シェム・リアップ(カンボジア、アンコール遺跡群)行 ①
カンボジアは、ベトナムと同じように、1863年にフランスの保護国となり、フランス領インドシナ”が解体された後、1953年に完全独立を達成した。
その後、南北に分断された隣国ベトナムで『ベトナム戦争』が勃発すると国内は不安定化し、アメリカ合衆国と南北ベトナムの介入によって『カンボジア内戦』が勃発した。 そして、1968年にはアメリカ軍の空爆が始まり、1970年には親米派のロン・ノル将軍がクーデターによりシハヌーク国王を追放し、”クメール共和国”を樹立した。 その後、内戦は一層激化し、アメリカ軍による空爆はカンボジア全域に拡大し数十万人が犠牲になると”反米”を掲げる”クメール・ルージュ”勢力の伸長を招いた。更には、北京に亡命していたシハヌーク国王も亡命先で”カンプチア王国民族連合政府”を樹立し、かつて敵対していたクメール・ルージュと共にロン・ノル政権を打倒する方針を打ち出した。 1975年4月、極端な共産主義を掲げるクメール・ルージュのポル・ポト書記長がクメール共和国を打倒し、”民主カンプチア”を樹立した。
※ クメール・ルージュの権力掌握から、1979年1月6日の民主カンプチア崩壊までの3年8カ月20日間のポル・ポト政権下にて、原始共産制の実現を目指すクメール・ルージュの政策の下、旱魃、飢餓、疫病、虐殺などで100万人から200万人以上【現地ガイドの”ヨンさん”によれば、300万人という事だった。】と言われる死者が出た。この死者数は、1970年代前半の総人口は700~800万人だったとの推計の13~29%に当たり、思想改造の名の下で虐殺が行われた。
教師、医者、公務員、資本家、芸術家、宗教関係者、その他良識ある国民のほとんどが捕らえられて強制収容所に送られた。生きて強制収容所から出られたのはほんの一握りであった。
それ故、正確な犠牲者数は判明しておらず、現在でも国土を掘り起こせば多くの遺体が発掘される。なお、内戦前の最後の国勢調査が1962年であり、それ以後の正確な人口動態がつかめておらず、死者の諸推計に大きく開きが出ている。
その後、”中ソ対立”の趨勢の中で、1978年12月に、”ソ連派”のベトナム社会主義共和国の正規軍とカンプチア救国民族統一戦線が、対立していた”中国派”の民主カンプチアに侵攻し、翌1979年に”ポル・ポト政権を打倒”して、”親越(ベトナム)派のヘン・サムリンを首班とするカンプチア人民共和国”を樹立した(カンボジア・ベトナム戦争)。このソ連派のベトナム”による、中国派のカンボジア(ポル・ポト政権)への侵攻をきっかけに、同年2月に中国がベトナムに侵攻し”中越(中国・ベトナム)戦争”が勃発している。そして、その後もポル・ポト派を含む三派とベトナム、ヘン・サムリン派との間で内戦が続いた。その後、1981年にベトナム軍が撤退し1991年には”パリ和平協定”が締結された。
1992年3月から”国連カンボジア暫定機構”による統治が開始。 1993年9月に制憲議会新憲法を発布し”立憲君主制”を採択、ノロドム・シハヌークが国王に再即位した。
制憲議会は国民議会に移行した。
1999年4月に10番目の東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国となる。
2013年カンボジア国民議会選挙では、与党のカンボジア人民党が僅差で勝利し、フン・セン首相の続投が決まった。
2014年8月7日、カンボジア特別法廷は、”旧民主カンプチア(ポル・ポト政権)”のキュー・サムファン元国家幹部会議長、イエン・サリ元副首相に、”大虐殺罪”で第1審で判決が下され、キュー・サムファンと共に終身刑が宣告された。
上記の様に、カンボジアの国としての体制が整えられて落ち着いたのは、ごく最近のことである。
現在、カンボジアの入国に際しては”ビザ”が必要であり、そういった手続き上の関係もあり、旅行の予約は1ヵ月以上前の申し込みが必要であった。
旅行日程は8月28日(23:25)羽田集合、羽田空港発8月29日(01:25・JAL0079便)のホー・チ・ミン(旧サイゴン:ベトナム)経由で、
ベトナム航空(VN3819便)でシェム・リアップ(カンボジア:アンコール遺跡群所在地)へ行き、帰りは逆のルートながらホー・チ・ミン市で1泊後に9月1日(22:00)に羽田空港到着という旅程だった。
(羽田空港の出発ロビーへ)
シェムリアップ(アンコール遺跡群)行 ②ヒンドゥー教
8月29日(金)、羽田空港発(01:25)のホーチミン・タンソンニャット国際空港行き(現地着05:15)の(JAL0079便)は、ほぼ定刻通りに離着陸した(日本とカンボジアとの時差は、ベトナムと同じ-2時間)。 JAL機内でのサービスは良質で朝食も美味かった。
(下は、往路のJALでの機内食)
ベトナム・ホーチミン・タンソンニャット国際空港で飛行機を一旦降り、transfar(乗継)の案内板に従って行き、”ベトナム航空”の乗継カウンターにてeチケットを見せ、航空券に換えて貰ったが、渡された航空券は”カンボジア・アンコール航空”のものだった。(そして、後刻に搭乗した飛行機も同航空会社のものだった。)同航空とベトナム航空は業務提携を行っているものと思われた。
(夜明け前のベトナム・ホーチミン・タンソンニャット国際空港)
(夜明けのベトナム・ホーチミン・タンソンニャット国際空港)
(下は、カンボジア航空のCAと思われる女性達)
(早朝のタンソンニャット国際空港内の通路)
(未だオープン前のタンソンニャット国際空港内の売店。)
自分は、前回の”ハノイ行”同様に、荷物は機内持ち込み用のスーツケースとリュックのみであり、着終わった衣類は現地で捨てる事にしていた。多少増えるであろう土産物は、それらの空いたスペースに入れる心算だった。再度、セキュリティチェックを受けた後に、08:20発のVN3819便(カンボジア・アンコール航空のプロペラ機)に乗り込んでカンボジア・シェムリアップを目指した。
(下は我々の乗った、カンボジア・アンコール航空の飛行機)
飛行機から観たカンボジア(大部分が海抜100m以下の平野)は、眼下には見渡す限り湿原しか見えず、独特の積乱雲の様な雲は地上近くに多数浮かんでいた。
シェムリアップの南側にあり、それでなくとも大きいトンレサップ湖は、”雨季”とあって、メコン川の逆流により洪水の様に水が溢れかえっていた。 熱帯気候特有の風景である。
(飛行機の眼下に広がる、カンボジアの熱帯樹林)
予め、インターネットで取り寄せて記入していたカードを参考にして、カンボジアの”出入国カード”と”税関申告書”を書き、シュムリアップ国際空港に着陸したのは、ほぼ、定刻の09:20だった。
入国審査の前には、世界的な”エボラ出血熱”によるものなのか、はたまた日本での”デング熱”の影響によるものなのか?予定にはない”健康調査”のシートを渡され、難解な英語を解読しながら書込む破目になった。飛行機の座席番号まで記入しなければならず、「ここまで必要なのか?」と、疑念を感じながらも悪戦苦闘して提出したが、その割には中身の精査はされず、”健康調査済”の黄色いカードを1枚渡されただけだった。
その後、入国審査は両手の指紋撮影をし、スムーズに行われた。
(雨にけむる”シェムリアップ”の街中の風景)
今回の旅行では、同行者が総勢25名という結構な人数だった。
現地のガイドさんは”ヨンさん”と言う方で、ガイド歴10年の、日本語は堪能であり、此方側からのどんな質問にも即答できる、知識も経験も十分な人だった。参加者全員の確認を終え、我々はこのままクメール王朝最古《8世紀~9世紀》の”ロリュオス遺跡群”へと向かった。
調べればわかる事だが、アンコール・ワット(サンスクリット語:梵語でアンコールは都市、クメール語でワットは寺院を意味する。)を代表とする”アンコール遺跡群”はそもそもが”ヒンドゥー教”の寺院である。 唯一、最も新しいと云われる遺跡である”城壁都市アンコール・トム(クメール語でトムは大きいという意味。)《11世紀~12世紀》”や”タ・プロム寺院”のみが仏教寺院であった。
【ヒンドゥー教は、インドやネパールで多数派を占める民族宗教で、インド国内で8.3億人、他の国の信者を合わせると約9億人とされ、キリスト教、イスラム教に次いで人口上世界で第三番目の宗教である。バラモン教から聖典やカースト制度を引継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。
紀元前2000年頃にアーリア人がイランからインド北西部に侵入した。彼らは前1500年頃ヴェーダ聖典を成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。 いわば、差別化(階級制度等)し、支配する為のものであったと考えられる。
