『エジプト旅行(ナイル川クルーズとエジプト満喫8日間)』 - Latte

『エジプト旅行(ナイル川クルーズとエジプト満喫8日間)』

  • 旅行期間: 2018/09/09 ~ 2018/09/16
  • 作成日:2018/10/02 13:46
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2018年9月9日 (日) 仙台発14:45・ANA3234にて出発。成田空港着は15:55。 
          成田発20:55・エジプト航空MS0965でカイロへ出発。飛行時間:13時間20分

2018年9月10日 (月) カイロ着03:15、カイロ発07:00の同航空MS007にてルクソールへ。 
     ルクソール着08:00、バスにてナイル川に停泊のクルーズ船『プリンセス・サラ号』乗船。           船内にて遅めの朝食後、ルクソール東岸の世界遺産『カルナック神殿』観光。
          船内にて昼食後、同じくルクソール東岸の世界遺産『ルクソール神殿』観光。
           船に戻り小休止。船内にて夕食後、3階ホールにてベリーダンス・ショー。

2018年9月11日 (火) 船内にて朝食後、ボートでナイル川を渡りルクソール西岸観光。     
          ①『メムノンの巨像』②『ハトシェプスト女王葬祭殿』③『王家の谷』
          ④『ツタンカーメン王墓』 クルーズ船でナイル川を遡上しエドフへ向け
          出航。16:00アフタヌーンティー。 19:00夕食。
          21:00から3階ホールにてカクテル・パーティー。
          ”エスナ水門(水位差≒7m)”を登り、夜中にエドフにて停泊。
          
2018年9月12日 (水) 船内にて朝食後、馬車にてエドフの『ホルス神殿』観光。
          観光後船に戻り、船内にて昼食。同時に船はコムオンボへ向けて出航。
          4階のサンデッキにてナイル川の景色を堪能しながらコムオンボ到着後、
       徒歩にて”ハヤブサの神ホルスとワニの神ソベクを祀った”『コムオンボ神殿』観光。
          観光後船に戻り船はアスワンへ向けて出航。19:30夕食。
          21:00ガラベイヤ・パーティ。 
 
2018年9月13日 (木) 夜中にアスワン到着。06:00船内での朝食後、オプショナルツアー
         『イシス神殿』観光。 その後バスに合流し、アスワン観光。
          ①『未完のオベリスク』②『アスワンハイダム』。
          その後、バスで一路約3時間をかけてアブシンベルへ。
          13:30途中での昼食後、ナセル湖畔のホテル『セティ・アブシンベル』
          へチェックイン。 18:00の夕食後、バスで『アブシンベル神殿』
          へ向かい、”音と光のショー”見学。 その後ホテルに戻る。

2018年9月14日 (金) 世界遺産『アブシンベル神殿(大神殿・小神殿)』への入場観光と朝焼け
          に染まる幻想的な神殿の鑑賞。 鑑賞後再びバスにてホテルに戻り朝食。              8:00からバスにてアスワン空港へ向かう。 途中のレストランにて昼食。
          再びバスにてアスワン空港へ向かう。
           エジプト航空14:30発のMS0412でカイロへ出発。 カイロ着は15:55。
           カイロ空港からバスにてギザのホテル『シュタインベルガー・カイロ・
          ピラミッズ』へピラミッドが眼前に広がる部屋へチェックイン。 

2018年9月15日 (土) ホテルにて朝食後、世界遺産『ギザの三大ピラミッド』と
         ”クフ王ピラミッド”入口からの入場観光と『スフィンクス』への下車観光。
       ”パピルス”の土産物店へ立ち寄った後、近くのレストランにてシーフードの昼食。
    その後カイロへバスで移動し、カイロ市内の『エジプト考古学博物館』への入場観光。
近くのモール内のスーパーマーケットに立ち寄り、財布に残ったエジプトポンドを使い果たした後、
     モール内のレストランにてチキン料理の夕食。 19:30バスにてカイロ空港へ向かい、
      出発ロビーでのお茶の後、エジプト航空MS0964で成田へ出発。飛行時間:約12時間。

2018年9月16日 (日) 成田空港へは18:30到着。出国の後ロビーでの夕食後東横イン成田で後泊。

2018年9月17日 (月) 成田発10:00ANA3231にて仙台空港着が11:00。 空港での昼食後自宅へ。

『エジプトへの旅・8日間』 


 旅行直前に発生した北海道大震災に気がかりを残しつつも、昨年は安全確保が困難なために旅行会社の企画中止により果たせず、「今回しかない!」と半年前から計画していた『エジプト旅行(ナイル川クルーズとエジプト満喫8日間)』を敢行し、9月9日(日)~9月16日(日)の旅程を終え、成田での後泊後の9月17日(月)の午後に、自宅に無事生還しました。


 今や、「世界一危険な観光地!」と言われるエジプト。

何せ西隣りはリビア、東隣りはシナイ半島を挟んでイスラエル。

 かつては”アラブの盟主”として、今でも強力な軍事力を擁し何度もイスラエルと中東戦争を戦ってきた熱いお国柄である。

 外務省の『海外安全ホームページ』でも1か月前の安全レベル1の範囲はカイロ・ギザ・ルクソール~アブシンベルのほんの周辺だけだったが、出発の2週間前は北のアレキサンドリアから南のアブシンベルまでレベル1が帯状に繋がった。

 とは言え、現地の重要拠点(空港や発電所、主要道路等)には、機関銃を装備した装甲車と兵士が要所要所に配備され、我々ツアー客には、セミマシンガンを腰に帯びたセキュリティーポリスがバスに同乗し観光地にもピタリと同行した。


※ 奇しくも、世界四大文明の発祥地である現代のエジプト・インド・中国には足跡を残したが、楔形文字を発案し『ギルガメッシュ叙事詩』を残したシュメール文化、アッカド文化、アッシリア文化や、世界史上において最初の法典である『ハムラビ法典』を残し、『バベル(バビロン)の塔:バビロンにあったジオグラッド(神殿)』やユダヤ人の”バビロン捕囚”で有名なバビロニア王国の存在など、一番興味深くて一番行きたい、エジプト文明とも関わった世界最古と云われる、メソポタミア文明(その殆どはイラク共和国に存在する。)の遺跡は現在もなお破壊され続けられている。  …非常に残念でならない!


 9月9日(日)、出発前の仙台空港にて、”最後の晩餐(?)”になるかもしれない、あるいは暫くは食べれなくなる”日本食”を堪能した。

 仙台では決して高くない値段の『牛タン定食』である。

  豊富なメニュー。

 麦飯と新鮮なネギたっぷりのテールスープ。


 成田空港での両替。

かつては”親ソ連”であったエジプトも、今や親米国家。$が幅を利かせている。

 

 現地通貨は、かつてのイギリス支配の名残の呼称『エジプト・ポンド』。

補助通貨は『ピアストル=1/100エジプト・ポンド』。

 両替は現地でのみ行われ、5,000円=700ポンド。内、500円ほどが手数料。

中央が金色のコインが1ポンド硬貨、真鍮色が50ピアストル。

 観光収入のお得意様である”日本円”も観光地では結構使用できます。


 我らが便乗するエジプト航空機。ロゴは”ホルス神(ハヤブサ)”である。

米1ドル紙幣の裏側のピラミッドの上の目も”ホルスの目”と言われている。


 往復路の機内食はまあまあだったが、宗教上アルコール類は一切出ない。​

飲みたい人は、搭乗前に購入しなければならない。

コーヒーを飲む習慣もないので、ドリンクは紅茶や水・ジュース類のみ。

 食事の際、隣席の女性のナイフやフォークを置き忘れたりと、エジプト航空では”久方ぶりの就航(1/週回)”で不慣れなのか、サービス面で慌てる場面も…

 2度目の機内食。


 9月10日(月) カイロ着03:15。


※ エジプトに到着したので、歴史等についてかいつまんで記述すると、


【歴史】

① 古代エジプト…「エジプトはナイルの賜物」と、古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが語るように、豊かなナイル川のデルタに支えられて古代エジプト文明は発展した。

 ナイル川の周辺は、定期的な氾濫による肥沃な土壌に恵まれているが、そこを離れると殆ど雨が降らないサハラ(砂漠)が広がる。北部の河口域はデルタ地帯をなし、”下エジプト”と呼ばれ、これに対してナイル川周辺の南部は”上エジプト”といい、渓谷ばかりが続く。上エジプトに住んでいたのは、狩猟民の人達であった。彼等は氏族を象徴する動物を奉っていたので、後々までエジプトでは動物を神々として崇める習慣が狩猟民の伝統として残る事になる。

 ナイル川は7月から10月までの期間に定期的に氾濫を起こす。 水量がかなり一定していることもあり、灌漑設備が発達し、農耕が定着する事になった。

 エジプト人は紀元前3000年頃には早くも中央集権国家を形成し、ピラミッドや王家の谷、ヒエログリフ(聖刻文字;象形文字)等を通じて高度な文明を発展させた。

 イ) 初期王朝時代(BC.3100~BC.2686)…メソポタミアではシュメール人の都市国家が発達した時代、日本では縄文時代中期~後期にあたる。

 ロ) 古王国時代~第一中間期(BC.2650~BC.2040)…ギザの大ピラミッド建築を指示したクフ王の時代。三大ピラミッドとはクフ王、子のカフラー王、孫のメンカウラー王の王墓である。インダス文明の形成期(BC.2600頃)、メソポタミア文明では黄金期を迎えている(BC.2500頃)。

