インド:バーラト・ガナラージャ(デリー・ジャイプル・アーグラ)への旅 - Latte

インド:バーラト・ガナラージャ(デリー・ジャイプル・アーグラ)への旅

  • 旅行期間: 2015/07/17 ~ 2015/07/21
  • 作成日:2015/10/04 16:15
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1日目) 仙台空港発の全日空成田空港発・全日空NH0827便(18:40)直行便にて
インド・デリー・インディラ・ガンディー空港着。この日は宿泊のみ。

2日目) 砂漠の州ラジャスターンの州都で赤い城壁に囲まれた”ピンクシティ”と呼ばれる ジャイプル(見所:シティ・パレス ;風の宮殿。世界遺産:ジャンタル・マンタル展望台;アンベール城)』観光。

3日目) ムガール(モンゴル)帝国の都として栄えた『アーグラ(見所;世界遺産:ファーテブ・シークリ ;アーグラ城 ;タージ・マハル)』観光。

4日目) 『デリー(見所;世界遺産:クトゥブ・ミナール;フマユーン廟;レッドフォート)』観光後・インディラ・ガンディー空港より全日空成田空港へ。

5日目) 成田空港着後、全日空NH3235便(18:55発)にて仙台空港着で帰国。

インド(デリー・ジャイプル・アーグラ)への旅 ①


※ 今年(2015年)の7月に、インドへ行った。

 行くことが決まってから、ネパールで大地震が起きて多くの犠牲者が出たり、インドの中・南部で熱波による熱中症等で、多くの死者が出たり、出掛ける間際には台風11号が直撃しかかり、「旅行自体が取り止めになるのではないか?」と危惧されたりしたが、
悪運強く、7月17日(金)にANA直行便(NH0827便)で出発できた。

 旅行するに当たっては、旅行書を読んだり、書き込みを読んだりすると、あまり良い情報や話が聞こえてこなかった。
やれ「野犬が多く、狂犬病になる可能性が大きい。」とか、「必ず下痢を起こす。」とか、「ぼられたり、犯罪に遭う可能性が高い。」とか、「トイレ事情が悪く紙が無い。」とか、「予防接種は必ず必要。」…等々といった塩梅である。
 確かに、野良牛、野良犬はよく見た。そして野良猿、野良豚もいた。下痢に関しても事前に聞いていた。

【インドの独立後に、宗教上の違い(インドは”ヒンドゥー教”)からインドから分離独立したパキスタン(イスラム教)では、パキスタン腹(必ず下痢になる。)という事で有名だった。   

 自分は、茨城県水戸市に住んでいた平成2年頃に、パキスタンへの旅行計画を立てた事が有ったが、「死ににいくつもりなのか?」と、友人に慰留されたものだった。実際、その当時は爆弾テロが横行していて、新聞でもやれ「○○で爆弾テロがあり、首の無い死体が転がって…」といった様な報道が、頻繁になされていた。】

 これらの心配ごとに関しては、妻の職場仲間の娘さんがごく最近にインドを旅行し、「予防接種は、受けても罹るときは時は罹るので、それより十分清潔にすれば大丈夫。」という事と、「テッシュペーパーや除菌・ウェットテッシュを多めに持っていくこと。」といった様な話を聞いて、少しは安心した。

 (実際現地に行ってからの事だが、ツアー仲間達は殆ど、食事前には持参のウェットテッシュで食器やナイフ・スプーンを”除菌”していたし、紙の無いトイレもあり、テッシュを持参していって正解の時もあった。また、殆どのトイレは、大体水浸しの状態であり、事前の情報からも、これは備え付けのシャワーの様な手持ちのウォッシュレット代わりの洗浄機でお尻を洗うためと思われた。「ズボンやパンツが濡れてしまうでしょう…?」と思うのだが、
現地の人達は我々と衣類(サリー:中はスッポンポン?)が違うし、何よりも慣れているのだろうとしか思えなかった。…これは、悪口を言っているのではなく、そういう現地の事情と習慣なのである。
※ この事は、移動中のパーキングや土産物店(安宿も同じらしい。)等での話しであり、我々が宿泊したホテルのトイレは別の話である。)

※ 帰国後に、長女が書庫から出して貸してくれた、『インドなんて○○!○○!!…でもまた行きたい…かも』という文庫本を読んだが、確かに個人旅行をしたなら、間違いなく書いてある様な事態になるであろう事は、いまや想像するに難くない…

インドへの旅行については、時間の経過も視野に入れて、「少しでも”リスク”がある場所への旅は、なるべく早めに行っておこうという!」という考えからでもあった。
 行先は、インドでは”ゴールデン・トライアングル”と言われる、
世界遺産が集約している、結ぶと三角形になる三つの地域で、

① 砂漠の州ラジャスターンの州都で赤い城壁に囲まれた”ピンクシティ”と呼ばれる『ジャイプル(見所:シティ・パレス;風の宮殿。世界遺産:ジャンタル・マンタル展望台;アンベール城)』
② ムガール(モンゴル)帝国の都として栄えた『アーグラ(見所;世界遺産:ファーテブ・シークリ;アーグラ城;タージ・マハル)』
③ 『デリー(見所;世界遺産:クトゥブ・ミナール ;フマユーン廟 ;レッドフォート)』、といったところだった。

その他、”ガンジス河”や、釈迦が初めて説法をした、仏教徒の聖地”サルナート”を訪れるといった、”エアインディア”利用の別企画もあったのだが、休暇の都合と、”時間の感覚が曖昧!”と言われるインドにおいて、日程が読めて帰宅が間違いない、今回のルートを選ぶことにした。

【 街の人々 】

 インドでは、およそ人の住んでいる街では、至る所で人が溢れかえっていた。人口は、中国のおよそ13億4133万人(人口密度:140人/km2・2012年)に次いで、インドは12億1000万人(人口密度:368人/km2・2011年)。「いずれ、中国を追い越すだろう。」と言われている。(因みに、日本は1億2688万人(人口密度:337人/km2・2015年))そして、経済的にも「中国に追いつき、追い越せ!」という勢いである。

(写真は、アーグラ近郊の街の風景)


インド(デリー・ジャイプル・アーグラ)への旅 ②

インド(ヒンディー語;ラテン文字転写:バーラト・ガナラージヤ)は、インド憲法によれば正式名称はヒンディー語のバーラトであり、バーラト(サンスクリットではバーラタ)の名はプラーナ文献に見え、バーラタ族に由来する。
 近代になって、西洋語の India に音の近い「印度」、またはそれをカタカナ書きした「インド」が使われるようになった。

※ インドに多くの影響を及ぼす宗教について、少々語ると、
インドの人口に占める各宗教の割合: ヒンドゥー教徒80.5%、イスラム教徒13.4%、キリスト教徒2.3%、シク教徒1.9%、 仏教徒0.8%、ジャイナ教徒0.4%(2001年国勢調査)。

  また、ブリタニカ国際年鑑2007年版によれば、ヒンドゥー教徒73.72%、イスラム教徒11.96%、キリスト教徒6.08%、シク教徒2.16%、仏教徒0.71%、ジャイナ教徒0.40%、アイヤーヴァリ教徒0.12%、ゾロアスター教徒0.02%、その他1.44%である。

ヒンドゥー教徒) ヒンドゥー教徒の数はインド国内で8.3億人、その他の国の信者を合わせると約9億人とされ、キリスト教、イスラム教に続いて、人口の上で世界で第3番目。 ヒンドゥー教はバラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。ヴェーダ聖典を成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。紀元前5世紀ごろに政治的な変化や仏教の隆盛がありバラモン教は変貌を迫られた。その結果 バラモン教は民間の宗教を受け入れ同化してヒンドゥー教へと変化して行く。

