ベトナム(南部・中部・北部)行 ①ホーチミン市、フエ
東北地方は、つい先月の26日に”梅雨明け”し、酷暑が続く。
元来『相馬野馬追祭(そうま、のまおいさい)』は、曜日に関係なく、確か23~25日の三日間』だったと思うが、今回の大震災以降は観光客の利便性を考慮してか、毎年その近日の土・日・月としているようで、今年は7月25~27日に開催された。
たまたまなのだろうが、古来より相馬地方では「野馬追祭には梅雨が明ける。」
と云われており、今年も26日の中日に梅雨が明けた。
25日(土)は時間があったので、出陣式を見物に出かけた。
中村城{通称は、馬陵城(ばりょうじょう):旧相馬中村藩の城。}の大手門を9:00に出発し、11:00に相馬ジャスコ集合。(此処からは、人用の大型バスと馬用の厩舎バスで、翌日の『神旗争奪戦』が行われる南相馬市原町区の”雲雀ケ丘祭場(ひばりがおかさいじょう)”へと向かうのだが、梅雨明け前日のむせ返る様な曇天の熱気の中で、30㎏以上の甲冑を着込み、前日の前夜祭での酒を飲み過ぎたのか、その日の行軍途中でのふるまい酒を飲み過ぎたのか中には馬上で、「気を失っているのではないか?」と見受けられる御仁もいた気がする。、行軍の道路を馬で駆け回る”前触れ”の人達も含めて、皆さん方の本気度は、将に”死にもの狂い”の形相であり、近寄り難さを感じる事もあった。)
(下は、相馬野馬追祭の出陣式の情景)
(今でも引き継がれている、『旧相馬藩の藩主相馬氏』の馬上姿。)
(※ 勿論女性も参加します。 下は、馬上の女性。)
※ いろいろと、忙しくしている内に時間が経ってしまった。
今年の春に、妻と長男との三人でまたベトナム旅行へ出かけた。
「どんだけベトナムが好きなんだ?」と言われそうだが、 初めての中部(フエ・ダナン・ホイアン)観光でもあるが、いろいろと訳もあった。
自分の思い込みかもしれないが、社会への入り口付近で、未だに”不安げ”にも見える長男を、「もしかして自分との旅は最後になるかも知れない! タイへの家族旅行以来となる海外旅行へ誘い、何らかの経験値にでもなれば…」と思ったためであり、「丁度良い旅かも知れない!」と考えての事だった。
長男は、すぐに行く気になったのだったが、驚いたのは、妻が「自分も行く!」と言い出した事だった。 釣りをしていて、予想外の大物がかかった気分であり、驚いたものだった。
考えてみれば、妻は石垣島育ちではあるが、彼女の父(義父)は、首里城に近い、沖縄本島の那覇市首里の出身であり、仕事の関係で家族で石垣島に移住する際、実家は義父の妹さん(義理の叔母)に譲り渡したという経緯もあり、妻は、首里の叔母さん宅から、今も問題だらけの宜野湾の『米軍普天間基地』に近い大学へ通学していた。 (その後、彼女の母校の敷地内へ米軍のヘリが墜落をするという事故も起きている。)
彼女が大学に通い始めた1976年は、ベトナム戦争が終結した翌年の事であり、沖縄県内での”ベトナム戦争”に関わる報道や時事は、我々の住む内地よりも話題性や重要度は当然重いもがあっただろうし、 彼女の母校近傍の『普天間基地』からは、当時も(今も)戦闘機やヘリの離着陸が引切り無しだったという。 妻にとっては、そのような身近な体験もあり、 『ベトナム』という国の存在は特別な思いが有って、「この機会に是非とも行っておきたい!」と思い立ったものだろう。
『南部ホーチミンから北部ハノイまでの大縦断!ベトナム世界遺産紀行6日間』と謳われた、何時も愛用している旅行社の旅は、全て”ベトナム航空”を利用してのものだった。 今回の”旅のしおり”によると、最早USドルの使用は「ウェルカム!」で、ベトナムドンの必要性はコンビニの支払いのみだと言う。以前の『カンボジア旅行』で、大分USドル紙幣が余っていたので、5ドル紙幣を10枚とベトナムドンを5千円分の両替をした。
※ 旅程は、成田空港近くの”東横イン”で前泊し、
