初めてのハノイ(ベトナム)行 - Latte

初めてのハノイ(ベトナム)行

  • 旅行期間: 2014/04/29 ~ 2015/05/03
  • 作成日:2015/08/12 12:02
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① 4月29日(火・休日)、JAL751便でハノイのノイバイ国際空港へ、成田空港からの出発。ベトナムのハノイ(ノイバイ国際空港)着は23:00(現地時間)頃到着。
② 4月30日(水)、午前中は、街の屋台での昼食を兼ねた自主市内探索。
 午後からのタイムトラベルツアー(軍事歴史博物館と民族博物館巡り)。 
  ホテル近くの雑貨屋で夕食用のスナック購入。
③ 5月1日(木)、午前中の『ホー・チ・ミン廟』とベトナム最古の大学『文廟』、 及びホアン・キェム湖とその中にある寺院への入場観光。 
 午後からは、市内及びホアン・キェム湖付近への自主観光。ホテル内での夕食。
 昼食は、ホアン・キェム湖付近の屋台でのコース料理。 
④ 5月2日(金)、現地で購入した地図を頼りに一日中、ホアン・キェム湖周辺やド ンスァン市場・ ドンスァン通り、及び軍事歴史博物館や文廟付近を徘徊しての 自主市内観光。 昼食は、ドンスァン通りの旧市街にある、人気レストランにて ベトナム風コース料理。 夕食は、ホテル近くの屋台でのベトナム風中華料理。  JAL750便(23時頃の出発)で、ノイバイ国際空港から成田空港へ出発。
⑤ 5月3日(土)、早朝成田空港着にて帰国。

ハノイ(ヴェト・ナム)行  ①出発

 最近、「自分は、生き急いでいるのか?」と思ったりする。
現在の業務が、原発の近傍に在り、危険を伴うものだから…という訳でも無い。
 ただ、「自分は何時死ぬかも分からない。」と、最近強く思ったりする。(こんな事を言う人間に限って、生きながらえたりするものなのだが!)…であれば、「今自分がやりたい事をしよう。」と、最近頓に思う。
 いろいろと逡巡している間に、人は老いていくものなのだ。


 前述の様な心境もあり、4泊5日で自分は以前より行こう思っていた、ヴェト・ナム(”越南”という漢字のベトナム語読み。これよりは、”ベトナム”)のハノイに行くことにした。 

 知ってのとおり、ベトナムは南北に長く、ホーチミン(旧サイゴン)市はおろかフエやダナン、ホイアン等見どころはいっぱいあるのだが、時間もない事とて、今回は北のハノイのみになった。
 今回の旅は、HISを利用したので、手続きは殆ど自分がやる事になった。
 チケットは旅行会社が予約を取ってくれたので、搭乗手続は自宅のパソコンで行い、オンライン搭乗券(eチケット)もパソコンにてA4サイズで打出した。後は空港で出国手続き(出国審査・安全チェック)をして飛行機に搭乗するだけである。


 オプショナル・ツアーは、①博物館めぐり、②ハロン湾クルーズ観光、③バッチャン村(陶器村)④ハノイ市内観光⑤水上人形劇鑑賞等が有ったが、現地でもツアー参加が可能らしかった。 自分は市内巡りを自分の足でもしたかったので、取りあえず①博物館(戦争博物館・民族博物館)巡りと、②市内観光を選んだ。

  (一人旅は割高である。一人部屋であっても二人料金だし、オプショナルツアーも『最低二人以上参加なので…』と、よく解らないが、これも二人分の料金であった。)急な旅立ちだったので、シェアする相手も思いつかなかった。

 出発は4月29日。何時もの様に霊山越えで福島に車を置き、朝一番の新幹線で東京駅着。そこから成田エキスプレスで成田空港第2ターミナルに着いたのは朝10時頃の到着だった。少々早すぎたきらいはあったが、読むべき資料もあったので、マイレッジバンク登録をしたりして、適当に食事をしながら過ごした。

 オプショナルツアー等も含めて、費用の支払いはすべて済ませていたので、「現地でも両替は出来ます。帰国後の両替は損しますよ!」との助言を受けてベトナムの貨幣である”ドン”への両替は3万円しかしなかった。 当日の相場は、1000ドン=5.6円だった。ドンは紙幣の種類が12種類と多かったが、成田での両替は汎用性を考慮したのだろう、20・10・5万ドンしか両替できなかった。日本円換算は1000を切ったドンへ5.6円を掛ければよく、10万ドンは100×5.6円=560円という訳だ。

 飛行機は、日本航空だった。 出発は18:10だったが、成田には、HIS係員が一切おらず、搭乗券は自宅のパソコンで入手していたので、15;00頃自分で出国審査・手荷物検査を受け、搭乗口迄進み、待合室で暫く待ったが、最初まばらだった乗客も、出発時刻が近づくと大勢になった。

(下は、”成田エキスプレス”の車内の様子。)

(”成田空港第二ターミナルビル北ウィング”の様子。)

(”成田空港第二ターミナルビル北ウィング”の様子。)


(”成田空港第二ターミナルビル北ウィングの出発便の案内板。)

(”成田空港第二ターミナルビル北ウィング”の駐機の様子。)


ハノイ行  ②到着

 JAL751便での、ハノイのノイバイ国際空港への成田空港からの出発は、 ほぼ定刻の18:10だった。ベトナムと日本の時差は-2時間。下調べをしていた、好きな種類の機内食を早々に済ませ、手持ちの資料を少々読んだ後は、アメリカ旅行の時と同様に、空いていた隣の3列シートに横になった。(ハノイまでの飛行時間は6時間程という事で、空港到着は24:00頃なのだが、時差が-2時間なので現地時間では22:25予定という事であった。)

(下の写真は、JAL751便での機内食)


 2~3時間も寝ただろうか? やはり楽しみにしていたので、自分は興奮していて、到着の2時間も前から眠れずに起きた。
 やっと着陸態勢に入り、ハノイの上空に差し掛かると街並みが見えてきた。 それは、東京の様な眩いばかりの煌びやかな明るさでなく、道路は明るいが、 他の建物は赤や紫やピンクの幻想的な色調で浮かび上がり、さながら別世界の様であり、幻想的で、蠱惑的でさえあった。(ベトナムは、あの”悲惨な”ベトナム戦争で、”300万人”とも云われる戦争犠牲者を出した国であり、南北統一のなった現在もそうだが、当時北ベトナムの首都であったハノイは、アメリカ軍の北爆(空爆)で、”猛爆撃”を受けた都市である。その後、アメリカ軍がベトナムから完全撤退し、1975年の4月30日サイゴン(現:ホー・チ・ミン市)を根拠地としていた南ベトナム政府が敗北して、南北ベトナムが統一され、戦争が終結してから39年。) 