 ヒンドゥー教は紀元前5 - 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 - 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになった。 その後インドの民族宗教として民衆に信仰され続けてきた。神々への信仰と同時に輪廻や解脱といった独特な概念を有し、四住期に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)・職業(ジャーティ)までを含んだカースト制等を特徴とする宗教である。

ジャイナ教) ジャイナ教とは、マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ、前6世紀-前5世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不害)の誓戒を厳守するなどその徹底した苦行・禁欲主義をもって知られるインドの宗教。 仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろして、およそ2500年の長い期間にわたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなおわずかだが無視できない信徒数を保っている。

仏教) インドは仏教発祥の地である。1203年のイスラム教徒ムハンマド・バフティヤール・ハルジー将軍によるヴィクラマシーラ大僧院の破壊により、僧院組織は壊滅的打撃を受け、インド仏教は、ベンガル地方でベンガル仏教徒とよばれる小グループが細々と命脈を保つのみとなった。一説では東南アジア、東アジアに仏教が広まったのは、インドで弾圧された多くの仏教関係者が避難したことが理由としてあげられる。 1956年、インド憲法の起草者の一人で初代法務大臣を務めたアンベードカルが死の直前に、自らと同じ50万人の不可触民と共に仏教徒に改宗し、インド仏教復興の運動が起こった。

チベット仏教) カシミール州のラダック地方、ヒマーチャルプラデーシュ州の北部、シッキム州など、チベット系住民が居住する地方では、チベット仏教が伝統的に信仰されている。

シク教) シク教は、16世紀にグル・ナーナクがインドで始めた宗教。シクとはサンスクリット語の「シシュヤ」に由来する語で、弟子を意味する。それにより教徒達はグル・ナーナクの弟子であることを表明している(グルとは導師または聖者という意味である)。 総本山はインドのパンジャーブ州のアムリトサルに所在するハリマンディル(ゴールデン・テンプル、黄金寺院)。教典は『グル・グラント・サーヒブ』と呼ばれる1430ページの書物であり、英語に翻訳されインターネットでも公開されている。

イスラム教)イスラム教徒もインド国内に多数おり、インド国内ではヒンドゥー教に次ぐ第二位の勢力である。信徒人口はインドは世界第3位のイスラム教国である(1位インドネシア、2位パキスタン)。ヒンドゥー教から一方的に迫害されることはないが、ヒンドゥー教徒の力が強いためにイスラム教徒との勢力争いで、暴動が起きることもある。そのためイスラム教徒がヒンドゥー教の寺院を破壊したり、その逆にヒンドゥー教徒がイスラム教のモスクを破壊したりといった事件も後を絶たない。近年はイスラム主義過激派によるテロも頻発している。

キリスト教) インドのキリスト教徒の多くはローマ・カトリック教会に属しており、インド南部のゴア州やケーララ州などに集中している。これはイギリス統治時代以前のポルトガルのインド侵略による影響が大きい。インドでは東方教会の一派であるトマス派が存在しており、マイノリティであるものの、一定の影響力を維持してきた。これとは断絶する形で、イギリスの植民地化以降はカトリックやプロテスタント諸派の布教が進み、トマス派を含めて他宗派の住民が改宗した。

ゾロアスター教) サーサーン朝の滅亡を機にイランのゾロアスター教徒のなかにはインド西海岸のグジャラート地方に退避する集団があった。伝承では、ホラーサーンのサンジャーン(英語版)から、4つあるいは5つの船に乗ってグジャラート州南部のサンジャーン(英語版)にたどり着き、現地を支配していたヒンドゥー教徒の王ジャーディ・ラーナーの保護を得て、周辺地域に定住することになったといわれる。グジャラートのサンジャーンに5年間定住した神官団は、使者を陸路イラン高原のホラーサーンに派遣し、同地のアータシュ・バフラーム級聖火をサンジャーンに移転させたといわれている。 インドに移住したゾロアスター教徒は、現地でパールシー(「ペルシア人」の意)と呼ばれる集団となって信仰を守り、以後、1000年後まで続く宗教共同体を築いた。かれらはイランでは多く農業を営んでいたといわれるが、移住を契機に商工業に進出するとともに、土地の風習を採り入れてインド化していった。

 以上のことのようだ。

出発は7月17日(金)の”ANA・NH0827便(18:40発)”だった。たまたま、仙台空港から一日2便のANAの往復便が成田空港迄飛んでおり、「今回のANA便での海外旅行に限って」という、約半額ほどで手配する旨の案内があり、今回はこの企画を利用したが、後で考えてみても、別な航空会社を使い、正規の料金を支払ったとしても、次回からは今回の様なルートが便利である事が分った。1日目) 7月17日(金)朝5:30頃、相馬を出発、相馬ICから常磐自動車道に乗り、仙台ICに到着したのは6:00過ぎ頃。 予約してあった空港近くの駐車場に車を停め、歩けば15分程の距離を送迎車で送ってもらった。「仙台空港のオープンは7:00から」という事で、少々早すぎたきらいはあるが、コンビニで買ってきた朝食を食べながら待った。 7:00のオープンと共にチェックインを行った。 

(仙台空港ターミナル;搭乗口カウンター)


 チェックインは、飛行機が同じ全日空なのでデリーまでの手続きが行えた。 7:45仙台空港を離陸し、成田空港第一旅客ターミナル着が8:40頃。 次の便は成田空港着が15:15であり、これでも間に合ったのだが、万が一飛ばなくなったときは手の打ちようがないのでこの便にした。  

(いざ!成田空港へ出発。)

旅行会社の受付カウンターでは、早朝から手続きが行われていたので早々に受付を済ませ、資料を読んだり、暫くは食べれなくなる日本食(蕎麦等)を食べたりしながら出発まで過ごした。 搭乗開始は18:15。 時間になると現地へ向かうインドの人達が増え始め、待合場所は一種独特のオーラで満たされるようだった。 今まで感じた事の無い様な雰囲気だった。

(成田空港の南ウィング)

(出発前に、南ウィングで食べた暫し食べれなくなる日本食の蕎麦)

(成田空港の出発ロビー)


(デリーへ出発する飛行機)


 19:40頃、予定通り成田空港を離陸し、デリー空港へ向かった。
デリーまでの飛行時間は約9時間、時差は-3.5時間だった。
機内食は、離陸して間もない19:05頃と、0:05(インド時間7月17日の21:35)頃の軽食との2回出された。

(下は、出発便で出された機内食)

(後刻に出された軽食)


 ここでも、予めインターネットで取り寄せておいた、”入国カードの見本” を見て機内で渡された入国カード(税関申告カードは裏面に記入する)を仕上げた。下調べでは、「機内で入国カードを渡されることは無く、空港に到着してから受け取る。」という事だった。
 また、”出国カード”は現在では廃止されている。

デリーの『インディラ・ガンディ国際空港着』着は、少々早い7月18日の2:10(現地時間は7月17日の22:40)頃。 到着したて間もなく、空港のトイレに入ったが、果たして、紙が有ったのか無かったのかまでは覚えていないが、日本式水洗の様に、コックをひねると水が流れる方式では無く、前述の”手持ちのウォッシュレット”の様な物で流すものだった。 到着早々の異文化の洗礼である。