1日目は、成田空港をベトナム航空VN0301便(9:30)で出発し、ホーチミンのタンソンニャット国際空港着が14:20(現地時間)。
(出発前の空港内でのコーヒ-タイム。)
(成田エキスプレス)
【ベトナム航空については、以前は設備の不備やそのサービスに関して ”書き込み”等でもあまり評判が良くなかったが、今回の我々の旅では全くその様なことは無く、サービスも良く、機内食も満足だった。】
(下の写真は、ベトナム航空:VN0301便での機内食)
それから、ホーチミン市内観光【統一会堂→サイゴン大教会→中央郵便局→水上人形劇鑑賞】をしたが、統一会堂の入場観光は出来ず、”ホアさん”という現地ガイドさんの片言日本語が、少々聞きずらい事も相俟って、旅仲間からはいささか不評であった。我が家族は、自分がかつて撮り溜めた、デジカメのスライドショーを観て貰うしかない。その後に寄った”ドンコイ通り”の店では、菓子類やその他、息子の予定していた土産物の殆どを買い込んだようだ。
妻は、ビーズ付の”ベトナムサンダル”を買ったようだ。
(『サイゴン大教会』前での、今回の旅仲間達)
(『サイゴン大教会』の内部。)
(『サイゴン大教会』の内部。)
(下は、年中無休の『中央郵便局』の前にて。)
(年中無休の『中央郵便局』の中。)
(夕食前にホーチミン市内で観た場内で催された『水上人形劇』)
(下は、ホーチミン市の宿泊先、”ラマナ・ホテル”)
(ホテル内でのこの日の夕食風景。)
(”バインセオ”)
(生春巻き。)
食事の際の別会計の飲み物代は全てUSドルの支払なので、息子には少額のドル紙幣を渡して会計を任せるようにした。朝・昼食は機内食だった。 この日の夕食は、『生春巻き等の南ベトナム料理』だった。食後は近くのコンビニにて、口直しの飲み物類を購入。 (この日は”ラマナホテル・サイゴン”泊)
2日目は、出発前の早朝に妻と二人でホテル近くの、今まさに躍動し始めようとする、目覚めたばかりの街中を散策した。 タンソンニャット国際空港から空路、ベトナム航空VN1372便(9:00発)で出発。 ベトナム最後の王朝の古都フエへと向かった。フエ空港へは10:20頃着。フエでの観光は、【阮朝王宮→ガイディン帝(阮朝第12代皇帝、阮朝は次の第13代バオダイ帝で終わる。)廟→昼食→阮朝王宮→ティエン・ムー寺】 という順序であった。
ガイディン帝とは、フランスの搾取に苦しむ国民から「フランスの保護下で贅沢な暮らしをしている傀儡皇帝」と見られ、その評判は芳しくはなく、著名な民主主義者であるファン・チュー・チンからは批判され、グエン・アイ・クオック(後のホー・チ・ミン)は、帝を風刺する戯曲「竹の龍」を著した。
帝はマルセイユ殖民博覧会に出席のためフランスを訪問するが、その際に見た大型建造物に多大な影響を受け、王宮内の建中殿を増改築する際、特に命じてバロック様式にさせるなど、その姿勢は親仏的傾向が強いものであった。彼の廟は、中国式とバロック式を織り交ぜた建築様式が取り入れられた華麗なものではあった。
(下は、『ガイディン帝』の入り口にて。)
(『ガイディン帝』の中門前にて。)
(ガイディン帝の中で詳しい説明をする現地ガイドの”タンさん”。)
(ガイディン帝の天井画。)
(中に設置されている”ガイディン帝像”。)
昼食は、”中部ベトナム料理”という事だったが、デジカメでの写真が残っておらず、また何を食べたのかもよく覚えていない。 ただ、食を大事にしている調理好きの妻がその時に使った箸をいたく気に入り、対価を支払ってでも手に入れたいと願い、店の人と交渉したが承諾を貰えず、自分が現地ガイドの”タンさん”に交渉を頼み、また同行の、ご夫婦で旅行に参加されていた某大学教授の「いいじゃあないか!」との声援もあり無償でそれも2本手に入れる事ができた。後で聞いたら、『ジャックフルーツ』という木で作られたものだった。 