 自分にとってその街並みは、”不沈艦”か、はたまた蘇った”不死鳥”の如くに浮かび上がってきて、その存在感に圧倒される思いだった。 「よくぞここまで復興したものだ…!」と、その存在感と逞しさに、泣けそうになるほどにこみ上げてくる来るものがあり、感動した。   「すごい国である・・・!」と。

 ベトナムは現在、中国の”改革・解放政策”と同様の”ドイモイ(刷新政策)”が施行されており、経済発展の途上にあって、ハノイも街中いたるところ建設ラッシュである。そういった政策の影響もあるのか、出入国に関しても簡素化されており、ビザは無いし、出入国カードの記入も無かった。
 自分の荷物は簡素化していたので、機内持ち込み用の物だけであり、すぐ入国審査の一番先頭に並んだ。税務申告も、5000米ドル以上の持ち込みが無ければ申告の必要は無く(無申告でも良いが見つかれば没収である。)、自分は入国審査で、審査官に、英語で「何日の滞在予定か?」と問われ、「4日間。」と答えただけだった。バッグの中身も検査を受けなかった。
 勿論、審査官達が無能でもサボっている訳でも無く、其方此方で警官と思しき人達が、間違いなく目を光らせているのは分かる。 多分、問題ない事には規制をゆるくし、観光客等が訪れやすくしているものと思われる。
  多少不安はあったものの、何とか自力でベトナムに入国は出来た。HISの現地係員が迎えに来ている筈なのだが、なかなか見つからなかった。

 「偽者の出迎え員が横行しており、気をつけよ!」との事だったので不安がよぎったが、係員の予想より、自分が余りにも早く、入国審査を終えて出てきたためだと分かった。(出迎えは、後の市内観光のガイドの陳(チェン)さんだった。)
 ホテルは、スタンダードクラスを選んだのだが、自分にとっては、地理的にこれが正解だったし、サービスも十分だった。 ホテルの近くの街並みには建設途中の高速道路の橋脚が見え、市民が家族と共に訪れる街の食堂群が見える。

 自分も、朝のバイキング以外でホテルで食事をとったのは一度だけ。あとは毎日出掛けて行っては、あちこちの食堂で食べ歩いた。

(下の写真は、ハノイで連泊したホテル)

(部屋の内部)




(ホテル近郊の街の風景)


ハノイ行  ③ホテル界隈

 到着の翌朝、4月30日にホテル(サニー3ホテル)で目覚めると、その日は奇しくもベトナム戦争が終結した終戦記念日(現地の人達は祖国統一記念日と呼ぶ)であった。 自分の部屋は7階の702号室。 

 朝食をとりに11階のレストランへ行くとビュッフェ(=バイキング:食べ放題)形式であった。 ホールには、後で仲良くなる接客係りと料理係りの22~25歳位の同年代の2人の青年が居て、フォーを作ってくれたり、「これは生卵か?」と自分が聞くと「オムレツを食べるか?」と作ってくれたりした。

 麺好きの自分が予想してた様に、フォーはとても美味く、おかわりをしてしまった。 レストランから見た眼下の景色は異国情緒たっぷりであった。

(レストランで懇意になった青年と、ハノイの街並みとフォア)

(彼が移してくれた、私の写真)

(レストランからの眺望)

(街並みの詳細)


(毎朝ビュッフェで食べたフォー)

(ホテルのレストランのスパゲッティ)


 この日の予定は、午後からのタイムトラベルツアー(軍事歴史博物館と民族博物館巡り)であったので、朝食を済ませると早速近くの街中に繰り出した。サニーホテルの周囲は、多くの一般食堂や商店街が立ち並んでおり、統一記念日の休日ともあってか、朝から食堂では多くの人達が食事をとっていた。

(下の写真は、朝の街並みと朝食の風景)



 (都会に限っての事だと思うが、ベトナムでは、多くの家庭では自宅で朝食を作らず、街中の食堂へ出かけ、食堂を利用するのが一般的だと聞いていた。) 自分は、『これは旨そうだ!』という店に目星を付け、昼食はそこで食べる事にした。 ”これがいいのである。!

 【平成5年にシンガポール航空の抽選に当り、シンガポールを訪れた時に、下調べをして食べに行った人気店の”ベトナム料理”はその味にやみつきになり、滞在中は毎夜そこに通い、ベトナム料理の美味さは知っていた。 台湾でも自分勝手に歩き回り、美味い食堂に何度も通った。平成11年に、妻の発案で家族でタイに行った時は、水事情があまりにも悪く、現地のガイドさんから「必ず下痢になるから外の屋台では絶対に食べない様に!」との助言があり、余りの旨そうな匂いにフラフラと足が向くのを我慢したものだった。そのガイドさん曰く「タイ国内でも、アユタヤ等の地方は良いがバンコック等の都会での水事情はあまり良くなく、其の為に自分たちは長生きは出来ないのだ。」と嘆いていた。

 それでも、後でどうなったのか知る由もないが、ベトナムでもそうだった様に、所謂”欧米の人達”の多くが食べているのをよく見かけた。我々は、その代わりに”持ち込み禁止”のドリアンを、隠してホテルに持ち込み、ばんばん食べたものだった。何しろ、タイ料理は全て美味かった。 自分が、今迄食べたアジアの料理の中で、何が好きかと問われたら、①日本食②日本で食べる中華料理③タイ料理④ベトナム料理…だろうか?ところが、ベトナム料理は奥が深く、自分が食べたのはほんの前菜にも満たないものであり、底が知れない。探求の余地あり…である。】

 また、ホテルの界隈では至る所で、通りのここかしこでは”朝市”が開かれていた。羽を毟っただけの姿そのままの鶏、ベトナム豆腐、山の様に盛った豚肉・鶏肉・牛肉、包丁でなく大きな鋏で捌いて売る魚、花、ノンラー(ベトナム独特の日よけ笠)等々、活気にあふれていて、まるで沖縄は那覇の”牧志(まきし)公設市場”を見る思いであった。 

 (下の写真は、朝市の風景)

(魚を鋏でさばくおばさん)

(肉類を売る人)


(鶏肉を売るおばさん)

(昼食用の焼肉を作る人)

(土産用の鶏の丸焼きを作る人)

(土木の作業員と思しき人。砂利をリヤカーに積んでいる。)


