『魅惑のトルコ満喫8日間』 - Latte

『魅惑のトルコ満喫8日間』

  • 旅行期間: 2019/06/29 ~ 2019/07/07
  • 作成日:2019/07/29 14:45
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2019年6月29日 (土) 仙台発08:05・ANA3232にて出発。成田空港着は09:10。 
          成田発22:30・トルコ航空TK0053でイスタンブルへ出発。飛行時間:12時間。

2019年6月30日 (日) イスタンブル着04:30、現地ガイドは”アリ(男性)”さん。
          灰色がかった青い瞳を持つ、大柄な人だった。
          32人の旅仲間たちと06:00発の貸切バスに乗車。
          ・途中、ひまわり畑(トルコではタネ油採取で有名)での写真撮影後、 
          ヨーロッパ側のゲリポリ半島を南下し、フェリーでダーダネルス
          (トルコ名:チャナッカレ)海峡を渡り、アジア側のチャナッカレへ向かう。
          ・到着後、昼食をはさんで、世界遺産の『トロイ遺跡』を入場観光。
          ・観光後、この日の宿泊はアイワルクの”ハリッチ・パーク・ホテル”

2019年7月 1日 (月)  ホテルにて朝食後、バスに乗車して”エフェソス”へ向かう。     
          ①世界遺産『エフェソス遺跡』の入場観光。
          ②『アルテミス神殿』の下車観光後、レストランでの”チョップシン
          (小串ケバブ)”の昼食。  
          ・再度バスに乗車して、世界遺産『パムッカレ』へ向かう。
          ①石灰棚の散策、及び足湯体験。②『ヒエラポリス遺跡』の入場観光。
          ・宿は、”ルカス・リバー・サーマル・ホテル”のプールサイドでの夕食。
          
2019年7月 2日 (火) ホテルにて朝食後、バスにて一路コンヤへ向かう。
           ・途中のレストランにての昼食後、コンヤでの市内観光。
          ・『メブラーナ博物館』を入場観光。
          ・観光後、奇岩が美しい世界遺産『カッパドキア』へ向かう。
          ・途中、かつての隊商宿跡”ケルバン(キャラバン)の下車見学。
          ・宿は洞窟ホテル”ベストウェスタン・プレミア・カッパドキア”での2連泊。 
 
2019年7月 3日 (水) ホテルにて朝食後、バスにて世界遺産『カッパドキア』観光。
          ①『ギョレメ野外博物館』、②地下都市『チャルダック』の入場観光。
          ”アブジュラルの谷”、”ウチヒサール”、”三姉妹の岩”、”らくだ岩”等の
          下車観光の後、途中のレストランにてメインが”マスのグリル”の昼食。
          ・その後、トルコの伝統工芸の”絨毯工場”やトルコ石店の見学。
          ・洞窟レストランにて民族舞踊・ベリーダンスを観賞しながらの夕食。

2019年7月 4日 (木) ホテルでの朝食後、バスにてネヴシェヒル(カッパドキア)空港へ。
          08:55発のTK2007にて、イスタンブル空港へ向かう。
          ・イスタンブル空港到着後、ガラタ橋下のレストランにてサバサンド食。
          ・その後、イスタンブルの世界遺産観光。
          ①『アヤソフィア』、②『ヒッポロドーム』、③『ブルーモスク』
          ④『トプカプ宮殿』、⑤”グランド・バザール”等を精力的に観光。 
           ・オリエント急行終着駅の”シルケジ駅舎内レストラン”での夕食。
             ・最後の宿泊は、高級ホテル”インター・コンチネンタル”だった。
            (ホテルからは、ボスポラス海峡などの夜景が美しかった。)

2019年7月 5日 (金) ホテルでの朝食後、オプションの『ボスポラス海峡貸切クルーズ』。
          ・午後からは『スレイマニエ・モスク』と”エジプシャン・バザール”観光。
          ・観光後は、ガラタ橋下のレストランでの夕食(大いに盛り上がった。)
          ・食後、イスタンブル空港へ向かい、トルコ旅行最後の夜を過ごした。

2019年7月 6日 (土) イスタンブル発01:40発のTK0052にて離陸し、成田空港着が19:10。
          ・この夜は、空港近くのホテルにて後泊。

2019年7月 7日 (日) 成田発10:00発のANA3231にて離陸、仙台空港着が11:05。
          ・空港のいつもの店で昼食をとり、相馬着が13:00頃だった。
     

【 イスラム教 】

 3~4年前から計画していたトルコへの旅行をやっと実現できた。

平成5年7月にシンガポール経由でマレーシアに行って以来、たまたまなのだがモロッコ、エジプトそしてトルコと、最近イスラム教国への旅行が続いている。


 『イスラム教』は、非常に興味深い宗教である。

610年頃、ムハンマド(マホメット)が唯一絶対の神”アッラー(ユダヤ教ではヤハウェ)”の啓示を受けて示されたとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ、従う一神教である。

 ユダヤ教やキリスト教の影響を受けた唯一神教で、ユダヤ教と同様に偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。

 立場は「モーセやイエスがもたらしたメッセージは、それ自体は正しかった。しかし、ユダヤ教徒もキリスト教徒も神の言う事を全く聞いていない。

だからこそ預言者ムハンマドを通じて神(ヤハウェ=アッラー)の言葉を伝える。それがコーランである。」という事である。

 ”アッラー”とは、元来アラビアの多神教の神々の中の一柱であったものだが、ムハンマドがメッカを占領した際、カーバ神殿に存在したすべての神々の像を

破壊し、多神教及び偶像崇拝を戒め、アッラーのみを崇拝するようになった。


※『旧約聖書』や『新約聖書』の一部を経典とし、最初の人間アーダム(アダム)を最初の預言者として始まった真正な宗教とされる。

 そして、紀元前4世紀から紀元前1世紀頃に成立したと考えられるユダヤ教の経典である『聖書(旧約聖書)』の”創世記”では、アダムから数えて20代目の子孫で紀元前2000年頃の人物で175歳まで生きたと記されている”アブラハム”は、神の声に従い、現在のイラクからカナン(パレスチナ)へ移り住んだ人物で、

「すべてのユダヤ人とアラブ人の父である。」と記されている。


※この様な経緯により、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の3つの宗教は、「アブラハムの宗教」とも呼ばれており『イスラム教』ではノア・アブラハム・モーゼ・イエス・ムハンマドを”5大預言者”としている。

・ユダヤ教は、アブラハムの宗教の根本ともいえる宗教であり、『イスラム教』に大きな影響を与えている。イスラム教の律法的側面はユダヤ教から受け継いだもので、ユダヤ教の『旧約聖書』にはクルアーンと同じ預言者が記されている。