(後で、現地のガイドさんの説明だと、印刷手間にコストのかかる紙幣を含め、インドでは紙類は貴重品だという事で、これがトレペの問題にもなっているものと考えられた。 要は、製紙工場の数不足等により、多すぎるインドの人口への供給が、需要に追い付かない事が原因なのではないのかと考えられ、この事は紙の問題のみならず、諸々のインフラ不足の原因なのではないのかと思われた。 自国民への福利厚生よりも、世界に伍していけるだけの自国の確立の為に、経済発展が優先されているためではないのかと考えざるを得ない。)

(インディラ・ガンディー国際空港・到着ロビーにて)


 到着ロビーには、現地のガイド(自称:インドの”郷ひろみ”こと”ゴー・スウェミ”さん)が待っていて、ツアー客の確認をしていた。 早速、専用バスに乗り込み、この日宿泊のニューデリー(旧市街のデリーとは隣り合わせ)のホテル”クラウン・プラザ・ロヒニ”に向かったが、途中の道路の高架下の狭い中央分離帯の上には、ぼろ布をまとっただけの様な、多くの人達が寝転んでいた。高架下は雨よけになるのだろうし、今の季節では凍死することはないのでそうしているのだろうが、それにしてもその数の多さには目を見開かされた。ホテル着は、7月18日(土)の04:00(現地時間01:30)。

 相馬で起床してから、24時間が経とうとしていた。そして、現地ガイドのゴーさん曰く、「モーニングコールは、現地時間の06:00です。 少々おつらいでしょうが、スケジュールの都合上ご協力をお願いします。」と告げられたのだった。グズグズしていると睡眠時間が無くなってしまうので、荷物の整理もそこそこに、アサシャンをすることにして、風呂も入らずにベッドに入ったが、それでも、その夜の最後に撮った写真のデジカメのデータによると、現地時間の02:00頃だった。 (これより、現地時間で表示)

(写真は、手作り感のあるわれ等がバスのナンバープレート。)


(インドの貨幣ルピー)

(写真は、デリーのクラウン・プラザ・ロヒニ・ホテル)




(写真は、ホテルのレストラン)

(ビュッフェで食べた、レストランでの朝食)


インド・デリーの街中の写真は、2日目の7月18日(土)の早朝(現地時間は05:30頃)に、デリーのホテル『クラウン・プラザ・ロヒニ』を出発し、約5時間を掛けてジャイプルへ向かおうとしたばかりのバスの車中からのデリーの街中の風景。(写真は、”特別な貧民窟”と言う訳でも無く、ありふれた風景だ。)

路上にハンモックを張って暮らす人々)

(写真は、自転車での屋台での食事風景)

(橋の下を家代わりにして暮らす人々。)

 インドでは、ヒンドゥー教の『カースト制度』の影響が大きいのだろうと思うが、貧富の差が大きく、しかも貧者の数が多すぎる。


インド(デリー・ジャイプル・アーグラ)への旅  ③ 


 2日目の8月18日(土)、早朝5:40頃起床。シャワーを浴びて、6:30からホテル1階のレストランにてビュッフェ式の朝食、今から言ってしまうが、料理名は違ってはいても、我々日本人からすれば、食事は全てカレー(多種類の香辛料を併用して食材を味付けするというインド料理の特徴的な調理法を用いた料理)であった。 ガイドのゴーさんによれば、我々に出されるカレーは、彼等にとっては全く物足りるものでは無く、彼等が食べるカレーは、食べたら、即汗が噴き出るほどのものだと言う。

ガイドのゴーさんからは、食事に当っては「生野菜を多く食べないこと。丸ごとフルーツは良いが、カットフルーツは食べないことという注意があった。  この事は、水道水といえども、如何に水質が悪いか…という事で理解している。
後日バスの中でゴーさんは、「私は44歳ですが、インドでの44歳はおじいちゃんです。インドでの平均寿命は女性が65歳、男性は60歳と言われています。」と言っていたが、  平成9年のタイ旅行で、現地の女性ガイドさんが、「タイの都市部では飲み水の質が悪く、其の為に自分達は長生きできない。」と嘆いていたことを思い出す。

ホテルでの食事後、バスに乗り、赤い城壁に囲まれた「ピンクシティ」と呼ばれる、行程が5時間掛ると言うジャイプルへ向けて出発したのは7:00頃だった。
 バスに乗ってすぐ、デリーの近郊にも関わらず、多くの貧しい家屋が多く見受けられた。そして、家を持たない多くの貧しい人達が、橋の橋台(きょうだい:橋の始終点部)下で少しの家財道具や調理器具等を置いて生活している様を多く見かけた。また、人がバスの屋根にまで便乗するのを見て驚かされた。

 (写真は普通のバス。この後屋根にも人満載のバスを目撃することになる。)

(インドの電柱は、四角柱だった。)


ジャイプルまでの道中は長く、いろいろな出来事が有った。
ガイドのゴーさんからは事前に説明が有ったものの、”高速道路”を通っているにも関わらす、路肩をバイクや自転車が並走又は逆走していく。 地元の人達が荷物を頭に乗せて横断していく。 ヒッチハイカーの様な人が親指を立てて、通行車両に合図を送る。
 そして、インドの街の中でも、何処でもそうなのだが、”牛”が道路の中央分離帯や道の真ん中に寝そべっていたりして、それを通行車両が避けて行く。
(牛に関しては、ヒンドゥー教においては、”神の使い”とされ、勿論食べてはいけない事になったいる。但し「”水牛”は別だ。」との事。


 この事は、シェムリアップ(アンコール遺跡群)行 ②ヒンドゥー教)にも書いているが、ヒンドゥー教における三大神のうち、シヴァ神(:宇宙の寿命が尽きた時に、世界の破壊を行い、次の天地創造に備える役割を司る神。乗り物は牡牛のナンディン、トラの皮をまとい首にコブラを巻く。しばしば結跏趺坐し瞑想する姿で描かれる。)の乗り物であり、彼の長男のガネーシャがこよなく愛した動物だからとの事だった。

 詳しくは聞けなかったが、これまたゴーさんの説明によれば、万が一牛を車等で轢き殺してしまった人は、その牛の供養の為に”巡礼の旅”に出るのだそうで、”巡礼の旅”から帰った後には、牛の供養のために、知り合いや近所の人達に食事等をふるまうのだそうで、大ごとなのだそうである。

インドでは、車が観光目的等で他州に入る際には、高速道路代とは別に税金を払わなければいけないとの事で、運転手がいちいち書類を持参して税金の支払いをしていた。 また、生活必需品以外の贅沢品(たとえばビール等の嗜好品類等)に関しては、とかく税金がかけられたり、値段が高いのだそうだ。

(バスは、他州に入る際に税金を支払いに行く、右下の運転手。)


 高速道路を下りて、街中の一般道を走り、一般の街並みが見えるようになると、明らかなインフラ不足が感じられた。 道路はアスファルトでは無い普通の土の道路で、側溝等の整備がなされていない為か、水はけが悪く、あちこちが水でぬかるんでいて、歩行者はそれらを避けながら歩いていた。

(水はけの悪い舗装されていない一般道路。)


 また、道路の両脇と言わず、一般家庭の玄関先と言わず、分別されていない、恐らくは異臭を放っているであろう、ありとあらゆるゴミがうず高く積まれて放置されており、近くの人達はそんな中で生活しているようだった。
 ”ゴミ処理場・焼却場というものが無い。”という事は考えられないので、それらの数が圧倒的に足りないのだろうと思われた。
 ベトナムのハノイでも、””ドンスァン通り”の商家の人達が、家屋内のゴミを、道路に掃き出している光景を何度か見ているが、そんな生易しいゴミ捨ての在り様ではなかった。 

(写真は、未だ可愛いごみ捨て。うず高く詰まれ玄関の見えない家もあった。)


バスでの長い道中の過程で、直近での事故もあった。目的地へ向かっている時、右側に座っていた自分が、すぐ後ろで”キキーッ!” という車の急ブレーキの音を聞き、後ろを見たが確認することは出来なかった。しかし、後部座席の人達が「ああっ!人が、人が!」と叫んでいたので何が起きたのかが大体わかったが、「あのスピードで、あの乗車方法で…」を考えれば、必然的に、何が起きたのかは大体想像できた。「殺人等は別として、殆どが”自己責任”を前提として、行われているのだろう。」としか思えない様な状況だった。
 その後、今度はジャイプルからアーグラへの道中で、今度は路肩側で、真っ逆さまにひっくり返っている車を見たが、あの状況では死人が出たのは間違いない状況だった。

(以下は、人満載の車、車、車・・・。3階建てバス?)

