ハノイ紀行(フリータイム AM) - Latte

ハノイ紀行(フリータイム AM)

  • 旅行期間: 2014/07/01 ~ 2014/07/04
  • 作成日:2015/05/31 16:00
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朝4時半、部屋は8階。
眼下の街並がモヤの中から浮かぶ。
赤い屋根 縦長の窓 バルコニー
程よく古びてヨーロッパの田舎町を思わせる。
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Latte ユーザー

2014/07/02

朝4時半(ベトナム時間)、部屋は8階。
眼下の街並がモヤの中から浮かぶ。
赤い屋根 縦長の窓 バルコニー
程よく古びてヨーロッパの田舎町を思わせる。
それもそのはず、第二次世界大戦の前およそ100年間、ベトナムはフランスの植民地だった。
その前はというと紀元前から中国の歴代王朝との従属、反発の歴史。
バルコニーにタンクトップの老人が表れ、ゆっくりと体操を始めた。
モヤはすっかり晴れた
6時一番乗りで11階の展望レストラン,朝バイキング。
11階のレストラン。入り口にはスレンダーの女性、
ワイシャツに黒のスラックス笑みはない。

バイキング、やっぱりフォーはあった。
淡白な、関西のにゅーめんを思わせるような。
ホテルへ向かうバスの中、ガイドのLさんが
朝からフォーは食べない。ホテルでは出ない。
とか言ってたが。
フォーと野菜とたっぷりな果物そしてナッツの香りのベトナムコーヒー


ホテルを出ようとするとボーイがタクシーを呼ぼうと近づいた。
ウォーキングと僕は答えた。フリータイムは今日1日だけだ、歩かねば。
そうスマホにはオフラインナビゲーターもある。それにガイドブックの必要なページのショットも、準備万端。
だがナビは1000kmも離れたホーチミンが表示される。ハノイ市までムーブさせてもGPSと連動しなかった。(アプリの不良ではない、操作手順、午後には判明)
バイクの群れが押し寄せてくる、体を掠める。まごまごしてられない。
いやまごまごもっそとしてる人がいる。そうバイクが来ようが車が来ようが。
自転車の後ろの荷台に茶碗、皿、カップごそごそ積んで。



ナビゲータは使えない。幸いガイドブックから市街図だけ切り離して持ってきた。困った時のアナログ頼み。
どうやら目指す所はこの通りを渡って次の通りを行けばいいらしい。だがバイクの群どうやって渡る。しばらく待ったが途切れそうもない。店の間の狭い路地から袋を下げた老婆が出てきた。
その老婆躊躇せず、バイクの群の中に。
危ない!と叫びそうになったが、するすると老婆は通りの向こうに。凄い! 老師と呼ぼう。
まて僕は老師に会いに行くのだ。
第二次世界大戦後のアジアの指導者
中国の毛沢東、インドのネール、そしてベトナムのホーチミン。
僕の最初の目的地はホーチミン廟。

待ってくだされ老師と叫ぼうにも、通りを渡り終えた老婆はまた路地へ吸い込まれ行った。

ここを渡らなければ行けない、一歩車道に踏み出したが怖い。
僕を轢くな殺すな、轢いても損をするとバイクの方が避けてくれているのだろう、なんとか岸へ。
あはは三途の川でもあるまいに。どっと汗。
街路樹には気根がぶら下がっている。空気中から水分を吸ってこんなに大きくなれるのだろうか。
地中の根と気根との水分吸収量の違いはわからないが、
街の除湿機の役割を担っていることは確かだろう。
僕の汗も吸ってくれ。


どんよりとした曇り空、方角もわからないし、現在地も分からない。ここはどこ、私はだーれ。今さら自分探しの旅でもない、66才根気が薄れている。ぼんやりとバイクの側に立っている兄やんに道を聞いた。Ho Chi Min Memorial Where?兄やん黙ってヘルメットを僕に。しまったセオム( バイクタクシー)だ。セオムはトラブルの元だとガイドブックでも、ネットでも。それよりこのバイクの激流の中を尻乗り、通勤ラッシュのさなかを。まあええわ、なんてったって66才だ。7月2日水曜日。日本の僕の町では、コーラスの練習日、公民館の歌を歌っているころだ。さっきはバイクの流れを渡るのに怯え、今はバイクの流れの中。