・キリスト教もまたイスラム教に強い影響を与えた。 しかし、ムハンマドは「”ナザレのイエス”は使徒であり預言者ではあるが、神の子ではない。」としている。(これはユダヤ教と同じ立場であり、新約聖書を聖典と認めていない。)

具体的には、”クルアーン”で「これがマルヤムの子のイーサー(=イエス)。

皆がいろいろ言っている事の真相はこうである。もともとアッラーに子ができるわけがない。ああ、恐れ多い!」と述べイエスへの崇拝を否定している。

 これに対し、キリスト教では『新約聖書』で「偽り者とは、イエスがキリスト(ギリシア語で救世主の意味)であることを否定する者でなくて誰であろう。

 御父と御子を認めない者、これこそ反キリストである。」としている。


 このように、お互いの教義に致命的な矛盾点があり、もしキリスト教が正しければイスラム教は偽物、反キリストという事になってしまい、

イスラム教の視点からはその逆であり、こういった点がキリスト教とイスラム教が対立せざるを得ない要因になっているとされている。

※ クルアーンにもイエスの物語が記されているが、キリスト教側から見れば、イスラム教は、聖書を安易に書き換えたものでしかないとされ、大きな対立点になっていると指摘されている。

※ 元来『聖書(旧約聖書)』の”創世記”でアブラハムの子(兄弟)から生まれたと記されているユダヤ教徒(イスラエル人他)とイスラム教徒(多くがアラブ人)が、現代の様な、凄惨な抗争を繰り広げているのは、非常に残念でならない。


『トルコ共和国』

 トルコ共和国は、西アジアのアナトリア半島(小アジア)と、東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる共和国。首都はアナトリア中央部のアンカラ。北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリア、ギリシャと、東でジョージア(グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、シリアと接する。

 

 アナトリアには旧石器時代(1万1000年から60万年前)からの遺跡が存在する。紀元前2000年末頃から鉄をつくる技術が中近東世界に広がった。この地域が鉄器時代に入ったと考えられる。

トルコの国土の大半を占めるアジア側のアナトリア半島(小アジア)とトルコ最大の都市であるヨーロッパ側のイスタンブールは、古代からヒッタイト・フリュギア・リディア・東ローマ帝国などさまざまな民族・文明が栄えた地である。

 一方、北アジアではトルコ(テュルク)系民族として突厥(とっけつ)が552年にモンゴル系民族の支配から独立した。ー韓国映画『奇皇后』にも登場。ー

※ 現在のトルコ共和国ではこれを以てトルコの最初の建国とみなしている。


 その後、東西に分裂し、中央アジアのアラル海東岸に割拠した西突厥の部族の一つから部族長トゥグリル・ベグが出て西進を始め、ボハラ地方を部族で占領しセルジューク朝を成立させた。さらに西進して1055年バクダッドに入城、アッバース朝のカリフよりスルタンに指名された。事実上アッバース朝に代わって、セルジューク朝がメソポタミアの支配者となる。しかし、東アジアで覇権争いに敗れた契丹系の西遼が中央アジアに移動し父祖の土地を占領すると、これと争って大敗し急激に衰えた、後にフラグの侵攻を受けて滅亡する。また中央アジアのトルコ系部族集団は、更にウイグル系民族に圧迫されてイラン(ペルシャ)北部、カスピ海東岸の隅地に逃亡し歴史の記録から消える。


 11世紀に、トルコ系のイスラム王朝、セルジューク朝の一派がアナトリアに立てたルーム・セルジューク朝の支配下で、ムスリム(イスラム教徒)のトルコ人が流入するようになり、土着の諸民族と対立・混交しつつ次第に定着していった。これら群小トルコ系君侯国はチンギスハーンの孫フラグのバグダッド占領、イルハーン帝国成立後もアナトリア西端に割拠して生き残り、その一つから発展したオスマン朝は、15世紀にビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブールを都とし、東はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国を打ち立てる(オスマン帝国)。モンゴル系のティムールにアンゴラ(アンカラ)の戦いで敗れ一時滅亡するが、アナトリア南部の険に依って抵抗し命脈を保った一族が、ティムールの死後オスマン朝を復興した。


 19世紀、衰退を示し始めたオスマン帝国の各地ではナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立した。帝国はオスマン債務管理局を通して列強に財政主権を握られ、第一次世界大戦で敗北した。こうしてオスマン帝国は英仏伊、ギリシャなどの占領下におかれ完全に解体された。中でもギリシャは、自国民居住地の併合を目指してアナトリア内陸部深くまで進攻した。また、東部ではアルメニア国家が建設されようとしていた。これらに対してトルコ人たち(旧帝国軍人や旧勢力、進歩派の人たち)は国土・国民の安全と独立を訴えて武装抵抗運動を起こした。この抵抗運動をトルコ独立戦争(1919年5月)という。1920年4月アンカラに抵抗政権を樹立したムスタファ・ケマル(アタテュルク)の下に結集して戦い、1922年9月、現在のトルコ共和国の領土を勝ち取った。1923年、アンカラ政権はローザンヌ条約を締結して共和制を宣言した。翌1924年にオスマン王家のカリフをイスタンブールから追放して、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家トルコ共和国を建国した。シャリーアは国法としての地位を喪失した。トルコは、アメリカ合衆国などからの直接投資も受け入れることになった。


 第二次世界大戦後、ソ連に南接するトルコは、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、1952年NATOに、また1961年OECDに加盟した。NATOとOECD加盟の間は西陣営内で経済戦争が起こっていた。1956年ごろ、トルコはユーロバンクの資金調達先となったので外貨準備を著しく減らした。これを輸出で補うため単位作付面積あたりの綿花収穫量を急速に伸ばしたが、ソ連がすでに1944年から輸出量を世界で最も急ピッチに増産していた。1952年に暴落した価格で南米諸国とも競争するトルコは、機関化する1980年代まで外貨準備を十分に確保することができなかった。

 国父アタテュルク以来、トルコはイスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化に邁進してきた(ヨーロッパ評議会への加盟、死刑制度の廃止、経済市場の開放と機関化)。その最終目標であるEUへの加盟にはクルド問題やキプロス問題、ヨーロッパ諸国の反トルコ・イスラム感情などが障害となっている。またキリスト教(正教会)を国教とするアルメニア共和国とも緊張した関係が続いている。アルメニアの民族派はトルコ東南部を西アルメニアだと主張して返還を求めている。ナブッコ・パイプラインの拡張にかかわる国際問題となっている。


【 トルコ旅行 】

 2019年6月29日 (土) 仙台発08:05・ANA3232にて出発。成田空港着は09:10。 

・空港にて、しばし別れの日本食、”とんかつ定食”で舌鼓を打つ。


・イスタンブルへの往便、トルコ航空TK0053での機内食。飛行時間:12時間。

・イスタンブル着04:30、真新しいイスタンブル空港の内部。

・真新しいイスタンブル空港の内部。

・空港内の両替所で、トルコリラへの両替。此方の方が率が良いとの事。

5リラ紙幣・1リラコインの裏表と、補助通貨の50と25クルシュコインの裏表。


 2019年6月30日 (日) イスタンブル着04:30、32人の旅仲間たちと06:00発の貸切バスに乗車、先ずは種油で有名な”ひまわり畑”での記念撮影。


・途中のドライブインでの2.5リラのアップルティーが美味!