※ 当初「ピラミッドは奴隷によって造られた。」との見方が有力であったが、最近の調査によると、ピラミッド近くの墓から多量の骨が出土し、それらの比が男女半々程であり子供も少なくなかった。またピラミッド建設の為の”出勤簿”が残っており、欠勤理由が書かれている。疾病が最大理由であったが、外にも”サソリに刺された。”とかひどい場合は”二日酔いのために休んだ。”とかが記録されているようだ。また、最近では神官の契約碑文が出土し、そこにはピラミッドで働く人達にパンとビール(ビールはエジプトが発生地と言われる。)を与える内容が記されていた。

 7月から10月のナイル川流域は洪水に浸されて農閑期になってしまう。仕事の無い農民たちを救済するのは為政者の重大な責務であり、ピラミッド建設は重大な国家プロジェクトであったと、多くの学者たちは考えているようだ。

(日本や外国の公共事業も、そもそもが失業者対策の国家事業だった。)

 ハ) 中王国時代~第二中間期(BC.2040~BC.1567)…メンチュヘテプ2世によってエジプトが再統一され、首都がテーベ(現在のルクソールとその周辺)に決められた。  (メソポタミアでは、古バビロニア王国で『ハムラビ法典』(BC.1700)が出来る。)

 ニ) 新王国時代(BC.1567~BC.1085)…ファラオの全盛期で、ルクソール西岸の『王家の谷』、『ハトシェプスト女王葬祭殿』、『メムノンの巨像』等が造られた。”大王”と呼ばれ、『アブシンベル神殿』を造ったラムセス2世や、ツタンク・アーメンや宗教改革を行ったその父アメンホテプ4世の時代である。

( その初期は日本では縄文時代の晩期にあたり、紀元前16世紀にはギリシアで”ミュケナイ文明”が起こり、紀元前15世紀にはクレタ文明の下降、アーリア人がインド北西部に移住し始め、紀元前13世紀頃アーリア人が北部インドでの勢力を拡大した。また中国では、紀元前11世紀頃、武王が”牧野の戦い”で殷を倒し、周王朝が起こった。 日本では稲作が開始され、北九州において弥生時代が始まった。) 

 ホ) 末期王朝時代(BC.1085~BC.304)…3000年にわたるエジプト諸王朝の支配が、


② 紀元前525年、アケメネス朝ペルシアによって征服支配され終焉した。


③ ヘレニズム(ギリシア、因みに「ヘレン」はギリシア女性の名前)文化

…マケドニア王国(ギリシアの最北部)が全ギリシアを統一。

 紀元前332年、アレキサンダー大王(彼は幼少時、アリストテレスに師事していたという)が即位し、イッソスの戦いで、ペルシア王ダイオレス三世を破り、ペルシア、シリアを征服し、更にインドにも攻め入り、エジプトをも征服した。

 その後、大王の友であり部下でもあったギリシャ系のプトレマイオスにより、プトレマイオス王朝が始まり、ヘレニズム文化の中心のひとつとして栄えた。

(インドでは紀元前5世紀に仏教が創始され、ギリシアでは哲学が発達した。) 


④ ローマ帝国…紀元前30年、プトレマイオス王朝は最後の女王クレオパトラ七世の時に、ローマによって滅ぼされ、エジプトはローマ帝国の属州となった。

 ローマ帝国の統治下ではキリスト教が広がり、コプト教会が生まれた。ローマ帝国の東西分裂後は東ローマ帝国に属し、豊かな穀物生産でその繁栄を支えた。


⑤ イスラム王朝…7世紀にイスラム化。639年にイスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースによって征服され、ウマイヤ朝およびアッバース朝の一部となった。アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト総督から自立したトゥールーン朝・イフシード朝の短い支配を経て、969年に現在のチュニジアで興ったファーティマ朝によって征服された。これ以来、アイユーブ朝、マムルーク朝とエジプトを本拠地としてシリア地方まで版図に組み入れたイスラム王朝が500年以上に渡って続く。とくに250年間続いたマムルーク朝のもとで中央アジアやカフカスなどアラブ世界の外からやってきたマムルーク(奴隷軍人)による支配体制が確立した。


⑥ オスマン帝国…1517年に、マムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州としたオスマン帝国のもとでもマムルーク支配は温存された(エジプト・エヤレト)。


⑦ ムハンマド・アリー朝…1798年、フランスのナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征をきっかけにエジプトは近代国家形成の時代を迎える。フランス軍撤退後、混乱を収拾して権力を掌握したのはオスマン帝国が派遣したアルバニア人部隊の隊長としてエジプトにやってきた軍人、ムハンマド・アリーであった。彼は実力によってエジプト総督に就任すると、マムルークを打倒して総督による中央集権化を打ち立て、経済・軍事の近代化を進めて、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功し、アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立てた。しかし、当時の世界に勢力を広げたヨーロッパ列強はエジプトの独立を認めず、また、ムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。


⑧ イギリスの進出…ムハンマド・アリーは綿花を主体とする農産物専売制をとっていたが、1838年に宗主オスマン帝国がイギリスと自由貿易協定を結んだ。

 1869年にエジプトはフランスとともにスエズ運河を開通させた。この前後(1862-73年)に8回も外債が起債され、額面も次第に巨額となっていた。エジプトはやむなくスエズ運河会社持分を398万ポンドでイギリスに売却したが、1876年4月にデフォルトした。英仏が負債の償還をめぐって争った。

 1882年、アフマド・オラービーが中心となって起きた反英運動(ウラービー革命)がイギリスによって武力鎮圧された。エジプトはイギリスの保護国となる。結果として、政府の教育支出が大幅カットされるなどした。1914年には、第一次世界大戦によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。さらにサアド・ザグルールの逮捕・国外追放によって反英独立運動たる1919年エジプト革命が勃発し、英国より主政の国として独立した。


⑨ 独立・エジプト王国…第一次大戦後の1922年2月28日にエジプト王国が成立し、翌年イギリスはその独立を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。

 エジプト王国は立憲君主制を布いて議会を設置し、緩やかな近代化を目指すが、第二次世界大戦前後からパレスチナ問題の深刻化や、1948年から1949年のパレスチナ戦争(第一次中東戦争)でのイスラエルへの敗北、経済状況の悪化、ムスリム同胞団など政治のイスラム化(イスラム主義)を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。


⑩ エジプト共和国…この状況を受けて1952年、軍内部の秘密組織自由将校団がクーデターを起こし、国王ファールーク1世を亡命に追い込みムハンマド・アリー朝を打倒(エジプト革命)、生後わずか半年のフアード2世を即位させ、自由将校団団長のムハンマド・ナギーブが首相に就任して権力を掌握した。さらに翌年の1953年、国王を廃位し共和政へと移行、ナギーブが首相を兼務したまま初代大統領となり、エジプト共和国が成立した。


⑪ ナーセル政権…ガマール・アブドゥル=ナーセル。第二次中東戦争に勝利し、スエズ運河を国有化した。ナーセルの下でエジプトは汎アラブ主義の中心となった。

 1956年、第2代大統領に就任したガマール・アブドゥル=ナーセルのもとでエジプトは冷戦下での中立外交と汎アラブ主義(アラブ民族主義)を柱とする独自の政策を進め、第三世界・アラブ諸国の雄として台頭する。同年にエジプトはスエズ運河国有化を断行し、これによって勃発した第二次中東戦争(スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。1958年にはシリアと連合してアラブ連合共和国を成立させた。しかし1961年にはシリアが連合から脱退し、国家連合としてのアラブ連合共和国はわずか3年で事実上崩壊した。さらに1967年の第三次中東戦争は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。


⑫ サーダート政権…1970年に急死したナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダートは、社会主義的経済政策の転換、イスラエルとの融和など、ナーセル体制の切り替えを進めた。1971年には、国家連合崩壊後もエジプトの国号として使用されてきた「アラブ連合共和国」の国号を捨ててエジプト・アラブ共和国に改称した。また、サーダートは、経済の開放などに舵を切る上で、左派に対抗させるべくイスラーム主義勢力を一部容認した。しかし、サーダートは、イスラエルとの和平を実現させたことの反発を買い、1981年にイスラム過激派のジハード団によって暗殺された。エジプトはオイルショックによって経済改革を漸進させていた。


⑬ ムバーラク政権…アラブの春で失脚するまで30年以上にわたり長期政権を維持したホスニー・ムバーラク

 イラクのクウェート侵攻はエジプトの国際収支を悪化させた。サーダートに代わって副大統領から大統領に昇格したホスニー・ムバーラクは、対米協調外交を進める一方、開発独裁的な政権を20年以上にわたって維持した。

 海外の機関投資家に有利な条件が整えられていった。イスラム主義運動は厳しく弾圧された。喜捨の精神は失われていった。1997年にはイスラム集団によるルクソール事件が発生している。1999年にイスラム集団は武装闘争放棄を宣言し、近年、観光客を狙った事件は起こっていない。しかし、ムバーラクが大統領就任と同時に発令した非常事態法は、彼が追放されるまで30年以上にわたって継続された。


⑭ エジプト革命…チュニジアのジャスミン革命に端を発した近隣諸国の民主化運動がエジプトにおいても波及、2011年1月、30年以上に渡って独裁体制を敷いてきたムバーラク大統領の辞任を求める大規模なデモが発生した。同2月には大統領支持派によるデモも発生して騒乱となり、国内主要都市において大混乱をまねいた。大統領辞任を求める声は日に日に高まり、2月11日、ムバーラクは大統領を辞任し、全権がエジプト軍最高評議会に委譲された。同年12月7日にはカマール・ガンズーリを暫定首相とする政権が発足した。その後2011年12月から2012年1月にかけて人民議会選挙が、また2012年5月から6月にかけて大統領選挙が実施されムハンマド・ムルシーが当選し、同年6月30日の大統領に就任したが、人民議会は大統領選挙決選投票直前に、選挙法が違憲との理由で裁判所から解散命令を出されており、立法権は軍最高評議会が有することとなった。