紀元前5世紀頃に、政治的な変化や仏教の隆盛があり、バラモン教は変貌を迫られた。その結果、バラモン教は民間の宗教を受入れ同化してヒンドゥー教へと変化していった。 ヒンドゥー教は、紀元後4-5世紀に、当時優勢であった仏教を凌ぐようになり、その後インドの民族宗教として民衆に信仰され続けてきた。
神々への信仰と同時に、”輪廻や解脱”といった独特の概念を有し、”四住期(ヒンドゥー教独特の概念で、最終目標の解脱に向かって人生を4つの住期に分け、それぞれの段階ごとに異なる目標と義務を設定したもの)”に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)・職業(ジャーティ)までを含んだカースト制等を特徴とする宗教である。
※ 三神一体(トリムティ)と呼ばれる近世の教義では、中心となる三大神を祀る。
① ブラフマー神:宇宙の創造を司る神。水鳥ハンサに乗った老人の姿で表わされる。 北伝仏教:大乗仏教 《紀元前後より、アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国・朝鮮・日本・ベトナムに伝わっている。またチベットは8世紀より僧伽の設立や仏典の翻訳を国家事業として大々的に推進、同時期にインドに存在していた仏教の諸潮流を、数十年の短期間で一挙に導入、その後チベット人僧侶の布教によって、大乗仏教信仰はモンゴルや南シベリアにまで拡大されていった(チベット仏教)。》では梵天(妻は弁財天)。
② ヴィシュヌ神:宇宙の維持を司る神、慈愛の神、鳥神ガルーダに乗る。10大化身と呼ばれる多数の分身を有する。・仏教の開祖である釈迦牟尼は、ヒンドゥー教では9番目の化身とされている。(妻はパールヴァティ、富と幸運の女神。大乗仏教では吉祥天)。
③ シヴァ神:宇宙の寿命が尽きた時に、世界の破壊を行い、次の天地創造に備える役割を司る神。乗り物は牡牛のナンディン、トラの皮をまとい首にコブラを巻く。しばしば結跏趺坐し瞑想する姿で描かれる。大乗仏教では大自在天(降三世明王に降伏させられ、仏教に改宗したとされる)。 ・マハーカーラ:シヴァ神の化身。チベット仏教等仏教においても信仰される。大乗仏教では大黒天。】
カンボジアでは、上座部仏教(=小乗仏教=南伝仏教…仏教を二つに大別すると、スリランカやタイ、ミャンマー等の地域に伝わった南伝の上座部仏教と、中国やチベット、日本等の地域に伝わった北伝の大乗仏教に分類される。 初期仏教教団の根本分裂によって生じた上座部と大衆部のうち、上座部系の分別説部の流れを汲んでいると言われるものが、現在の上座部仏教である。)が憲法で国教と定められているが、信教の自由が認められている。人口の9割以上が上座仏教の信徒であり、チャム族を主とする4%程がカンボジアのイスラム教である。 (大乗仏教は中国からの、そして小乗仏教は、インドを経由し、何度も抗争を繰り広げていた隣国タイ(当時はシャム)の影響によるものなのだろうか…)
シェムリアップ(アンコール遺跡群)行 ③子供たち
最初に訪れた、”ロリュオス遺跡群”は、アンコール地域から約15Km程離れた、8~9世紀にかけて栄えた王都ハリハラーラヤに在る。
① ”バコン”は王都の中心寺院で、アンコール時代初のピラミッド型寺院。参道には天界と地上とを結ぶ巨大な蛇(ナーガ)が両脇に並ぶ。三重の周壁に囲まれた五階層の寺院の南壁には、《戦いに臨む阿修羅》のレリーフが残っており、当時は階層を囲むように壁画が彫られていたと考えられている。 (下は、『アンコール・ワット』の原型になったと言われる『バコン寺院』)
② ”ロレイ”は大貯水池インドラタターカの中央小島に建設された寺院で、壁面には金剛力士像やデバター(女官や踊り子達のレリーフ)がある。遺跡の敷地内には現在、仏教寺院が併設されている。
(復元された”デバター”のレリーフ)
(仏教寺院)
(僧達が雑居する建物)
③ ”プリア・コー(聖なる牛の意)”は、ロリュオス遺跡群の中では最古の遺跡で、シヴァ神の乗り物とされる”ナンディン牛”の像が三体並び、神々が堂から出てくるのを待っている。創建時は漆喰で覆われ、白い寺院だったが、現在は殆ど剥がれ落ちている。…等々、”バコン”以外は大分劣化が進んではいるが迫りくるその存在感は、往時は立派で美しかったであろう事を彷彿とさせるに十分だった。
(下は、プリア・コー)
(『プリアコー寺院』の前で主人(シヴァ神)を待つ牛の像。)
その後バスで1時間程移動した現地のレストランで昼食をとった。
『名物の”アモック(雷魚をココナッツミルクやカレーで煮込んだもの)”付きのクメール料理』…という事だった。アモックは、最初”雷魚”と聞いて「げっ!」となったが、存外美味くおかわりをした。
アモックは、スープと共にご飯に混ぜ込んで食べると癖になるのだった。 外には、『鶏肉を玉ねぎや人参等の野菜をカレーで煮込んだもの』、『”サムロー・モチュー”と言うのか、豚の三枚肉の入った酸っぱいスープ』、『茄子と挽肉入りの炒め物』、『ココナッツミルクとタピオカ入りのパンプキンスープ』等、全て違和感無く美味しく頂けた。
飲み物は、ジュース類が2USドル、ビール(カンボジアビール・アンコールビール等の銘柄)は3~5USドル(街中のコンビニでは1USドル)程度だった。
自分は、羽田空港の国際線ターミナルの”みずほ銀行”で1USドルで100ドル分と、外は10USドルのみに両替をした。あまり高額の紙幣に換える必要はないと聞いていた。 相場は手数料込みで1ドル=106円であった。
カンボジアの通貨(全て紙幣)は”リエル”なのだが、カンボジア経済の実態と比較して、リエルの為替レートが高めに設定されており、特に輸出においては不利な状況におかれるため、カンボジア国内であっても中産階級や富裕層の間では一般に、もっぱら米ドルが使用されているのが実状だ。農村部では一般に現金所得の低い人々が多いこともあり、リエルのほうが広く利用されている。また、公務員の給与はリエル払いが原則である。
買い物時に米ドルで支払い、おつりが1米ドル未満の場合はリエルで戻ってくる。この時期の相場は、1ドル=4000リエル(100円≒3770リエル)だった。 (下は、カンボジアの紙幣リエル。上から100リエル:図柄は『バコン寺院』、真中は500リエル:同『アンコール・ワット』、下は1000リエル:『王宮』)
※ 国際通貨基金(IMF)によると、2011年のカンボジアのGDPは128億ドルであり、鳥取県のおよそ2分の1の経済規模である。一人当たりのGDPは851ドルであり、世界平均の10%に満たない水準である。2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は828万人と推定されており、国民の半数を超えている。国際連合による基準に基づき、後発開発途上国に位置づけられている。※ 車窓から眺めていても、多くの人達の生活水準は低かろう事が窺われ、”ベトナム・ハノイ”で見た低所得者層の人達の比ではない事がよく解った。
(下は、『東メボン』遺跡の、まぐさ石 (リンテル) の彫刻)
その後、”東メボン”、”プラサット・クラバン”、”プレ・ループ”等の遺跡群を巡ったが、何所でも遺跡群の周囲ではカンボジアシルクを売る女性や絵葉書や土産物を売る子供達であふれかえっていた。
子供達の年齢は、幼い子は4~5歳位とも思われた。殆どが素足で、履いていてもゴムのサンダル履きだった。 親の考えからなのか、女の子が多かった。日本からの観光客がそれ程多いという事なのだろう。 日本語には堪能で、一緒に並んで歩きながら、手の親指を”ピッ”と立てて、自分に「お兄さんカッコいいね!買って!」「お兄さんハンサムねえ!買ってえ!」と言いながらついて来る。 自分がお返しに「ありがとう! あなたも可愛いよ!」と言うと、「ありがとう!」と返してくる。流暢なものであった。
これで相手が女性なら、「お姉さんきれいねえ!買ってえ!」、「お姉さん美人ねえ!買ってー!」というところである。
その子達が、絵葉書を数えながら、「1枚、2枚、3枚…5枚でイチドロー(1ドル)! 買ってー!」と、観光客達について廻るのである。その絵葉書も、日本では売っていないであろうそこそこの品物なので、幼い彼等に対して、情にほだされた観光客は、「1ドル(100円程度)ならば買ってあげようか…」となるのであろう。
”プレ・ループ遺跡”に夕日鑑賞のために訪れた際も、自分が今回の旅で懇意になったある女性(東京都小平市で絵画を教えているという事だった。)に、「少し自分に負荷を掛けた方が方が良いですよ!」と勧めたが、その方は「膝ばかりはどうしようもないので、私は下で待つわ…」と言って、下で待っていた。