・美味かったアップルティー

・ザクロジュースも美味かった!


『ダーダネルス(チャナッカレ)海峡』

 ダーダネルス海峡(英語)もしくはチャナッカレ海峡(トルコ語)は、地中海につながるエーゲ海と黒海につながるマルマラ海を結ぶ狭隘な海峡。ボスポラス海峡とともにヨーロッパとアジアの境界をなす。日本では英語名のダーダネルス海峡がよく知られている。

 この海峡は古代より戦略的な要衝であり、例えば、トロイア戦争はこの海峡のアジア側の地で戦われた。 ペルシア帝国のクセルクセス1世や、マケドニアのアレクサンドロス大王は、それぞれ海峡の反対側に遠征するために、この海峡を渡り、オスマン帝国のオルハンがビザンツ帝国のヨハネス6世カンタクゼノス帝の要請を受けて初めてヨーロッパに渡ったのもこの海峡であった。後にオスマン帝国はこの地で艦隊を創設し、帝国が東地中海の覇権を握る上でも、首都イスタンブールを南から防衛する上でも非常に重要な地となった。


・ヨーロッパ側のゲリポリ半島を南下し、フェリーで英語名ではダーダネルス(トルコ名:チャナッカレ)海峡を渡りチャナッカレへ向かう。

・トルコの国旗と「ここをし死守するぞ!」という意思を示す山肌の絵。

・山肌を削って作られた国旗の図柄。

・いよいよチャナッカレへ入港


・チャナッカレ到着後、レストランでの昼食をはさみ世界遺産の『トロイ遺跡』を入場観光。

メインメニューはチヌ(黒鯛)の塩焼き。

流石、”三大料理”とも言われるトルコ料理。米を含めてすべて美味しかった。


『トロイア(イリオス)遺跡』

 イリオスは、ギリシア神話に登場する都市。イリオン、トロイア、トロイなどとも呼ばれる。 現在のトルコ北西部、ダーダネルス海峡以南(同海峡の東側、アジア側、トルコ語ではトゥルヴァ)にあったとされる。

 遺跡の入り口には、有名な「トロイの木馬」の複製が建てられている。

一般に、ドイツのハインリヒ・シュリーマンによって発掘された遺跡がイリオスに比定されている。神話ではかなりの規模を持った都市国家であるが、現在発掘によって確認される遺跡は城塞以上のものではない。ギリシア神話においては、アガメムノーンを頭とするアカイア軍に滅ぼされたとされ、そのあらましはホメロスの『イーリアス』をはじめとする英雄叙事詩などに描かれている。


・遺跡全体

・墓地跡

・遺跡の傍で

・各層ごとに出土された出土品の写真

・集会場跡


『トロイア戦争』

 この戦争の発端はゼウスの思慮によるもので、人口調節のためとも神の名声を高めるためとも伝えられる。プリアモス王の后ヘカベーは、息子パリス(アレクサンドロス)を生むとき「自分が燃える木を生み、それが燃え広がってイリオスが焼け落ちる」という夢を見た。この夢の通り、パリスはイリオスにとって災厄の種となった。パリスは、ヘーラー、アテーナー、アプロディーテーの三女神の美の競合、いわゆる”パリスの審判”によりアプロディーテーから、スパルタ王メネラーオスの妻ヘレネーを奪って妻とすることを約された。 彼はスパルタからヘレネーを奪ったため、メネラーオスは、直ちにトロイアにヘレネーを帰すよう求めた。しかし交渉は決裂、メネラーオスは兄アガメムノーンとともにトロイア攻略を画策した。 アガメムノーンを総大将としたアカイア軍(ギリシア勢)はイリオスに上陸、プリアモス王の王子ヘクトールを事実上の総大将としたイリオス軍と衝突した。多大な犠牲を出しながら戦争は10年間続き、アカイア軍の間には次第に厭戦気分が蔓延しはじめた。しかし、アカイア軍の将オデュッセウスは一計を案じ(一説には女神アテーナが考えて)エペイオスに木馬を造らせた。

このトロイアの木馬の詭計によってイリオスは一夜のうちに陥落した。イリオスから逃げ出すことができたのは、アイネイアースなど少数の者たちだけだった。

アキレウスも弱点である踵をパリスの矢で射られて此処で亡くなったとされる。


・遺跡入り口の”トロイの木馬”の模型(おどろおどろしかった映画の物より良!)


・観光後、この日の宿泊はアイワルクの『ハリッチ・パーク・ホテル』

眼前には、美しくも静かにエーゲ海が横たわっていた。


・ 2019年7月 1日 (月) 『ハリッチ・パーク・ホテル』での朝食。

・『ハリッチ・パーク・ホテル』


 その後、革製品の店にて”ミニ・ファッションショー”参加と店内見学。

 この店では、主に子羊の革製品の衣類があり、確かにいい製品だったが、今更革ジャンを着ても仕方がない。革ジャンと言えば、若かりし頃ヤンピー(子羊革)の革ジャンで、バイクで一人旅を楽しんだ、あの頃の想い出は忘れられない。

・革のファッションショー

・旅仲間たちのファッションショー参加


・その後、世界遺産『エフェソス遺跡』の観光

『エフェソス遺跡』 

 エフェソスは、トルコ西部の小アジアの古代都市で、現在のイズミル県のセルチュク近郊に位置している。古典ギリシア語読みではエペソス、エフェソ、エペソとも表記され、現在はトルコ語でエフェスとも呼ばれる。アルテミス崇拝で知られたギリシア人都市であったが、のちにキリスト教を受容し、新約聖書にもエフェソの信徒への手紙がある。  現在は遺跡が残っているのみである。もとは港湾都市であったが、土砂の堆積により現在は海岸から離れている。

 エフェソスの最初の住民はギリシア人ではなく、リュディア人だったと考えられている。ヒッタイト人の文献に登場するアルザワ王国の首都アパサがエフェソスと同一の都市であると多くの者が考えている。発掘からはミュケナイ文化に属する陶器が見つかっている。 

 エフェソスはヘレニズム都市として栄えたが、紀元前2世紀に共和政ローマの支配下に入り、小アジアの西半分を占めるアシア属州の首府とされた。共和政ローマ最末期に第二回三頭政治の一頭として権力を握ったマルクス・アントニウスがプトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラ7世と共に滞在した地で、かつクレオパトラとの内戦で敗北して捕虜となったアルシノエ4世が送られ、そしてアントニウスら2人の意向により殺害された地としても知られている。その後、古代ローマ帝国の東地中海交易の中心となった。現在残るアルテミス神殿の遺構はローマ時代に建てられたもので、巨大な図書館と劇場を備えていた。劇場は当時最大のもので、5万人が収容された。

 エフェソスには比較的早くキリスト教が入り、新約聖書にはエフェソスの教会にあてた書簡、エフェソの信徒への手紙がある。また伝承では、使徒ヨハネはパトモス島の流刑から解放された後、エフェソスの教会の主教(司教)を務める傍ら、ヨハネによる福音書を書いたと伝えられる。イエスの母マリアも使徒ヨハネとともにエフェソスで余生を送ったと伝えられる。


・入場するとそこには、一大古代都市遺跡が広がっている。

・紀元1~2世紀頃のローマ時代の遺跡群がズラリ!