この箸は、妻の毎朝夕の調理で大活躍していて、菜箸よりも短くて使い勝手がとても良いとの事だ。 また、この教授は東京板橋区赤塚にお住まいだという事で、自分とは名刺交換をさせて頂いたが、 つい2~3日前に息子が用事で東京に行った際に、奇遇にも某スーパーで買い物中の奥さんと出会い、話をしてきたとの電話があり驚いたところであった。フエは、ベトナム戦争時において、テト攻勢【旧正月(テト)休戦を南ベトナム軍とアメリカ軍に打診したが、体勢を立て直す時間を与えるだけだとして拒否された、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は、旧正月下の1968年1月29日の深夜に、南ベトナム軍とアメリカ軍に対して大規模な一斉攻撃(テト攻勢)を開始した戦闘。】時には、激しい戦闘が行われた場所である。 フエの『阮朝王宮』は、中国式の建築様式のとても壮麗な建物ではあったが、建物のあちこちには今なお戦闘時の傷跡が多く残る。 まるで、米軍によって破壊された、沖縄は首里城近郊の『玉陵(たまうどぅん):玉御殿または霊御殿とも)は、琉球王国、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓。所在地は沖縄県那覇市首里金城町。そもそもは第3代尚真王(在位1477年 - 1526年)が父、尚円王を葬るために建築したものである。世界遺産のひとつで沖縄県最大の破風墓。玉陵は中室、東室、西室の3つの建築物に分かれる。中室は葬儀の後、当時の琉球の葬制に基づき遺骸が骨になるまで放置し、数年後に骨を取り出して洗骨した。洗骨した後に遺骨を骨壺に収め、王及びその妃の骨は東室に納められ、他の王族は西室に納められた。建造物の外は外庭、中庭に石壁で仕切られ、中庭には珊瑚の破片が敷き詰められている。 第二次世界大戦末期には、日本軍総司令部に近かった玉陵は首里城と共に集中砲撃の巻き添えに会い、東室・西室が破壊されるなど大きな被害を受けた。現在見られる大部分は第二次世界大戦後に復元されたものである。』を見る思いだった。(中国の”紫禁城”を模したといわれる『阮朝(ぐぇんちょう)王宮』)
最後に観た『ティエンムー寺院』は、禅寺で煉瓦造り、中国の影響を色濃くうけた八角形七層の塔 が特徴。寺の屋根の四方のそり方は上に跳ね上がって、陶器の破片で屋根の上に龍や鳳凰の飾りが美しい。中は色彩を押さえ落ち着いた雰囲気で日本の禅寺とよく似ている。自分はこの寺院に上がり、しばらく祈らせて頂いた。
※ ベトナム戦争が1960年代に入ると、自らが熱心なカトリック教徒であり、それ以外の宗教に対して抑圧的な政策を推し進めたジェム政権に対し、南ベトナムの人口の多くを占める仏教徒による抗議行動が活発化した。1963年5月にフエで行われた反政府デモでは警察がデモ隊に発砲し死者が出るなどその規模はエスカレートし、同年6月には、仏教徒に対する抑圧を世界に知らしめるべく、事前にマスコミに対して告知をした上でサイゴン市内のアメリカ大使館前で焼身自殺をしたティック・クアン・ドック師の姿がテレビを通じて全世界に流され、衝撃を与えるとともに、国内の仏教徒の動向にも影響を与えた。
これに対してジェム大統領の実弟のゴ・ディン・ヌー秘密警察長官の妻であるマダム・ヌーが、「あんなものは単なる人間バーベキューだ。」とテレビで語り、この発言に対してアメリカのケネディ大統領が激怒したと伝えられた。
南ベトナムではその後も僧侶による抗議の焼身自殺が相次ぎ、これに呼応してジェム政権に対する抗議行動も盛んになった。敬虔な仏教徒で知られた当時の国際連合事務総長ウ・タントもベトナム戦争に苦言を呈して米国は国連との関係も悪化した。 自分はTVの報道で、焼身自殺をするティック・クアン・ドック師の姿を、時を置かずして見て、衝撃を受けたのを覚えている。