バイクとバイクが擦れ合う、密集。雨まで散らついてきた。そうだバイクタクシー以前も乗ったことがあったんだ、海南島の海口、市内から空港まで、車も少なかったしバイクも少なかった。バイク飛ばしてくれたね。中国の国内ツアーに日本人一人参加した。海南島の南端の岬に立った時、天涯とか言った。緯度から言えば南北に長いベトナムの中程。夕日が沈もうとする。あの海の彼方にベトナムが、アメリカの物量に打ち勝った国、いつかは必ず行こう思ったものだバイクタクシーはバイクの流れから抜け出し、由緒ありそな建物の並ぶゾーンへ。芝生の広場?の向こうに白亜の建物。あれがガイドブックのホーチミン廟(記念館)、そう思った途端バイクは急に停車、バイクの兄やん右に回って行けという。確かに遠く行列のようなものが見える。兄やんまだ大分ありまっせ、入り口に着けていなOh no. Please go to the entrance.兄やん情けなさそうな顔して黙りこんだ、ひよっとして、そうかもしれない。僕に思い当たることが。その予想が当たっていたかどうかはすぐにわかるだろう。そうこんな黄色い建物の近くに下ろされたのだ




右に回ってしばらく行くとさっき見えた行列が建物の中に吸い込まれて行く。行列の最後尾は見えない。これも金網越しの芝生越し。衛兵に尋ねようとしたら右へ行けと手振り。またしばらく行くと衛兵が右へと、その次も同じく。二度金網のコーナーを回ってやっと入場門に。バイクタクシーを下ろされたところから10分近くかかっていた。水の入ったペットボトルは没収、カメラは預かるという。番号札をもらう。やっと廟の入口、階段の両脇には儀仗兵2人づつ。その一人が帽子を脱げとジェスチャー。 私を外国人だとみてのジェスチャーなのか、そういえば入場門からここまで話し声がない。子連れの市民もいるというのに。僕のトレードマークのハンチングを脱いで列の中に。建物の中は暗く肌寒い。ゆっくり列は進む。階段を登りガラスのケースを見下ろす。ケースのコーナーには儀仗兵が立っている。この暗がりに不動の姿勢で。よくみるとマネキン。ケースの中にはホーチミン。生前のホーおじさんの姿を極力保つための特殊加工をした柩(ひつぎ)。列は立ち止まることも、祈ることもなくゆっくり進み出口へ。蒸し暑い庭園、今見たホーおじさんでなくグエン・アイ・クォック(阮 愛國)と名乗った彼の青年時代の肖像が急に脳裏に。その顔はあのバイクタクシーの兄やんに似ていた。



(写真はWikiPedia)

社会主義国における個人崇拝、ソ連のレーニン。中国の毛沢東、そして北朝鮮の金日成。
搾取されていた階級の解放を目指した指導者が、宗教の教祖のように祭り上げられている。
北朝鮮の万寿台に訪れた時、金日成の像の前でツアーの集合写真を撮る予定だった。

少し予定が遅れてしまって、万寿台についた時は日が西に、
ツアーのガイドは切なそうにこう言った。
大元帥様の頬が影に。このお姿を撮るのは胸が痛む。だからここでの写真撮影はやめにする。
社会主義国の指導者はいつも完璧であらねばならぬらしい。
20年以上前のことだった。
    
柩から早く離れよう。
ホーチミンはリスペクトしているが、柩(特殊加工して生前のままの姿に)はゴメンだ。
順路を急いで、入ったゲートが見えるころになっても、カメラを預けたキャビンが出てこない。
あー 出てきた。だが道がない。そう行きに寄れるだけなのだ。
仕方がない、細い排水溝(蓋付き)を辿ってキャビンに。
しょうがないなという顔をして、キャビンの中に入れと、
椅子に座らされ、若い衛士が扇風機を向け Wait 5 minutes
どうやら預けたカメラを受け取る場所は別にあったらしい。
ゲートを出ればやはり喧騒の街。バイクタクシーが寄ってきた。
同時に衛兵も。
バイクタクシーのドライバーが僕に声をかけると衛兵が何か叫んだ。
そうかこの地域でバイクタクシーは制限されているようだ。
だから行きのバイクタクシーはゲートから離れた所で僕を下ろした。
あのときの予想は2001年訪れたキューバでの思い出に重なったからだ。

2001年 僕はメキシコからキューバに、ハバナに1週間ほど。
その帰り旧市街地から空港まで乗ったタクシー(無許可なのだろう)年代もののアメ車、路地で急に止まって金を請求され、僕は拒否。「空港に着けてくれ」
目の下を指で引っ張ってドライバーは何かを必死に。僕にはわからない。
で空港のエントランス、警官(空港の職員かな)がドライバーに詰問。
で彼は振り返ってアミーゴ、アミーゴと叫んだ。そして早く降りろと。金も受け取らず車は去っていった。
友達を送っただけで商売なんてしてないよという事なのだろう。取り締まってるほうもそんな嘘は分かっていたのだろう。