その後、我々が、曇天ながらも新鮮に吹き抜ける、遺跡の上での風を気持ちよく受けながら、その眺望を鑑賞し終えて下に降りてみると、彼女はこの子供達の餌食となり、両手にいっぱいの土産物を抱えていた。
彼女曰く「自分の孫と同年代だったので、ついつい…」という事らしかったが、自分は「良い事をしましたね!」とほめてあげた。
(下は『プレ・ループ遺跡』左下の四角い部分が”火葬”をした場所)
自分は、これ等の子供達のことを事前に知っていた。
大した意図は無く、「勿体ないので、現地の子供達に使ってもらおう…」と、旅行に出発する前に、頂いたり、仕事柄やその他でため込んで余っていた、殆どが新品のシャープペンシルとボールペンの2本をセットしたものと、100円玉を入れた封筒を10セット程用意し、この日はその内5セットだけを持っていた。
バスに戻って乗り込む直前に、周りを確認して、大体人数分有る事を確かめてから、「same one dollar(約1ドルだよ)」と言って渡し、足りなかった一人には1ドル紙幣を渡してから、バスに乗り込んだのだったが、はるか遠くの方でそれを見ていたらしい小さな女の子が必死で駆けてきて「自分は貰っていない!」と言う様に、「キイキイ、キイキイ」と泣く様に訴える言葉は、バスが出発するまで続き、自分は閉口し、「ソーリー!ソーリー!」と謝るほか無かった。 (1ドル紙幣を渡すのが本意ではなかった。)
翌日にも3セット程は、一人でいた子供達だけには渡せたが、残ったシャープペンシルとボールペンと100円の入った封筒は、8月31日のシェムリアップ最後の日の”アンコ-ル・ワット遺跡観光”の後に、現地ガイドのヨンさんに「誰でも良いので、子供達に渡して欲しい。」とお願いしたのだった。
この日の夕食は、貴金属等がふんだんに置いてある、華僑の店の2階レストランでの中華料理であった。 味は日本で食べるものとまったく同じ様に感じられて美味しかった。帰りがけは、ガイドのヨンさんがコンビニに寄ってくれ、皆で飲み物等の買い物をした。
自分は、食事の口直しに1㍑のグレープジュースと350m㍑のコーラを買い、1ドル紙幣を店員さんに渡したのだが、お釣りは1600リエル(42円)程だった。つまり、料金は2400リエル(64円程)だった。
ホテルは『シティ・アンコールホテル』という、スタンダードクラスよりワンランクアップの”スーペリア・クラス”という事だった。
(シェムリアップでのホテル『シティ・アンコール』)
(夜のホテル『シティ・アンコール』)
(ホテルのロビー)
(ロビーのガジュマルの木の椅子)
(ホテル『シティ・アンコール』の部屋)
シェムリアップ(アンコール遺跡群)行④夜明けのアンコール・ワット
翌日の8月30日(土)、我々は”幻想的な夜明けの情景を鑑賞”という事で、アンコール・ワットの西参道へと向かった。
朝4:00(現地時間)頃にベッドを置きだし、シャワーを浴びて、101号室の自室からフロントの地階に階段で降りると、外は真っ暗で小雨が降っていた。
4:40ホテル出発し、約1時間程を掛けてアンコール・ワットの西参道に到着。まだ真っ暗だった。持参していった小型の懐中電灯で足元を照らしながら駐車場からのぬかるむ道を西参道へと向かった。
西参道に着いた時にはまだ暗かった。小雨が降ってはいたがその内に小止みになり朝焼けの中にアンコール・ワットが浮かんできた。
(下は、夜明け前の『アンコール・ワット西参道の蓮池前にて』)
(写真は、早朝の夜明けツアー:『アンコール・ワット西参道の祠堂』にて)
アンコール・ワットは、他の遺跡具群と比べて、規模が壮大であるうえ、そのたたずまいと言うか景観が美しくアンコール遺跡群の代表的存在である事に間違いはない。
一般道から寺院に至るまでの間の参道は寺院を取り囲む堀を貫く様につながり、”天上界と地上界とを繋ぐ道とされ、他の遺跡群もそうなのだが、両側のその欄干にあたる部分には、必ず”ナーガ”と呼ばれる、巨大な蛇の石像が横たわって連なっている。 そしてその内側参道には、天上界と地上界とに分かれて、そのナーガを”綱引き”の様に引き合う巨人達の足跡のレリーフが彫られている。
ガイドのヨンさんの説明では、これらの建造物は、『天地創造』をモチーフにしたものだという事だった。(下は、ナーガとその頭部)
(橋桁に描かれている、ナーガを引き合う巨人達の足のレリーフ。)
(6:20頃には、これから”托鉢に行く”という僧達とすれ違った。)
アンコール・ワットの詳しい説明と再訪問は、8月31日(日)にもあるという事で、我々は一旦ホテルに戻る事になった。朝早くではあったが、それでもアンコール・ワット周辺には少数ながらも、カンボジアシルクや絵葉書を売る数名の女性や子供達がいた。
自分は、シルクのスカーフ等を売っていたその内の2名の女性に、池から参道出入口迄付きまとわれた。 最初は、1枚30ドルと言っていたスカーフは、段々出入口が近づくにつれて安くなってくる。出入口付近まで来ると、「2枚で2千円でいいよ!」となった。
自分は買うそぶりを見せずにその品物をそれとなく見ていたが、”カンボジア・シルク”の表示が付いており、シルクはおそらく20~30%程の混入率なのだろうが、色合い(赤桃色と薄緑)もデザイン(アンコール・ワットのデザイン入り)も素敵な品物だった。「本音は3枚で2千円。」と言いたかったが、ディスカウントが目的ではないので、それを娘達用の土産に買った。支払いは、相手の言うとおりに日本円の2千円で支払った。
別の女性はストール(ウールと化繊の混紡の様だった。)の様な物を売っていた。これもスカーフ売りの女性同様1枚30ドルから始まり、最後は10ドルになったが、公平を期する意味もあってこれは10ドル紙幣で支払った。
成程、このペアリングは良い考えである。競合を避けられるし、『買った。』という実績を確認できるので、客への売り付けも強く出やすくなるのかも知れない。
(カンボジアでの売買は、すべてが値段交渉制である。値段交渉は、殆どがその品物の倍額以上から始まるようである。)
(この時購入のシルクスカーフ。)
我々は一旦ホテルへ戻り、朝食をとった。 ここはビュッフェ(バイキング方式)で食べ放題である。 ベトナムのフォーの様な物、粥、オムレツ、サラダ、パスタ類、マンゴージュース、コーヒー、ランブータン等の果物、石垣島でもよく食べたドラゴンフルーツやスイカ等の浮かんだフルーツポンチ等々、自分でも驚くほど毎回しっかりと美味しく頂いた。
(下は、この日の朝食。左上から、フォアの様な物、その上はドラゴンフルーツやスイカ等のポンチ、その右はマンゴージュース、左下はサラダ、真中はランブータンやスイカのフルーツ、その右はオーダーでその都度作ってくれるオムレツ。)
食後、我々は、『東洋のモナリザ』で有名な”バンテアイ・スレイ遺跡”へと出掛けた。出発して間もなく、建設中の小学校の様な所を通過したが、そこには日本語で『建設中、○○小学校』と言う日本語の横断幕の様な物が掛けられていた。
それを見止めたガイドのヨンさんが、バスの中で立ち上がり、「カンボジアでは小学校が大変不足しています。それ故に小学校は、午前中は朝7:00~12:00迄、午後は13:00~17:00迄の2部制です。それでも足りません。 今通り過ぎた小学校は、日本政府からの好意による援助で建設中の小学校です。 そのほかのインフラ整備においても、日本政府からは多くの援助を受けており、我々カンボジアの人間は、日本の方々に大変感謝をしております。」と、バスの中の我々に、感謝の念を述べたのだった。
程なくして、我々は9:30頃に”バンテアイ・スレイ遺跡”へ着いた。
バンテアイは砦、スレイは女を意味し、女の砦と言う意味である。大部分が赤い砂岩により建造されている。
規模こそ小さいが、精巧で深くほられた美しい彫刻が全面に施されている。こうしたことから観光客には大変な人気があり、『アンコール美術の至宝』などと賞賛されている。中でもデヴァター(女官・踊り子)の彫像は『東洋のモナリザ』とも呼ばれている。
(下は、『バンテアイ・スレイ寺院』の門前。)
寺院はラテライトと紅い砂岩で築かれており東を正面としている。
塔門をくぐると次は左右にリンガが並んだ参道を進み、第三周壁の塔門に入ると、中には刻まれた碑文が見られる。それを抜けると中央祠堂の前室に至る。
(『リンガ(男女の象徴)』=生命力)
(クメール文字による碑文。)
(有名な”東洋の女神”像)
ここまでの塔門は、中央に近づく程に間口と高さを狭めており、遠近により狭い寺院を広く見せている。 寺院中央の南北に三つ並んだ祠堂と前室は、丁字型の基段上に築かれており、基段上へ登るには、前室の三方と南北祠堂の正面に加え、中央祠堂の背面に階段が有る。祠堂は全面が彫刻で飾られており、中央の祠堂には門衛神の「ドヴァラパーラ」が、南北の祠堂には「東洋のモナリザ」と評されるデヴァターの像が柔らかな曲線で彫られ、美しい姿を見せている。※ 説明が長すぎたが、寺院のレリーフは全てが精巧で繊細で美しかった。