※ 我らの現地ガイドの「エマード・エルガブリー」氏(通称:ゴマちゃん)はこの革命に参加し、ギザ出身の彼は革命の混乱期に、自警団で活躍したとの事。


⑮ ムルシー政権…2012年11月以降、新憲法の制定などをめぐって反政府デモや暴動が頻発した(2012年-13年エジプト抗議運動)。ムルシー政権は、政権への不満が大規模な暴動に発展するにつれて、当初の警察改革を進める代わりに既存の組織を温存する方向に転換。ムハンマド・イブラヒームが内相に就任した2013年1月以降、治安部隊による政治家やデモ隊への攻撃が激化。1月末には当局との衝突でデモ参加者など40人以上が死亡したが、治安部隊への調査や処罰は行われていない。なお、イブラヒーム内相は、国民が望むならば辞任する用意がある、と2月に述べている。ムルシー政権は発足後約1年後の2013年7月3日、軍部によるクーデターによって終焉を迎えた。なお、イブラヒームは、クーデター後に成立したベブラーウィー暫定内閣でも続投している。


⑯ アッ=シーシー政権…2014年5月26〜28日に行われた大統領選挙に当選したアブドルファッターフ・アッ=シーシーが6月8日、大統領に就任し、8月5日からは新スエズ運河の建設など大規模なプロジェクトを推し進めた。2015年3月13日には、カイロの東側に向こう5─7年で、450億ドルを投じて新しい行政首都の建設も計画していることを明らかにした。行政と経済の中心となる新首都はカイロと紅海の間に建設され、広さは約700平方キロメートルで、米ニューヨークのマンハッタンのおよそ12倍の面積の予定であり、大統領府などエジプトの行政を担う地区は当初覚書を交わしたアラブ首長国連邦のエマール・プロパティーズや中国の中国建築股份有限公司との破談はあったものの2016年4月に地元企業によって工事を開始し、代わりにエジプト政府がピラミッドに匹敵する一大事業のランドマークと位置づけているアフリカで最も高いビルも建設予定である経済を担う中央業務地区を中国の銀行が8割超融資して中国建築が請け負うこととなり、2018年3月18日に着工式が行われた。


【民族】 

 住民はイスラム教徒とキリスト教徒(コプト教会、東方正教会など)からなるアラブ人がほとんどを占め、その他にベドウィン(遊牧民)やベルベル人、ヌビア人、アルメニア人、トルコ人、ギリシア人などがいる。遺伝的に見れば、エジプト住民のほとんどが古代エジプト人の直系であり、エジプト民族との呼称でも呼ばれるゆえんである。また、エジプト人の大半は、イスラム勢力のエジプト征服と続くイスラム系国家の統治の間に言語学的にアラブ化し、本来のエジプト語を捨てた人々であるとする見解があるが、長いイスラーム統治時代の人的交流と都市としての重要性から、多くのアラブ人が流入、定住していったのも事実である。1258年にアッバース朝が崩壊した際、カリフ周辺を含む多くの人々がエジプト(主にカイロ近郊)へ移住したという史実は、中東地域一帯における交流が盛んであったことを示す一例である。

 なお古代のエジプト文明の印象があまりに大きいためか、特に現代エジプトに対する知識を多く持たない人は、現代のエジプト人を古代エジプト人そのままにイメージしていることが多い。すなわち、スフィンクスやピラミッドを建て、太陽神やさまざまな神を信仰していた古代エジプト人を、現代のエジプト人にもそのまま当てはめていることが多い。しかし、上述のとおり現代エジプト人の9割はイスラム教徒であり、アラビア語を母語とするアラブ人である。それもアラブ世界の中で比較的主導的な立場に立つ、代表的なアラブ人の一つである。


【宗教】

  宗教はイスラム教が90%(ほとんどがスンナ派)であり、憲法では国教に指定されている(が、現在では宗教政党の活動ならびにイスラム主義活動は禁止されている)。その他の宗派では、エジプト土着のキリスト教会であるコプト教会の信徒が9%、その他のキリスト教徒が1%となる


【経済】

 2010年のエジプトのGDPは約2168億ドル(約17兆円)、でありアフリカでは屈指の経済規模でありBRICsの次に経済発展が期待できると言われているNEXT11の一国にも数えられている。しかし、スエズ運河収入と、観光産業収入に依存するところが大きく、政情に左右されやすい。

 かつては綿花の世界的生産地であり、ナイル川のもたらす肥沃な土壌とあいまって農業が重要な役割を果たしていた。しかし、通年灌漑の導入によってナイルの洪水に頼ることが少なくなった上、アスワン・ハイ・ダムの建設によって上流からの土壌がせき止められるようになった、そのためダムによる水位コントロールによって農地が大幅に拡大し、農業生産高が格段に上がったにもかかわらず、肥料の集中投入などが必要になったためにコストが増大し、近年代表的な農業製品である綿製品は価格競争において後塵を拝している。1970年代に農業の機械化及び各種生産業における機械への転換により、労働力の過剰供給が見受けられるようになり、都市部に流出し、治安・衛生の悪化及び社会政策費の増大を招くも、80年代には、石油産業従事者の増大に伴い、農業において労働力不足が顕著となる。この為綿花及び綿製品の価格上昇を招き、国際競争力を失った。2008年、世界的な食料高騰によるデモが発生した。(カイロの街中には労働者のアパートが建ち並び、アパートの建設ラッシュ状態。 人口は都市への一極集中になっているようだ。)


これより小型ジェット機に乗り換えて、カイロ空港からルクソール空港へ出発。

カイロを出発して殆どは荒涼たるサハラ。時折筋のように道路や運河が見えた。

 ルクソールに近くなってやっと緑が見え始め、何やら「ホッ!」とした。

 ビルや人家も砂漠と同じ土色なので、「もっと色彩が欲しい!」と思った。

 「世界一の生産量」というナツメヤシの樹木が目立った。

 約1時間をかけて、08:00頃にルクソール空港へ到着。


 ルクソール空港からバスに乗ってすぐの街中の風景。


 我々が乗ったクルーズ船『プリンセス・サラ号』。

 2階から3階への階段。1階は食堂だが水面下となり、実質が地下一階。

我々の部屋はフロントの後ろの2階だった。 部屋は214号室。

写真は、”カエサル”のレリーフと共に。

ナイル川に浮かぶクルーズ船『プリンセス・サラ号』の接岸する前の道路にて。


 クルーズ船内にて遅めの朝食の後に、ルクソール東岸の『カルナック神殿』への入場観光をした。

※『カルナック神殿』は、古代エジプトの神殿複合体であり、エジプトの首都カイロからナイル川を南におよそ670キロメートルさかのぼった東岸に位置し、新王国時代(紀元前1550-1069年頃)に繁栄した古代の首都テーベ、現在のルクソールとその近辺)に建てられた。その巨大都市テーベの一部であるカルナック複合体の名は、近隣にあって一部を取り囲む、ルクソールの北およそ3キロメートルにある現代の村、エル=カルナックより名付けられている。 

 西岸には歴代の王が眠る王家の谷や貴族の墓、ハトシェプスト女王葬祭殿などがある。歴代の王が寄進して増改築を重ね拡張された巨大な複合体であり、中心はアメン神(アモン、アムン、アメン=ラー、アムン=ラー)に捧げられたアメン大神殿(アメン=ラーの神域)となっている。


 写真は、入場してすぐにある神殿の模型。


※ スフィンクスはギザのカフラー王の真後ろにあるものが最大だが、エジプト神話やギリシア神話、メソポタミア神話などに登場する、ライオンの身体と人間の顔を持った神聖な存在あるいは怪物。古典ギリシア語ではスピンクスといい、スフィンクスとはこの英語読みである。 

① 古代エジプト…雄羊の頭のスフィンクス(カルナック神殿)

エジプトにおけるスフィンクスは、ネメスと呼ばれる頭巾を付けたファラオ(王)の顔とライオンの体を持つ、神聖な存在である。王者の象徴である顎鬚をつけ、敵を打破する力、あるいは王または神を守護するシンボルとされている。古王国時代には既に存在し、神格化したファラオと百獣の王であるライオンを重ね合わせたものと考えられている。

 スフィンクスの種類には複数あり、男性も女性もいる。動物や鳥の頭部を持つものも見受けられる。

 最も有名で大きなスフィンクス像は、古王国時代のギザの大スフィンクスである。中王国以降は、最高神アモンの聖獣である雄羊の頭部を持つスフィンクスが、神殿の守護者として神殿前面に置かれた。

② メソポタミア…メソポタミア神話(バビロニア神話)におけるスフィンクスはエジプトとは異なり、ライオンの身体、人間の女性の顔、鷲の翼を持つ怪物とされた。また死を見守る存在とする考え方もメソポタミアで生まれたとされる。

③ 古代ギリシア…ギリシア神話のスピンクス(ジノ・スフィンクス)

ギリシア神話におけるスピンクスは、ライオンの身体、美しい人間の女性の顔と乳房のある胸、鷲の翼を持つ怪物(一部の絵画では尻尾が蛇になっている姿で表される事も)。テューポーンあるいはオルトロスとキマイラあるいはエキドナとの娘。一説によればテーバイ王ラーイオスの娘であり(アレクサンドリアのリュシマコス)、これによればオイディプースとは兄弟となる。また、ウカレゴンの娘とする説もある。当初は子供をさらう怪物であり、また、戦いにおいての死を見守る存在であった。高い知性を持っており、謎解きやゲームを好む。