・東京オリンピックメダルにも採用され、運動具メーカー”NIKE(ナイキ)”、の名前の由来ともなったギリシア神話の勝利の女神である”ニケ”像の前で。

・メインストリームの『クレテス通り』の入り口。 

下に敷き詰められているのは、すべて大理石なので、雨の日は要注意!

・『クレテス通り』の右側には、浴場(テルマエ)、ローマの五賢帝の内の2人、トラヤヌス帝の泉、ハドリアヌス帝の神殿なでが並ぶ。

・エジプトの女王クレオパトラ7世の妹”アルシノエ”の墓もあるという。

・ケルスス図書館方向に進むと、右手に見えてくるのがトラヤヌスの泉。
2世紀に作られた高さ12mの2階建で、皇帝トラヤヌスに捧げられたもの。

 前面に残る大理石の巨大な水槽跡から、滔々と水が流されていたという。

・見事な建築技術を駆使した建物ばかりだった。



・エフェソス遺跡の象徴である『セルシウス図書館』の正面ファサード

…道路や広場に面していて、建物の言わば”顔”として重要な意味を持つ。

・当時は、パピルスや羊皮紙に書かれた12万巻にも及ぶ蔵書が収められ、その規模からアレクサンドリア(エジプト)、ベルガモン(トルコ)と並び、古代の三大図書館とされている。



・巨大な大円形競技場…収容能力は24,000人であったという。

・巨大な大円形競技場への通り


・「世界の七不思議」と言われる『アルテミス神殿跡』

…アルテミスはギリシア神話の”狩猟と純潔の女神”であるが、エフェソスで信仰されたアルテミスは沢山の乳房や植物の実の装飾を身に着けた衣装姿だった。

 東地中海の重要な聖地として長く崇められたが、ローマ帝国の支配下にあった

紀元前3世紀には廃れ、紀元4世紀にローマ帝国がキリスト教を国教としたことで、古代のギリシア信仰は完全に消滅してしまった。 その後神殿は解体され、大理石長くどの石材は運び出され、都市建設に利用されてしまったのである。

※長さ115m、幅55mと言われたアルテミス神殿は、高さ18mとも言われたイオニア式石柱群で支えられ、内部には15mもの豊穣の女神であるアルテミス像が立っていたという。 現在、神殿が建っていた場所には、往時をしのばせるように、辛うじて石柱が1本だけさびしく残されている。


○上記のように、古来よりエジプト文明~メソポタミア文明~地中海(ギリシアやアナトリア=小アジア他)文明は影響しあっており、中でもエジプト文明からの影響力は間違いなく多大なものであったと言われている。

 特出したものではエジプトのヒエログリフ(聖刻文字=象形文字)であろう。

”海の民”と呼ばれるフェニキア人が開発した言われるアルファベット(ギリシア文字のαとβより命名)であり、もう一つはエジプトの彫像ではないだろうか。

※ エジプトの多くの彫像は、ミイラに代表されるように”死人”は両手・両足をそろえて閉じた格好であるが、”生ける人”の像は片手・片足、又は両方を前に出して躍動感を与えて造られており、その後のギリシア彫刻で、は”コントラポス(一定のパターンの中で、動感と生命観を表す)”と言われる手法(片足重心の像や躍動感が顕著な円盤投げの像など)で多くの彫刻がつくられている。

…そして、その後の”ヘレニズム・古代ローマ世界の美術”であり、とりわけ彫刻(サンダルの紐を解くニケ像・勝利の女神ニケ像・アフロディテ像・ミロのビーナス像等々)”に引き継がれて、「近代西洋美術の基礎」になったと言われる。

◎大きな括りでいうと、エジプト→メソポタミア→ギリシア(含、ヘレニズム)→ローマといった諸文明への引継ぎが行われた感があり、マケドニアのアレクサンドロス大王のオリエントへの大遠征は、大きな契機になったものと思われる。


・この後の、レストランでの昼食…豆のスープと茄子の煮込み、飲み物は「健康に良い」というので”アイラン”という塩っぽいヨーグルトに挑戦。「炭酸水を混ぜると美味しい。」というのでこちらにも挑戦。もう一つはザクロジュース。

・メインの”小串ケバブ”


  その後バスでパムッカレへ向かい、同所にある①『ヒエラポリス』見学と、

②『石灰棚』の散策を行った。

① 『ヒエラポリス』は、パムッカレの石灰華段丘の一番上にある遺跡。ローマ帝国の温泉保養地として栄えた。ローマ帝国時代にも地震で破壊されるがその後復興。しかし1354年の大地震で完全に廃墟と化す。ローマ劇場、ローマ浴場が残る。

・『ヒエラポリス遺跡』を歩く。



・中に残る温泉…湯の中にはローマ帝国時代の石柱群が倒れて残されている。

ここでは多くの人達が泳いでいた(多くがロシア人との事)。

・湯の中に残る、ローマ帝国時代の石柱群


② パムッカレとは、トルコ語で「綿の宮殿」という意味。綿とあるのは昔からこのあたりが良質の綿花の一大生産地であることによる。

 二酸化炭素を含む弱酸性の雨水が台地を作っている石灰岩中に浸透し、炭酸カルシウムを溶かした地下水となる。その地下水が地熱で温められて地表に湧き出て温泉となり、その温水中から炭酸カルシウム(石灰)が沈殿して、純白の棚田のような景観を作り出したもの。

・足湯体験の妻。

・見事な”石灰棚群”


・この日の宿泊は『ルカス・リバー・サーマル』という温泉プール付きのホテル。

プールサイドでの生演奏付きの夕暮れ時の夕食はムードがあって良かった。

 夕食後に、”温泉プール”に行こうとして、たどり着く前にベッドで沈没!