ティエンムー寺の向かって左側奥には、ティック・クアン・ドック師がアメリカ大使館前で焼身自殺をした時に、ティエンムー寺からサイゴン(現在のホーチミン)まで乗っていったという、錆び付いた水色の車(オースチン)が展示されており、それを眺めながら、
「これに乗ってサイゴンまで”焼身自殺”に出かけたのか!」と、彼のその時の心境を慮ったが、主のいなくなったオースチンはなにやら寂しげであった。
寺の境内には、ジャックフルーツやマメ科のタマリンドの木々が多く植えられていた。 自分達は妻の発案で、現地ガイドのタンさんにお願いして、近くの市場に寄ってもらい、 ジャックフルーツ(その形や色はドリアンに似ていた。)の果実を確認したり、ドリアンやらライチ、タマリンドの果実を買って食したり、ランブータンを分けて貰って食したりした。
この日の宿泊は、”グリーンホテル・フエ”だった。夕食は『見た目も美しい宮廷料理』という事であった。「食事前には玄関前のホールに集合!」という事だったが、実はそこには”サプライズ”があり、”古都フエ”という場所柄なので、「皆さん、ベトナム宮廷用の服装に着替えて下さい!」という添乗員さんの号令でそれに着替えることになった。 ”皇帝と王妃は互選”という事だったが、皆さんのご意見で、自分達家族になってしまった。自分は一度は固辞したが、仕方のない事とて観念して着替え、笛や太鼓、胡弓等を先頭に、従者を引き攣れた様な格好で、玄関ホール~中庭~廊下を通り、食堂までの大行進を行ったのだった。
ホテルの従業員やら他の宿泊客やらからの笑いを受けての行進だったが、開き直っていたので恥ずかしくは無かった。 ”破れかぶれ”というやつである。
(夕食前にロビー前で皇帝、皇后、従者の格好をした我が家族。)
(”グリーンホテル・フエ”で宿泊した部屋の内部
夕食の宮廷料理は、見た目も美しく、美味しいものであったが、食事をする我々の前で、宮廷服を着て、歌や、琴の様な楽器・二胡・一弦琴・琵琶の様な楽器・縦笛等を演奏する6人程の現地の演奏家の人達を前にしての食事は、酒を飲みながらでも喉の通りが悪く、演奏や歌が終わる度にやたら拍手を送っていた気がする。そしてアオザイ(アオザイは元来、宮廷の女官の服だったとも言われ、フエは、アオザイ発祥の地という事らしい。)の女性が奏でる、 一弦琴での『島原地方の子守歌』は、一弦琴という楽器独特の奏法と相俟って、とても物悲しい響きをもって響いてきた。 自分は、写真撮影にかまけていて、歌い手の女性が売りに来たのに気がつかず、彼等のCD(それは、5USドルということだった。)を買い損ねたことに未だに後悔している。 自分にとって、古都フエは静かで趣がある、そして寂しい想いのする街でもあった。
(夕食時に演奏してくれたベトナムの演奏家たちとの記念撮影。)
(歌い、演奏する人達。)
(美味かった『宮廷料理』の数々。)
(”卵スープ”)
(焼肉と野菜の炒め物。)
(ハムかソーセージの様な”おつくり”)
(パイナップルに刺された”海老天”)
(デザート)
(食事風景。)
ベトナム(南部・中部・北部)行 ②ダナン・ホイアン
3日目は、フエ→ダナン→ホイアンをバスで一挙に南下する、長距離大移動の日だった。
ホテルでの朝食後、すぐにバスに乗りダナンを目指した。
ダナン市は、ベトナム第三の都市とも言われる中核都市だ。
【16世紀には広南政権の首府フエの外港ホイアンでは南蛮貿易が行なわれていたが、ダナン市は小漁村に過ぎなかった。18世紀になるとトゥボン川の河口にあるホイアン港が上流から運ばれた砂の堆積によって、次第に使用できなくなったため、ハン川の河口にあるダナン港が成長し始めた。
1835年、阮朝の明命帝は全ての欧州船にダナンに入港するよう勅令を発したため、ダナンがベトナム中部最大の港となった。 1847年4月15日、ダナンの戦い。 1858年9月、フランス・スペイン連合艦隊、ダナンに進行し、コーチシナ戦争(1858年-1862年)が勃発。1883年6月、トンキン戦争(1883年6月 - 1886年4月)が勃発。 1887年10月、フランス領インドシナ連邦の成立。