 オイディプスの神話によれば、ヘーラーによってピキオン山に座し、テーバイの住人を苦しめていた。旅人を捕らえて「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足。これは何か」という謎を出し、間違った者を食べていた。なお、答えずに引き返すことは可能だった。この謎はムーサに教わったとされている。しかし、オイディプスに「人間は赤ん坊の時はハイハイで四つ足、成長して二足、老年で杖をつくから三足だ」と答えられ、岩の台座から飛び降り、海に身を投げて死んだという(アポロドロス、ヒュギヌスなど)。またはオイディプスに退治されたともいわれる(ソポクレス『オイディプス王』)。


 下の写真は、アメン大神殿の第1塔門と羊頭の”スフィンクス参道”。

※ 一説によれば、日本にある神社の”狛犬”や沖縄の”シーサー”の原型とも…


カルナック神殿は非常に広大で、未整備の部分も多く、現在ではその中でも最大の『アメン大神殿』のみが唯一一般公開されている。

 見事な第2塔門。


下は、トトメス1世とハトシェプスト女王のオベリスク。

※ オベリスクは、古代エジプト(特に新王国時代)期に製作され、神殿などに立てられた記念碑(モニュメント)の一種。近代および現代においては、エジプトに拠らず欧米の主要都市の中央広場などにも建設され、その地域を象徴する記念碑である。その意味でメンヒルに類似する。

オベリスクの名称は後世のギリシャ人がobeliskos(串)と呼んだのが起源で、当時のエジプトでは「テケン(保護・防御)」と呼ばれていた。なお、日本語では方尖柱(ほうせんちゅう)と呼ばれることもある。

多くのオベリスクは、イギリスに持ち去られたり、フランス(コンコルド広場)に不要に贈られたりしてエジプト国外に多く散らばっている。


ハトシェプストのオベリスク先端部。


許可を得て、未開発部分へも足を踏み入れてみました。


 入り口近くに建つ、ラムセス2世と王女の像。


 一旦クルーズ船に戻り、昼食後に再びルクソール東岸の『カルナック神殿』への入場観光をした。

※ ルクソール神殿は、エジプトのルクソール(古代のテーベ)東岸にある古代エジプト時代の神殿複合体である。もともとカルナック神殿の中心を形成するアメン大神殿の付属神殿として、エジプト第18王朝(紀元前1550-1295年頃)ファラオのアメンホテプ3世(紀元前1390-1352年頃[3])によって中心部分が建立された。

 神殿の後方には、アメンホテプ3世およびアレクサンドロス3世(紀元前332-323年)によって構築された祠堂がある。ローマ時代には、神殿およびその周辺は軍の要塞となり、その領域はローマ政府の基地であった。

アメン大神殿とはスフィンクスの参道で結ばれていた。神殿入口となる第1塔門の前には1対のラムセス2世(紀元前1279-1213年頃)の坐像、その手前にはオベリスク(高さ25メートル[7])が1本立っている。オベリスクは本来左右2本あったが、右側の1本(高さ22.55メートル[7])は1819年、フランスに贈られてパリに運ばれ、現在コンコルド広場にある。 


 第1塔門とオベリスク。


 第1塔門を入ってすぐ左側の、かつてのモスク。

…かつては、右上壁のレンガ色の出入り口の下端迄砂に埋もれていた。


 アメンホテプ3世の中庭。


 古代の夫婦像にあやかって!


 我々は、明日の午前中までまでルクソールに停泊する『プリンセス・サラ号』に戻って夕食を済ませて休憩した。

 この夜、船内では『ベリーダンス・ショー』が開催され、翌日ビデオを見ると、”豊満な女性”が所謂”へそダンス”を踊りながら信じられないほどに腰をくねらせ、観客の所に寄ってきてはひざ上に乗ったりと羨ましい限りの姿態を繰り広げていたが、自分たちはトランジットなしの片道12時間余りの長旅と、乾燥はしているが直射日光が40°余りの強烈な太陽に晒されてそれどころでなかった。

(残念ながら、快適だった船室の、折角の撮影はすっかり忘れてしまった。)


 翌日の9月11日(火)はボートに分乗して、ルクソール西岸観光にでかけた。 

岸壁にて、"やさ男"っぽいが、眼光鋭いセキュリティ・ポリスの”ハシム”氏。


 ここで、ルクソールのナイル川西岸観光に出かける前に『エジプトの神話』について少々情報を提供すると、

 エジプト神話(エジプトしんわ)は、キリスト教とイスラム教が広まる以前に古代エジプトの人々によって信仰されてきた神々の体系、宗教を指す。


【概要】…古代エジプト人の信仰は、おおよそ3000年に渡る長い期間続き、またその間に何度も変容を繰り返してきたので、単一の記事(それどころか、ある本をまるごと一冊)では概要以上のものを示すことはできない。

 一般には、ヘリオポリスで信仰されていたヘリオポリス神話をもとにして語られることが多い。他にもメンフィス神話、ヘルモポリス神話、テーベ神話など多様な体系が存在する。これは、当時のエジプト国内における勢力の変遷に伴い、王朝の興亡と共に信仰の在り方が変容して、神話も地域ごとにまとめられたためである。また、エジプト国内に異民族が入り込む際にも新たな神々が流入した。

エジプトがローマ帝国の属州となり、やがてイスラム教が流入すると、主要な信仰は途絶えた。


【信仰】

神…エジプト神話は、特定の開祖が存在しない多神教であり、信仰される神々は、自然現象などを神格化した自然神である。一部、実在した王を神格化した人物神もいると言われるが、断定的な説はない。多くの場合は動物の姿、あるいは動物の頭を持つ人間の姿で表される。

 時代が下るにつれて、古い神は他の神に役割を奪われたり、習合して一つの神になったり、神話から姿を消したりすることがあった。例えば、代表的な太陽神であるラーは、後にアメンと習合した。逆に、複数の神々が同じ役割を担うこともあった。  例えば世界の創造主としては、後述のようにアトゥム、プタハ、クヌム、オグドアドなど様々な神が信仰された。

さらに、エジプトがローマ帝国の属州となったのち、エジプトの神々は、ローマやギリシアの神々と共にローマ帝国内で同一視され、習合された。その後、イスラム教の流入により、ほとんどの神々への信仰は途絶えた。


神殿…エジプトでは各地に神殿が建てられ、神々が崇拝されていた。神々の序列・関係性は地方によって異なり、代表的なヘリオポリスにおいては、ラー=アトゥムが主神として信仰されていた。一方、地方によってはプタハなど、別の神を人類創造の主神として崇める地域もあった。そのため地方ごとに、それぞれ別の神を祀る神殿が建造された。また、各々の神殿はただ単に奉られる神が異なるだけでなく、その建築様式も多様であった。柱だけで天井のない神殿や、畑や庭、池のある神殿などが存在し、立地も山岳部や川岸など様々であった。

 古代エジプトの君主ファラオは「神の子」として君臨したため、国家によっても多くの神殿が建てられた。その代表格といえるのがアブシンベル神殿である。

 国家や地方都市が大規模な神殿を建造する一方で、大衆の間でも様々な形で神々が信仰され、護符や柱、雑貨などの装飾モチーフとしても用いられた。


ファラオ…エジプト神話は、神権政治によってファラオと密接に結びついた。ファラオは、様々な神の名前を自身の名前に組み込むことで、神の庇護を得ようとした。ファラオの信仰する神の神殿は国家事業として建設された。ピラミッド、ルクソール神殿、アブシンベル神殿など、信仰の形態の変化によって神殿の様式も変化した。

 エジプト神話に訪れた最初の転換点として、エジプト全土が統一されたことが挙げられる。この際にヘリオポリス神話がまとめられ、ラー、オシリス、ホルスを中心とした物語が作られた。エジプト全土の君主は、ファラオと呼ばれる「神の子」、「ホルスの化身」と位置付けられた。次に、テーベの勢力がエジプトを統一して第11王朝を起こすと、テーベの地方神アメンがラーと習合し、エジプトの主神となった。アメンが主神に据えられるとエジプト神話の体系も刷新され、神々の役割や序列が大きく変化した。これはプトレマイオス王朝の滅亡まで続いた。  また、一神教であるユダヤ教は神格化した君主であるファラオを受け入れず反発した。このことは、モーセの出エジプトなど様々な歴史上の事件を引き起こす原因となった。


壁画…エジプト美術において特徴的な点は、神々が真横を向いた姿で描かれることである。他にも、エジプト人の様々な信仰が彫刻や壁画に込められた。

またエジプト人は、壁画に描かれた事柄が、そこに描かれている限り永久に現実化しつづけると考えていたとも言われる。このため、不吉な内容を描くことは好まれなかった。


【神話】

…エジプト神話の内容は地域ごとに異なっていたが、主にラーを中心としたヘリオポリス神話と、アメンを中心としたヘルモポリス神話の二つに大別される。両者はファラオと結びついて各地に大規模な神殿を残し、ギリシア人の文献においても紹介された。そのため、神話の内容や登場する神々の知名度が比較的に高い。それでも、地域によってはその他の様々な神話も信じられていた。したがって、エジプト神話を一通りのものとして語ることは不可能であり、以下に述べるのはあくまでその一部である。


創造…ヘリオポリス神話においては、原始の海原からラー(アトゥム)が誕生し、独力で他の神々や世界を形作っていたとされている(創造神話)。ヘルモポリスでは、八位一体の虚無を表す神々(オグドアド)が世界創生の中心的役割を担った。メンフィス周辺では、プタハが天地創造の主導的役割を果たした。彼は言葉と思念により、世界のあらゆるものを作り出したとされる。エレファンティンでは、クヌムが主神として世界を形作った。またクヌムは、粘土から人間を作り出した神としても知られる。