2019年7月 2日 (火) 『ルカス・リバー・サーマル』での朝食後、バスでコンヤの『メブラーナ博物館』及び『ケルバンサライ』経由でカッパドキアへ出発。

・途中のドライブインで、トルコ名物の”硬いアイスクリーム”を食べる。

・”粉末バニラ”をかけて召し上がれ!


・途中のレストランでの昼食。お勧めの”ザクロ缶ジュース”は今一!

・トルコ風ピザ。

・何処でも”ケバブ”は出てくる。


その後、コンヤの『メブラーナ博物館』を見学。

 『メブラーナ博物館』は、独特の旋回舞踏で世界的に有名な、メヴラーナ教団の創始者ジェラルディン・ルーミーの霊廟。メヴラーナとは「我が師」という意味でジェラルディン・ルーミーを指す。 

メブラーナ教団は日本語では旋舞教団といわれ、スカートをはいた信者が音楽にあわせて、くるくると回転をし踊るという宗教行為(セマー)で知られる。これは祈りの手段であり、回転は宇宙の運行を表し、回転することで、神との一体を図るというものである。

6,500㎡の敷地にはメヴラーナをはじめとする教団の発展に尽くした名僧たちの霊廟、資料室、修行場などがある。
 アタチュルクの宗教分離政策により教団は解散、旋回舞踏は禁じられ、1927年に霊廟は宗教色を薄める形で博物館としてオープンした。
 旋回舞踏も1970年代の緩和政策により再会され、大手ホテルなどで旋回舞踏ショーが開催されるようになった。
 博物館として一般公開されているにも関わらず、まだまだ宗教的色彩を多分に残しているのか、女性は頭髪を隠すためにスカーフ着用がよりベターとされた。

 このメヴラーナ博物館で最も有名なメヴラーナの棺は眩いばかりの装飾が施された中に安置されている。
 棺の上に置かれた帽子で、イスラムの僧侶としての階位の高さが表されているのだという。また、霊廟の隣の資料室には”ムハンマド”のあごひげを納めた小箱も展示されており、信者の皆さんが熱心にお祈り・見学をされていた。


・『メブラーナ博物館』の建物(外側)

・『メブラーナ博物館』の建物(内側)

・建物への入り口…頭を下げてはいるための”鎖”がかかっている。

・建物の入り口と手洗い(お清め)場。

・いざ、博物館へ入場!

・内部の美しい装飾

・メブラーナの棺

・他の僧侶の棺

・美しいコーランの写本の数々




・ムハンマドの”あごひげ”が収められているという小箱


・その後は、途中停車して『ケルバン(キャラバン)サライ:隊商宿』跡見学。

※ ”隊商宿”というよりは、盗賊などの外敵から隊商を守るための砦である。

改装中だったので、中が見られず残念だった。



・この日は洞窟ホテル『ベストウェスタン・プレミア・カッパドキア』。

・美味しかったビュッフェの夕食。スイカは何処で食べても最高!


・洞窟ホテルの202号室の内部




・2019年7月 3日 (水)…洞窟ホテル202号室

・部屋の2つ上の階はレストラン

・朝の散策…旅行中は全工程で快晴または晴れで最高だった。




・野菜たっぷりの朝食



食事後、バスに乗り『カッパドキア観光』に出かけた。

①『ギョレメ野外博物館』、②『地下都市チャルダック』、③『アブジュラルの谷』、④『ウチヒサール』、⑤『3姉妹の岩』、⑥『ラクダ岩』等の観光だ。

・カッパドキアはトルコの中央アナトリアの歴史的地域、またはアンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた大地をいう。

古代の地理においてCappadocia (「美しい馬の地」を意味する。


・『ギョレメ野外博物館』は1985年に世界遺産に登録されている。
 ここは、それぞれ独自の教会が集結している場所で、多くの岩窟教会、聖堂、修道院などから構成されており、たくさんの教会や礼拝所が集中しているエリアとなった。
カッパドキアでは4世紀ごろから多くのキリスト教徒が住むようになり、9世紀ごろから強まったイスラム教徒の圧迫から逃れるために岩を削った洞窟に教会や修道院を造ったといわれており、その中心となった場所がギョレメで、一帯には350~500もの教会があった時代もあったとの事。

 今では、約30の教会が野外博物館として公開されており教会の中では古のクリスチャンたちが眺めたであろう 色彩豊かなフレスコ画を見ることができる。
 その信徒が描いた鮮やかなフレスコ画は「カッパドキア様式」といわれる芸術性の高いもので、代表的な教会は、リンゴの教会、バルバラ教会、ヘビの教会、暗闇の教会、サンダルの教会など。

※フレスコ画保存のためフラッシュ撮影は禁止で残念だったが、素晴らしいもので、フレスコ画は正教会でいう”イコン”であり、”八端十字架”であった。


・聖バジル教会

・奥は、フレスコ画が奇麗だった”リンゴの教会”

・すべて、キリスト教徒達が岩をくり抜いて住んでいたという。




・料理などを煮炊きした台所跡…ススが残っている炊事場。

・美しかったフレスコ画の写真




・この後一旦、絨毯工場の見学をすることになった。

 トルコ絨毯は、冬の寒さや夏の湿気から家と住人を守る道具だったと言われ、遊牧民であるトルコ民族(突厥)の西進で中央アジアから持ち込まれたという。

 絨毯は、シルク・ウール・コットン等の素材のほか、色や柄、サイズ、年代等によって値段も様々である。彼らは、”ペルシア絨毯”もトルコが発祥地だと言う。

 そして、価値や値段は大きさではなく、素材とその芸術性だとも言う。

トルコ絨毯はペルシャ絨毯と並んで世界でもかなり有名な伝統芸術の一つ。

マルコ・ポーロが「東方見聞録」の中で「コンヤ、カイセリ、シヴァスで織られた緋色の絨毯が最も美しく優雅である」と述べたり、フランス人画家のポール・ゴーギャンが、「色について学びたければ、トルコ絨毯を見ればいい」と述べるなど、世界中で昔から愛されてきた。
そもそもの歴史は、遊牧民族だったトルコ人が中央アジアから移動するに当たり女たちが羊の毛を紡いで織物を織り、それをテント暮らしの中で役に立ててきた事から始まったと云われ、こうして生活の中で重宝されてきた絨毯は、古くから大切な嫁入り道具の一つとして嫁ぎ先にも持参されてきたとの事。
因みに、絨毯はトルコ語で「ハル」と言われ、大昔は「カル」と呼ばれており、現在ペルシャ語でも絨毯は「カル」なのだとか。トルコの古い口承文学文献に「カル」という表現が出ていることから、おそらくペルシャよりトルコ絨毯の方が古い歴史を持っており、絨毯発祥の地もおそらく小アジアを中心とする地域ではないかといわれている。