1889年、フランスのインドシナ総督府はダナン市をクアンナム省から切り離し、トゥーランと命名して、総督直轄地とした。 20世紀始めのトゥーランはインフラストラクチャーが整備されて、食品加工業や造船業が発達し、 ハイフォンやサイゴンと並んでベトナムの主要貿易港となった。 1965年3月、ベトナム戦争の際には、朝鮮戦争以来のアメリカ海兵隊が上陸して、 大規模な米軍基地を建設し、1967年には中央直轄市となった。 1968年の旧正月に南ベトナム解放民族戦線がダナン駐留米軍に大攻勢をかけたテト攻勢はベトナム戦争の激戦の一つである。ベトナム戦争後、ダナン市はクアンナム省と合併して「クアンナム=ダナン省」となった。ダナン市には、空港・港湾・倉庫・銀行・工場などが次々に建設され、大規模な産業都市に発展する。 1996年7月6日には再びクアンナム省から分離して中央直轄市となり、現在に至る。】
我々を乗せたバスは、途中のトイレ及び買い物休憩を挟み、 「いい加減に、もう勘弁してっ!」と言うほどに、ひた走りに走った。
ダナンに着いたのは10時過ぎ頃。市内には高層ビルが立ち並び、週末になると飾り物の竜の口から火を吐く、名物の『ドラゴンブリッジ』が存在する等、その反映振りがうかがわれる立派な都市だった。
”海岸都市”という事もあって、周辺ではホテルや別荘、人工ビーチ等造成等のリゾート開発が盛んに行われていた。
(週末の夜に口から火を吐くといわれる”ドラゴン・ブリッジ”)
…が、我々が昼食を摂るために”旧市街”に入り込んでいくと、様相は一変した。
ビルが建ち並ぶ表通りの派手派手しさとは裏腹に、道路は狭くなり埃っぽく、道路の両側に建ち並ぶのは、古い民家や汚れた構えの家内工業らしい小さなたたずまいの工場ばかりで、少し発展した”海沿いの町”といった風情だった。
まるで、舞台の表と裏を見る思いであった。
そんな町中のレストランでの昼食は、”海沿いの町”ということで、バインセオや、たっぷりのサラダ、揚げた包み揚げの肉まんの様なもの、 肉の大葉揚げ、最後は海老や烏賊が入ったメインの『海鮮鍋料理』だった。 全て美味しくいただけたが、メインだった筈の『海鮮鍋料理』に入っていた海老が、想像を越して余りにも小さかったことに、妻はショックを隠せない様子だった。
2階の食堂を通り抜ける潮風は心地よかった。
(下は、ダナンでの昼食風景。)
(”バインセオ”)
(”小龍包”の揚げたような物。)
(たっぷりのサラダ。)
(肉の紫蘇巻き)
(メインの、名物『海鮮鍋料理』)
(鍋からのタップリとしただし汁に着けて食べた、美味しい麺。)
(下は、香りのよい葉で包んだデザートの餅。)
それから我々は、再度バスに乗ってまたぞろ走りに走り、列車と並走したり、車窓から大きな湖や街並みを眺め、長いトンネルを抜けたりして、ホイアンに着いたのは12:00頃だったろうか。 先ずは、”シルク工場”を見学した。
自分は日本ではなかなか売っていそうにも無い、”スカーフ”を購入した。 (”シルク工場”で購入したスカーフ。)
その後、”世界遺産『ホイアン』の市街観光”と言う事で、1USドルチップを払い、シクロに乗って市街地を暫く走った後に、①『来遠橋(らいえんばし)』、②『海のシルクロード博物館』、③『福建会館』を入場観光した。観光は13時過ぎには終わり、長いバス旅だったのと、暑かったこともあって我々は一旦ホテル(タンビン・リバーサイド・ホイアン・ホテル)にチェックインして休憩をとった。 (下は、おひとり様1USドルのシクロ。)
(下は、来遠橋前にて。)
(来遠橋の中にある祠堂。)
(ベトナム紙幣の20,000ドン札に描かれている『来遠橋』)
(ホイアン名物の”ランタン”)
(ホイアンの裏路地は狭かった!)