(精巧なレリーフの一部。)
それらを見終えて、昼食をとるために町のレストランへ向かおうとして移動すると、木の葉笛や諸楽器による、心に沁みて来る様な心地よい音楽が聞こえてきた。 暫く行くと、黄色い民族衣装の様な物に身を包んだ10人程の人達による演奏だった。自分は、暫らく聞き惚れていたが、よく見ると、それは盲目だったりする障害者の人達だった。ヨンさんに尋ねてみると、それは地雷による被害者の人達の演奏だった。(下は、演奏する地雷等による被害者の人々。)
(カンボジア国内にはかつての内戦の影響で多くの地雷と不発弾が埋まっており、危険地域の多くには、”危険標識”が立てられているが、カンボジアの子供達は母語であるクメール語の文字が読めないために誤って危険地帯に入ってしまうという問題があった。その為『日本地雷処理を支援する会(JMAS)』等の日本のボランティア組織は、子供でも理解できるポスターを作ったり理解し易い地雷の標識を設置するなどの活動をしている。現在、地雷地域の処理が進んでおり、かつてに比べると各都市部は安全になった。しかし、地方部では西部タイ国境周辺以外での地雷処理は行われていない。)
※ アンコール遺跡群の界隈はかつてポルポトによる共産主義勢力のクメール・ルージュの支配下にあり、地雷が多く埋められていた。 現在は遺跡群周辺の地雷は撤去されて危険はない。
映画『地雷を踏んだらサヨウナラ!』のモデルにもなった、フリーカメラマンの一ノ瀬泰造は、ベトナム戦争・カンボジア内戦の最中、共産主義勢力クメール・ルージュの支配下にあったアンコールワット遺跡への単独での一番乗りを目指しており、1973年11月、「上手く撮れたら東京まで持って行きます。
もし、うまく地雷を踏んだら“サヨウナラ”!」と友人宛に手紙を残し、単身アンコールワットへ潜入し、消息を絶った。 9年後の1982年、一ノ瀬が住んでいたシェムリアップから14km離れた、アンコールワット北東部に位置するプラダック村にて遺体が発見され、1982年2月1日に現地へ赴いた両親によってその死亡が確認された。その後、1973年11月22日もしくは23日にクメール・ルージュに捕らえられ、処刑されていたことが判明した。
彼の遺骨は、両親が持ち帰っている筈だが、プラダック村には、現地の人達が建てた『泰造ノ墓』なるものがあり、観光地になっていると聞いた。彼をモデルにした映画のファンがあまりにも頻繁に訪れるので、観光地化されたものなのかも知れない。
(余談だが、かつてベトナム戦争の最中、戦火を逃れて安全地帯へ逃げようと渡河するベトナム人の家族を撮影した『安全への逃避』で、”ピューリッツアー賞報道写真部門”を受賞した沢田教一は、1970年(昭和45年)5月23日に、クメール・ルージュに拘束されたが無事帰還した。が、次の日から何事もなかったかのようにまた取材に出かけたという。5月26日、メコン川を渡り逃げて来たカンボジア難民4人を撮影した。10月28日、プノンペンの国道2号線で取材中、何者かに銃撃され死亡。愛機のライカは持ち去られたという。)
自分は、盲目の被害者の人の持つ絵葉書は受け取れず、日本円での千円を、彼等の前に置いてある受け皿に置いて来たが、背後からは、はっきりとした日本語で、「ありがとうございます。」と、木の葉笛を吹いていた人の、大きな感謝の言葉が聞こえてきた。
この日の昼食は、『クメール風鍋』だったが、具材は鶏肉のつみれの様な物、卵豆腐、湯葉、肉団子、揚げ豆腐、春雨、それに白菜等の野菜たっぷりの鍋料理であった。我々日本人の口に合わせたのだろう。とても美味く、周りを見ると、皆さん誰も彼も旺盛な食欲の様だった。そして仕上げは、出汁のたっぷり出た残り汁に、ご飯と卵を掛けたお粥であり、とても美味い食事だった。
(下は、昼食の『クメール風鍋』)
この日は、天候が良く陽射しが強かった。
予定通りの事ではあったが、我々は一旦ホテルに戻り(13:30頃)、暑い盛りを避けた2時間後の15:30頃に、城壁都市”アンコール・トム遺跡”観光へ向かうスケジュールだった。
ホテルに戻って、シャワー浴びようとすると、2セットあるはずの洗いダオルが1セットしかなかった。(自分の部屋は一人部屋で、追加料金有りの部屋はダブルベッドであり、室内のセットは全て2人用に整えられていた。) 別に困らないので「マア、良いか!」と思ってシャワーを浴びようとすると、部屋のドアをノックする音が聞こえたので出てみると、ベッドメーキングの女性が二人立っていた。 枕チップは、今朝1ドル置いておいたので、「何かしらん?」と思って出ると、不足していたシャワールームの洗いダオルを持ってきたものだった。 それを受け取ってドアを閉めると、又ノックの音がしたので、「チップが欲しいのだろうか?」とドアを開けると、朝食後に”バンテアイ・スレイ遺跡”に出掛ける際に、自分がドアの外に置いて行った包みを持っていた。 この為に、洗いダオルを1枚入れなかったものと思われた。
(実は、自分は前回の『ベトナム・ハノイ行』の際の経験から、趣味が合わずに手を通しただけのYシャツや、人から貰い、これも趣味が合わずに履かなかった、娘達の可愛いショートパンツや、その他の衣類を、自宅から3個ばかりの包みに分けて、「カンボジアの現地の人達に使って貰おう。」と、これもシャープペンシル等の封筒と同様の考えで、持ち込んできた物だった。考えてみれば、まるでリサイクル業者の様であった。 これらの荷物は、自分が持ち込んだスーツケースの半分以上の容積を占有したが、帰りは空になるので気は楽だった。)
今朝方”バンテアイ・スレイ遺跡”に出掛ける際に、丁度、目の前のこのベッドメーキングの女性が見えたので、呼び止めて衣類の包みを見せて、「これは、自分が要らないものなので、必要であればあげますよ?」という事を言ったのだったが、彼女は英語を理解できなかったのか、はたまた勘違いをしたと見えて、「要らない!要らない!」と言う様に首と両手を振っていたので、自分は、「ドアの外に置いておけば、誰かが使うだろう…」と、置いて行ったものだった。
自分は、彼女達に改めて、「これは、自分には要らない物なので捨ててほしい。」というジェスチャーをすると、彼女は今度は、「自分が貰っても良いのか?」と言う様に自分の胸に抱える様な仕草をするので、「どうぞ、どうぞ!」と言う様に自分が両掌を挙げると、「ありがとう!」と言う様にお辞儀と合掌をし、隣にいた女性を指さして「彼女と分けますから!」と言うそぶりをするので、自分は「ちょっと待って!」と英語とジャスチャーで示してから、もう一つの衣類の入った包みを別な女性に渡した。
彼女たちは、最初は驚いている様子だったが、その包みを抱いて、お辞儀と合掌をして去って行った。 自分は、自分の予測があながち的外れではなく、この行為が無駄にはならなかったことが嬉しかったが、カンボジアの現状を再確認する思いだった。 この後、我々は”アンコール・トム遺跡《11~12世紀の遺跡群》”へと出発した。
シェムリアップ(アンコール遺跡群)行 ⑤アンコール・トム、ナイト・マーケット
8月30日(土)の15:30頃に、我々は”アンコール・トム遺跡群”へと向かった。
アンコール・トムは、遺跡群の中では一番新しい遺跡と言われる。
アンコール・ワット寺院の北に位置する城砦都市遺跡。12世紀後半、ジャヤーヴァルマン7世により建設されたといわれている。周囲の遺跡とともに世界遺産に登録されている。 アンコールは、サンスクリット語のナガラ(都市)からでた言葉。またトムは、クメール語で「大きい」という意味。
アンコール・トムは一辺3kmの堀と、ラテライトで作られた8mの高さの城壁で囲まれている。外部とは南大門、北大門、西大門、死者の門(戦いに負けた時の入場門)、勝利の門(戦いに勝った時の入場門)の5つの城門でつながっている。各城門は塔になっていて、東西南北の四面に観世音菩薩の彫刻が施されている。
また門から堀を結ぶ橋の欄干は乳海攪拌(天地創造神話)を模したナーガ(大蛇)になっている。そして、このナーガを引っ張りあう、アスラ(阿修羅)と神々の石像が並んでいる。アンコール・トムの中央にバイヨン(ヒンドゥー教と仏教との混合寺院)がある。また、その周囲には、象のテラスやライ王のテラス、プレア・ピトゥなどの遺跡が残っている。
(下は、有名な”南大門”)
(南大門の脇の象のレリーフ)
(『南大門』前で、”ナーガ”を引き合う巨人たち。)
(現地ガイドのヨンさん)
(『ライ王のテラス』)
(王が謁見したであろう、”勝者の門”や”死者の門”等が在る広場。)
(下は『象のテラス』)
(”象のテラス”にあるガルーダと獅子のレリーフ)
(象のテラス近くにある『ピミ・アナカス(天空の神殿)』の様子。)