このように天地創造の神話からして、役割を果たした創造神は勿論、創造の様子にも地域差がみられる。


世界観…エジプト神話において、天はヌトという女神であり、大地はゲブという男神であった。両者は夫婦で、最初は隙間なく密着していたが、父シュウ(空気)と母テフヌト(湿気)によって引き離された。その結果、世界は現在の姿になったという。ゲブは、ヌトに少しでも近づくために山々を作り出したとされる。古代エジプト人にとって地は平面であり、ナイル川によって分断された二つの大地と、海によって構成されると考えられていた。地の底には冥界があって、太陽は夜の間にここを通り、再び東から地上に現れるとされた。


生死観…エジプトの人々は、太陽が毎朝繰り返し昇る様子から、死後の再生を信じていた。人間は、名前、肉体、影、バー(魂)、カー(精霊)の5つの要素から成り立っていると信じられた。人が死ぬとバーは肉体から離れて冥界へ行くが、肉体がそのままであれば、カーがバーと肉体との仲立ちとなって、アアルで再生できるとされた。そのため人の死後に肉体が保存されていることが重要視され、ミイラ作りが盛んに行われた。一方で、死後に再生することができない「第二の死」を恐れた。ちなみにバーは人間の頭をした鷹の姿で現される。

 死者の書は、古代エジプト人が信仰したこの「第二の誕生」を得るための指南書であったと言われている。ピラミッドについても墓ではなかったと言われ、死後の世界に旅立つ太陽の船に乗るための場として建造されたものとされる。神殿などに刻まれた名前も、名前こそが死後の再生に必要な要素であると信じられたために、できる限り後世に残すべく、数多く刻まれたものと考えられている。 


ボートからのナイル川西岸の様子。


『メムノンの巨像』観光。

 メムノンの巨像は、エジプト・ルクソールのナイル川西岸にある2体のアメンホテプ3世の像。呼び名はギリシアの伝説、トロイア戦争に登場するエチオピア王メムノーンに由来。高さ約18m。

 元々は、背後に同王アメンホテプ3世の葬祭殿が控えており、その入口の部分であった。葬祭殿は第19王朝ファラオ・メルエンプタハが自身の葬祭殿の石材調達のため破壊した。

 向かって右側の像は紀元前27年の地震によりヒビが入り、夜明けになると、おそらく温度差や朝露の蒸発のせいでうめき声や口笛のような音を発していた。この現象を最初に報告したのは地理学者のストラボンだった。彼は巨像が声を出しはじめてからまもなくして、エジプト総督アウレリウス・ガルスとそれを見物している。ストラボンは著書においては巨像が発している声なのか、近くにいる人間が声を出しているのか解らないと疑問を呈している。また『ギリシャ案内記』を編纂したパウサニアスも声を出すメムノンの巨像について記述している。


※この像を見ていると、まるで映画『プレデター』のモデルにも見える…?



『ハトシェプスト女王葬祭殿』へのカートに乗っての入場観光。


 ハトシェプストは、古代エジプト第18王朝第5代のファラオ(在位:紀元前1479年頃 - 紀元前1458年頃)。 

父はトトメス1世、母はイアフメス。夫はトトメス2世、娘はネフェルウラー。

夫であるトトメス2世は妾腹の息子トトメス3世を次の王にせよと遺言したが、トトメス3世は幼かったため、以後22年間にわたり共治王を務めた。実際には在位中、彼女が絶対的権力を保有していた。公的な場では男装し、あごに付け髭をつけていたと伝えられる。

治世は穏健で、戦争を好まずに平和外交によってエジプトを繁栄させた。

 なお『旧約聖書』「出エジプト記」で、モーセをナイル川で拾って育てた義母は彼女と言われている。


 ハトシェプスト女王葬祭殿は、エジプト・ルクソール西岸にある古代エジプト唯一人の女性ファラオ、ハトシェプストが造営した葬祭殿。ハトシェプストの側近で建築家センムトが設計を行った。後にトトメス3世によって壁画や銘文が削られるなど一部破壊を受けた。手前にはメンチュヘテプ2世の王墓があり、あわせて、デル・エル・バハリ(アラビア語で「北の修道院」の意味)。後にコプト正教会の教会として使われていたため)とも呼ばれている。1997年11月、ルクソール事件の現場となり外国人58人を含む62人が亡くなる事件が発生し、その中には多くの日本人新婚旅行者も含まれた。

  

※ ルクソール事件とは、エジプトの著名な観光地であるルクソールにおいて、1997年にイスラム原理主義過激派の「イスラム集団」が外国人観光客に対し行った無差別殺傷テロ事件。別名、エジプト外国人観光客襲撃事件。

 この事件により日本人10名を含む外国人観光客61名とエジプト人警察官2名の合わせて63名が死亡、85名が負傷した。なお犯人と思われる現場から逃亡した6名は射殺された。 


※ 我々が立つ、この”第2テラス”で、惨劇が起こったと言われる。

2階の部屋に、未だ色彩が鮮やかに残る壁画。


 付け髭を蓄えた、ハトシェプスト女王像

3階室内への入口。

3階の室内…有料の観光モデルさん。


※ 前述のように、元来エジプトは多神教であったが、エジプト諸王朝の時代の壁画やレリーフに多く残されている代表的な神々について概略の説明すると、


① ラー神…太陽神。頭上に聖蛇のついた日輪をのせて描かれる。昼は天空を、夜は地下の世界を船に乗って航行しているとされた。

② アメン神…テーベ(現在のルクソール)の守護神であったが、首都となってからは太陽神ラーと結合してアメン・ラーとなり、国家の最高神になった。

③ オシリス神…豊作の神で冥界の支配者。ホルス神の父。弟セト神により殺され、遺体はバラバラのされて捨てられたが、後に妻のイシス神により復活する。

④ イシス神…オシリス神の妹にして妻。ホルス神の母。死者の内臓を守る4人の女神の一人。頭上に玉座か牛の角を持った姿で表される事が多い。

⑤ ホルス神…太陽と月を両眼に持つ天空の神。オシリス神とイシス神の子。

オシリス神同様、上下エジプトの2つの王冠をかぶり、統一支配者であることを示している。ハヤブサの姿で表され、王はこの神の化身と言われた。

 後にセト神を殺し、父の仇を討つ。

⑥ ハトホル神…ホルス神の妻で愛の女神。テーベ西岸の守護神。雌牛の角と耳、さらに日輪を頭に付けた女性の姿で描かれる。

⑦ セト神…動物の頭を持つ、砂漠と異国の神。兄のオシリス神を殺し王座を奪う。後にホルス神によって討たれるが、常にホルス神と敵対する姿で描かれる。

⑧ ネフティス神…死者の守護神。セト神の妹にして妻。頭にヒエログリフを載せる姿で描かれている。

⑨ トト神…朱鷺、又はヒヒの頭をした学問と知恵の神。文字の発明者。


⑩ アヌビス神…犬(又はジャッカル)の姿を持つ死後の世界の神。ミイラ作りの最終段階『開口の儀式』を行う。

(古代エジプト人は「死」は現世の続きと考え、死後に再生復活するための手段は『死者の書』に見ることができる。死者の魂は死の神アヌビスに先導され、冥界で裁判官オシリスと42の神々による裁判にかけられる。死者は質問に答え、無罪を宣言すると大きな天秤の前に連れていかれ、真実を表す『マアトの羽根』と死者の心臓を天秤にかけられ、学問と知恵の神トトが記録をする。釣り合えば死者は永遠の命を天秤に手に入れ、釣り合わなければ(心臓が重ければ)怪物のアメミトに心臓を食べられ消滅してしまう。 また、肉体を現世にとどめておく必要があり、永遠の命を与えられると魂はあの世とこの世を行き来すると考え、その時戻ってきた魂の行き場である身体が残っていなければ、死者の命は本当の意味で死んでしまうとされた。ミイラ作りや内臓の保存は永遠の命を得るための重要な作業であった。)


⑪ ベス神…あらゆる悪から人を守る神。出産を司り新生児を守る。

⑫ ハピ神…パピルスと睡蓮を頭にのせたナイル川の神。豊穣の象徴。

⑬ ミン神…最古の神の一つで、勃起した男性器を持つ。豊穣の神。

⑭ ヌト・シュー・ゲブ…エジプト版の『アダムとイブ』なのだろうか…?

天空の女神ヌトと大地の神ゲブが大気の神シューによって分離された姿。

ヌトとゲブは夫婦。

上記の様な神々を知れば、絵画やレリーフは理解し易いのではないだろうか?


※ 次は、いよいよ『王家の谷』観光だ。

 王家の谷(おうけのたに)は、エジプト、テーベ(現ルクソール)のナイル川西岸にある岩山の谷にある岩窟墓群。古代エジプトの新王国時代の王たちの墓が集中していることからこの名があり、24の王墓を含む64の墓が発見されている。西の谷と東の谷があり、東の谷に60、西の谷に4の墓がある。

 新王国時代以前の王の墓の多くが盗掘にあっていたことから、トトメス1世によってはじめて自分の墓のありかを隠す目的でこの谷に初めて岩窟墓が建設された。その後の長い歴史の中で王家の谷にある墓の多くも盗掘を受けたが、1922年に発掘されたツタンカーメン(トゥトアンクアメン)王の墓は唯一未盗掘で、副葬品の財宝が完全な形で発見された。 墓にはKV1~KV64という名前がつけられている。KVはKings Valleyの頭字語、数値は発見順の連番である。ただし西の谷の墓はWVで始まり、WV22~WV25となっている。

2014年、ミイラ約50体が埋葬された共同墓地が新たに発見された。


いざ、王家の谷へ!


この日たまたま居合わせた、著名な歴史学者の”ザヒ・ハワス博士”との写真。


ラムセス三世の王墓の回廊

色鮮やかな絵画とヒエログリフ。



無料(?)のモデルさんが寄ってきた…

右側が上エジプトの王冠、左側が下エジプトの王冠。

太陽神であるラー神のレリーフ


ラムセス4世の王墓へ

色鮮やかな壁画の数々。


王墓の絵画は、紫外線に暴露されていない為、色彩が鮮やかだった。



ツタンカーメン王墓へいざ!