 そこを切り上げて、一旦ホテルに戻った。HISのガイドさんは、「不衛生なので、外での食事はあまりしない方がいいですよ。」と言っていた。確かに、食堂を見ていると、食べ終わった食器は水洗いをしているだけだし、洗い終わった水は近くの道路に捨て流していた。 が、昔はどこの国でもそうだったろうし、ホテルの水道も、アメリカ・台湾・タイ等と違って飲めるのである。

 意を決して、フロントの支配人に尋ねると、「屋台は大丈夫と思います。」という言質を得たので、自分は早速時計を外し、ヨネックスの短パンに履き替え、Tシャツ姿になって、ホテルで許可を得たゴム草履を履いて目指す食堂へ行った。 そこへサングラスでもかけたひには、怪しい事この上なかっただろう。
 (実は、自分は『外国人は”ぼられる”。』という間違った前知識を得ていたのだった。そして、必要な代金を支払うのに否やは無いが、”ぼったくる”と言う、だましにも似た行為を受けるのが嫌だったし、それをさせるのも嫌だった。)
 何せ、食堂の人が一般の街の人なので英語は全く通じないだろうしと、自分はそばにいた女子学生と思しき人達に事前に断っておき『彼女等と同じものを食べたい。』旨をゼスチャーで伝えた。 それを理解したらしい彼女等はそれを店の主人に伝えてくれた。その店は夫婦で営業していたが、奥さんがニコニコしながら作って出してくれた。 出されてきたものは、チャーハンらしきものと、牛肉と高菜の様な野菜との炒め物、そしてスープであった。そして量が半端なく多かった。チャーハンは、日本で食べるジャポニカ種と違い、インディカ種のタイ米(?)なのかパサパサとはしていたが香ばしくて美味かった。一方、炒め物は酸味が効きすぎており、少々残す羽目になってしまったが、これは”腹が一杯”というゼスチャーで勘弁してもらう事にした。 実際満腹であった。
 自分が食べている間中は、明らかに「この外国人は何なんだろう。怪しいやつだ!」というような周囲の好奇の目線が分かり、食べずらかったが、『それとは解るだろう。』とは、自分でも思っていたので、構わず食べた。
 食べ終わる頃には、慰めるつもりなのか、「悪く思っていないよ。好意を持っているよ。」という意味なのか、それでなくとも安い食事代なのに、店の主人が『飲みなさい。』とばかりに、瓶コーラ(300m㍑位のこのコーラは、近くの雑貨屋でも5000ドン、観光地等では15000ドンする。)を持ってきてくれた。
 これだけ食べて、代金は3万5千ドン(約200円)であった。日本とは物価がまるで違う。しかし、3万5千ドンは現地の人達にとっては、高価なお金である。

 消費するのは構わないが、日本での金銭感覚で無駄な金銭の使い方をすれば、確かに『日本人は金持ちだ!』とばかりに、ふっかけられたりもするのだろう。 その後、外食でいろいろ食べたが、腹痛を起こしたことは無かった。

(下の写真は、外食で食べた昼食)


ハノイ行  ④博物館めぐり

  4月30日の午後からの予定は、軍事歴史博物館と民族博物館だった。 ガイドさんは『阿(ア)』さんという髭を蓄えた老人で「あべの”阿”と書きます。」と言っていた。太平洋戦争後にベトナムに残り、第一次インドシナ(抗仏)戦争で、ベトナムの人達と共にフランス軍と戦い、現地に残った日本人は少なくないと聞いている。年齢的に考えれば、太平洋終戦当時20歳だったとしても、今は90歳程の高齢の筈である。それとは違うが、自分は最初「日本人ではないのか?」と疑がい問うて見たが、彼は「ベト族です。」と言っていたが自分は今でも疑っている。 かほどに”阿”さんは日本人に見えた。
 翌日のカンボジア系(写真中央で横向きの方)の女性のガイドさんも『陳(チェン)』という姓だった。 かの有名な、ベトナムの英雄で指導者であり、革命家でもある政治家のホー・チ・ミンも漢字名は『胡志明』であり、変名がグェン・アイ・コック(阮愛国)である事は広く知られている。
 ベトナムは漢字文化圏に属しており、人名の多くは、漢字一文字の漢姓(稀に二字)と一字か二字(稀に三字)の名からなる構造は中国と共通しているという。
 ベトナムは、過去に”千年”ともいわれる中国の支配を受けており、建物や食も含めた諸文化への影響が今も色濃く残っている。中国に対しては、抑圧を受けてきた屈辱的な感情もあろうが、親近感もあるはずなのだと思うのだが…?
 しかしながら、”ベトナム戦争”時には、中国よりも多くの助力を”ソ連”に頼っている。 そして、ベトナム戦争終結後には『中越(中国とベトナム)戦争』を引き起こしている。 現在でも”ロシア”からの観光客は多いと聞いている。

(現代の中国というより”政治指導者”なのだと思うが、余りに覇権主義に突っ走り過ぎている様に見える。まるで軍国主義の感がある。
 およそ40年以上前に、故郷の”いわき”で、その頃から「ソ連は官僚主義、中国は軍国主義」と言って憚らなかった、早稲田大学出の大叔父が居たが、今更ながらその”先見の明”には驚かされる。中高校生の自分に一所懸命に話してくれた。 自分は、実父よりもこの大叔父に多くの薫陶を受けたものだった。)


 その後、フランスは、清朝末期の時代に、アヘン戦争等で清朝が弱体化すると、イギリスと共に中国への影響力を強め、中国のベトナムに対する宗主権(支配権)を放棄させ、ベトナムへの植民地支配を行い、100年(1847~1946年)と云われる統治を行った。 そして、第一次インドシナ(抗仏)戦争の、”ディエンビエンフーの戦い”で、フランスがベトナムに敗北して撤退すると、当時の冷戦時代(第二次世界大戦後の世界を二分した、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造)の影響により、1954年の”ジュネーブ会議”により、ベトナムは北緯17°線で南北に分断され、アメリカが南ベトナム政府に加担し、1962年12月に軍事介入し、”ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)”が始まったのであった。


(”インドシナ”とは、インドとシナ(China=チャイナ=チーナ=支那:秦(シン)が語源という説がある。)、つまりインドと中国に挟まれ、その影響力の強い地域(インドシナ半島)の事であり、狭義にはベトナム、ラオス、カンボジア、広義にはタイ、ミャンマーも入る。) 

 話しを元に戻そう。最初の『軍事歴史博物館』は、ベトナム戦争で使用された兵器類が多く展示されていた。  中でもアメリカの戦車は品質が高く、当時のソ連製の、融けてしまって皆無だったゴムキャタピラーに対し、アメリカ製のそれはゴムキャタの弾力性が未だに保持されていて、その性能が、如何に高品質(高価)だったかがよく解る。外には”ディエンビエンフーの戦い”を映像や模型で再現して見せる部屋や、アメリカ軍の猛攻の中で、南北を繋ぐルートとして確保されていた、海上やジャングルの中の『ホー・チ・ミンルート』の実物大やミニチュアの展示コーナーも設けられていた。