・下は、絨毯作りの実演

・絨毯作りの実演

・絨毯の見本…手織りは丁寧で美しい。

・絨毯の見本…ペルシャ絨毯よりも強靭な、ダブルノットが基本のトルコ絨毯。

・ノット(結び目)の種類…ダブルノットが基本の強靭なトルコ絨毯。


・この時の工場の最高級の傑作品で、人間国宝級の人が織ったという絹の絨毯。

ターキッシュブルーの手織りの素晴らしい作品。これにしか目がいかなかった。

※ 刺繍が趣味の妻への、我が人生における感謝を込めたプレゼントだ。


・その後、近くのレストランでの”マスのグリル”がメインの昼食。

・マスのグリル


・食後はバスで移動し『ウチヒサール』や『アブジュラルの谷』などが見渡せる

”鳩の谷”へ移動。

※ウチヒサールは、80mを超える直立した岩山を利用して砦としたオクタヒサールや、岩をくりぬいて作られた古い教会や修道院が残るギョレメ野外博物館にも数kmという、カッパドキアの中心部。
尖った岩山を中心として、頂上から山裾にかけて家々が軒を連ね、ウチヒサールという言葉が意味する「尖った城塞」そのままの景色を創りだしている。

”鳩の谷”の見物スポットの土産物店の前にある、木にぶら下がった沢山の”ナザール・ボンジュー”という青い目玉の形をした魔除けのお守り。



・その後バスで移動し、『チャルダック』という”地下都市”の見学。

※カッパドキアには、大小合わせて300程の地下都市があるという。

キリスト教徒がイスラム教徒からの迫害を逃れて身を潜めて生活した地下空間。

・侵入防止のための円盤形の出入り口の石蓋。

・あらゆる生活設備があったという部屋。


・奇岩の岩『3姉妹の岩』、その他『ラクダ岩』もあったが、”グランドキャニオン”同様に川や雨による浸食で残された岩で、頭上に残ったのは硬い層の岩。



・洞窟レストランでのディナーショー

・多かった、料理の数々。

・美味かった白ワイン…トルコは”ワイン発祥の地”だとの事。

・一番前列の我々のテーブル。

・味が濃すぎて、あまり食べなかった夕食。

・ショーの数々


・洞窟レストランからの帰りのカッパドキアの夜景が美しかった。


・2019年7月 4日 (木)…洞窟ホテルでの朝食後に、ネヴシェヒル(カッパドキア)空港からの国内便でイスタンブル空港へ向かう。

・何処でもスイカはバカうま!

・洞窟ホテル前にて

・洞窟ホテルの入り口


・ネヴシェヒル(カッパドキア)空港からの国内便でイスタンブル空港へ出発。

現地ガイドのアリさんは空港につくまでの間、何が引き金になったのか、自分のスマフォからの庄野真代の『飛んでイスタンブール』をバスのマイクを通して、嬉々として、大音響で楽曲を流し続けていた。


※ イスタンブール(トルコ語: イスタンブル、ラテン語: コーンスタンティーノポリス、ギリシア語:コーンスタンティヌーポリス)は、トルコ最大の都市であり、経済・文化・歴史の中心地。トルコ語の発音に準じて「イスタンブル」と表記される場合もある。 

 イスタンブルはトルコ北西部に位置し、マルマラ海と黒海を結ぶ世界でも最も混雑する航路の一つであるボスポラス海峡を挟んで大陸間に跨った都市で、市域はボスポラス海峡を挟んで東のアジア(アナトリア半島)側と西のヨーロッパ(トラキア地方)側両方に拡がり、西側の市域は金角湾で南北に分かれる。2大陸にまたがる大都市でありアジアの最も西にある都市でもある。 商業や歴史の中心はヨーロッパ側に広がり住民の3分の1はアジア側に居住している。

 サライブルヌの岬に紀元前660年にビュザンティオンとして創建され、現在では歴史上最も重要な都市の一つとしてイスタンブールは知られている。330年にコンスタンティノープルとして再建されて以降およそ16世紀の間、ローマ帝国(330年 - 395年)、ビザンティン(395年 - 1204年、1261年 - 1453年)、ラテン帝国(1204年 - 1261年)、オスマン帝国(1453年 - 1922年) と4つの帝国の首都であった。1453年にオスマン帝国により都市が征服されコンスタンティノープルの陥落が起こる以前のローマやビザンティンの時代はキリスト教発展の要であったが、征服後はイスラームの中心やオスマンのカリフの中心に変わった。1923年にトルコ共和国がアンカラを新しい首都に制定したが、宮殿や帝国のモスクは今でもイスタンブールの丘に見ることが出来、イスタンブールの以前の中心的な役割を想起させる遺産となっている。イスタンブールは歴史上重要なシルクロードに沿った戦略的な場所に位置する。


・イスタンブル空港へ着いて早々の、ガラタ橋のたもとでの”サバサンド”の昼食

・フランスパンに塩焼きサバを挟んだもので、味はそのまんま!


・一番見たかった『アヤソフィア』

※『アヤソフィア』は、トルコのイスタンブールにある博物館。東ローマ帝国(ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)時代に正統派キリスト教の大聖堂としての建設を起源とし、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノープル総主教座の所在地であったが、1204年から1261年まではラテン帝国支配下においてローマ・カトリックの教徒大聖堂とされていた。その後は1453年5月29日から1931年までの長期間にわたりモスクとして改築を繰り返し使用されて現在の特徴的な姿となり、後に世俗化された。1935年2月1日から博物館として使われている。

 東ローマ帝国の代表的な遺構であり、しばしばビザンティン建築の最高傑作と評価される。その歴史と威容から、オスマン帝国の時代においても第一級の格式を誇るモスクとして利用された。日本語では慣用的に「ハギア・ソフィア」と呼称されるが、厳密にはトルコ語読みは「アヤソフャ」、古典ギリシア語読みは「ハギア・ソピアー」、現代ギリシア語読みでは「アギア・ソフィア」に近い。正教会では「アギア・ソフィア大聖堂」と呼ばれ、「ハギア・ソフィア大聖堂」と表記されることも多い。

 映画『ドラキュラ』冒頭のアヤソフィア陥落の様子は感動的。

・堂々たる威容を誇る素晴らしい建築物である。

・入り口の素晴らしい ”イコン”

・館内の土産物店

・美しい建物の内部


・何度も崩落したドーム

・現地ガイドの「アリさん」と…


・場所を変えて、『ブルーモスク』前の『ヒッポドローム』

『ヒッポドローム:コンスタンティノープル競馬場)』は、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルにあったキルクス(競馬や戦車競走を行う施設)である。 現在はスルタンアフメト広場)と呼ばれる広場になっており、トルコのイスタンブールにある。単にヒッポドロームとも呼ぶ。本来の構造で現存している部分はごくわずかである。「ヒッポドローム」とは古代の競馬場を意味し、ギリシア語の「ウマ」を意味する hipposと「道」を意味する dromosを組み合わせた語である。ここで、競馬や戦車競走が娯楽として開催されていた。