(アプサラダンスのレリーフ。)
(”シャム(ミャンマー)人”等との戦闘のレリーフ。)
(闘鶏の様子を彫塑したレリーフ。)
(闘犬の様子を彫塑したレリーフ。)
(『アンコール・トム』の柱に描かれている壁画。)
この日は、天気が良過ぎるほどに暑かった。
我々は、南大門にて”ヨンさん”の詳しい説明を聞いた後、”バイヨン”へと向かった。
バイヨンを特徴付けているのは、中央祠堂をはじめ、塔の4面に彫られている人面像(バイヨンの四面像)である。人面像は観世菩薩像を模しているというのが一般的な説である。しかし戦士をあらわす葉飾り付きの冠を被っていることから、ジャヤーヴァルマン7世を神格化して偶像化したものであるとする説も存在する。 この像はクメールの微笑みと呼ばれている。
(下は、”クメールの微笑み”)
バイヨンは3層構造になっており、第一層には東西南北全方向に門がある。中でも東門の近くには両側に池のあるテラスがある。第一回廊にもレリーフが残る。アンコール・ワットにも存在する乳海攪拌のレリーフなどであるが、保存状態があまり良くない。
第二回廊(外回廊)は約160メートル×120メートル。正面は、東側を向いている。現在残るレリーフは、他のアンコール遺跡とは大きく異なった特徴を持つ。
第二回廊にはチャンパとの戦争の様子やバイヨン建設当時の市場の様子や狩の様子などがレリーフに彫り込まれており、庶民の暮らしを窺い知ることのできる貴重な資料にもなっている。
第二層16の塔があり、どの塔にも前述の観音菩薩と思われる四面像が彫られている。第二層の回廊にはヒンドゥー教色の強いレリーフがデザインされている。
第三層第三層はテラスとなっており、やはりどの塔にも観音菩薩とおぼしき四面像が彫られている。第三層の中央には過去にシヴァリンガが置かれていたとされるが、後世の人が除去し、現在では上座部仏教(小乗仏教)の像が置かれている。
アンコール王朝の中興の祖と言われるジャヤーヴァルマン7世がチャンパに対する戦勝を記念して12世紀末ごろから造成に着手したと考えられており、石の積み方や材質が違うことなどから、多くの王によって徐々に建設されていったものであると推測されている。
当初は大乗仏教の寺院であったが、後にアンコール王朝にヒンドゥー教が流入すると、寺院全体がヒンドゥー化した。
これは、建造物部分に仏像を取り除こうとした形跡があることや、ヒンドゥーの神像があることなどからも推測できる。1933年に、フランス極東学院の調査によって、中央祠堂からブッダの像が発見された。(アンコール遺跡群は現在のカンボジア王国の淵源となったクメール王朝の首都の跡である。
この地には、9世紀頃から数々の王建設が開始された。この遺跡に特に大きく関わったとされるのはスーリヤヴァルマン2世(1113-1145年)とジャヤーヴァルマン7世(1181-1218年)といわれる。
スーリヤヴァルマン2世は特にアンコール・ワットの建設を行い、その死後30年ほど後に王に就いたとされるジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムの大部分を築いたとされる。 しかし、ジャヤーヴァルマン7世が崩御した後のアンコールは、アユタヤ朝(シャム:現在のタイ)の進入を度々受け、その存在を侵され始め、その後ポニャー・ヤット王にはついにアンコールを放棄するに至った。
※ 再発見までの長い間、アンコール遺跡の多くは密林に埋もれ、風化・劣化が進んだが、今なおその存在感には圧倒されるものがある。バイヨンの頂上には観音菩薩と思われる四面像が置かれ、しばし休憩時間を与えられた我々は、頂上を吹き抜ける気持ち良い風に吹かれながら、はるか遠く迄続く周囲の熱帯雨林の風景に見とれていた。 (下は、”四面像”『クメールの微笑』)
”アンコール・トム遺跡群”はどれを見ても素晴らしいものばかりである。 それから、我々は”バプーオン”→”ピミアナカス”→”象のテラス”→”ライ王のテラス”等を観て回った。 テラスからは、王が軍隊を謁見したであろう広大な広場や、戦勝時の”勝利の門”、敗戦時の”死者の門”が見渡せた。
広場には、気持ちの良い風が吹き抜けていた。
観光を終えた我々は、”宮廷舞踊『アプサラダンス(天女の舞:アプサラの語源は、「アプサラス」という古代インド神話に登場する天女で、天の踊り子、または、クメール王からの神への最高使者を意味する。世界遺産アンコールワットの壁画の浮彫(レリーフ)にも、アプサラ(天女)の舞の様子が無数に刻まれている。
カンボジア舞踏では、スコー・トム(大きい太鼓)、スコー・トォチ(小さい太鼓)、サンポー(台付き樽型両面太鼓)、コーン・トォチ(環状ゴング)、ロニアット・アエック(木琴)、ターケー(鰐琴)などの楽器が使われる。)』” を鑑賞しながらの夕食をとるべく、 近郊の『アマゾン・アンコールレストラン』”へと向かった。 食事は、ここでも『ビュッフェ方式』であり、全てが美味かった。
(下は、夕食風景。)
(下の3枚は、踊られた演目の数々:アプサラダンス)
(踊られた演目の数々:メカラダンス)
(漁師の踊り。愛娘にそっくりな娘が居たのには驚いた!)
(アプサラダンス(天女の舞)などを踊った踊り子達との記念撮影)
…「鼻の舌が随分と伸びてたわよ!」とは、プレループでの仇討の女性の言。
彼等も、ポル・ポト政権時代には、その多くが虐殺されたが、カンボジアでは現在その育成に力を注いでいる。
(夕食の一部。)
アプサラダンスの演目は、①歓迎の踊り、②ココナッツダンス、③メカラ(水の女神)ダンス、③漁師の踊り(沖縄の谷茶前節(たんちゃめぶし)に似た、漁師の若い男女の恋愛を演じた軽快でコミカルな音調のダンス)、④アプサラダンス、と続いた。演目が全て終わった後には、踊り子達との記念撮影が許されたので、自分もヨンさんに頼んで撮影をして貰った。
その後更に、我々は唯一の”オプショナル・ツアー(2000円)”である『ナイトマーケット(買い物)ツアー』へと向かった。
このマーケットは情報誌により、値段交渉次第では格安の土産物が手に入るという事が分っていたが、自分はある程度必要な品は手に入れていたのでその気は全くなかったが、女性陣はパワフルに買い物をしていた。
(下は、ナイトマーケット近郊の、市場での買い物風景。)
我々数人は、マーケット沿いの川に架かる橋の上で、艶やかなイルミネーションを映し出す川を眺めながら、数人の男性陣と共に、小一時間程の買い物が終わるのを待った。
(マーケット近くのイルミネーションを映し出す河。)
(マーケットへの道)
その後再集合して橋を渡り、ヨンさんの案内で反対側の繁華街へと移動した。
そこは主に、外国人観光客向けのナイトマーケットで、雑貨屋、お土産物屋、フットマッサージ店、フィッシュマッサージ(小魚の水槽に足を入れ、足の古い角質部を食べてもらう)店、食事処、ゲテモノ(蛇や蛙、サソリ等を焼いたもの)を食べさせる店、その他の屋台等々の様々な店が軒を連ねていた。
女性陣は30分で2ドルのフットマッサージ店へ行く人が多かった。
自分ともう一人の男性はペアになり、繁華街を見物して歩き回ったが、実に様々な店が並んでいた。 自分は事前チェックしておいて、タイでも食べた”ドリアン”を食べたいと思っていた。屋台では1個5ドルと安かったが、二人で食べるには多すぎて、シェアリングする相手が近くに居なかったし、ホテルには持ち込めないのであきらめた。各店には、日本語が達者な女性たちが必ず居て、売り込みに懸命だった。 (下は、ドリアンを捌き売りする屋台の風景。)
(ナイト・マーケットへ向かう道すがら)
時間が来たので我々は、近くのコンビニで350m㍑のカンボジアビールとコーラを買い込み、バスでの帰途へ就いた。ホテルに着いたのは、23:00を回っていたものと思われる。 この日は、早朝からのアンコール・ワットへのツアーに始まり、ナイトマーケット迄の強硬スケジュールだった。
ホテルでシャワーを浴びてからビールを飲み始めたが、気が付いてみると、自分は飲み終わる前に、缶ビールを手に持ったままソファーで寝込んでいた。
シェムリアップ(アンコール遺跡群)行 ⑥アンコール・ワット、オールドマーケット
8月31日(日)は、シェムリアップでの最後の日となり、”アンコール・ワット”への再訪問の日だった。 自分は、昨日同様に同じベッドメーキングの女性に、1ドル程の枕チップを渡し、前日迄使用していた赤い半袖シャツ(もう似合わなくなっていた)その外の衣類を、ジェスチャーを混ぜながら「ウォッシュアップしてから使用して欲しい。」と言って渡した。 下穿きだけは持ち帰ってきた。”アンコール・ワット遺跡”では、ヨンさんの詳しい説明を聞きながら寺院を巡った。 アンコール・ワットは、アンコール遺跡群の中では、それを代表する寺院である。
(下は、外堀から眺めたアンコール・ワット)