 ガイドの”阿”さんは、後日聞いたら、もとは教員だったという事で、説明が上手で、勿論日本語は堪能だった。翌日の市内めぐりもそうだったが、客は私一人で、サラリーマンガイドである彼等曰く、「非常に楽で良い。」という事であった。 この博物館には、言葉を聞いていると、アメリカ人(ベトナムとアメリカは、1995年8月に国交を回復し通商禁止も解除され、”貿易最恵国”とされている。)やフランス人も多く見受けられていた。 入館料は5万ドン(約280円:含、旅行費用)であり、3万ドン(約170円)の撮影許可料を払えば何処でも好きなだけ写真を撮影できた。彼等(かつては敵同士)はバシャバシャとばかりに写真を撮りまくっていて、自分としては、それを見ていて何やら複雑な心境であった。 ベトナムへの観光客で一番多いのは中国人に次いで、欧米人ではフランス人だそうな…。

(下は、街の喧騒の状態。)


(『軍事歴史博物館』の展示物。”撃墜されたアメリカ軍の戦闘機”)

(『軍事歴史博物館』の戦闘機星の数は撃墜した敵の戦闘機の数。)

(下は『軍事歴史博物館』の展示物の爆撃機。)

(旧ソ連製の戦車)

(米軍の戦車)

(アメリカ軍が残した空薬きょう。)

(”ディエン・ビエン・フーの戦い”の説明会場)

(地下壕の模型)


 次の民族博物館でも”阿”さんの懇切丁寧な案内は続いた。ベトナムの憲法には、『ベトナム社会主義共和国は、ベトナムの地に、共に生活する各民族の統一国家である。』と規定されているとおり、北の中国系、南北のヴェト(キン族等)族、中部のラオスやカンボジア系、その他山岳民族…と、ベトナム政府が公認しているだけでも54の民族がいる。その生活様式や家の建築様式等は多種多様な文化を垣間見る事ができた。(下の写真は、『民族博物館』前にて)

(ありとあらゆる、多彩な民族の紹介の一部)

(下は、木の皮で作られた服。)







(ベトナムの”女系家族”の象徴、乳房の彫られた柱。)


(下は、高床式の家屋。)


 そこでは、別オプションで見る事になっていた『水上人形劇』が、笛や太鼓の賑やかな楽隊の演奏と共に実演されていた。聞けばアジア人の中でもベトナムの人達は手先が器用で、すごく繊細な作業もこなせるというが、”傍に設置された帳(とばり)の中から、水中の棒や紐で操る。”という人形の動きはリアルで繊細で、そのことがよく解る気がした。(下は、『民族博物館』での水上人形劇)



(『民族博物館』の入口。)


 それらが終わり、ホテルへ戻る途中で『お茶を一服!』という事になり、お定まりの、とある”コンビニショップ(土産店)”でお茶を頂くことにした。お茶は、”ロータスティ”と言い、ベースは緑茶で、蓮の花を乾燥熟成させたものを入れたもので、薫り高く味も良く、飲めば確かに心身共にリラックス出来る良い品であった。

 外には、ベトナムシルクのスカーフや、つとに有名なベトナムコーヒー等々が有ったが、こういった店では割高なのが分かっていたので。①ロータスティ②ベトナムコーヒー③乾燥蓮の実等約30米ドル(約3000円)程を購入した。気に入ったのでロータスティは2種類を買い込んだ。後刻に調べてみると、やはりそれらはいずれも相場の3倍程の価格だった。

 現地のガイドさんへはいくらかのバックマージンがあるのだろう。それらを認識しつつ、現地で対価を支払うのはやぶさかではないが、前項の③『ホテル界隈』でも述べたように、『ぼったくる』という、騙しにも似た行為を受けたくなかったし、その行為を見るのは良いものでは無かった。 支払はドンで行ったが、税込みで66万ドン(約3700円)と更に高くなった。ベトナムでは税制度はあるが、通常の買い物ではそれは対象外であると聞いていたが、自分はそれを支払った。

 そして、これもガイドブックで調べていたのだが、”米ドルでの支払いは原則禁止”という事だったが、情報が古かったのか、ドイモイ(刷新)政策の推進によるものなのか、現地では米ドルでの支払いは”ウェルカム(大歓迎)”であった。やはり世界を席巻する米ドルは強いのである。
 自分は、支払いの際に財布の中身を見られたのか、自分が余程金持ちと思ったのか…?これもベトナム原産で有名な”スタールビー”の店にも行った。スタールビーは確かに美しい。赤紫色で透明感があり、横一列に5個程の光を放つスターが見える。勧められる2万円程の米粒の様な、光も何もない小豆色の石を無視して、ショウウィンドウの中の気に入った石を見せて貰うと、相手は怪訝そうな顔をしながらそれを大事そうに出してきたが、値段を聞くと1900米ドル(約20万円)という事だった。仕方なく、勧められるままに自分は付き合っていたが、最初から購入の意志は無かったので、適当にして切り上げた。
 最初、ベトナムでのチップは不要と聞いていた。…が、”郷に入らば郷に従え”と考え直し、到着の夜に出迎えの現地ガイドさんに聞いたところ、「毎日の必要はないが、最後の日に5万ドン(280円)位」という事だった。…が、『少しおかしい?』と考え、暫らく様子を見る事にした。
 ホテルのドアマンも、閉め損ねた窓の開閉に来てくれたベッドメーキングの若い女性もどうもチップを欲しがっている様には見えなかった。
 そして、外の現地食堂で食事をしてみて確信した。『一寸相場が違うのではないか…?』と。我々日本人にとっては決して高い金額ではないが、現地の感覚とはズレがある様に思えた。 今はどうか解らないが、アメリカ旅行の時のベッドメーキングさんへの枕下チップでさえが1米ドル(当時で約100円)だった。


