていた。 なお、湖の北岸にある御座石神社には、辰子が竜になるきっかけとなった水を飲んだと言われる泉がある。

田沢湖を見ていると”霧に抱かれた摩周湖”を思い出す。まさしく北の湖である。


下は、田沢湖の遊覧船乗場

少々遅れた我々を待っていてくれた遊覧船。

遊覧船内でくつろぐ妻


遊覧船便乗観光後、立ち寄った土産物店の、裏の有料:200円/人の見世物小屋。








「秋田犬も観光疲れ…」


その後、遊覧船乗場から時計回りで田沢湖を一周した。

下は、田沢湖畔にある辰子像傍にある”浮木神社”

田沢湖畔の金色の”辰子像”

田沢湖畔の”御座石(ござのいし)神社”の鳥居

田沢湖畔の”御座石神社”


”御座石神社”の傍にある、辰子が飲んだという『潟頭(かたかしら)の霊泉』


田沢湖に流し込み、殆どの魚類を死滅させた”強酸性水”の玉川の水



玉川の水によって死滅した、生物ほかを供養するための『姫観音』の碑

『姫観音像』

田沢湖畔の『姫観音像』傍の桜花

 

 その後我々は「是非行ってみたい!」という妻の要望で秋田駒ヶ岳入口経由で乳頭温泉へ向かったが残念ながら閉鎖中だった。

”駒ヶ岳”という名称は、「馬の背のようになだらかで美しい。」という形容で、美しい山に名づける名称である。

下は、秋田駒ヶ岳入口


乳頭温泉は、「鶴の湯温泉」から最奥の「黒湯温泉」の六軒の一軒宿、および「休暇村乳頭温泉郷」の計7つの宿で構成されている。また、乳頭山登山道には一本松温泉というかつての温泉場跡地の野湯も存在する。

 温泉郷内の各宿を湯巡りできる湯巡り帳を発行しており、郷内の各宿で日帰り入浴を1回ずつ楽しめる。ただし、これは宿泊者のみが購入できる代物である。この湯巡り帳は有効期間が1年と長いのが大きな特徴であり、有効期間内であればいつでも使用できる。

※ 郷内の温泉

・鶴の湯温泉 - 県道の「鶴の湯入口」バス停より数km分け入った場所にあり、他の宿とは距離がある。
・大釜温泉 - 秋田県道194号線沿い。
・妙乃湯温泉 - 秋田県道194号線沿い。
・蟹場温泉(がにばおんせん) - 秋田県道194号線起点。
・孫六温泉 - 県道の大釜温泉より1km強分け入った場所にある。
・黒湯温泉 - 県道の休暇村前より1km強分け入った場所にある(冬季休業)。
・休暇村乳頭温泉郷 - 秋田県道194号線沿い。

 乳頭温泉は人気が高く、申し込んだ時は一ホテしか空き部屋が無く、しかも一番高額な温泉だったが、外見とは違って風呂場は大きく広く、造りも歴史を感じさせる趣があった。 着いて間もなく、みぞれが降り出した。


下は、つとに有名な”乳頭七温泉”のひとつ、『休暇村乳頭温泉郷』

朝夕食共にビュッフェ方式だったが、和洋中が揃っており、味も品質も上等!

ブナ林に囲まれて、外は残雪が多く残っていた。


部屋から温泉までの廊下

温泉の入り口

露店風呂は、適度な冷風が吹いており、雪も降りだして小気味が良かった。


乳頭温泉は、妻が大満足だった。

翌朝、乳頭温泉郷の少々リッチな朝食を美味しく戴いた後、角館へと向かった。

 角館(かくのだて)は秋田県仙北市の地名、および国の重要伝統的建造物群保存地区の名称。現在も藩政時代の地割が踏襲され、武家屋敷等の建造物が数多く残されており、「みちのくの小京都」とも呼ばれる。

 角館は戦国時代には戸沢氏の本拠地であった。関ヶ原の合戦後の1602年(慶長7年)、戸沢氏が常陸多賀郡へ転封、佐竹氏が秋田へ入部し久保田藩領となる。翌1603年(慶長8年)、佐竹義宣の実弟にあたる蘆名義勝が所預(ところあずかり)として角館に入った。

 ある話によると、佐竹氏が秋田への転封の際、領地の美人たちを根こそぎ秋田に連れてきた。だから秋田には美人が多い…といったよた話もある。

 