(『アンコール・ワット西参道』の蓮池前での撮影。)
(内部の壁のレリーフの説明をする現地ガイドの”ヨン”さん。)
(内部の壁のレリーフ)
(第一回廊の寺院の様子)
(第一回廊の寺院の様子)
(下は、回廊の内部)
(中心に安置されているビシュヌ神像)
(仏像の安置されている祠堂。)
(堂内で占い師に占ってもらう人達)
(寺院の壁には、消された、江戸時代の日本人の落書きの跡。)
(壁に施されている”デバター(女官・踊り子)”のレリーフ。)
サンスクリット語でアンコールは王都、クメール語でワットは寺院を意味する。
大伽藍と、美しい彫刻からクメール建築の傑作と称えられ、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれている。 この寺は西を正面としており、午前に写真を撮ると逆光になるため、午後の観光が好まれる。
但し、日の出が美しく、2日目の観光のように、早朝に訪れる人も多い。正面からは年2度 (春分の日と秋分の日) 中央の祠堂真正面からの日の出を見ることができる。
第三回廊への13メートルの石段は急である。登ることを諦め、ただ第三回廊を見上げ続ける人々も見られる。第三回廊は修復工事のため2007年10月1日から立ち入りが禁止されていたが、2010年1月15日より拝観を再開した。登ることが許可されるのは、東側の階段一か所のみである。自分は、この階段を登るに当たり、履いていた靴底のソールが剥がれてしまった。フット・サル用の運動靴なので結構頑丈なはずで、まだまだ履けると思っていたのだったが、あまりにも泥濘を歩き続けたので、劣化していた接着剤が剥がれてしまったものと思われたが、女性陣の中で気転の効く女性が居て、ご自分の髪を縛る太い輪ゴムを出し、「何とかならないですか?」と言ってくれ、その固定方法まで教えてくれた。
そのお蔭で、自分は何とか第三回廊へと登る事が出来たのだった。 自分はほとほと感心し、「何処か技術系の会社にでもお勤めですか?」と聞いたところ、ホテル関係に勤めている方だった。「気配り、目配り、心配りですね!」と自分が褒めると、その女性は「誰も言ってくれないので言います。その通りです。」と言って笑っていた。
(下は、第三回廊を北西方向から撮影する。)
(第三回廊の上にある、祠堂の”仏陀像”)
この寺院も、クメール・ルージュとそれと敵対する勢力(親越派のヘン・サムリン勢力等)の戦闘の場となり、今でも寺院の門や壁には銃弾の跡が生々しく残っている。正面にあたる西参道の派手派手しさと比べて、裏にあたる東参道はとても寂しかった。それらを見終えて、出口へ向かうと、又物売りの大人や子供達が待ち構えていた。
その中に『アンコール遺跡の写真入り冊子』を売っている男性が居て、「一冊1ドル!」と言って売り込んでいた。最初は気にも留めなかったが、チラ見すると良さそうな本だった。改めて売り込んできたので、手にとって見ると日本語の説明付の良い本だったので、「本当に1ドルか?」と聞くと、彼曰く「11ドルだ!」と言う。自分は「やられた!」と思い、出口の方へ進んだが、これも出口が近づくにつれて安くなってくる。ついには半値の5ドルになった。 自分は「それでも高い!」と思ったが、欲しくなった本なので、5ドルを払って購入した。(この後、同行のご夫婦が、「お幾らで買われましたか?」と聞くので、「これこれで…」と話すと、彼等も全く同じ手順で5ドルで買ったという事だった。 売り手のノウハウがあるようである。)
すると今度は、その金銭の授受を近くで見ていた男の子が何やらブツブツ言いながら、「1ドロー、1ドロー」と言ってついて来る。 彼は何故か、『必ず、自分は1ドルを貰える。』という、確信を持ってついて来るようだった。
彼には1ドルをあげたが、今度はそれを見ていた土産物売りの女の子が、「1ドロー、1ドロー」とついて来る。際限がないのである。可哀想だったが、年上でしっかりしている様に見えた女の子には1ドルを渡さなかった。
やっと出入口まで来ると、今度は地雷のせいでは無く、何かの原因で熱湯を顔に被ったのか、顔のほぼ全面が引き攣れをおこしている女の子が物乞いをしていた。
彼女は「うー!うー!」としか声が出ないようで、手を出して物乞いをしていた。 自分は、持ち帰るつもりでいた、残っていた現地通貨の”リエル”を彼女の手に渡した。(日本に持ち帰っても、玩具にしかならないのである。)
アンコール遺跡群への入場に当っては、一番最初の日に、顔写真付きの『一週間フリーのパス(それは40ドルもする。カンボジアにとっては大事な国の収入源なのだろう。但し、旅行費用に込みである。)』が作られ、各遺跡群に入場する度に、出入口で待ち構えている4~5人の係員に厳しいチェックを受ける。
本来は、物売りや物乞いの人達は入場できないのだろうが、係員たちは、彼等に『お目こぼし』をしているのだろうと思われた。
自分はヨンさんに、「現在、外国人で一番お金を使うのはどこの国の人達ですか?」と聞いたところ、ヨンさん曰く、「かつては日本人だったが、現在は中国人です。」という事だった。
現在、世界第二位の経済大国と云われている所以もあるのだろうが、古い昔からインドと中国から受けてきた影響もあるのだろうし、近年のベトナム戦争・カンボジア内戦の頃から『親ソ連のベトナム、親中国のカンボジア』と云われる図式が現在も続いているのだろうと思った。(因みに、現在もロシアからベトナムに来る観光客は多いと聞いている。)
その後は、最後の遺跡群”タ・プローム寺院”へと向かった。
”タ・プローム寺院”は、カンボジアにある、アンコール遺跡群と呼ばれる多くの寺院や宮殿などの遺跡群の内のひとつで、12世紀末に仏教寺院として建立され、後にヒンドゥー教寺院に改修されたと考えられている遺跡。創建したのは、 クメール人の王朝、アンコール朝の王ジャヤーヴァルマン7世。
ガジュマルによる侵食が激しく、三重の回廊に覆われた遺跡には、文字通り樹木が食い込んでいる。あまりの酷さにインド政府はタ・プロームの修復計画を発表した(インドはタ・プロームの修復を担当している)。しかし、現在ここで議論が沸き起こっている。
熱帯の巨大な樹木(ガジュマル)は遺跡を破壊しているのか、それともいまや遺跡を支えているのかという議論である。 2006年10月現在、この遺跡の修復方針をめぐって、ユネスコを中心とした活発な議論が継続中である。 それにしても、美しい寺院であった。人々がここに惹きつけられる気持ちが分かる思いがした。
(『タ・プローム寺院』の様子。)
(”インディ・ジョーンズ”の映画撮影場所)
(大きなガジュマルの根の前で)
(寺院の裏)
これにより、”アンコール遺跡群”のすべての観光が終わった。
我々は、トイレタイムの意味もあり、一旦、カンボジアシルクや椰子砂糖菓子等の置いてある土産物店に寄った後に、これも予定通りの『オールド・マーケット』へ向かった。
オールド・マーケットは、観光客向けの”ナイト・マーケット”と違い、周辺の現地の人達が日常使用する”巨大な市場”(沖縄的には”牧志公設市場”)であった。
バスは、その外れの土産物店前に停車し、1時間ほどのマーケット見学と買い物の時間が設けられた。
市場には、肉類、魚類、それらの乾物、野菜、果物、洋服屋、履物屋、雑貨屋、食堂、道端で果物ジュースを売る屋台等々何でも揃っていた。
自分は取り敢えず、靴を買い替えようと、ヨンさんの案内で靴屋に向かった。 靴屋は道を挟み、2店あったが、立派な店構えの店にはお目当ての靴がなかった。もう一方のマーケット側の店には雑然とあらゆる履物があった。 いろいろ探したが、アディダス製の、好みの白い靴を見つけたので、ヨンさんにそーっと「相場はどの位か?」と聞いてみたが、彼曰く「交渉次第ですよ!」と、ニコッとしながら言うのであった。
自分は、応対してくれた、店の女将らしい小さな女性に聞いたら、「16ドル!」と言い、自分が「高いから、もっと安くならないか?」と聞くと、彼女は小さな計算機を出しながら、希望額を示せと言う。
カンボジアでは殆どが、この様な計算機を用いた値段交渉で行われる。 そして、この女将は商売が靴屋であるにも拘らず、はだしであった。 自分は、あまりネチネチとしたやり取りを続ける気は無かったので、13ドルでそれを購入した。
靴は新品の様だったが、少々汚れていたし、「本当にアディダスかな?」と思ったりしたが、造りはしっかりとしていた。 それまで履いていた靴は、女将に処分をお願いした。 自分のお気に入りのその靴は、そこが日本であれば、洗いこんでから接着剤で修復し再使用したい程気に入っていた。