 ホテルの女性の支配人に尋ねたところ、彼女は少し考えてから「約1万~2万ドン位!」と答えたが、それらも実態にどれだけマッチしていたのか解らない。
 フロント係りやドアマン、レストラン等の第一線で接客をする人達はあまり躊躇せずにチップを受け取る。 が、後日に街からの帰り、ホテルのホールで一生懸命清掃作業をしていた女性(少女に近かった。)に1万ドン(56円)をあげようとすると、彼女は困った様子で受け取ろうとしなかった。「もしかしたら、不当な要求を受けるかも知れない。」と思ったのかも知れなかった。 懇意になり、5万ドンのチップを渡したドアマンの青年が、彼女に「大丈夫だから受け取っておけ。」と言う様な事を言っても、なかなか受け取らなかったので、自分は半ば強引に握らせる様に彼女に渡した。また、前述の部屋の窓閉めに来てくれ、その後にコーヒーやペットボトルの水を差し入れてくれたベッドメーキングの女性にも、2万ドンを渡そうとした時にも、彼女も困ったような顔をして受け取らず、例の女性の支配人に、「いいから、受け取っておきなさい。」と言う様な事を云われてやっと受け取り、恥ずかしそうにすぐ奥に隠れてしまった。
 かほどに、汗水垂らして働く彼女等はチップと云うものを全くあてにしておらず、働くことに真剣でひたむきで、チップを差し出されたときは、「自分は物欲しそうにしていたんだろうか?」と、恥じ入るようでさえあった。
 ドイモイの政策でもあろうが、観光業に携わる人達と一般の人達とではかなりのギャップがある様に思えた。
  ただ思うのは、多少のチップや経済効果で金銭的に多少潤おうが、どんなに国が経済的に発展しようが、彼女等の様な働くことに対するひたむきさや自尊心、人懐っこさの様な美徳は、決して失っては欲しくないという思いだった。


ハノイ行  ⑤市内めぐり

  翌5月1日はメ-デ-であり、ベトナムでは唯一の連休という事であった。前述の”陳”さんが、私一人の為に市内を案内してくれた。
  最初は、『ホー・チ・ミン廟』。ベトナムで『ホーおじさん』と敬愛されている英雄の遺体が冷凍保存で安置され、国民皆がよく訪れる場所である。

 廟は、軍人が厳重に守り、中での拝観時には携帯電話は電源を切らなければならない。また、ポケット等に手を突っ込んだままで拝観でもしようものなら厳しく咎められる。服装もサンダル履きや半ズボン等での拝観は出来ない。神聖な場所なのである。 本人の意向としては、遺骸の火葬後に北部・中部・南部に分骨して埋葬し、個人崇拝につながる様な墓所や霊廟の建設は望まなかった。という事だったが、政治は祖国の英雄をそっとしておいてはくれなかった。

(入場見学した『ホー・チ・ミン廟』の入場門前)

(入場見学した『ホー・チ・ミン廟』の前にて)

(『ホー・チ・ミン廟』の衛兵交代の様子。)


 次は、ベトナム最古の大学『文廟』。此処の中国様式の中門のデザインは、ハノイの象徴として扱われている。 その次は、ハノイ市民の憩いの場である『ホアンキエム湖』。ここの周辺は、旧市街やドンスアン市場や食堂街、土産物屋等が集約されている場所で、この日の午後も含めて、翌日も自分は、ホテルからここに徒歩で足繁く通うようになった。

 最後は、フランス統治時代に建てられたという『ハノイ大教会』を見て、市内観光は終わり、一旦ホテルに戻った。 ベトナムでは海外旅行が一般化されておらず、陳さんも海外旅行の経験があるのか無いのか、ひょんな事から出た私の『アメリカ旅行』時の”アリゾナ砂漠”での話での事から、彼女は「砂漠とは、アフリカの様な酷暑の地域ばかりと思っていた。」と驚いていた。

 ”陳”さんは、私の前日の様子を”阿”さんから聞いていたのか、はたまた今日の観光をしながらの会話の中で、「この人は一般の観光客とは旅の仕方が違うのだ。」と思ったのか、土産物店等には一切寄らず、ホテル界隈での雑貨店での買い物の仕方や、土産物店の選び方等を教えてくれたのだった。私一人だけの為に暑い最中車中で待ったり、動いてくれた運転手さんには5万ドンのチップを渡した。 (下の写真は、『文廟』の入口)


(10万ドン札にも描かれているハノイの象徴『文廟』の中門)

(紙幣の10万ドン裏側の図柄に使用されている”文廟の中門”。)


(中に入ると、歴代の科挙試験の合格者名が刻印されている。)

(『文廟』の中。受験前の祈祷に来た女学生の白いアオザイが清楚で美しい)

(下は、『文廟』の入場券売り場。)


  一旦ホテルに戻り、シャワーを浴びてから半ズボンとサンダルに履き替え、自分は昼食を食べる目的もあり、ホテルで購入した2万ドンの市内地図を頼りにホアンキエム湖を目指した。
 自分が方向音痴だと思ったことは、どこっへ行っても未だかつてなかったが、ハノイの道だけは縦横無尽に作られており、この地図が無かったら、あれほどの散策は出来なかった。

(その地図は、最後の日に何処かで紛失してしてしまい、それと気が付いたのはホテルにたどり着いた後だった。)腹が減っていたので、先ずはホアンキエム湖周辺で目星を付けておいた、美味そうな出店を目指した。

 迷いながらホエンキエム湖にたどり着いたが、目的の店を見つけ出すにはあまりにも空腹だったので、『確かこの辺り!』と食堂群を見つけ、美味そうな肉を焼いていた店に飛び込んだ。それは豚肉に香草を入れ、ライスペパーと共に巻き上げて焼いたもので、それをぶつ切りにして、山の様な香草とフォーとスープと共に出してきたものだが、とても食べ切れる量では無く、6万ドン(約350円)というコース料理を頼んだのだが、何かの手違いでこれ以上持って来られても困ると思い、早々と会計をしたら5万ドン(280円)という事だった。 後になって入ってきた独行のアメリカ人らしき初老の女性も同じものを頼んでいたので観察していたら、そこには牛肉らしい美味そうな焼肉が付いていた。それを含めての6万ドンだった。 

 「食べ切れないまでも試食するのだった!」と後悔したが遅かった。その女性は肉類だけを食べてさっさと出て行った。 自分が食べ終わる頃にはその女性と入れ替わる様に、これまた独行の30~40歳位と思われる女性が入店して来て同じものを注文していた。「何処から来られたのですか?」と英語で話すと、カナダからの人だった。このように欧米の女性は、一人旅で来て平気で現地の食堂で食べる。およそ日本の女性達にはできない行動であり、その様に行動する文化が培われているのだろう。

(下は、香草一杯のフォアの昼食)