王墓への回廊。

新しく発見されただけあって、色彩が鮮やかに残っていた。

楕円形の中に王の名が描かれた”カルトゥーシュ”

王墓の中は、数多くのヒエログリフと色鮮やかな絵画で満たされていた。


午前中の観光後、一旦船に戻っての昼食後のクルーズ船はエドフへ向けて出港。

いかに『旅は体力勝負』とは言え過食が過ぎ、自分はこの日と翌日の夕食は無。


 午後からは、ナイル川を眺めながらの船の4階のサンデッキでのアフタヌーンティーなどを楽しみながら、殆どを船室で過ごした。

 夕方近くになって、「やけに部屋の船窓の外が騒がしい!」と思い、カーテンを開けてみると、ナイル川名物の”物売り達の手漕ぎボート”だった。

どうやって括りつけたものか、クルーズ船に自分のボートを綱で繋いでボートに載せたビニール袋に包んだ土産物の綿布やガラベイヤ等を器用にもサンデッキに放り込んで、観光客たちに「買え!」と言っているようだった。

 彼らは値段交渉が上手くいかず、サンデッキからボートに投げ返された品物をうまくキャッチしていたとの事だった。

 我々の船室の船窓は2階とは言え喫水線上である。まずいことに、全く買う気の無い我々とボートの彼らと目線が合ってしまい妻は慌ててカーテンを閉めた。

 彼らは夕闇が迫ると、そのままボートに寝ころんでいたが、エスナ水門につく頃にはいなくなっていた。


 この夜は、「夏の自宅で着るのに丁度よい!」と、以前から買う気満々だった妻がフロントの上の3階の店でガラベイヤを2着購入した。

 1着15$ほどだったが、5$/枚という黒いレースを1枚おまけしてもらった。



 自分は、この日の夕食は食べなかったので部屋での休息の後に、3階のホールで開かれた”カクテル・パーティー”に顔を出した。

 旅仲間たちとカクテルを2杯ほど飲みながら小一時間程もいたが、皆さん酒やジュース類を飲んでばかりで踊る人もいなかったので、軽いステップを踏みながらホールを後にした。

 エスナ水門の様子も見てみたいと思っていたが、夜中で見れず終いだった。


9月12日(水)の午前中は、船での朝食後に目の前の岸壁から馬車に乗り、エドフのハヤブサの神を祀った『ホルス神殿』観光に出かけた。


クルーズ船のサンデッキからのエドフの街の風景。



馬車からのエドフの街並み。




我らが乗った馬車にて。



 エドフ(ホルス)神殿は、最高神ホルス=アポロよりアポロノポリス・マグナ  としてギリシア・ローマの時代に知られたエドフの町の、ナイル川西岸に位置する古代エジプトの神殿 。エジプトで最も保存状態のよい神殿の1つである。

ハヤブサ神ホルスに捧げられたこの神殿は、エドフのホルス神殿として知られ、プトレマイオス朝時代(紀元前332-32年[6])の紀元前237年から57年にかけて建造された。その壁にある碑文は、古代エジプトのギリシア・ローマ時代における言語、神話、宗教について重要な情報を提供する。特に神殿に刻まれた建物の記載は「神殿の建設の詳細な記述を提供すると同時に、さらに創造の島のような本神殿ならびに他の神殿すべての神話的な解釈に関する情報を保持している」。さらに「ホルスとセトとの長年の対立に関連する神聖な物語の重要な場面と碑文」がある。それらはドイツのエドフ・プロジェクトにより翻訳されている。 


いよいよ『ホルス神殿』へ入る。 …エドフ神殿の入場口となる塔門 

神殿の中心にある至聖所の内部

エドフ神殿の壁面のレリーフ


右の上エジプトの女神ウアジェトと左の下エジプトの女神ネグベトからエジプト統一王の象徴であるダブル王冠を授かるファラオのレリーフ。

 解説するは、我らが現地ガイドのエマード・エルガブリー(愛称ゴマちゃん)


 神話によると、ホルスとセトは80年間戦い続け、セトはホルスの左目を奪うが、女神ネイトの強力な支援によってホルスはセトに勝利する。

※  ウアジェト(ウジャト)の目…ウアジェト(ウジャト)は、コブラの姿、あるいは、頭上にコブラをつけた女性の姿で描かれる、下エジプトの守護女神。

「ウアジェトの目」は、周期的に満ち欠けする月の象徴であることから、欠けた月が再び満ちるように、「失ったものを回復させる」「完全なるもの、修復されたもの」という意味がある。

 エジプト神話では、ホルス神の左目である「ウアジェトの目」は、ホルス神が父オシリス神の仇であるセト神を討つ時に失われたが、(この左目はホルス神の下を離れ、エジプト全土を旅して知見を得た後、)知恵の神にして月の神・時の神であるトート神(朱鷺)によって癒され(ホルス神の下に戻り)、回復した。そのため、「ウアジェトの目」は「全てを見通す知恵」や「癒し・修復・再生」の象徴(シンボル)とされた。またホルス神が癒された目を父オシリス神に捧げたというエピソードから、供物の象徴(シンボル)ともされた。また、守護神としてのウアジェトの性質から、守護や魔除けの護符として用いられた。  

 ミイラ(死者)に添えられることもある。ツタンカーメンの「ウジャトの目の胸飾り」が有名である。

 セトが象徴しているのは、動物の顔を持つという事から遊牧民(下エジプト)の王であり、ホルスは農耕民族(上エジプト)を象徴している。という説があり、エジプトの王朝が確立する前には上下エジプトで大きな戦争があったという説が有力の様である。


 下のレリーフは、船の上のホルスから槍を突き立てられる小動物姿のセト。

 下は、エジプトでは最強の動物の”カバ”に変身して最後の抵抗を試みるセト。


中庭、第1列柱室入口のホルス像


 観光後は船に戻り、昼食をとると共にコムオンボへ向けて出航した。

ゴマちゃんから、「15:30に、サンデッキに全員集合!」の掛け声があり、何かと思いきや、冷しそうめん差し入れのサプライズあり。何事かと思い寄ってきた外人さんたちもチャッカリ馳走にあずかっていた。



コムオンボに到着後、16:00頃よりハヤブサの神ホルスとワニの神ソベクを祀った『コムオンボ神殿』への入場観光を行った。


 コム・オンボ神殿は、プトレマイオス朝の時代(紀元前332-32年)にエジプトのコム・オンボの町に建設された、珍しい二重神殿で、神殿はのちのローマ(支配)時代(紀元前30-紀元後395年)にいくらか増築されている。

 建物の「二重」構造は、2神のために重複した中庭、広間、祭壇や部屋があったことを意味する類のないもの。神殿の正面より向かって右側半分は、ハトホルやコンスとともに豊穣と世界の創造の神であるワニの神セベクに捧げられた。 一方、神殿の左側の部分は、大ホルス (Horus the Elder) の別名で知られるハヤブサの神ハロエリスに捧げられている。神殿は変則的で、すべてが主軸を中心に完全な左右対称である。


かつては、建物の2/3程までが砂で埋もれていたため保存状態が良い。

見事なレリーフとヒエログリフ。


太陽に暴露されていない天井裏の色彩が残っている。

下は、分娩の様子が描かれたレリーフ。

ホルス神のレリーフが素晴らしかった。

ここでも、”ラー神”の見守る中での上下エジプトの王冠授与のレリーフが…

上下エジプトの王冠授与のレリーフと共に王名の刻まれた”カルトゥーシュ”

見事なレリーフとヒエログリフ。

神殿内の壁に刻まれた見事なヒエログリフ。


※ 神殿は保存状態が良く、とりわけヒエログリフが素晴らしかった。 

ヒエログリフ(象形文字、神聖文字)は、ヒエラティック、デモティックと並んで古代エジプトで使われた3種のエジプト文字のうちの1つ。エジプトの遺跡に多く記されており、紀元4世紀頃までは読み手がいたと考えられているが、その後読み方は忘れ去られてしまった。19世紀になって、フランスのシャンポリオンのロゼッタ・ストーン解読以降読めるようになった。ロゼッタストーンによるとくずし字もあるとされている。

 一般には古代エジプトの象形文字あるいはその書体を指すが、広義にはアナトリア・ヒエログリフ(ヒエログリフ・ルウィ語の象形文字)、クレタ・ヒエログリフ、マヤ・ヒエログリフ(マヤ語の象形文字)、ミクマク・ヒエログリフ(ミクマク語の象形文字)など、他の象形文字に対しても用いられることがある。

 左右どちらからも読める文字で、描かれた人や動物などが右を向いているのであれば右から読むのであり、左であれば左から読むのである。

 また、ヒエログリフはギリシアやローマに持ち込まれ、多くのアルファベットの基礎ともなった。


 その帰りの道すがらの土産物店。


 観光後は船に戻り、船はアスワンに向けて出航。

自分は、健康を考えて夕食は殆ど食べなかった。

 この日、21:00から3階ホールでガラベイヤ・パーティが催されたが、あくまでも自分が着るためにガラベイヤを買った妻と自分はパーティに参加しなかった。


9月13日(木)の早朝は、『イシス神殿』のオプショナルツアーに参加した。

フィラエ(イシス)神殿は、エジプト南部、アスワン近郊にあるヌビア遺跡。

 中心となるのがイシス女神を祀るイシス神殿である。 現存する神殿は有名なクレオパトラ7世の父プトレマイオス12世によって建設され、その後ローマ時代にわたって増築が行われてきたものである。

 4世紀末にローマ皇帝テオドシウス1世が、帝国内の全ての古代神殿を閉鎖しようとしたとき、フィラエ神殿は抵抗を続け、453年に条約が締結され、周辺地域の宗教的自由が保証され、条約は約100年間守られた。