 ・写真の”オベリスク”は東ローマ帝国がエジプトから持ち込んだもの。


・『ブルーモスク(スルタンアフメト・モスク)』は、トルコのイスタンブールを代表するモスクで、世界遺産であるイスタンブール歴史地域の歴史的建造物群のひとつ。オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1609年から1616年の7年の歳月をかけて建造された。設計はメフメト・アー。『世界で最も美しいモスク』と評される。

 世界で唯一優美な6本のミナレットと直径27.5mの大ドームをもち、内部は数万枚のイズニク製の青い装飾タイルやステンドグラスで彩られ、白地に青の色調の美しさからブルーモスクとも呼ばれる。夏には音と光のショーも催され、幻想的にライトアップされた夜の姿も楽しむことができる。

※此処は現役のモスクであり写真撮影禁止。 中は一部改装中で残念だった。

・『ブルーモスク(スルタンアフメト・モスク)』の俯瞰写真


・『トプカプ』は、15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主が居住した宮殿。イスタンブール旧市街のある半島の先端部分、三方をボスポラス海峡とマルマラ海、金角湾に囲まれた丘に位置する。

発音は「トプカプ」が正しいが、日本語ではしばしば「トプカピ宮殿」と表記されることがある。

 トプカプ宮殿と呼ばれるようになったのは19世紀の皇帝が去った後からで、それ以前はベヤズットスクエアに元々あった宮殿(旧宮殿)に対する「新宮殿」ということで、新宮殿を意味する「イェニ・サライ」、帝国新宮殿を意味する「サライ・ジェディード」と呼ばれた。また、イスタンブールに営まれた多くの宮殿のうちの正宮殿として「帝王の宮殿」とも呼ばれた。

・宮殿の正門「帝王の門」前のチケット売り場だったっけ…?「美しい!」

・宮殿の正門「帝王の門」

・・宮殿の正門「帝王の門」内の天井飾り

・内廷の正門「幸福の門」

・独特のアラベスク文様

・宮殿内のハーレム


『グランド・バザール』

・ありとあらゆる物があり、交渉次第では価格が1/10にもなるといわれ、

「現地の人達は絶対買わない。」という”グランド・バザール”の入り口。

我々は、土産物は買っていたので入らず、近くの店の飲み物で涼んでいた。

別名、カパルチャルシュは「屋根付き市場」を意味する。”泥棒市場”とも…

・グランド・バザールの正門

・「くれぐれもスリや盗難にご用心!」との事。


・かつての『オリエント急行』終着駅の”シルケジ駅舎”内での夕食。

・美味しかった”グリーンサラダ・スープ”

・メインの”ケバブのナスペースト添え”


・部屋も食事もゴージャスで満足だった『インターコンチネンタルホテル』


・我々の部屋のTVのモニター画面には名入りの「ウェルカム」の文字が…!


・イスタンブルの街中の風景





・いざ!貸切船で『ボスポラス海峡クルーズ』へ出航。

第一ボスポラス大橋を通り、海峡を黒海へ向けて北上して、第二ボスポラス大橋からUターンして戻ってくるので左舷側に椅子を持ち出して座り、足を投げ出しながら涼しい潮風に吹かれながら、往路はヨーロッパ側、帰路はアジア側の岸辺を観ながら、のんびりとトルコ旅行最後の日を堪能できた。  しかしながら、「国際法上、船舶は原則右側通行なのだが、大丈夫…?」と1級小型船舶操縦士の船長免許を持つ自分は、一瞬危惧したが”場所によりけり?”   ボスポラス海峡は、トルコのヨーロッパ部分(オクシデント)とアジア部分(オリエント)を隔てる海峡である。トルコ最大の都市イスタンブールは両岸にまたがる。

ボスポラスとは「牝牛の渡渉」という意味で、ギリシャ神話の中で、ゼウスが妻ヘラを欺くため、不倫相手のイオを牝牛の姿へ変えるが、ヘラはそれを見破り、恐ろしいアブ(虻)を放った。そのためイオは世界中を逃げ回ることになり、

牛の姿のままこの海峡を泳いで渡ったとされる。

・ガラタ橋の付近からのヨーロッパ側の岸辺の様子。

・ガラタ橋を越えてすぐのヨーロッパ側の岸辺

・『ドルマバフチェ宮殿』…トプカプが旧宮殿であるのに対し、”新宮殿”と言われ、近代トルコの父:アタチェルクもここで執務をしたとの事。

・岸辺の美しいモスク


・とても見たかった『ルメリ・ヒサル』

ルメリ・ヒサルは、オスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノープル郊外(現在のイスタンブール)に造営した城塞。「ローマ人の土地(ルメリ)の城」という意味をもつ。

 メフメト2世が東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略中の1452年に、わずか4か月ほどの短期間で造営し、攻略の拠点となった。当時のコンスタンティノープルは、マルマラ海と金角湾にはさまれた半島の一帯に中心部があり(現在、旧市街と呼ばれている)、海と古代ローマ帝国来の堅固な城壁に守られた難攻不落の城塞都市となっていた。

 ルメリ・ヒサルは、コンスタンティノープルから金角湾をはさんで北側約10キロメートルにあり、アジアとヨーロッパの境界であるボスポラス海峡の最狭部(幅660メートルほど)のヨーロッパ・サイドに位置する。対岸のアジア・サイドにはアナドル・ヒサルがある。

 金角湾の入り口には東ローマ帝国によって鉄製の太い防鎖が張られ、オスマン艦隊の進入を阻止していたが、メフメト2世は艦隊を陸上から丘越えで金角湾に移動させるという奇策に出てコンスタンティノープルを陥落させた。

・「”ルメリ・ヒサル”が見えてきた!」 奥は、第二ボスポラス大橋

・ルメリ・ヒサルの威容


※ ここの第二ボスポラス大橋からUターンしてアジア側の岸辺になる。

・豪華な別荘群

・ここでも、悠然となびくトルコ国旗

・岸辺の美しいモスク

・豪華な別荘群



・『乙女の塔』…かつて、刑務所や灯台として使用され、多くの伝説がある。

その一つに、ある皇帝が娘が蛇にかまれる夢を見てこの塔に避難させた。しかし、寂しい思いをさせている娘に贈った果物の折詰の中に蛇が潜んでおり、咬まれて悲劇を招いた事から、「乙女の塔」と名付けられたとか…