狭い路地、割れたコンクリートに水がたまっている。
両側には海産物の店が並ぶ、貝、海老、魚、みなアルミの盥に。
時間帯が違うのか客の姿はない。
鯉の輪切りが板の上に並べられている。真子(卵)を抱えたものもあった。
利根川沿いの町(佐倉だったか)で鯉の輪切りを買い、
半日かけて旨煮を作ったことを思いだした。
買ってもホテルでは作れない。
南のホーチミンはメコンのデルタが作った町だが(今はメコンの本流とは離れているが)ハノイは紅河のデルタが作った町、漢字では(河内)と書くのだ。

狭い路地、ハノイの人たちは静かだ。ホーチミンでは言葉が飛び交っていた。
路地を抜けてまた大通りに
SIMのSHOPが並んでいた。通信料込みのSIMを買うというのがハノイの、東南アジアのスタイル。
日本も最近格安のSIMが流行ってきたが、月額制が多い。
まて日本通信の初期は通信料込みのSIMが多かった。
日本のモバイルインフラも開発途上国から学ぶことも多いはずだ。


大通りの歩道の脇には無数の路地。そんな路地を眺めながら歩いていたら路地奥に床屋が見えた、青空床屋。鏡と椅子が路地の曲がり角に。
ハノイの床屋に行こうと決めていた。
家内が旅行に出かける前に「頭やろうか」と電気バリカンを引っ張り出したのだが、
「ハノイの青空床屋へ行くさ」と断った。
そう僕は、マカオ、インドネシアのバリ島、上海とその地の床屋に行ってきた。
マカオは石畳の坂の途中、庇の下。上海はマンションの守衛所のような小屋。
バリは雑貨屋の隅だった。

青空床屋には先客がいた。肩の筋肉が異様に盛り上がったタンクトップの男。
仕上げが終わりシャツをはおった男は、持参した櫛で髪をなでつけた。自分で梳かさなければおちつかないのだろう。
入れ替わって僕が鏡の前に。いかつい顔をした床屋の男は、僕が何人かはかりかねているらしく何も言わない。僕は親指と人差し指をくっつけて Very Shortとそれから頭の前から後ろに指を広げて
Skin Head と。
彼は電気バリカンを取り出した。2枚の歯を1枚にしてぽんと指先で弾いた。
これが一番短いがいいかということだろう。
バリカンは一気に。
それから、鼻の下にシェービングクリームをつけてカミソリを当てた。早い的確だ。
これでどうだと鏡の後ろから、Goodと応えると、いかつい顔がくずれた。

また大通りへ、ひとまずホテルに帰ろう
歩道にガードマンの詰め所のようなものがあった。椅子が一つに菜っ葉色の制服を着た若い男がいた。地図を広げて道を聞くと、
詰め所から出てきて片手を伸ばしまず交錯する道路を示し、
それから30度ほど体の向きを変え、伸ばした手をさらに伸ばした。交差点の前に小さな通りが見えていた。
僕も真似た、男は頷いた。
男の指した方向へ、3本の道路を命からがら渡る。

フーと息を吐いた僕に、歩道で座り込んでいた女がいたずらそうな目をして笑う。
女の前には油の入った鍋と、 豆腐、練り物、フォー、野菜を並べた笊があった。
なるほどここで揚げ豆腐とさつま揚げを作ってくれるというわけか
いくらと聞いたら、まず座れと小さな椅子を指差す。


屋台はやめろと昨日ガイドは言っていたが、座ってしまったら仕方がない、ここで食べよう。
女は長い箸の先で笊のものを指す。僕は頷く。
油がたぎる。豆腐や練り物が揚がり皿に並べられる。
その皿に野菜とフォーを固めたようなものとニュクマム(ベトナムの魚醤)を添えて
女は豆腐を次々と揚げていく。揚げ豆腐というより油揚げみたいなものだからいくらでも入る。
どうだうまいだろうと女は得意気
何の油だろうか油濃さがない。
それでも飲み物の欲しい所。見計らったように女はジョッキをあおる真似を。思わず「おう」と。ヤバいアルコールはドクターストップされていたんじゃ、女は通りの店から生ビールを。

ホテルにやっとたどり着く。シャワーを浴びてベッドに。

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