(バスの屋根で天然のシャワーを浴びて雄叫び。ワオーッ!)

(人も荷物だ!)

(そうだ、そうだ!)

(はるか彼方~は、渋滞の車~かよー。 なんだぁこ~らよーっと♪♪!・・・

『相馬盆唄』調でどうぞ、お歌い下さい!)

(バイクも車も、走れば乗れ乗れ!)

(運転席の屋根にも”ガッツポーズ”で・・・!)

(しまいにゃ馬車にも、人が満載!)


(「インド人もびっくり!」というコマーシャルがあったが、

 あれは、少々の事では驚かない”インド人も、びっくり”するほどの大ごとを言っているものと、受け取れそうな有様だった。)

 バスの中では、ガイドのゴーさんによる両替が行われた。 インドの貨幣の”ルピー”は「国外への持ち出し禁止」ということになっており、インド国外での両替ができない。
 これは多分、紙幣を印刷するコストが掛りすぎるので「海外への余分な流出を避ける。」との思惑なのではないかと思われる。 この時の”ルピー”の相場は、yahooファイナンスによれば、1.8円/1ルピー程だったが、ゴーさんの両替では1万円で4,700ルピー(2.13円/1ルピー)と少々割高だったが、それでも「ホテル等での両替よりは率が良いですよ。」という旅行会社の言だった。

ルピーの下には、”パイサ”という補助通貨(100パイサ/1ルピー)があるのだが、現在では釣銭でも使用されることは稀だという。  また、ルピーも、現地の人達は別として、観光客が1ルピーを受け取る事も稀だという。
言わば”観光インフレ”と言うものなのかも知れない。
実際、我々が使用した紙幣は10ルピーが最低単位だった。
数十年前の中国の様に、”現地物価”と”観光物価”が格段に違っている気がする。
 自分は、コインを手に入れたかったので、ガイドのゴーさんに「コインが欲しいのだが…」と相談したところ、彼はポケットから、1・2・5の3枚のルピー硬貨を引っ張り出してきて、「これで良ければ…」と、くれたものだった。

(写真は、USドルとインドの通貨ルピー)

(インドの通貨ルピー)



 そうこうしている内に、11:00前に昼食場所に着いた。
この日の昼食は、インドでは定番の”ターリー料理”(ターリーとは、大皿にライス、ナン:インド風薄焼きパン、何種類かのサブジー(野菜カレー)、ヨーグルトなどが盛られたインド風定食のこと。)  

 一皿のターリーを頼めば、何種類ものおかずが食べられる)』であり、美味しくいただけたが、自分は用心の為水物(スープ等)は少な目に頂いた。 また、ツアー仲間達の殆どは持参した除菌ティッシュで食器類をきれいに拭いていた。
 飲み物はビールが400~500ルピー(850~1,070円)、ジュース類が200~300ルピー(430~640円)と高かった。 ベトナムやカンボジアでは、ビールが大体3~5ドル(360~600円)であり、これに比べると約倍額に近い。  自分は、ゴーさんが勧める『マンゴーラッシー(マンゴーとヨーグルトをミキサーにかけたもの)』というフレッシュジュースを飲んだが、とても美味かった。 実は、ゴーさんには事前に「大丈夫なのか?」と聞いたのだが、 彼曰く「私の勧めるものは大丈夫。下痢等を起すことはありません。」と請け合ったのだった。(彼はバスの中で、常々「日本人はインドに来ると下痢になる。インド人が日本に行くと便秘になる。」と言っていた。)

(レストランで食べた、ターリー料理)

(マンゴーラッシーとチャイ)

(昼食をとったジャイプルでのレストラン)

 我々のツアー仲間の、飲み物の売り上げは上々の様だった。
これにより、ゴーさんへのキックバックも多くなり、彼の懐も膨らむのである。 食後には”チャイ(ミルクティ)”がふるまわれた。

食後の11:40頃には、『風の宮殿(1799年、この街を治めていたラージプートの王サワーイー・プラタープ・シングによって建てられた。ハワー・マハル(風の宮殿)はシティ・パレスの一部で、ピンク色をした砂岩を外壁に用いた5階建ての建造物で、953の小窓が通りに面している。この小窓から宮廷の女性たちが自らの姿を外から見られることなく、街の様子を見たり、祭を見て楽しむことができるようになっている。この小窓を通して風(ハワー)が循環することにより、暑いときでも涼しい状態に保たれるような構造となっており、これがこの宮殿の名前の由来ともなっている。)』を下車見学。

(写真は、風の宮殿”ハワー・マハル”)

(土曜日とあって、ハワー・マハルを訪れる現地の観光客が多かった。)


 この門前にあった履物屋で、自分はチャッパル(インドのサンダル)を買いたかったのだが目指すものが無く、近いものの値段を聞くと結構高い。 

 自分は早々に店を出てきたが、可愛いサンダル類に目を奪われて値段を聞き、購入しようとした女性の何名かは、顔を青くし、目を丸くして店から出てきた。「最初に言っていた値段と買おうとする時の値段がまるで違う!」と言う。  が、民族衣装の”ドーティー(男性は圧倒的にこの服装が多かった。)”を着た売り子は、売り込みに執拗で粘っこかった。 この事は、今後いろんな店に連れて行かれることになるが、何処でも同じだった。  ホテルや土産物店は別として、観光地や食堂でのトイレの使用にあたっては、必ず10ルピー(2人までOK)の使用量が必要だった。 

これは自国のインドの人達も同じ事の様だった。
 話しは別だが、インド旅行に出かける前の、何かのニュースでは、インド国内では立ちションや野○○があまりにも多く、インド政府は「トイレ使用をした人には、逆に2ルピーを渡すことを検討している。」という記事を読んだ。

  その後12:00頃からは、『シティ・パレス(旧市街の中心にあるヒンズーとイスラムの混交建築様式の宮殿。ジャイプルの城郭都市を建設したマハラジャ、サワーイ・ジャイ・スィン2世により1726年に建て始められた。現在も敷地内にはマハラジャの子孫が住んでおり、その住居以外の建物は宮殿博物館として一般に公開されている。 展示品は、歴代のマハラジャとその家族等が使用していたものが中心。膨大な武器コレクション、細密画、象牙、金、青磁器、ガラス製品などジャイプルの王朝風な昔日を物語る品々を見ることが出来る。

 またこの博物館には、王子が船で渡英したときに、ガンジスの聖水を入れて運んだという、ギネスブックにも載っている世界最大の銀製の壷が2個展示してある。)』を入場見学。