 550年に東ローマ帝国のユスティニアヌス1世によりフィラエ神殿は閉鎖された。閉鎖後は、4つのキリスト教会として再利用された。

 アスワン・ダムの建設により、半水没状態であったが上流のアスワン・ハイ・ダムの建設を機にユネスコにより1980年、フィラエ島からアギルキア島に移築、保存されることとなった。現在はアギルキア島をフィラエ島と呼んでいる。

 ナイル川に浮かぶこの神殿はその美しさから”ナイルの真珠”と呼ばれてきた。


『イシス神殿』へ渡る船着き場にて。

ナイル川からのフィラエ島の『イシス神殿』。

『イシス神殿』の巨大な第一塔門。 左のレリーフは敵を倒すプトレマイオス12世。右はハヤブサの神ホルス神とイシス神。

第一塔門を抜けて右側には、蓮を形どった列柱が並んでいた。

 蓮の上にはにホルス神の妻であるハトホル神の顔のレリーフがあり、エジプトの絵画やレリーフには珍しく正面から刻まれていた。

中の一部には、キリスト教会の祭壇に使用された痕跡が残されていた。

かつてのキリスト教の支配者によって焼かれたり破壊された痕跡が残っている。


ローマのトラヌス帝の建てたキオスク(東屋・休憩所)には何故か、”ベス神”のレリーフが多かった。





キオスク側からの『イシス神殿』。

ナイル川沿いに建つ美しいキオスク。


 二人目のセキュリティーポリス。(右の男の腹がちょっと出すぎ…!)

本来、検問所の軍隊の装甲車やセキュリティーポリスの武器類は撮影は禁止…


切り出し途中で日々が入り、放置された『未完のオベリスク』観光。

「未完成のオベリスク」は、エジプトアスワンにある古代エジプト時代の北採石場に残された加工途中の巨大なオベリスク。「切りかけのオベリスク」とも呼ばれる。おそらくカルナック神殿のオベリスクを補うため、第18王朝5代目のファラオ「ハトシェプスト女王(紀元前 1508~1458年)」の命により作業が始められた。通常のオベリスクよりも10メートル近く大きなもので、完成すれば長さはおよそ 42メートル、重さ 1,200トンであったと推測される。

 オベリスクの石工は、基盤から直接抜き出すように刻み始めたが、花崗岩の中にひびが現れたため途中で放棄された。オベリスクの底面は依然として基盤に付いたままになっている。まだ石に鮮明に残る工具の跡と労働者がどこで作業をしていたかを示す黄土色の線によって古代エジプトの珍しい石工技術を観察することができる。 



『アスワンハイダム』の下車観光。

アスワン・ハイ・ダムは、エジプトの南部、アスワン地区のナイル川に作られたダム。アスワンダムは2つあるが、現在ではアスワンダムと言うとアスワン・ハイ・ダムを指すことが多い。

古いアスワンダムは、アスワン・ロウ・ダムとも呼ばれる。1901年に完成し、以降数度にわたって拡張された。アスワン・ハイ・ダムは、アスワン・ロウ・ダムの6.4km上流に建設され、1970年に完成した。  

設目的は、ナイル川の氾濫防止と灌漑用水の確保であるが、ロウ・ダムだけでは力不足であったために、当時のエジプトのナセル大統領がソビエト社会主義共和国連邦の支援を受けてアスワン・ハイ・ダムを国家的事業として計画を立てた。高さ111m、全長3,600mの巨大ロックフィルダムである。

 今では、周辺の遺跡とともに、観光地となっている。 


ダムの上流側。

ダムの下流側。

ロックフィルダムの概要図。

『アスワンハイダム』によってせき止められた”ナセル湖”

かつての、ソビエト社会主義共和国連邦との友好を示すモニュメント。


 この後、我々はバスに乗り込み、カルトゥーシュの土産物店に立ち寄った後に、3時間をかけてアスワンを去りアブシンベルへ向かった。

※ カルトゥーシュは、古代エジプトで使われていたヒエログリフの文字(記号)の1つで、ファラオの名前を囲む曲線。古代エジプトではシェヌと呼ばれる文字であり、シェンを細長く伸ばしたものである。現在でも壁画などに描かれたファラオの名にカルトゥーシュを確認することができる。

カルトゥーシュはもともとロープの象形文字であり"取り囲む"を意味していた。 周りを取り囲み保護することからファラオの名前を囲み、保護している。棒状の部分が結び目をあらわしており名前は結び目の反対側から読み始める。 


 途中、昼食をはさんで14:30頃にこの日の宿泊所”セティ・アブシンベル”にチェックイン、夕食後に『アブシンベル神殿』の”音と光のショー”へ出かけた。


この日の夕食。パンとそれにつけるゴマペーストの皿

コメの形のマカロニスープ

炒飯の様なご飯と牛肉の煮込み…ご飯にかけて混ぜて食べると旨かった。


 夕食後はバスに乗り込み、”アブシンベルの光と音のショー”を鑑賞した。

アブ・シンベル神殿は、エジプト南部、スーダンとの国境近くにある遺跡。  

 オリジナルは、砂岩でできた岩山を掘り進める形で作られた岩窟神殿。大神殿と小神殿からなる。建造主は新王国時代第19王朝の王、ラムセス2世。大神殿は太陽神ラーを、小神殿はハトホル女神を祭神としている(小神殿は最愛の王妃ネフェルタリのために建造されたものでもある)。

 建設後、長い年月の内に砂に埋もれていたが、1813年にスイスの東洋学者ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトによって小壁の一部が発見され、1817年にブルクハルトの知人であったイタリア人探検家ジョヴァンニ・バッティスタ・ベルツォーニによって出入り口が発掘された。

 1960年代、ナイル川にアスワン・ハイ・ダムの建設計画により、水没の危機にあったが、ユネスコによって、国際的な救済活動が行われた。1964年から1968年の間に、正確に分割されて、約60m上方、ナイル川から210m離れた丘へ、コンクリート製のドームを基盤とする形で移築された。現在ではアスワン・ハイ・ダムの建設によってできた人造湖のナセル湖のほとりにたたずんでいる。この大規模な移設工事がきっかけとなり、遺跡や自然を保護する世界遺産が創設された。アブ・シンベル神殿は世界遺産の象徴的な遺跡で、文化遺産として登録されている。

 この神殿では、年に2回神殿の奥まで日の光が届き、神殿の奥の4体の像のうち、冥界神であるプタハを除いた3体を明るく照らすようになっており、観光客の目玉となっている。本来はラムセス2世の生まれた日(2月22日)と、王に即位した日(10月22日)[要出典]にこの現象が起こるものであった。また、神殿の移設により、移設によって日にちがずれてしまった。

※ ”光と音のショー”は、約一時間ほどの、アブシンベル神殿の由来を伝えるショーで、音響効果を伴った神殿来歴やの説明を行うもので、その日一番の観光客の国の言語で説明をする。 最近はスペインでの説明が多かったとの事だったが、この夜は”日本語”での説明となった。


向かって左側の『大神殿』

向かって右側の『小神殿』


翌9月14日(金)の朝食後は、改めて、『アブシンベル神殿』観光をした。

※ 下は『アブシンベル大神殿』への入り口 

大神殿の四体の像はラムセス2世で、その前に並んでいるのは家族の像である。奥にはプタハ神、アメン・ラー神、ラー・ホルアクティ神、そしてラムセス2世の像がある。像の脚にはヌビア遠征に赴いたギリシャ人傭兵による古代ギリシャ語の落書きが彫られている。

 ラムセス2世像のうち向かって左から2体目は神殿完成の数年後に起きた地震によって崩れ、頭部の一部が2体目の前に転がっている。

壁には神聖化された聖なる船の前で儀式を行う場面が描かれている。浮き彫りに王の業績、北の壁にはカディシュの戦い、南の壁にはシリア・リビア・ヌビアとの戦いが描かれている。

綱によって首が数珠つなぎに繋がれた”ヌビア人”の捕虜のレリーフ。

綱によって首が数珠つなぎに繋がれた”シリア人”の捕虜のレリーフ。


 下は、『アブシンベル小神殿』の入り口。

『アブシンベル小神殿』は、ハトホル神と王妃ネフェルタリに捧げられた神殿。

立像が6体あり、そのうちの4体は王、2体はネフェルタリである。脇には王子と王女を配置している。 

※ ラムセス二世は百人ほどの多妻で子沢山だったという事だが、ネフェルタリだけは別格であったとの事でその愛は終生変わることがなかったとの事だった。

 また、エジプトで美人と言えば必ず「ネフェルタリ」がその代名詞のようだ。


美しい絵ハガキを購入するつもりで、中の撮影はしなかったが、大神殿・小神殿共に中のレリーフや絵画は素晴らしいものだった。

下の写真は、左が『大神殿』、右が『小神殿』。


『大神殿』の目前の、下の写真の左側のナセル湖畔下が元の場所。


コテージ風の、この日の宿泊ホテル『セティ・アブシンベル』にて。

ホテル『セティ・アブシンベル』の我々の部屋の眼前のナセル湖。


 ホテルでの朝食後、再びバスに便乗して3時間をかけてアスワン空港へ向かう途中、渡河しての昼食を取った。

 下は、渡河する我々のボートに、手漕ぎボートで寄ってきて日本の童謡を歌う現地の少年たち。ゴマちゃんは「金銭は渡さないでください。」と言いった。

途中のナイル川の右岸には、アガサ・クリスティーが『ナイル殺人事件』を執筆したという彼女が宿泊したというホテルが見えた。

川中のレストランに到着。


モロヘイヤスープやカバーブ等。マンゴージュースは何処でもうまかった。

”コフタカバーブ”というマトンやチキン等の炭焼き肉料理。


アスワン空港からカイロ空港へ向かう飛行機からのカイロ市街の様子。


 カイロからギザへの高速道路沿いは、建設ラッシュのアパートだらけだった。

外観や造りはコンクリートの外郭にレンガの壁が基本で日本人はどう感じるか…


下は、この日宿泊の『シュタイゲンベルガー・カイロ・ピラミッヅ・ホテル』。

 ツアーの申し込み順なのか…?いつも呼ばれる名前が一番最初の我々は一番ピラミッドが良く見える3階の良い部屋だった。

 ホテルの夕食もとても美味かった。

クルーズ船にもホテルにもプールは備え付けで、自分は海水ぎを持ってきたが、結局泳がなかった…


 翌9月15日(土)、エジプト観光最後の日。

ホテルでの朝食後は、先ずは『ギザの三大ピラミッド』観光へ向かった。

 クフによってこの地にピラミッドが建設されるまで、ギザの地は王墓の地となっていなかった。主に王墓が建設されていたのはギザの南にあるサッカラであり、世界最古のピラミッドとされるジェゼル王のピラミッドもこの地に建設されている。