 食後に、ホアンキエム湖周辺で休もうとすると、ハノイはどこへ行ってもそうだったが、車、とりわけバイクの数が半端なく多く、この日がたまたまメーデーで、それがどう影響したものか、それとも平日もこうなのか、なかなか通りの向こうのホアンキエム湖周辺に渡らずにいたら、傍らに上品そうな老婆がいて、「自分も向こうへ行きたいから、連れて行け」と言う様なジェスチャーで自分の服を掴んでいた。仕方が無いので手を引いて渡り、後で振り返ったら、老婆はキエム湖周辺のベンチに腰を掛け休んでいた。多分、自分が外人だという事は分かって居た筈なのだが…。人懐っこい老婆であった。 (下は、ホアンキエム湖にある寺院への入口)

(寺院の内部)


(寺院内から見たホアンキエム湖。嘗て王侯用の水上人形劇が開催された。)


(下は、ホアンキエム湖近くの旧市街にある、『ハノイ大教会』)

(”ハノイ大教会”の中で行われていた、ミサの様子。)


 今回のハノイ訪問の最後の日となる、明日の買い物や探索の下見とばかりに、商店街土産物店、旧市街やドンスアン市場等を歩き回り、迷いながらホテルに戻った。靴下を履かずに素足に草履履きで歩き回ったので、心配していたとおり足には血豆が出来ていた。
 この夜は、「たまには、ホテルででも食べようか…」と思い、ホテルのレストランへ行きメニューを見たが、殆どがスパゲッティの単品ばかりだった。『少しはホテルにも還元せねば!』とスパゲッティを頼んで食したが、自分の口には”甘すぎて”合わなかった。ホテルにとっては、『お客さんの口に合うものを…』という配膳なのかも知れなかったが、自分の希望するものとはいかなかった。

 翌日5月2日、今回のハノイ訪問最後の日は、又、ホアンキエム湖周辺に行く事にした。 実は、現地参加での、世界遺産の『ハロン湾観光』の機会があり、天気も良かったのだが、自分にってハロン湾は日本でのTVや現地での絵葉書を見ただけでも、その素晴らしさや美しいさは十分わかる。

 自分はそれよりも、ハノイの街にドップリと浸かっていたかったのだった。


ハノイ行  ⑥帰国前

 5月2日。今回の、ハノイ訪問最後の日となった。 何時もの様に、ホテルは11階のレストランに行き、ビュッフェ(バイキング)の朝食をとった。 此処のフォーにほれ込み、外食ではフォーを単品で頼むことは無かった。 知ってのとおり、フォーは米が原料の平打ち麺であり、鶏肉や牛肉の塩等で味を付けた肉を入れ、肉出汁の効いた特製のスープをかけて食べる。

 肉は好みで両方入れても構わない。そこにシークワーサーを搾り入れたり、鷹の爪等を入れたらたまらなく美味しい。その外には粥が旨かった。塩味の効いたゆで卵(これが旨い)と塩ピーナッツと炒め揚げたドライオニオンを加えたら、堪らなく旨かった。チャーハンや肉まん等も有ったが、手を出す気にならなかった。  

 フルーツは新鮮で勿論美味かった。 他人事ながら「なぜ、これらをメニューに加えないのだろう…?」と、不思議に思ったものだった。

 お別れの意味もあり、この日には出勤日ではない、仲良くなったレストランのホール係の少年のような青年には、昨日予め、5万ドンのチップを渡し、オムレツや旨い食事を作ってくれたコックの青年と、昨夜のレストランで懇切丁寧にメニューの説明をしてくれたウェイトレスさんへは2万ドン、今日初めてのウェイトレスさんには1万ドンのチップを渡したが、接客係の彼等はチップに慣れていると見えて、受け取るのに躊躇は無かった。多分チップは渡さなくとも、彼等は嫌な顔はしなかっただろうが、自分としては、『親切にして貰った。』という思いがあり、感謝の意味で渡したかったのだった。部屋に戻って少々休憩をし、いよいよホアンキエム湖周辺に向かって出掛けた。
 出掛ける際には、親しくなった何時ものドアマンが、それと気付き、彼は英語で、「自分の今日の仕事は午前中迄だ。だから今日でお別れだ。」と、わざわざ別れの挨拶をしてくれた。 そして、彼とは握手をして別れた。

 ハノイの街は活気にあふれ、街中には人とバイクと車の数が半端なくあふれかえり、ピーピー・プープーとクラクションが引切り無しに鳴り響き、勿論違反なのだが、ともすれば家族4人乗りのバイクも見かけた。中国の自転車や台湾のバイクの比では無く、このバイタリティがベトナムという国の民族の特性なのかと思った。兎に角、逞しいのである。
 市内観光の際に”陳”さんに「車同士や人と車の接触事故が多いのではありませんか?」と聞いたことが有るが、”陳”さんは「皆運転が上手だし、優しいからぶつかる前には止まる。その割では無いですよ!」と言っていたが、確かに皆アクロバット的に運転は旨いのだったが、帰りがけには首にコルセットをはめた女性を見かけてしまった。 ”要注意”である…!
 また、男性は皆無に近かったが、バイクで走る女性は殆どマスクをしていた。 それは、建設ラッシュもあるだろうが、この日は連休ともあってか、排気ガスが街中に充満しているようで空気は多少悪かった。これも”陳”さんに、「女性達のマスクは、空気が悪い為ですか?」と尋ねたところ、 「殆どが日焼け止めです。」との説明を受けたが、「これは少々違うのではないか!」と思った。
 どうも”陳”さんは、『ハノイのイメージを損なうまい。』と対応している節があった。通常の観光をしていて、殆どが車中であり、観光地だけ徒歩…といった旅は大丈夫だろうが、自分の様に歩き回ったり、喉等の弱い方はマスクを着けたりして、少し注意が必要かも知れない。

(街の大通りにある遮断機も無い踏み切り。家屋がギリギリ)



 この日は大変暑く、ホアンキエム湖沿いの喫茶店に入り、コーヒーフロートを注文した。つとに有名な、”ベトナムコーヒー”は薫り高く、独特の風味があって癖になってしまう。

(『ホアンキエム湖』と”ドンスァン通り”付近にある喫茶店。)


 但し、とても深煎りなので、風味を損なわない程度に、普通に淹れても、とても濃厚であり、カフェインが強いので、胃の弱い方は要注意かも知れない。自分は最初「何かの間違いではないのか?」と思うくらい濃厚だった。
 そこをでると、ガイドブックや昨日の散策で、目星を付けておいた土産物店等の下見に出かけた。ベトナムシルクの店、コーヒー店、アオザイの店、ドンスアン市場の中のロータスティ(蓮花茶)の卸し店等々を、散々ウィンドウショッピングも兼ねて歩き回った。
(途中の店で少しの買い物をし、或るレストランへの道をそこの従業員に尋ねていたら、天秤棒を担いだ”甘菓子売り”の中年女性が通りかかり、『自分が知っているから案内する。』という事だった。言われるままについて行ったが、適当な所まで来ると、「この先を行けば着くから…」と言う様な事であり、「お礼に菓子を買っていけ。」という事だった。
 まったくもって道案内になっておらず、これが目的だったという事が分かり、少々腹も立ったので、女性には睨みつけられたが、それは買わなかった。後になって『騙されたふりをして買ってあげれば良かったか…』とも思ったが、『納得できないものには支払えない。』…と、どうもその辺は、自分はとても狭量で意固地な性格の様だ。)