(『福建会館』前にて。)
17:30頃、旅仲間全員でホテルのロビーに集合し、夕闇が迫る中、徒歩で来援橋近郊のレストランに向かった。
18:00頃から夕食が始まった。 メニューは、ホイアン名物の『ホワイトローズ(海老肉のシュウマイのようなもの)』をメインに、フォア、肉の餡かけ、チキンリゾットの様な物、それとパンプキンスープだった。
(『来遠橋』に近いレストランでのホイアンでの夕食風景。)
(下は、ホイアン名物の『ホワイトローズ』)
食事を終えたのは17:00頃。
外に出ると、来遠橋界隈の旧市街はランタンが灯り、川沿いにはネオンが輝く幻想的な町中を、近くの市場で象さんマークの入った妻の夏用の薄いパンタロンを5USドルで購入したり、近くで催されていた結婚式を覗いたりしながら、 川沿いのホテルへの帰路をほろほろと帰ったのだった。
(夜のホイアン市街を歩いてのホテルへの帰路で。)
(下は、上の写真の昼間の川沿いの様子)
(同じく、上の写真の昼間の川沿いの様子)
(タンビン・リバーサイドホテル・ホイアン』の玄関前にて、珍しく欧米のご夫婦のご主人が申し出てくれ、写真撮影をして頂く。)
(『タンビン・リバーサイドホテル・ホイアン』での部屋の様子)
ベトナム(南部・中部・北部)行 ③ミーソン聖域・ハロン湾・ハノイ市内
4日目は、ホイアンからバスで行き、『ミーソン聖域』を見学した後に昼食。それからダナン空港まで移動。 さらに飛行機でハノイのノイバイ国際空港へ行き、高速道路を使用して一挙に『ハロン湾』を眼前に臨むホテル迄行き、 そこで夕食。という、これまた大移動日だった。 『ミーソン聖域』とは、ベトナム中部クアンナム省にある古代チャンパ王国の聖なる遺跡。1999年、ユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に登録された。(ミーソン聖域はサンスクリットによる正式名称をシュリーシャーナバドレーシュヴァラといい、チャンパ王国の宗教(ヒンドゥー教シヴァ派)の聖域であり、聖山マハーパルヴァタを望むクアンナム省ズイスエン県ミーソン圏谷にある。ミーソンにはレンガ作りのチャンパ塔など7世紀から13世紀にかけての遺構が残っているが、ベトナム戦争当時の爆撃によってかなり破壊されている。遺跡の近くを大河トゥーボン川が流れており、川の女神を祀る秋盆夫人祠とサンスクリット碑文がある。トゥーボン川の中流には王都チャキエウ遺跡があり、河口には近世に日本人町が栄えた港町ホイアンがある。) ホイアンから『ミーソン聖域』までは、バスで約1時間程。『ミーソン聖域』の場所は、山のかなり高い熱帯の森の中にあり、天気の良過ぎることも有って、しとうだる様な強い日差しと湿気の中をかなり歩いた。
(下は、『ミーソン遺跡』の入口付近。)
(下は、『ミーソン遺跡』の概要の写真。 その後ろが、”劇場”)
遺跡はかなり傷んでおり、 「修復はまだまだこれから…!」といった感じであり、見るのもはばかられる様な痛々しさであった。 その後、我々は出入り口付近に設営されている建物の中で、 チャンパ王国時代から引き継がれているという、「何時息継ぎをしているのだろう?」といぶかるほどの見事な縦笛の演奏を聴いたり、『アプサラダンス』を鑑賞した。 アプサラダンスは、”旧来から引き継がれてきた伝統ある舞踊”というより、「今風にアレンジしたのではないのか?」と思えるような演出だったような気がした。
(劇場の内部の様子。)
(チャンパ王国の主役の”チャム人末裔”による”縦笛”の演奏。)