マーケット内は大体見たし、買いたい品も無かったので、待ち合わせ場所の土産物店へと戻った。店の中を覗くと、鰐皮の財布やベルトを中心にした品揃えだったが、スペースは1階のみであり、自分としては、「折角の店なので、もう少し品数を揃え、スペースも2階も使って広くすればいいのに!」と他人事ながら思った。買うべきものが無かったので、店を出ようとすると、それまで自分に付いていた売り子の女の子が、再度熱心に売り込みを始めた。 「自分の欲しいものが無い!」と自分が言うと、その売り子の女の子は、「”私”と”カンボジアの経済”の為に買っていって下さい。」と言う。
彼女は、半ば冗談の様に笑いながら言っていたが、それは本音である事が分った。自分は、その言葉に揺り動かされて、”黒胡椒と”レモングラスティ”が各々6個で1セットの物を、それぞれ「貴方と、カンボジアの経済のために買います。」と言って買ったが、後になって「もう少し買ってあげれば良かった。」と少し後悔した。
(この、椰子の葉で編んだ様な直径5cm、高さが7㎝程の茶筒の形の、6個セットの品物は、女房が職場ほかの友人にあげるのに丁度良かったようだ。)
”レモングラスティー”は試飲して気に入っていたので、もう少し高品質のものを外の店で購入していた。 ここでは、我々ツアーの仲間は、結構な数の土産物を買い込んでいたようだった。
買い物が終わり、我々がバスに乗り込み、出発する際には、その店の主人らしき人が、店から転がるような勢いで駆け出てきて、日本語で「カンボジア経済のために、ご協力ありがとうございました!」と、大声で叫びながら、頭を下げていた。
(移住した日本人が作っている言う100%シルクのシックな織物。)
その後、我々はベトナムの”ホーチミン・タンソンニャット国際空港”へ向うべく”シェムリアップ国際空港”へのバスに乗り込んだ。 シェムリアップ国際空港では、ヨンさんに皆でお礼を言ったが、皆で相談をして「”心づけ”を渡すのだった!」と後悔したが、ツアーの最中は、「遺跡群での”パスケース(1枚1ドル)売買”や、10名近くの現地でのオプショナルツアー申し込金(2000円/人)で少々の現金収入が有ったかもしれない。」と、自分に言い聞かせた。
シェムリアップ国際空港では、出国審査はともあれ、セキュリティチェックは厳しかった。 自分は入国時に分かっていたので、ズボンのベルトや金属類は一切身に付けずに、靴も脱いでセンサーを通過し、何事も無かったが、靴を脱がなかったり、眼鏡用の小さなねじ回しを間違って持ち込もうとした人達は、厳しく咎められて、目を丸くして冷や汗をかきながら戻ってきた。
その他、ある人の荷物が、ベトナムのホーチミン・タンソンニャット国際空港では無く、羽田空港へ直送されかかったりするトラブルは有ったが、 我々は、今度はベトナム航空のジェット機に乗り込みホーチミン・タンソンニャット国際空港へ無事に出発した。(下は、シェムリアップ空港からノイバイ国際空港へ向かう、VN6814便。)
シェムリアップ(アンコール遺跡群)行 ⑦ホーチミン市にて
8月31日(日)の17:20にカンボジアのシェムリアップ国際空港を飛び立ち、ベトナムのホーチミン・タンソンニャット国際空港に到着したのは18:30頃だった。 この夜、ホーチミン市は雨だった。
ホーチミン市は、ベトナム社会主義共和国最大の経済都市。東南アジア有数の世界都市でもある。人物のホー・チ・ミンと区別するため、通常はホーチミン市またはホーチミン・シティと呼ぶ。 旧名は ”サイゴン” であり、現地では今なお「サイゴン」という表現が様々な場面で使われており、都市名としては「ホーチミン」よりも通じる。
ホーチミン市は、元来クメール人が居住しており、”プレイノコール”という地名で知られていた。 プレイノコールとは「森の街」、或いは「森のある土地」を意味するクメール語である。プレイノコールという地名は、今日でもカンボジア人やメコン・デルタに居住する少数民族の低地クメール人によって用いられることがある。
現地のガイドさんは、『VU』と書いて、”ヴ”と言う人であった。
「”ブウさん”と呼んでください。」と言っていた。
(翌日、自分が彼に、「ブウさんの漢字でのフルネームを教えて欲しい。」と言った所、 彼は「それは古い人達の名前であり、現在では”VU”と書きそのまま”ヴ”と発音します。」と言っていた。
後で調べてみると、《公的には1945年のベトナム民主共和国の独立以来、ベトナム政府は識字率の向上を意図して、フランス人宣教師により考案された補助記号を付けた、ラテン(ローマ)文字である、クオック・グー(国語)をベトナム語の公式な表記文字とすることを定めた。
現在のベトナムでは漢字、漢文の使用は廃され、ベトナム語はもっぱらクオック・グーのみにより表記されている・・・》との事だった。)
ブウさんは、「自分は当年とって18歳になります。」と言い、我々から「嘘だろう!」と返されると、 「すみません。嘘をついていました。実は10年では無く、20年取っていました。38歳になります。」との冗談で笑わせたり、「ベトナムでの干支は殆ど日本と同じです。 違うのは、兎年が猫年になり、羊年は山羊年、猪年は豚年になります。」等々興味のある話題を提供したりと、我々とのコミュニケーションをとるのに懸命であった。
ブウさん曰く、「今現在、西沙諸島等への中国の暴挙のおかげで、ベトナムと日本との関係はより親密になっております。安部政権になってからは、以前より以上に経済支援も受け、日本の方々には大変感謝しております。ベトナムの国民はこの事をよく解っており、街で出会った外国人が日本人と解ると、多分笑顔で会釈される事と思います。」と言っていたが、 『現政権の云々』の議論はさて置くとして、確かに翌日の”統一会堂(旧南ベトナム大統領府)観光"の際にエレベーターを譲ってくれたカップルも、買物をしたコンビニの店員も、自分が日本人だと分かるとカップルの女性がはしゃいでいたり、店員が必要以上に微笑みかけてくれたりしたのは事実だった。
夜のバスの車窓から見ても、昔から繁栄してきたサイゴン(ホーチミン市)は大都会であった。
比較するべきではないが、『政治のハノイ、経済のホーチミン。』と云われる様に、ハノイ市とは、相当規模の都市としての経済格差が、感じられる繁栄ぶりであった。
この日の宿泊は、『ウィンザー・プラザ・ホテル』という、”スーペリアクラスながらも五つ星のホテル”と言う事であり、部屋は15階の30号室だった。 (下は、この日に宿泊した部屋の内部。)
しかし、自分にとってはシャワーとベッドが有ればそれで十分だった。 休む間もなく、荷物を置いてすぐの夕食は、牛肉か鶏肉かの好みに合わせた『フォー』だったが、自分にとってはこれで十分だったし、今までにも増してとても美味く感じた。 食事をしながらの、旅仲間達との会話は弾んだが、疲れている事とて、自分は少々早めに休む事とした。
(下は、とても美味かった、香草たっぷりのフォー)
(レストランの入り口の様子。)
(レストランの内部。)
翌日の9月1日(月)は、ベトナムでの8月31日(日)の『建国記念日』に続く連休として政府が設定したという事であった。 その代り9月6日(土)は働かなくてはならないのだという。 4月にハノイを訪れた際には、『ベトナムでの連休は4月30日の統一記念日と5月1日のメーデーのみ。』と聞いていたので、これはたまたまの振替休日だったのかも知れない。
この日は、快晴とはいかなかったが陽射しが有って良い天気だった。自分は、朝7:00頃に目を覚まし、シャワーを浴びた。 確かに部屋は快適で、部屋の調度も品良く、ダブルベッドはもったいない程だった。 ここも、4階に有るレストランは、ビュッフェ方式であった。この日も移動日だし、長旅だしと、フォーは勿論、肉類、野菜類、果実類、パスタ類、ジュース類、ベトナムコーヒー、仕上げは紅茶とがっちりと食べ備えた。 ホーチミン市では、日本系のコンビニ『SKS』の進出がめざましいとの話だった。みやげ物店等での買い物は、全てドルでOKなので、コンビニ用に1000円だけベトナムドンに両替した。 この日の相場は1000円で20万2千ドン、つまり(202ドン/円)だった。枕チップの1ドルを枕の下に置き、8:30頃にホテルを出発。
”ホーチミン市内観光”という事で、最初の訪問先は『統一会堂(ベトナムのホーチミン市にある建物。政情が不安定だった時代に、建物の呼び名もたびたび変遷し、1873年から1955年の呼称は「ノロドン宮殿」、1955年から1975年の間は「独立宮殿」、ベトナム戦争時には「南ベトナム大統領府」。)』だった。
統一会堂には9:00頃に着いた。門を入るとすぐ右手には、ベトナム戦争当時に実際に使用された戦車が2台置かれていた。 1台は当時のソ連製、もう1台は中国製だという。
(下は、展示されている戦車。)