 この日は在ハノイの日本人にも人気だというレストラン『マム』という所で、コース料理を食べる事にしていた。①海老やイカの入ったキノコの煮込み、②2種類の生春巻きと野菜、③牛の胡麻和え焼肉、④チャーハン、⑤野菜の炒め物、⑥トマトスープ、⑦デザート(カスタードプリン)にお茶で終わり。まだまだ歩き回らなければならなかったので飲み物はアイスコーヒーにしたがこれまたとても濃いのだった。これだけ食べて15米ドル+飲み物代で、税込み約40万ドン弱(約2千円)だった。自分には多少甘味だったが、確かに旨かった。  …がしかし、自分としてはまだ見ぬ(食べていない)屋台での食事の方が気になるのだった。(下の写真は、レストランの入口)

(レストラン内部の様子。)

(レストランで食べた、コース料理のメニュー)

(下は、コース料理の数々。)





 ベトナムシルクは美しい。主にスカーフだったが、柔らかで、色合いや模様が綺麗で涼やかであり、蒼なのか緑なのか、キラキラと光る微妙な色合い(玉虫色)のものや、シンプルな単色の物でも、或る部分の横糸だけが抜かれていたりと、とてもおしゃれで、繊細で小粋なのである。
 自分はホテルでも4枚ほど購入(4枚で64万ドン=3600円)していた。(ホテルの女性支配人が言うとおり、ホテルではとても安く販売されていることはよく分かった。その時点でも「中国の人ではないのか?」と思っていたが、経営者はどうも”華僑”の人らしかった。彼女は、従業員には厳しいながらも、彼等に対する情愛も感じられ『これぞ経営者!』というものを感じた。所謂”華僑=強欲”という悪いイメージとは程遠い、人間的な好ましさを感じたものだった。)
 が、この日ももう少し高品質のシルクのマフラーを1枚購入した。これは40万ドン弱(約2千円)だったが、これと同じものが博物館巡りの時の土産物店では30米ドル(3千3百円程か)であった。  それとベトナムコーヒーとロータスティ(蓮花茶:これは女房が愛飲し、どうもティーパックは職場にも持ち込んでいる様である。)を少々大目に買い込んだ。コーヒー店ではその場で豆を挽いてもらい、

 更にベトナム独特の金属製で”フィルターの要らないドリップ”も買い込んだ。大体そんなものだった。 女房からは、「石(宝石類)は要らないから!」と釘を刺されていた。 帰りの途中、ホアンキエム湖の見納めとばかりに、湖畔のベンチで休んでいると、物乞いの老人がやって来て、隣に座っていた20歳代前半位のカップルに話しかけ、「幾らかよこせ」的な物言いをしていた。そのカップルは驚いて、男性がポケットから小銭を渡していた。多分、『年上を大事にする』といった”儒教的な教え”の賜物なのか、若いカップルは逆らえない様子だった。自分は、その老人に乞われれば、何がしかのお金を渡す心算だったのだが、明らかに外国人と分かる自分にはその老人は物乞いをしなかった。『これは、彼の意志なのだ…』と思い、自分は追いかけてまで渡そうとは思わなかった。

(下は、ドンスアン通りの入口反対側のホアンキエム湖の周辺)

(にぎやかなドンスアン通り。この奥には”市民の胃袋”ドンスアン市場がある)

(下の写真は、賑わうドンスァン通り。)


(ドンスァン通りと中華饅頭を露天で売るおばさん)


 途中では、フルーツ屋で諸々の果物を詰め込んだ器に甘いココナッツミルクをたっぷりかけた美味いフルーツを食べたり、いろんな店をひやかしたり、途中では慌ててトイレ(通常、公衆トイレでは2千ドンが必要)に駆け込んだりと、迷いながら、それでも15時過ぎには少々早めにホテルに戻った。迷いながら歩いたせいで、『文廟』や『軍事歴史博物館』は、ホテルのごく近郊であったことが分かった。  この日は帰国日で、ノイバイ空港が23:50発、ホテルから空港への出発は20:30だった。


(下の写真は、美味かったココナッツミルクのフラッペ)

(”フラッペ”を食べた屋台)


ハノイ行  ⑦帰国 - 佐藤文秀

 ホテルに戻った自分は埃だらけで汗みどろだった。
チェックアウトは朝一番で済ませ、荷物を預けただけだったので部屋でのシャワーは浴びれなかった。

 それを見て取った、午前中迄の、何時もの彼と入れ替わった別のドアマン(ポーター)に「シャワーを浴びれるところがあるから…」と半ば強引に連れて行かれたのは、2~3件隣の建物だったが、よく聞いてみるとそこは、ベトナムで今はやっている『スパ(ベトナム式マッサージ)』だった。日頃から、その入り口付近には怪しい男達が屯していたのを知っていたので、丁重に断った。
それからフロントに戻り、今朝のチェックアウトの際に貰い忘れていた1万ドンの釣銭を請求して受け取った。

 よく見たら、この日のフロントの男性は、ホテルに到着した最初の晩に「マッサージはどうか?」と誘ったフロントマンだった。
 自分が行けば、何がしかのバックマージンが彼等の懐に入るのだろう。
 買ってきた土産物をフロントに預け、最後になるであろう、慣れ親しんだホテル界隈の食堂街へ出かけた。この日は、何時よりも多くの人達が、思い思いの食堂でビールを飲んだり、食事をしたりしていた。店では鶏を一羽まるまる解体したものや豚肉を塩等で味付けしたものを網で挟み込み、炭火の上でバーベキューの様にクルクルと回転させながら焼いたものを土産に売ってたりしていた。あまりの香ばしい匂いに、何時も買う衝動に駆られるのだが、一人で食べるにはあまりに量が多すぎた。   この日は一日を通してこの界隈は盛況だった。