(シティパレスの入口の両側に展示されている世界最大の銀製の2つの壷。)

(シティパレスの中庭にて)


続いて12:30頃には、『ジャンタルマンタル(インド・ジャイプルにある天文台(ヤントラ・マンディル)。天文学者でもあったムガル帝国のラージプート、マハーラージャ・ジャイ・シング2世によって、1728年から1734年に建てられた。マハーラージャの居城「シティ・パレス」の一角にある。 ジャイ・シング2世は、デリーやヴァーラーナシーなど計5箇所に天文台を建設しているが、それらのうちでジャイプルのものが最も規模が大きい。 2010年、ユネスコの世界遺産に登録された)』を入場見学。 この”ジャンタルマンタル”は、スケールが大きく多くの天文観測器が備えられており見応えがあった。 

(写真は、ジャンタルマンタル”展望台”にて)

(ジャンタルマンタル”展望台”の大きな日時計)


(写真は、ジャンタルマンタル”展望台”の天体等の位置等を測る装置)



 それから、この日最後の世界遺産で、小高い丘の上に築かれた城壁『アンベール城(インドのラージャスターン州、ジャイプルの郊外の北東11kmの城郭都市アンベールにある宮殿。宮殿後ろの山上にジャイガル城砦あり、隠れた通路でつながっている。 ヒンディー語では「アーメール(Amer)」と発音するので、アンベール(Amber)という発音は本当は間違い。 アンベールは、ラージプート族のカチワーハ家の王国・アンベール王国の首都であった。ムガル帝国の第3代君主アクバル1世は、1562年にアンベール王の娘と結婚してアンベール王国と同盟したのを皮切りに、アンベールをはじめとするラージプートの王侯を次々に連合して傘下に加えていった もともと城砦があった所に1592年から、ラージャ・マーン・シングによる大規模な築城が始められた。  1727年、アンベール王ジャイ・シング2世はアンベールから自らの名を冠したジャイプルへと遷都するまで、改築が続けられた。

(写真は、登坂下からのアンベール城)


(アンベール城の”太陽の門”前にて)

(アンベール城の”ガネーシャの門”前にて)

(写真は、”一般謁見の間”)

(勝利の間”鏡の間”)


(”鏡の間”の装飾品)

(見事な庭園)


(湖上に浮かぶ、”水(夏)の宮殿”)



 かつては城主などに限られていたが、現在は観光客が象に乗って城のある丘まで登ることができる。)』への入場見学をした。登るに当たっては、そういう契約になっているらしく、小さなジープに5人程が詰め込まれる様に乗せられて、細く急なしかもあまり清潔ではなさそうな石畳の道を唸る様な音を立てながら登った。そして、帰り着いた降り場では、運転手からチップを要求されたが、事前にガイドのゴーさんからは「支払い済みなので、チップは払わなくて良いですから。」と言われていたので誰も払おうとはしなかった。
 これらの要求に応じていたなら、果てしのない事になりそうだった。    (写真は、我々乗って城へと登ったジープ)


 ここもそうだが、幾何学模様の多いイスラム建築は、様式が素晴らしく精巧で綺麗であった。 また、アンベール城の山上からの眺めが素晴らしかった。帰りは、湖上に浮かぶ”夏の宮殿”『ジャ・マハール』の美しい姿も眺める事ができた。 土曜日という事もあってか、観光地には現地インドの観光客も多く男性は陽射しが遮られて涼しげな”ドーティ”か”パージャマー”(南部の衣装なのだろうか、流石に”ルンギー”姿の男性は見受けられなかった。)の民族服の人が多く、若者はジーンズに長袖シャツという出で立ちだったが、女性は殆どが老いも若きも、富者も貧者も”サリー”という民族服の姿が多かった。 

 これは、街中でも高速道路上を横断する女性も、ドライブインから見た農作業をしている女性すらも、綺麗か汚れているか等の差はあっても、サリー姿が殆どだった。 

(サリー衣装がそのまま作業衣。農作業をする女性達。)


 機能性に富み、涼しくておしゃれ(個人の好みで色んな柄や色彩はあれども、みな素敵でセクシー、女性ならではの衣装である。 何故か、目を引くオレンジ色のサリーが多かった気がした。) その後、我々は研磨工房見学後に”宝石店”に入ったが、我々男性陣の多くはウウェルカム・ドリンクを頂いた後は即休憩室に入り込んで涼んでいたが、何名かの人達は高価な宝石を購入したようだった。 それから、これも加工工房見学後の”インド更紗店”に行き、更紗の色鮮やかな染付の工程を見学してから、ここでも入店して見学した。自分は、予めゴーさんに「ルンギーかパージャマーを購入したい。」旨を伝えていたが、ここにはそういった現地の品物は無く、超高額な更紗を中心とした品揃えばかりだった。

(写真は、インド更紗の工程の実演)



 ここでも売り込みの執拗さは甚だしく、落ち着いてゆっくりぢな定めが出来なかった。 彼等の執拗さ加減は、自分達には全く逆効果で、購入意欲がまったく失せてしまった。 にも拘らず、彼等の売り込みは延々と続いたのだった。

※ これらの、観光客への売り込みは”国策の一環”であるとしか思えない。その後、ツアー仲間達の多くの要望で「最終日には、デリーの現地のマーケットに寄る。」とゴーさんが言ったものの、「安全上の理由」という事で、話は立ち消えになってしまった。 この日宿泊の、ジャイプルのホテル ”ラマダ・ジャイプル”にて夕食を食べ、やっと落ち着けたのは21:00頃だった。(写真は、ジャイプルの小高い丘の上に築かれた城壁で、ムガル帝国の第3代君主アクバル1世が建てたと言われる世界遺産『アンベール城』の勝利の門:鏡の間の前にて。)


インド(デリー・ジャイプル・アーグラ)への旅 ④

 4日目の7月19日(日)は、デジカメによれば、早朝の5:00頃にビュッフェを食べた事になっている。 食べた物は、コーヒー、トースト、オーダーして作って貰ったオムレツ、トーストとナン、そしてそれに付けて食べる為のカレーである。

(ジャイプルのホテル”ラマダ・ジャイプル”での朝食。)

(”ラマダ・ジャイプル”の玄関前にて。)


 この日は、またバスにて約4時間をかけて、ムガール朝の都として栄えたアーグラへ向かうべく、ホテルの警備員さんとの記念撮影後の7:00頃ホテルを出発した。 この日も、高速道路を通ったりして、街中の様子や高速道路の構造や道沿いの農作業の様子を見たり、いろんな出来事に驚いたりしながら、この日一回目の観光地である。
 世界遺産『ファテープル・シークリ(インドのウッタル・プラデーシュ州アーグラ約40km西に位置する、ムガル帝国第3代皇帝アクバルによって建設された都市。当時アクバルは跡継ぎに恵まれなかったが、この地に住むイスラーム教の聖者サリーム・チシュティーを訪ね、世継ぎの問題について相談したところ、息子を授かるだろうとの予言を授けられた。そのおかげで王子サリーム(のちのジャハーンギール)が誕生し、記念としてここに新たな都を造り、アーグラから遷都した。しかし、慢性的な水不足と猛暑のため、わずか14年間(1574年~1588年)しか使用されず廃墟となった。
 遺跡群は1986年、UNESCOの世界遺産に登録された。)』を入場見学した。 中は、自分が見る限りにおいては簡素な造りであり、中には池が有ったり、その中央にはかつて歌舞音曲が奏でられたという舞台が設けられていた。
”質素な別荘”という感じではあったが、何故か惹きつけられる建造物だった。  (写真は、”ファーテブ・シークリ”)