 小京都…佐竹義隣の実父は京の公家・高倉家の高倉永慶であり、義隣は高倉家からの養子である(母が佐竹家の娘)。また、2代佐竹義明も公家・三条西家一門である西郊家の西郊実号の娘を正室に迎えた事から角館には多くの京文化が移入された。高倉家は衣文道の家元であり、西郊家の本家にあたる三条西家は歌道と香道の家元であった。西郊家じたいも歌道を代々伝承する家柄である。角館には小倉山などの京にちなんだ地名が見られるが、公家の出である義隣が京を懐かしんで付けたものだといわれている。


下は、残念ながら、今は花が散り終えた枝垂桜の並木道。

然しながら、しっとりと穏やかな街並みで、心が癒された。

樺:かば(山桜の樹皮)細工伝承館まえにて。


樺(かば)細工の茶筒…山桜の樹皮を磨き上げる事で下の写真の様な光沢が出る。

桜の樹皮は山桜(やまざくら)でなければならず、ソメイヨシノ等の他の樹皮ではこのような光沢が出ないそうなのである。 螺鈿(らでん)細工も美しい!


武家屋敷をしばし散策した後に、地元角館町の『平福記念美術館』に入場した。

中には平福穂庵(すいあん)・百穂(ひゃくすい)親子の日本画が展示されていた。

同じ”鍾馗(しょうき)”の絵であっても父親の穂庵の方が迫力があった。

その他、池田修三などの版画絵の作品等を鑑賞できた。

 また、町内の小学校で使われていたという、樺細工が施されているピアノ修復の為のチャリティコンサートもあり、地元の音楽家のピアノ演奏やオペラで活躍しているというバリトン歌手の迫力ある歌を聴く事ができた。

 一番前の目の前で聞いていた妻は、「あのバリトン歌手の歌声が額から出ているようだった!」と言っていたが、それは彼が口内や鼻腔を含む頭全体や広背筋を使った胸等の身体全体を一つの楽器としていたからという事なのだろう。


※ 群馬での合唱部でも、よく先生が「高い音声ほど顎を引いて、声は喉からでは無く、この辺から出すつもりで。」と言って、目と額の辺りから掌でつまんで、外に出す様な仕草で教えていた事を思い出す。


下は、武家屋敷の並木道からの美術館への入り口にある庭園。

”打ちっ放しコンクリート造り”の味わいのある美術館入口。

入り口前の広場。

池田修三の版画絵の作品。

樺細工が施されているピアノ。


再び、武家屋敷散策と屋敷内の見学へ…





 角館での見学を終え、駐車場に戻ろうとする道すがら、おりしも近くでは

”桜祭り”が開催されており、縁日や売店で買い食いをしながらしばし楽しんだ。


※ 今年は暖かすぎて桜は葉桜にはなっていたが、地元の民俗芸能を楽しんだ。

祭では簡単な舞台が造られていて、この地でしか見られない民族舞踊を見る事ができた。掲載出来た動画を観て頂ければわかるが、ここの舞踊は手のひらの動きが独特で美しかった。 沖縄の踊りの”カチャーシ”もそうだが、日本舞踊も手のひらの動きが美しい。多分、この地や東北地方に残り伝承されている踊りはその「原形」なのではないだろうか…? と考えてしまう。


 その後、車で20程走った所にある『西木温泉・クリオン』という温泉宿に向かった。 ”クリオン”と言う名称は、近くに『西明寺(さいみょうじ)栗』という日本で最大の栗が獲れる地があり、その近場の温泉場だからという事らしい。

この日東松島に帰る事は可能であったが、後の疲れを残さない為の宿泊だった。

 この宿は、近場では此処しか空いてなく、帰宅に便利だから決めた。

我々の部屋は上等だったが、部屋はピンからキリまであり、近くでの渓流釣りや山菜取りにくる人たちの為の、冬季は閉鎖する冷暖房なしの自炊部屋もあったが温泉は、乳頭温泉かそれ以上の良い温泉だった。

 食事は文句なく美味かったが、量が多すぎて少々閉口した。


下は、温泉場への入口。

温泉の効能書き。

炊き込みご飯や刺身や鍋物等々、とても美味かったが、量が多すぎた夕食。

地元産の山菜や魚の味噌で和えた包み焼き。

マーマレードプリンを載せたチーズケーキのデザート。


 西木温泉から秋田自動車の大曲IC迄の道すがら、道の駅で妻が、単身赴任用の鎌倉彫風の茶筒と水牛の角の茶杓をプレゼントしてくれた。

現在、お気に入りで使用中。


久し振りの温泉めぐりで、くつろげた旅だった。 


          - 秋田旅行記:終わり -

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