(”チャム人による、”アプサラダンス。)
(下は、ミーソン遺跡近くのカカオの実の様子。)
そして我々は、山から下りるようにして街の方へ向かい昼食をとった。 この日の昼食は”和食”という事であり、入店するとどうやら日本の人が経営している店の様だった。 旅行会社の”粋な計らい!”という事なのだろうが、自分としては『ベトナム料理』に辟易していたわけでは無かったが、”野菜の煮つけ”や”揚げ物の様な物”、”焼き秋刀魚”等を醤油で美味しくいただいた。
最後には”緑茶”がふるまわれた。
それから再び、バスにて”ダナン空港”へ向かい、約1時間半程をかけてベトナム航空(VN0168便)にてハノイ(ノイバイ国際空港)へ降り立った。
(ベトナム航空にて、ハノイのノイバイ国際空港へ”いざ!離陸”)
(ダナン空港にて駐機する各社の飛行機)
(下は、ハノイのノイバイ国際空港で。)
現地のガイドは、トァンさんという男性だった。”ノイバイ空港”からは高速道路に乗り、3時間かけて一路『世界遺産・ハロン湾』近傍のホテルへ向かった。 長時間の移動の合間には”トイレ休憩”や”民芸品店”に立ち寄った。夕食は、『北部ベトナム料理』という事だった。 (下は、その日の夕食の風景。)
ホテル(サイゴン・ハロン・ホテル)の部屋は最上階に近く、ハロン湾に面していて、バルコニーに出てからの夜景は素晴らしかった。5日目の朝目覚め、バルコニーに出てみると、曇りがちでは立ったが、眼前一杯の『ハロン湾』の風景だった。 (下は、ホテルのバルコニーからのハロン湾の眺望。)
『ハロン湾』とは、ベトナム北部、トンキン湾北西部にある湾。漢字表記は下竜湾。クアンニン省のハロン市の南に位置し、カットバ島のほか大小3,000もの奇岩、島々が存在する。伝承では、中国がベトナムに侵攻してきた時、竜の親子が現れ敵を破り、口から吐き出した宝石が湾内の島々になったと伝えられている。
貸切の木造観光船にて、大小3,000とも言われる奇岩が並ぶ景勝地を回航する。 天候は曇りがちではあったが、心地よい潮風に吹かれながらゆったりとした時間を過ごすことが出来た。 航行する我々の観光船には、地元の漁船が横付け乗船してきて、取れたての蟹や魚類を売り込みに来た、乗客の何名かはそれを購入して、漁民が捌いたり調理したものを食したらしい。
我々が乗船観光した”木造船”は、私が沖縄県の石垣島で取得した一級小型船舶操縦士免許で実習船(5回ほどの乗船ではなかったかと思う。)に似ていた。
鋼製やグラスファイバー、合成樹脂や合板で製造された最近のクルーザーの様な船と違い、木から切り出して造られた重厚な木造船は、その操縦性や乗り心地、趣等に独特のものがあり、乗船していてもとても心地よいものものである。(下は、貸切の木造観光船)
(のんびりとした時間)
(下は、ハロン湾に浮かぶ奇岩の数々。)
(奥の島は、その名も『闘鶏島』。)
(ライトアップされた鍾乳洞が見れた島。)
(※『ハロン湾』の写真も、切取りが上手くいけば、右下の様な風情となる。)
我々の船上での昼食も、揚げた大きな魚を餡かけにしたものや、渡り蟹の壺揚げ(蟹の甲羅に身を詰め込んで揚げたもの)やらの海鮮料理だったが美味かった。
(下は、カレイの様な魚の餡かけ料理)
(下は、漁船が持ち込んだ、とれたてのワタリガニ)
そして、ハロン湾の中にある島の一つで、鍾乳洞で出来上がっている島に上陸して、鍾乳洞の観光も行った。
ハロン湾には、ごく最近まで、水上に筏を係留して漁業等を営みながら生活する人達が多くいたようだが、「水質汚染防止」という事で、『世界遺産・ハロン湾』の景観維持と観光化の為に、ベトナム当局によって陸上生活へと移行させられたようだ。