(懇意にして頂いたご家族)


(”ファーテブ・シークリ”の入り口付近で遊ぶ現地の少年少女達。)



それから、また1時間程をかけて走った後に昼食をとった。
ここでは、”インド風中華”という昼食であり、
やはりカレー味ベースの食事だったが、美味しくいただけた。

(写真は、アーグラでのレストラン。)

(レストランでのアーグラでの昼食。)

(道路は、大渋滞であった。)



その後、アーグラへ向かったが、大渋滞に遭遇。何でも、この日はイスラム教の”ラマダン”の時期に当たり、これに関わる行事が、イスラム教徒の多いこの地方では多く催されるため、それが原因なのではないか…との事だった。  何しろ凄かった。 バスも、トラックも、三輪車も、バイク(ヘルメットは殆ど被られていない!)も、終いには馬車も、運転席と言わず荷台と言わず屋根と言わず、人間満載で走っている。  いつの間にか片側2車線の道路は、交通量の多かった此方側の車が4車線を占有して走っている。 対抗側の車は向こう車線の路肩をかろうじて走っており、やむを得なくなるとクラクションを鳴らし続けて、此方側の車輛がやっと1車線を譲るといった状態だった。  やっと交差点までたどり着くと、交通警察官はいたが、交通整理にやっとやっとの状態の様だった。 しかも、アーグラ市内への予定の道路が通行止めになっていた。

 「これでは何時アーグラにたどり着けるか解らない。 果たしてタージマハルが観れるかどうかも怪しくなる!」と、皆心配したが、この辺の道に明るい運転手が迂回路を見つけて、どうにか予定通りの観光をすることができた。
(このような大渋滞や交通の遅れは、鉄道そして飛行機でさえもよく有る事で、現地ガイドのゴーさんでさえも「まったくの予測不能」だとの事だった。 なので、”インド旅行”をされる方は、十分な時間のゆとりを持って計画される必要があると思う。)

やっと、アーグラにおける2番目の観光地である、世界遺産『アーグラ城(インドのアーグラにあるムガル帝国時代の城塞。
 赤砂岩で築かれた城壁の色から「赤い城」(ラール・キラー,)の名がある。ただし、デリーの城も同じく赤い城と呼ばれ、単にインドの「赤い城 (Red Fort)」と言えば、通常はデリーのほうを指す。)』の入場観光が出来たのは13:00頃。

(美しい、アーグラ城。)

(アーグラ城の門)



(中では、マリオネットが演じられていた。)


(アーグラ城の内部)



(ルビー、サファイヤ、その他宝石類が埋め込まれた建造物)


(下の中央の扉からは、”タージ・マハル”を眺めることができる。)

(遠望のタージ・マハル)


  その後は、”世界一美しい建造物”と言われる世界遺産、『タージ・マハル(インド北部アーグラにある、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1631年に死去した愛妃ムムターズ・マハルのため建設した総大理石の墓廟。インド・イスラーム文化の代表的建築である。 1632年着工、1653年竣工と言われる。
 謀反を起こした臣下ハーン・ジャハーン・ローディー討伐に付き従っていたムムターズ・マハルは、遠征先のブルハーンプルで産褥病のため、1631年6月7日に死亡した。彼女は遺言のひとつに、後世に残る墓を所望したという。
 名前の由来は不確定ながら、王妃ムムターズ・マハルのムムが消え、ターズがインド風発音のタージになったという。ムムターズ・マハルはペルシャ語で「宮殿の光」、「宮廷の選ばれし者」を意味する言葉であり、第4代皇帝ジャハーンギールから授けられた称号である。彼女の本名はアルジュマンド・バーヌー・ベーグムという。タージ・マハルを言葉どおりに訳せば「王冠宮殿」もしくは「宮殿の王冠」という意味になる。)』を入場観光した。 入場門である”大楼門”をくぐると、よく写真で観る、真っ白い”総大理石の墓廟”が見えてきた、 この日は天気も良く青い空に白い墓廟がよく映えて美しかった。  

(電気自動車:”タージ・マハル”付近は大気汚染防止の為用いられる。)

(珍しく、記念に入場券が渡された。)


(写真は、入場門であるタージ・マハルの”大楼門”



(正門から見た”タージ・マハル”)





(”タージ・マハル”の2階から見た正門”大楼門”)

(タージ・マハルの左側面より)






 タージ・マハルの観光客は、休日とあってか地元のインドの人達が多かった。
 この日は、旅行中何かと懇意にさせて頂き、大いに助けられた、千葉から来られた3人家族のうち二人が、前日に買ったのであろう品の良い”サリー”を着込んでいた。タージ・マハルの中を一緒に見ている内に、地元の女学生程の年齢の若い人達に、「一緒に記念撮影をしたい。」と、申し入れがあったが、断っていた。


 実は、入場するにあたっては、ゴーさんから「一緒に記念撮影をしたい。と言われて写真を撮ると、お金を要求されるので絶対にしない様にして下さい。」という注意が有ったのだが、恐らく女学生達の申し入れは、それとは違い、「サリーの良く似合う、綺麗な日本のお姉さんと一緒に記念撮影がしたい。」という、純真な気持ちが動機だったような気がする。 他の書き込み等でも読んだが、「およそ学生たちや若者の多くの人達の気持ちは純真で屈託がない。」との事だった。 そうでない人達が多すぎるので、 ガイドのゴーさんとしては、「何かあったら大変な事になる!」との用心からなのだろう。
墓廟への入場口は人でごった返していたが、現地の人達と外国の観光客とでは入り口が分けられており、我々は空いてて快適な入り口から入場することが出来た。が、中に入れば当然混じる事になる。 何人かの現地の若者達と並ぶ格好になったのだったが、彼等は”日本人”が珍しかったのか、皆に”ガン見”された、自分が持っていた扇子を指さして「それはなんだ?」と言うので、自分は「日本では扇子と言うんだ。」と答え、「とても涼しいんだぜ!」と彼等を扇いでやったが、暑さに慣れている彼等は「それがどうした?」といった不思議な顔をしていたが笑っていた。
ゴーさんからは事前説明があり、廟内でのカメラのフラッシュ撮影やビデオカメラ撮影は厳しく制限されており、「勘違いされて!」という事だったが、ビデオカメラを取り上げられたツアー仲間もいた。(ゴーさんが釈明して、後で返して貰えたとの事だった。)
タージ・マハルからの帰りだったと思うが、街中での交通渋滞緩和の目的からなのだろうが ”電動自動車” で近くまで乗りつけたのだが、その帰りに、また電動自動車に乗車しようと待っていると、別の電動自動車の方から怒鳴りあいが始まった。 どうやら整列して待っている人達を無視した乗客がいた事が原因の様だったが、我々日本人の感覚からいえば、「そんなにまで怒鳴りあわなくても!」とも思う事柄なのだが、
まるで「今から、殺し合いでも始まるのではないか?」と感じられる様な剣幕だった。「インドの人達が、普段如何に我慢強く暮らしているか…!という事の反動なのだろうか?」と、感じさせられた一幕だった。

その後は例によって、今度は”大理石工房付の販売店”への”入場見学”をした。小物もあったが、「あのような重いものを誰が買うのか?」とも思ったが、ゴーさんのノルマがあるのであろう。

 その後は、この日宿泊のホテル”ラディソン・ホテル”の1階のレストランにて、カレーの夕食を食べたが、飽きる事も無く美味しく食べられた。
 ホテルの部屋も立派だったが、”ウェルカムフルーツ”等がゴージャスに見えて、思わずフロントに確認してしまった程だった。