・”ガラタ橋”付近への帰港

・無事に接岸


・この後、近くのレストランでの昼食。


・”ドメル・ケバブ”とか? 勿論美味かった。


・この後、『地下宮殿』への観光

地下宮殿(ちかきゅうでん)の通称で知られるバシリカ・シスタンは、トルコ共和国のイスタンブールにある東ローマ帝国の大貯水槽。

現存する東ローマ帝国の貯水池としては最大のものである。現在は一般にも公開され、イスタンブール歴史地域として世界遺産にも登録されている。

 貯水槽は長さ138m・幅65mの長方形の空間で、高さ9m、1列12本で28列、合計336本の大理石円柱を備え、それぞれが煉瓦造の交差ヴォールトを支える。これによって78,000m3の水を貯えることができる。円柱のうち、98本は5世紀に流行したアカンサス柱頭を備えたもので、おそらく流行遅れの在庫処分品であったらしい。このほかにも、目玉飾りで覆われた柱身や、メデューサの顔が彫られた古代の石塊を土台にするなど、特に美的効果を必要としなかったために半端な材料が用いられた。

・地下の内部は大体こんな感じ

・この通りの下がすべて『地下宮殿』

・途中での屋台…後で焼きとうもろこしを食べたが、煮たものも食べたかった!


・『スレイマニエ(ソロモン)・モスク』観光

スレイマニエ・モスク は、オスマン帝国の旧都イスタンブールにあるモスク。1557年完成で、オスマン建築(トルコ建築)の最高傑作のひとつと言われる。イスタンブールの旧市街にある7つの丘のひとつの頂上に位置する。スレイマン(”ユダヤの聖王・賢王”と呼ばれる”ソロモン”のトルコ名)・モスクともいう。 

オスマン帝国の第10代君主スレイマン1世の命により、当時の宮廷建築家頭で、トルコ史上最高の建築家と呼ばれるミマール・スィナンが設計、1550年に着工し、7年の歳月をかけて完成した。

主礼拝堂(トルコ語 : ジャーミー cami)の建物は前後59m、左右58mで、直径27.5m、頂点の高さは地上53mに達する大ドームを中心としたドーム群と4本の長いミナレットを持つ。大モスクの立ち並ぶイスタンブール旧市街の中でもひときわ大きく、丘の頂上よりやや北側の斜面に位置するため、旧市街北の金角湾方面から見て特に印象に残るモスクのひとつである。礼拝堂内部は大ドームを支える小ドームや柱の工夫によって広く明るい空間を実現しており、イズニク製タイルやステンドグラスで飾られている。

 スレイマニエ・モスクは礼拝堂のほか、マドラサ、医学学校、病院、給食所、宿泊所、商業施設、ハンマームなど、多くの付属施設を持ち、複合施設群を形成している。 また、礼拝堂の北側は墓地になっており、建設者スレイマン1世とスレイマンの皇后ヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)の墓廟があり、スレイマン、ヒュッレムのほか、スレイマン廟にはスレイマン2世とアフメト2世の2君主、ヒュッレム廟にはスレイマンの娘ミフリマー・スルタンら幾人かの皇族女子が眠っている。墓苑内には設計者スィナン自身の墓もある。

・美しいモスクの中庭


・中は現役のモスクであり、女学生達のイスラム教の布教の場となっている。


・素晴らしい建物の内部。

・ 数が少なかったためか、ガイドさんは「日本語版の冊子がありません。」と言っていたが、念のため確認すると数冊あったので、内緒で自分達だけゲット。


・スレイマニエ(ソロモン)モスクからエジプシャン・バザールへの途中で、

ボスポラス海峡を背景の記念撮影

・美しいボスポラス海峡


・『エジプシャン・バザール』へ行く前に”珈琲”で一服

・独特の雰囲気の喫茶店内


・ガラタ橋近くの『エジプシャン・バザール』、別名”スパイス・バザール”。

エジプシャン・バザールは、トルコ イスタンブールのアジア側エミノニュ地区にあるバザールである。

エジプシャン・バザールは、サフィエ・スルタンの命令により1597年から1603年にかけてイェニモスクの一部として造られた。当初イェニ・チャルシュ(New Bazaar)などと呼ばれていたようだが、18世紀中頃になるとエジプトから輸入される香辛料等を多く扱うことからムスル・チャルシュ(Egyptian Bazaar)と呼ばれるようになる。なお、エジプトからの輸入商品に課税が行われる場所だったのでこの呼称となったとする説もある。後に、シルクロードを経由して中国やインド、ペルシアなどの商品も売られる[2]ようになり、香辛料を扱う店が集まっていたことからスパイス・バザールとも呼ばれ、バザールの建設当初、およそ100店舗のうち49店舗が香辛料を扱う店であったとされる。その他の店舗の多くは綿花やキルトを扱う店であった。

・エジプシャン・バザールの正門前


・この後、メインが”魚料理”のトルコ旅行最後の夕食

愉快な旅仲間たちと”馬鹿な事”を言いながら笑い転げながら楽しんだ。



※ かつて、二十歳代の若かりし頃、岩波書店の『世界』という月刊誌があり、その中で、トルコの紀行文と共にモノクロのガラタ橋の写真があり、実に旅情を誘う写真であり、妙に魅入られてしまい、「いつかはトルコに行き、ガラタ橋を歩いてみたい!」と思ったものだったが、今回奇しくもそれを実現出来た。

・ガラタ橋からのボスポラス海峡

・夕暮れ時のボスポラス海峡


・帰りのイスタンブル空港ロビー:喫茶店に寄ったり、買い物したり…

イスタンブル発01:40発のTK0052の機内食…茄子と肉の炒め物が美味かった!


・帰宅後のアルバム整理




【 あと書き 】

・今回の旅では、あちこちの観光箇所での”修復・改装”の箇所が多かった事と、観光箇所が多すぎて、8日間の日程ではゆっくりと観光を堪能出来なかった。

・勿論、結果的には現地の名産品を手に入れることができたが、販促活動が結構多く、露骨だった感もある。

・機会があれば、イスタンブルだけでもゆっくり再訪したいと思う次第だ。

・和歌山県沖での海難事故での、日本の救助活動もあり「親日的だ!」とは聞いていたが、現地ガイドのアリさんも含めて今回の旅行で出会ったトルコの人達の気質は、西欧人は勿論エジプトやモロッコの人達とも違うと感じられた。

自分が思うに、どちらかというと我々日本人と気質が似ていると感じられた。

勿論、人柄にもよるが、誇り高くて真面目で、相手の人間との接し方も丁寧で「相手に失礼にならないように。」との気遣いを十分感じ取ることができた。

・最後に、現地ガイドのアリさん曰く「トルコの人達は食べることが好きで、又恰幅の良さや裕福さを示す意味でも、少々お腹の出ている方が良しとされる。」との事だった。食べすぎの傾向もあって短命で、平均寿命は男性が60歳くらいだとの事。

            【 旅行記・終了 】

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