我々が宿泊したホテルの部屋へは、一晩中沖合を航行する船の音にしては、やけに近く聞こえる、機械の動くような重低音が聞こえていたが、それはホテルの目の前の海岸を埋め立てる為に行き来するダンプトラックとブルドーザーの稼働する機械音だったようだ。 また、海岸近くの陸に近いある島では、ホテル造営の為の建設工事が急ピッチで進められているようだった。今や、『ハロン湾』はベトナムにとって”観光資源”の目玉商品であるようだ。
その後バスに乗り、またぞろ我々は高速道路に乗ってハノイ市内へと向かった。
午後にハノイ市に着き、そのまま我々は”市内観光”へと向かった。
最初は『ホ-チミン廟』。今回は廟への入場観光では無く、下車観光のみではあったが、観光仲間達は丁度タイミング良く、廟を守衛する”衛兵交代”の様子を見る事が出来た。 ”ホーチミン”を余程敬愛しているのだろう、現地ガイドのトァンさんの、『英雄・ホーチミン』についての長い説明が続いた。
(下は、『ホ-チミン廟』の前にて。)
(『ホ-チミン廟』前での衛兵交代の写真)
次は『一柱寺(いっちゅうじ)』観光。一柱寺の寺院建立の由来は、李朝の第二代皇帝、李太宗(在位:1028~1054)が見た夢にあり、李太宗はあるとき、観音様が蓮の上に座して手招きしている夢を見、その夢を実現しようと、この寺が建立されたとのことで、その際僧侶が皇帝の長寿を祈願し、延祐寺と命名されたとのこと。 池の中に一本の木柱(現在はコンクリート柱)で立てられている、一風変わった風情で面白い。 最初にハノイに来た時には”修復中”という事で観れなかった。 (下は、『一柱寺(いっちゅうじ)』)
次は、『ホアンキエム湖』と『ハノイ旧市街』の下車観光という事であったが、時間が無くなったものなのか、はたまた少々面倒くさくなったものなのか、現地ガイドのトァンさんの説明は一切無く、質問をしても満足な答えは返ってこず、ただ単にホアンキエム湖周辺とハノイ旧市街を歩き回ったのみで終わり、我々仲間は皆怪訝な顔をしていた。
(下は、かつての『ハノイ旅行』でも歩いた、ドンスァン通り近くの”旧市街”)
”フエ”や”ホイアン”を案内してくれた現地ガイドの”タンさん”は我々のどんな質問にも必ず応答してくれ、彼が分からない事が少しでもあれば、翌日になったでも答えをくれたものだった。 この”ハノイ市内観光”の現地ガイドのトアンさんは、ベトナムの人達の『日本観光』のガイドも勤めるという事で、 今回の我々のガイドが終われば、次の仕事は日本での観光のガイドを務める という。我々としては、「なんだかなあ…」という感じだったのではなかろうか?
少々残念な気分であった。この日の夕食は、”ベトナム風フランス料理”という事で、肉を中心としたコース料理であり、とても美味かった。
(下は、この日の夕食)
(下は、帰国時のハノイの『ノイバイ国際空港』にて)
その後、『ノイバイ国際空港』へ行き、土産物を買ったり、コーヒーやケーキを食したりした後、6日目となる、3月26日(木)の00:20発のベトナム航空VN0310便で出発し、同日07:00頃に成田空港着で帰国した。
帰国する時には、何がどうとは分からなかったが、息子の顔は、一皮むけた様に ”すっきりした顔”をしていたのだった。
(下は、帰国後に整理した”アルバム”)
【 旅行記終了 】
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