(”ラディソン・ホテル”の一角。)




(”ラディソン・ホテル”の部屋。)





※ ルピー紙幣は、「紙類は大事!」と言いつつも、札を束ねる為の方法としてホッチキスが用いられるために、殆どの札にホッチキスの穴が開いていた。
 この穴の開いた札や汚れた札は、受け取る方が嫌がり、返されるとの事前情報だった。 銀行で新札に替えれるが手数料がかかるとの事で、何とか相手に渡そうとする事があるらしい。 しかしながら、受け取る方もきちんとチェックを入れる為に、終いには”ババ抜きゲーム”の様に、ほかの札の間に挟んだりして、受け渡しの果てしない攻防が繰り広げられるのそうだ。
誰しも古いお札よりは新札の方が良いに決まっているものである。

(ホッチキスで穴の開いたルピー紙幣。)


インド(デリー・ジャイプル・アーグラ)への旅 ⑤

4日目の7月20日(月)は、又もやアーグラからバスで5時間掛けて
デリーへ向かい、デリー観光後に帰国する日となった。

早朝の5:30頃に、ホテルのレストランにてビュッフェ方式の朝食をとり、バスに乗車して、デリーに向けて出発したのがおよそ6:30頃だった。 雨が降っていた。

(ホテル1階のレストラン)

(ビュッフェでの朝食)

(写真は、なななんと!インドのトースター)

(ウェルカムフルーツ等)


  アーグラからデリーへの高速道路は、高速道路としてのグレードが高く、中央分離帯は多少心細いながら、路肩や用地の境界柵がしっかりと設けられており、何処から入ってくるものなのか、路肩を人が歩いているのを数人見かけたが、 流石に”野良牛”、”野良豚”等は見かけなかった。 (高速道路の料金所)


(写真は、高速道路の走行状況)

(中央分離帯)


  ゴーさんは、「雨が止まないと、デリーは洪水になってしまう。」と焦っていた。 これは、現地に着いてみて分かった事だが、デリーの下水道が完備されていない為に、道路の水はけが非常に悪く、至る所で水溜まりが出来てしまっていたのだった。幸い、デリーに着くころには雨は止んでいた。

(雨後で水溜まりが多かった、デリー市内)

(やっと水がひいた道路)

(”オート・リキシャ”)

(馬車で野菜類を売る人。)


昼食は、”タンドリーチキン(鶏肉を串にさしてタンドゥールと呼ばれる壷窯で焼いたもの。インド料理店の定番料理のひとつでもある。 ヨーグルト、塩、コショウ(胡椒)、ウコン(鬱金)などの香辛料などに肉を半日ほど漬け込んだ後で香ばしく焼きあげる。

ウコンと食紅で鮮やかな緋色に着色してあることが多い。肉は主に骨付きのまま使用する。骨のない同様の料理としてチキンティッカがある。)”中心の食事という事だったが、これはカラッとしたフライドチキンの様に香ばしくてとても美味かった。

(レストランの入口。)

(”タンドリー・チキン”の昼食。)



昼食後は、”デリー市内観光”ということで、

① 世界遺産『クトゥブ・ミナール(インドのデリーにある世界最高のミナレット。(モスクに付随し、礼拝時刻の告知(アザーン)を行うのに使われる塔。)1200年ごろに奴隷王朝の建国者であるクトゥブッディーン・アイバクによって、クワットゥル・イスラーム・モスクに付属して建てられた。ヒンドゥー様式とイスラーム様式が混在した様式となっている。 おそらくヒンドゥー教・ジャイナ教の寺院などを破壊し、その石材を転用して制作されたものであり、建築に携わった職人も、ヒンドゥー教徒であったと推測されている。)』を入場観光。 (写真は、”クトゥブ・ミナール”)

(”クトゥブ・ミナール”)




(何故か腐食せず、科学では解明できないという、鉄柱)


(内部の、破壊されたままの建造物。)


(ミナレットへの入口。 事故により現在は閉鎖)

(現地の観光客の人達。)

(”インドのゴー・スウェミ?氏”)

(地元の観光客)

(クトブゥ・ミナールの出口)


② 世界遺産『フマユーン廟(ムガル帝国の第2代皇帝フマーユーンの墓廟。インドにおけるイスラーム建築の精華のひとつと評され、その建築スタイルはタージ・マハルにも影響を与えたといわれる。)』を入場観光。

(写真は、フマユーン廟。)





③ 世界遺産『レッドフォート(赤い城(赤い砦、レッド・フォート)またはラール・キラーは、インドのデリーにあるムガル帝国時代の城塞。デリー城(Delhi Fort)とも呼ばれる。 なお、インドで「赤い城」と言えば同じく帝国時代に築かれたアーグラ城塞を指す場合もある。毎年8月15日のインド独立記念日には、ここで首相演説が行われる。)』を車窓観光した。

(写真は、車窓観光の”レッド・フォート”)



 本来は、我々の要望で”市内マーケットでの買い物”をする予定だったのだが、前述のとおり、「安全が保障できないから…」と言う理由で取りやめになったのだが、「その代わり」という事で、ゴーさんは予定には無かった、世界遺産レッドフォート近くの『ラージ・ガート(ガンディー廟)』に案内してくれた。

 その墓廟は、広く、公園の様に緑豊かで静かな佇まいだった。

(写真は、ラージ・ガート。 入園料は10ルピー。)

(中には、素足でお参りをしなければならない。)


※ ヒンドゥー教とは切り離せない”カースト制度”を語る事はとてつもないものになってしまうのだが、ある程度これを話さなければ、インドという国の在り様が、全く理解不能となってしまうので、他の出典を参考に少々語ると、

 カースト(英語:Caste)とは、ヒンドゥー教における身分制度(ヴァルナとジャーティ)を指すポルトガル語、英語である。インドでは現在も「カースト」でなくヴァルナとジャーテと呼ぶ。語源)

 カーストという単語はもとポルトガル語で「血統」を表す語「カスタ」(casta) である。ラテン語の「カストゥス」(castus)(純粋なもの、混ざってはならないもの。転じて純血)に起源をもつ。歴史)紀元前13世紀頃に、バラモン教の枠組みがつくられ、その後、バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの4つの身分に大きく分けられるヴァルナとし定着した。現実の内婚集団であるジャーティもカースト制度に含まれる。

 15世紀にポルトガル人がインド現地の身分制度であるヴァルナとジャーティを同一視して「カースト」と呼んだ。そのため「カースト」は歴史的に脈々と存在したというよりも、植民地時代後期の特に20世紀において”構築”または”捏造されたもの”ともいわれる。

 アーリア人がカースト制度のヴァルナ (種姓)を作った理由はすでにかなり研究されている。一説にはアーリア人はトゥーラーン近郊を起源としているが、当然、このあたりに存在する疾患にしか免疫(液性免疫・細胞性免疫)を有していなかった。アーリア人の侵略の初期においては、ドラヴィダ人などの原住民と生活圏をともにし、時には婚姻関係さえ結んでいた。しかし、侵略範囲が広大化してくると、トゥーラーンから離れれば離れるほど、アーリア人が経験したことのない感染症を原住民が保有・保菌している事態が出てきた。 原住民はすでにそれらの感染症に免疫を獲得しているが、アーリア人はまったく免疫を持っていないため、次々とアーリア人のみが風土感染症により死亡する事態が出てきた。 これらに対応するためにアーリア人が取った政策がアーリア人とそれ以外の民族との「隔離政策」「混血同居婚姻禁止政策」である。