 このピラミッドの建設は後世に多大な影響を及ぼし、それまでのマスタバ墓に代わって以後はピラミッドが王墓の中心的な様式となった。ジェゼル王のピラミッドはマスタバ墓を6段積み重ねたような、いわゆる階段ピラミッドであったが、その後ピラミッドの建設技術は進化していった。クフの前の王であるスネフェルはダハシュールに屈折ピラミッドを建設した。これはそれまでの階段ピラミッドから一段階進み、直線の稜線を持っていたものの、下部を急角度で建設したために上部で傾斜角を緩やかにせざるを得ず、上部と下部で傾斜が異なって屈折したように見えるピラミッドとなった。スネフェルはさらにその後、同じくダハシュールに赤いピラミッドを建設した。これは美しい二等辺三角形の形をした、世界最初の真正ピラミッドであり、ここでクフ王のピラミッドの建設を可能とした技術のかなりが出そろうこととなった。


下は、”クフ王”のピラミッド前にて。 

下は、これから内部へ入場する”クフ王のピラミッド”の入り口前。

入り口で取り上げられ、スマフォカメラのみの撮影が許された王墓への急階段。

翌日は、太ももが笑って痛くて大変だった。

行き止まりの部屋にある、”クフ王の石棺”


改めて撮影した”三大ピラミッド”左から『クフ王』、その子『カフラー王』、孫『メンカウラー王』の三大ピラミッド。

”カフラー王”のピラミッドを摘まんでみました…?


『カフラー王』のピラミッドの眼前にたたずむ”大スフィンクス”。


スフィンクス側からのピラミッド。右は”クフ王”。左は”カフラー王”。


パピルスの土産物店立寄り後の、美味しかったシーフードレストランでの昼食。



 昼食後はカイロに戻り『エジプト考古学博物館』への入場観光。

エジプト考古学博物館(エジプトこうこがくはくぶつかん)は、エジプトの首都カイロにある国立の考古学博物館。通称カイロ博物館。年中無休。収蔵点数は20万点にものぼると言われる。

 館内には、ツタンカーメン王の王墓から発掘された黄金のマスク、黄金の玉座をはじめ、カフラー王座像、ラムセス2世のミイラなど、古代エジプトの至宝が展示されている。

 下は”エジプト考古学博物館”への入り口。


 下の写真は、ロゼッタストーンの写真。

ロゼッタ・ストーンは、エジプトのロゼッタで1799年に発見された石版。

紀元前196年にプトレマイオス5世によってメンフィスで出された勅令が刻まれた石碑の一部である。縦114.4cm、横72.3cm、厚さ27.9cm、重量760kg。古代エジプト期の暗色の花崗閃緑岩でできた石柱である。なお、当初は花崗岩または玄武岩と考えられていた。

 碑文は古代エジプト語の神聖文字(ヒエログリフ)と民衆文字(デモティック)、ギリシア文字の三種類の文字で記述されている。細かい違いはあるが、本質的には同一の文章が全部で三つの書記法で著されていると早くに推測され、1822年、ジャン=フランソワ・シャンポリオンもしくは物理学者のトマス・ヤングによって解読された。これによってロゼッタ・ストーンはエジプトのヒエログリフを理解する鍵となり、他のエジプト語の文書も続々と翻訳が可能になった。 

 もともとこの石柱は神殿に収められていたが、おそらくはローマ時代あるいは中世の時代に運び出され、ナイル川のデルタ地帯にあるロゼッタ近郊のジュリアン要塞(英語版)を建造するための建築資材として少しずつ使われていった。

そして1799年7月15日、ナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征を行った際、エジプト遠征中のフランス軍兵士ピエール=フランソワ・ブシャール大尉によって、エジプトの港湾都市ロゼッタで再発見された。

 この石柱に古代の二つの言語が刻まれていることがわかると、広く大衆の関心の的になり、いまだ翻訳されざる古代エジプトの言葉を解読する可能性に期待が高まった。そして石版による模写、および金属版に象り直されたものがヨーロッパ中の博物館や学者たちの間を飛び回った。1801年、イギリス軍がエジプトに上陸してフランス軍を降伏させ、それ以降本物のロゼッタ・ストーンは同年のアレクサンドリア協定(英語版)のもとイギリスの所有物となった。ロンドンへと持ち込まれた石柱は翌年から大英博物館で一般に公開され、現在でも最も人を集める展示品となっている。 

 貴重な展示物の数々。

 色鮮やかな絵画やレリーフの数々。


 書記象。

 昔、実際に使われた輿。

 スフィンクス像横で。

船模型の墓への納品物か?

内臓保管箱を収めた厨子。

内臓を守る四人の女神たち。

「ツタンカーメン王墓」に収められていた厨子の一部。

妻の守り神”ジャッカル”…?


裏側から『ミイラ館』に迷込んでしまい、ミイラとの撮影。


子供のミイラと共に。


※ この奥の撮影禁止の部屋に『ツタンカーメン王』の黄金のマスクなどの貴重な品々がずらりと展示されている。

 ツタンカーメン(トゥトアンクアムンとも。紀元前14世紀、紀元前1342年頃 - 紀元前1324年頃)は、古代エジプト第18王朝のファラオ(在位:紀元前1333年頃 - 紀元前1324年頃)。より厳密な表記ではトゥト・アンク・アメン。 

父アクエンアテン(アメンホテプ4世)の生存中に、唯一神アテン信仰が説かれていたために、トゥトアンクアテン(「アテンの生ける似姿」の意)と名乗っていた。アクエンアテンの死後、即位すると伝統的な神であるアムン=ラー(アメン=ラー)の信仰を復活させ、トゥトアンクアムン(「アムン神の生ける似姿」の意)と改名した。また、首都をアマルナからメンフィス、テーベに戻した。在位中、王妃アンケセナーメンとの夫婦仲は良かったといわれている。その後若くして死に、王家の谷に葬られた。ツタンカーメンの死後、王位は王家の血を引かない大臣や将軍たちによって引き継がれてゆくことになる。

 ツタンカーメンはアクエンアテンの政策を大幅に覆したが、即位した時点でまだ年端のゆかない少年であったことがわかっており、アメン信仰復活やその死について様々な推測が語られ、歴史のミステリーとされている。

 生まれつき爪先が変形しており、左足の人差し指の一部がなく左足の骨の一部も壊死していて、足が不自由だった。 ギーザに狩猟用の別荘を建てた。 

折りたたみ式の日傘。

ツタンカーメンの遺留品。

ツタンカーメンが、魚を突く姿像。

ツタンカーメンの玉座。

ツタンカーメンのベッド。

ツタンカーメンの枕。


※ ツタンカーメンの父が宗教改革を行い、その反発で神官たちに殺され、その後のファラオに祀り上げられたツタンカーメンは、父への反動もあってか、異様に大事にされたとしか思えないふしが見受けられるのは私だけだろうか…?


エジプト最後の夕食とあってか、『エジプト考古学博物館』への入場観光後のスーパーマーケットでの買い物後に食べた夕食は、旅仲間たちとの会話も弾み、とても美味しく、モロヘイヤスープは絶品だった。

美味しかったスモークチキン。

満足そうな旅仲間たちの顔。


帰りの、エジプト航空の機内食。



 左は、ギザの『クフ王墓』前で買った、現在使用されていない古銭セット。

右上は、現在の1エジプトポンド紙幣、下が1ポンドと50ピアストルのコイン。

 自分のお土産は、いつもの現地コインと絵ハガキ。あとは画像データである。

ゴマちゃんの奨めなどで購入した、ナツメヤシやチョコレートその他の土産物。


 妻が、彼女の趣味の刺繍用の道具の入れ物として、カルトゥーシュ店で買った螺鈿細工の箱。 掘り出し物だった!


 ゴマちゃんお勧めの刺繍入りのエジプト綿の特注品のポロシャツ。

まる2日をかけての、胸には妻の守り神のジャッカルの刺繍入り。

裏には、”カルトゥーシュ”に囲まれた”ヒエログリフ”での妻の名前。

妻が購入した、自宅での夏用の衣服”ガラベイヤ”。


 エジプト旅行の『旅程表』


アルバムに収められた、入場券などの数々。



※ 全文字が30,000字以内という事で後書きが少なくなった。エジプトは久しぶりの観光再開で沸き返っている。外貨獲得(とりわけドル)にも懸命の様だ。

日本びいきで、娘さんに日本語や童謡を教えていると言ったゴマちゃんも然り。

エジプトからの特産品外の買い物の勧誘に懸命だった。

 それにしても、エジプトの観光資源には目を見張るものがある。


          - エジプト旅行記・終了 -

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