 何時もは、食事時間の朝・昼・晩の一時は混雑するが、それらが一段落すると急に人通りが寂しいくなる。”魚屋・豆腐売り・花屋・鳥肉屋”等々の朝市は午前中のみである。
 替わって出てくる人達は、廃物回収をするノンラー(ベトナム独特の三角笠:ガイドの”阿”さんは、「竹の葉で出来ている」と言っていたが…?)を被った女性達であった。  市場が去って道路沿いの歩道が空くと、角の邪魔にならない所で、集めてきた回収物を分別する為に、プラスチックとガラスをたたき割ったり、段ボールの様な紙類をきれいにしわを伸ばして重ねたりして整理する。

 叩き割ったガラス類は、勿論持ち帰らないが、邪魔にならない、危なくない場所へ置いていく。それらを回収したり撤去するのは、市に雇用されたゴミ等の回収をする人達であり、その殆どが、同じ様にノンラーを被った女性達だった。

(行政はこういった雇用の機会を多く与えている様であった。)
 叩き割ったガラスを、店のすぐ脇に放置された商店の店主たちは、その現場を目撃しているのだが、苦情を言う様な事はなかった。

 それを言い出したら、廃物回収をする人達の生活が成り立たないだろうし、いずれ、市によってゴミは回収される。

「それらのサイクルというか”住み分け”が成立しているのだろう…」と思われた。

 廃物回収は自転車で行われるのだが、それをする人達の中には、中学生位とも見える程の、痩せた、「あまり風呂に入っていないのではないか?」とも思える女性もいたが、私や他人に見られている事に気付いても、彼女たちは恥ずかしがったり、臆したりしている様子は見られず、『これが今の自分の仕事』と思っているようで、一生懸命なのであった。


ガイドの”陳”さんは、今の政府の経済政策に、『やり方が下手だ!』と不満を持っているようだったが、”自国を愛する”からこそ言う言葉なのだろう。 

 ドイモイの施策等で経済発展途上にあるベトナムでは、こういった生活をしている人達の一方、ホアンキエム湖界隈の繁華街で、潤沢な利益を得て暮らす人達が居る。このちぐはぐな経済的不平等(経済格差)は何時まで続くのだろうか? (焼け石に水ながら、自分が「要るか?」と訊くと「要る!」と答えるので、ホテル界隈の数名の人達へは、要らなくなった自分の衣類や、残された小額の”ドン紙幣”を渡した。)

 この晩は、初めての店でチャーハンの様な物を食べたが、とても美味かった。米の柔らかさ、味付け、酸っぱすぎないザ-サイの様なものと相俟って、自分が今まで食べたチャーハン類の中で一番美味かったのではないだろうか。 

(下は、自分が食べた屋台の人気店)

(屋台で食べた、今回の旅での最後の夕食)

(下の写真は、その他の夜店の情景)


 その後、ホテルに戻ったがフロントは暇そうに見えた。「今日は暇なのか?」と自分が尋ねると、「とんでもない。殆ど満室だ。」という事だった。20:30の出発までにはまだ時間があったので、彼と世間話をしていたら話が弾んだ。

 彼曰く「ビッグウェイブ(津波)で福島は大変だったのではないか?」とか、「自分は大学は出ておらず、英会話は必要に迫られた独学だ。」、「自分は妻一人と娘一人の三人家族だ。」とか、「給料はそんなに高くないので、TVとかで情報は知っていても、外国には行ったことが無い。」等々。 

 スマートフォーンをいじりながら、それを聞いていた、例のポーターも「そうだそうだ!」と言う様にうなずいていた。

 最初は、「マッサージルームに自分をぶち込もうとした危険なやつ等!」と思っていた自分だが、話しをしている内に、だんだん彼等が微笑ましく思えてきた。今夜の当番は彼等二人だという事を聞き、「ちょっと出てくるから…」とフロントに断ってから、自分はすぐ近くの、いつも愛用していた雑貨屋で1.5㍑のコカコーラを買い入れ、フロントには5万ドン、ポーターには2万ドンのチップと共に差し入れた。彼等は最初はびっくりして居る様だった。チェックアウトの釣銭1万ドンを要求し、自分達それぞれにチップをくれ、コカコーラを差し入れたのに、本人は水ばかり飲んで本(文庫本)を読んでいる。 『変なやつ!』と思ったのかも知れない。が、チップ効果もあったのか、悪い心象は持っていないようだった。

 ポーターは、相変わらず愛想無い様に見えていたが、20:30に迎えの車が来ると、何も言わず、いち早く私の荷物を積んでくれ、握手の手を差し伸べてきた。そして、二人とも別れの挨拶をしてくれた。(かくの如く、小銭をばらまく結果となったが、自分は未だに、”チップを渡す”という、この欧米式の習慣には疑念を持っており、どうも釈然としない。

 どうしても”富者が貧者に施す”という図式の傲慢さが受入れられず、次の機会があった時は、この国では、思い切って、この行為を止めようかと思っている。) 

 帰りのノイバイ空港は混んでいた。JALのカウンターでのチェックインはスムーズだった。残っていたドンは空港で殆どチョコレートに化けた。 ベトナム通貨(今は硬貨は使用されない。)の紙幣のドンは、すべてホー・チ・ミン氏の肖像が印刷され、とても美しく、まるで写真のフィルムの様にツルツルしていて、そのままポケットに入れたままだと、スルリと落としてしまいそうである。  但し1万ドン以上の紙幣であり、それ以下の紙幣は少々質が落ちる。自分はこれを使いきれず、数枚持ち帰ってきた。

(下は、ベトナム紙幣のドン)


 自分は以前からベトナム行を考えていて、それと知らずに行き、帰ってから後に数人の人達から聞いた事だが、日本では今”ベトナム旅行”が人気急上昇中なんだそうである。とてもいい事だ。 どんどん出掛けて行って欲しいと思う。  ベトナムは見どころが満載であり、食の宝庫であるともいえる。   

(今は、”安いツアーが一杯”ある。)
 そして、勿論何処の国でも善人と悪人は居るものだが、自分が知る限りでは、出逢ったベトナムの人達は、勤勉で、ひた向きで、はにかみ屋で、人間性がとてもいい。現地でいろいろな人間と接していて、まるで外国に居る様な気がしなかった。彼等は、自分が出会った中では、我々日本人に一番近い感覚の持ち主なのではなかろうかと、自分は思う。
 今回の旅により、自分にとってベトナムは、今や一番好きな外国であり、一番親しみの持てる人達になった。 (但し、南北に長い彼等の国土は、外敵からの侵入を受けやすく、現在も、過去にも、北と海からは中国からの侵略、陸続きのカンボジア等とは抗争を繰り返した歴史があり、かなりしたたかで逞しい。  それは、日本との大きな違いであろう。)


(下は、帰国時の機内食)


(下は、帰国後の資料の整理)


            【 旅行記終了 】






    

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