そんなブウさんの説明を聞いていると、背後から、流暢な日本語で「日本の方ですか?」という問いかけが聞こえたので振り向いてみると、にこにことした夫婦で、奥さんはインドネシア系の顔立ちで、頭には回教徒の女性が着用する被り物をしていた。 夫の方も、どうも日本人には見えなかったので、自分が「サイゴンの方ですか?」と聞くと、彼曰く「そうです。でも今は横浜に住んでいて、日本で商売をしています。」と自己紹介をした。「日本の何処からですか?」と問うので、自分の事と勘違いをして、「福島です。」と答えると、彼はにこにこしながら「そうですか!頑張って下さい。じゃあ!」 と言い残して二人で去って行った。
1975年4月30日に、サイゴンが陥落するに当たり、南ベトナム軍の関係者や資産家・商人達が国の共産化を恐れて、(中国の終戦時に台湾等に脱出したと同様に)多くの人達が、国外へ脱出したのだったが、「その人達の関係者なのか…?」とも思った。 それを聞いたブウさんは、「サイゴンは旧市名、今はホーチミン市です。」と拘っていた。
我々は『統一会堂』内に入り、ブウさんの説明を聞きながら建物内を見学した。
館の中には、ベトナム戦争当時に住んでいた、歴代の南ベトナム大統領達(グエン・バン・チュー、チャン・バン・フォン、ズオン・バン・ミン等)達や 彼等家族達の、贅沢な暮らしぶりや調度品、個室、会議室、娯楽室、麻雀部屋、映画館、コンサートホール、ダンスホール等がその当時のままに再現されているのだった。ベトナム戦争の最中、多くの戦死者や戦争犠牲者を出し、庶民が苦しみ喘いでいる時に、”彼等だけが如何に贅沢に暮らしていたか!” という、言わば庶民の敵(悪役)に対する”さらし者”的な意味の展示でもあった。
(南ベトナム大統領の執務室。)
(談話室。)
(螺鈿細工の施された、大統領の家族の贅沢な調度品。)
(大中小の像の足のはく製。己の立身出世を願う物だと言う。)
(その他の展示物)
(ダンスホール)
(麻雀部屋。)
(館内の映画館。)
(逃亡のために常時待機させていたという屋上のヘリコプター。)
(『統一会堂』の屋上から街中(門方向)を臨む。)
自分は、気が優しそうなブウさんが、冗談を言いながらも時折見せる厳しい顔や目つきや、先刻にも『サイゴン市』とは言わずに『ホーチミン市』にこだわった事等から、一般の人とは思えず、「もしかしたら軍関係の人なのかも知れない。」と思い、たまたま案内の先頭に立って自分と二人だけになった時を見計らって、「ブウさんは、もしかしたら公務員さんなのですか?」と尋ねてみた。
間もなくブウさんは、次の場所での説明の後で、「ベトナムの旅行会社は民間会社も有りますが、私の場合は国営組織なので公務員です。つまり私は、ベトコン(おそらく、彼が言いたかったのは、『ベトナムのコミュニスト』、つまりベトナム社会主義共和国の公務員であり、社会主義者なのだという意味だったのだろう。)なのです。」と、我々全員に自己紹介をした。
元来、”ベトコン”と言う意味は、正式には『南ベトナム解放民族戦線(南ベトナムかいほうみんぞくせんせん)』で、南ベトナムで1960年12月に結成された反サイゴン政権・アメリカ、反帝国主義を標榜する統一戦線組織。』なのだが、アメリカ・南ベトナム側による蔑称として、”ジャップ!”と同様に使用されたもので、南ベトナムの大統領であったゴ・ディン・ジエムがその名付け親といわれる。日本にも報道などを通じて入ってきたものが一般化したものだった。
そして『ベトコン(解放戦線)』の人達は、彼等の祖国を守るために生命を賭して戦った、男女を含めた名も無き戦士達なのだが、その響きは、”勇猛果敢、苛烈で不屈の精神を持つ、命知らずの戦士達”といったイメージでとらえられ、よく理解できない人々からは、畏敬の念と共に、敬遠され勝ちな響きを持つものなのだが、ブウさんは当たり前の様に、我々日本人に、それを言ってのけた。
それだけ解放戦線の人達や、自分達の国や民族に誇りと自信を持っている。 という事なのだろうが、我々日本人にこういった言葉を言ってのける。この辺が「ベトナムという国の民族の自信と、我慢強さと逞しさ、そしてしたたかさなのだ。」と自分は感じた。
ブウさんはそれからも「私はベトコンなのです。」と繰り返し言っていたが、南・北ベトナムが統一された1975年4月30日頃には、ブウさんが未だ生まれていない頃の時期のはずなので、彼の身内にそれらの関係者がいたのか、それとも伝説ともなっているであろう、彼等『解放戦線の人達』を尊敬してのことなのだろうと思われる。 そして、彼等解放戦線の人達の国を思う心と気概は、どうやらブウさんに受け継がれているようであった。
自分は、見学を終えて『統一会堂』を出る際に、「日本はともあれ、韓国との関係はどうなんですか?」とブウさんに尋ねたところ、彼は「現在、韓国政府からは経済援助も受けており、関係は良好ですよ!」と答えた。
(大韓民国は、ベトナム戦争時に「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」のスローガンの元でベトナムに出兵し、”ベトナム共和国<南ベトナム>”を支援する、アメリカ合衆国側の軍隊として延べ30万人の大韓民国国軍が参戦した。また、戦争中にゴダイの虐殺やタイヴィン虐殺、ハミの虐殺やタイビン村虐殺事件やフォンニィ・フォンニャットの虐殺等、数々の民間人に対する大量虐殺事件を起し、ベトナム人女性や少女に対して強姦を行った。また、多くのライダイハン(混血児)が産まれてしまい、その子供は、ベトナム国内では差別の対象になっており、2013年現在でも、正確な人数が判明していないという。)
自分は、そんなブウさんに「ベトナムの人達は、努力家で、忍耐強くて、それでいてしたたかなんですねえ!」と言うと、ブウさんは自分の手を握り、強い握手を返してきた。
(下は、ガイドのヴさんと、中央郵便局の前で)
(ブウさんによると、彼は、今回のようなベトナム国内での観光ガイドよりも、海外旅行のガイドとしての業務の方が多く、それも”日本観光”が殆どだとの事だった。とんぼ返りの忙しさだという事だった。 但し、ベトナムにおいて海外旅行は未だ一般化されておらず、行けるのは殆ど『エリート(会社の社長やその他の富裕層)達』なのだとの事だった。
自分は、日本の観光箇所について、ブウさんの説明をあまりよく覚えていないが、確か『東京タワー、お台場、横浜、日光、箱根、名古屋、京都、最後は神戸・・・』といった感じで、約一週間程の旅程だという事だった。 確か、旅費はおよそ26万円程と言っていたが、だとすれば、割増しやオプションを除く、今回の我々の純ツアー料金のおよそ2倍程と言う事だ。 ブウさんによれば、彼等『エリート達』を日本観光に連れてくることは、ベトナムにとって良い事で、ベトナム国内において、”功成り、名を遂げ”満足している彼等に日本を見せることは、ブウさんに言わせれば、日本という大国のカルチャーショックを与え、「俺たちは、まだまだだ。もっと頑張らなければ!」という発奮を彼等に与えるのだそうで、帰国してからはもっと頑張るのだそうである。)
その後、我々は『サイゴン大教会』と『中央郵便局』を見学した。
自分は『中央郵便局』で、”アオザイを着たベトナム女性達”をモチーフにした、持ち帰り用の切手を現地通貨の4万ドンで購入した。
(下は、『サイゴン大教会』前にて。)
(年中無休の『中央郵便局』の正面。)
(下は、『中央郵便局』の内部。)
その後、繁華街であり、土産物店が建ち並ぶ『ドンコイ通り』において、1時間程の時間が設けられた。 ブウさんは「”銀ブラ”では無くて”ドンブラ”です。」と洒落を言っていた。
自分は、もはや購入するべきものが無かったので、近くのホテルでのトイレタイムの後、ドンブラをしてから、コンビニのSKSで350m㍑のコカコーラを1缶1万ドンで買い、帰ろうとしたが、ドンブラで道を行き来する際に”らい病”を患っているらしい老婆が、暑い盛りの歩道の上で物乞いをしていたのを見つけ、行きと帰りに1万ドンずつの2万ドンを手渡した。 我々にとってはコンビニ(割高)で買える、350m㍑のコカコーラ2本分なのだが、彼女ら、現地で倹しく生活している人達にとっての2万ドンは価値があるのである。
(ドンコイ通りに多く残る、フランスの建築様式。)
(ドンコイ通りのハズレの川沿い)
(ドンコイ通りの町並みの様子)
それから、我々は11:30頃にドンコイ通りをバスで出発して、帰路に着くべくホーチミン・タンソンニャット国際空港へ向かった。
ホーチミン・タンソンニャット国際空港からの出発は、何の問題も無く、ほぼ定刻の13:50位にJAL0070便にて出発し、2時間の時差を戻って、天候不良で紀伊半島上空での若干の待機時間は有ったが、これもほぼ定刻の22:00頃に羽田空港国際線ターミナルに無事着陸、帰国した。
(下は、土産の数々。)
(以下は、帰国後の資料の整備)
【 旅行記終了 】
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