 制度発足時は「純血アーリア人」「混血アーリア人」「原住民」程度の分類であったとされ、「混血アーリア人」を混血度によって1~2階層程度に分けたため、全体で3~4の階層を設定した。その後アーリア人はこの政策を宗教に組み入れ、ヴァルナに制度として確立させた。海外の著名な社会学者、人類学者や歴史家はカーストの人種起源を否定している。

 ヒンドゥー社会の原理) カーストは一般に基本的な分類(ヴァルナ)が4つあるが、その中には非常に細かい定義があり、結果として非常に多くのジャーティその他のカーストが存在している。カーストは身分や職業を規定する。カーストは親から受け継がれるだけであり、誕生後にカーストの変更はできない。ただし、現在の人生の結果によっては次の生で高いカーストに上がれる。現在のカーストは過去生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きるべきだとされる。まさにカーストとは、ヒンドゥー教の根本的世界観である輪廻転生(サンサーラ)観によって基盤を強化されている社会原理といえる。ヴァルナの枠組み)


① ブラフミン(サンスクリットでブラーフマナ、音写して婆羅門〔バラモン〕):神聖な職に就けたり、儀式を行える。ブラフマンと同様の力を持つと言われる。「司祭」とも翻訳される。

② クシャトリヤ:王や貴族など武力や政治力を持つ。「王族」「戦士」とも翻訳される。

③ ヴァイシャ:製造業などに就ける。「市民」とも翻訳される。

④ シュードラ(スードラ):古代では、一般的に人が忌避する職業のみにしか就けなかったが、時代の変遷とともに中世頃には、ヴァイシャおよびシュードラの両ヴァルナと職業の関係に変化が生じ、ヴァイシャは売買をシュードラは農牧業や手工業など生産に従事する広汎な「大衆」を指すようになった。”労働者”とも翻訳される。

⑤ ヴァルナをもたない人びと:ヴァルナに属さない人びと(アウト・カースト)もおり、アチュートという。「不可触賎民(アンタッチャブル)」とも翻訳される。不可触賎民は「指定カースト」ともいわれる。1億人もの人々がアチュートとして、インド国内に暮らしている。彼ら自身は、自分たちのことを「ダリット」 (Dalit) と呼ぶ。ダリットとは壊された民 (Broken People) という意味で、近年ではダリットの人権を求める動きが顕著となっている。

※ 他宗教とのかかわり

仏教) 紀元前5世紀の仏教の開祖であるゴータマ・シッダッタ(釈迦の本名)は、カースト制度に強く反対して一時的に勢力をもつことが出来たが、5世紀以後に勢力を失って行ったため、カースト制度がさらにヒンドゥー教の教義として大きな力をつけて行き、カースト制度は社会的に強い意味を持つようになった。仏教は、衰退して行く過程でヒンドゥー教の一部として取り込まれた。仏教の開祖の釈迦はヴィシュヌ神の生まれ変わりの一人であるとされ、彼は「人々を混乱させるためにやって来た」ことになっている。その衰退の過程で、仏教徒はヒンドゥー教の最下位のカーストに取り込まれて行ったと言われる。ヒンドゥーの庇護のもとに生活をすることを避けられなかったためである。

キリスト教) イエズス会がインドでキリスト教を布教した際は、方便としてカーストを取り込んだ。宣教師らはそれぞれの布教対象者をカースト毎で分け合い、上位カーストに対する布教担当者はイエズス会内部でも上位者、下位カーストに対する布教担当者は下位者とみせかける演技を行った。

イスラム教) ムガル帝国におけるイスラム教の経済力と政治力や武力による発展のなかで、ヒンドゥー教からの改宗者が多かったのは、下位のカーストから抜け出し自由になるのが目的でもあった。

結婚とカースト) インド憲法上、異カースト同士の結婚も認められてるが、ヒンドゥー教徒の結婚は、同じカーストか、近いカースト内での結婚が好ましいとされ、見合い結婚が多い。逆に、恋愛結婚・異カースト同士の結婚は増えつつあるとは言え、一部の大都市でしか未だ見る事ができない。(以前報道で、「あまりの身分違いの結婚に、カースト上位の男性が、下位の女性側の親戚の人達によって線路に投げ込まれ、轢死させられた。」と言う事件を観た事があった。)ダヘーズなどのヒンドゥー教の慣習も残っている。ダヘーズとは花婿料(嫁の持参金)として花婿側へ支払われる金を指すが、金額が少ない場合、殺害事件に発展することもある。1961年にダヘーズは法律では禁止されているが、風習として残っている。

自殺とカースト) もともとカーストは親から受け継がれるだけであり、生まれたあとにカーストは変えられないがために、現在の人生の結果によって次の生で高いカーストに上がらざるをえず、現在のカーストは過去の生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きる以外に無い、とされる。だがこれは、現代インド、特に南部にて下級カースト出身者の自殺者数の増加要因になっている。教育のある下級カースト出身者が自殺を選ぶ、というジレンマが発生しているわけだが、信教の自由や教育の充実も側面にあるため、インド人の思想の根幹にカーストを置く事ができない、という事実を示唆していると言える。カースト制の影響は、ヒンドゥー教とカーストの結び付きが強いためインドの社会の根幹を形成しているが、現代インドではカーストの否定がインド社会の基礎になっているというインドのヒンドゥー教徒から見た矛盾も発生している。自殺の問題についてインド政府の対応は後手に回っているのが実情である。

改宗問題) 改宗してヒンドゥー教徒になることは可能であり歓迎される。しかし、他の宗教から改宗した場合は最下位カーストのシュードラにしか入ることができない。生まれ変わりがその基本的な考えとして強くあり、努力により次の生で上のカーストに生まれることが勧められる。 現在最下位のカーストに属する人々は、何らかの必要性や圧力によりヒンドゥー教に取り込まれた人々の子孫が多い。ヒンドゥー教から他宗教へ改宗することによってカースト制度から解放されることもあり、1981年にミーナクシプーラム村で不可触民が抗議の意味もふくめてイスラム教に改宗した。またジャイナ教やシク教、ゾロアスター教では現実的な影響力や力によりその社会的地位が決まり、ヒンドゥー制度から解放されているため、カースト上位でない裕福層に支持されている。

ざっと、以上の様な事である。


※ 現地ガイドのゴーさんの家庭はヒンドゥー教徒で、夫婦共に『バラモン(神職)』の出身であるとの事だった。 だからと言うわけでは無いが、毎日の食事の残り物は、貧しい家庭に持って行って食べて貰うのだとのだと言う。 また、1~2週間に一度は、日本の知り合い等から送って貰ったりして集めた、リサイクルの古着類を貧しい人達に施しに持って行くのだという。

ゴーさん曰く、彼の息子は慈悲深い人間で貧しい人達を見ると涙を流し「お父さん、何とかしてあげて!」と訴えるのだと言っていた。

その息子さんが、この度、インド国内の数学か何かの試験で、「三番目という快挙を成し遂げた。」という吉報が、昨日、旅行先のゴーさんへ家族から入ったという事で、この日は上機嫌であった。

「嬉しいので、今日は皆さん方に飲み物を奢ります。」という事で、飲める人には500mm㍑のビール、その他の人にはジュース、そしておつまみが配られた。

(ガイドのゴーさんからの500ミリリットルのビールとおつまみ。)



 バスの中でも常々彼は、何度も「自分は日本が大好きだ!」と言っていた。

 インドを愛して止まないはずのゴーさんの、彼の真意がどうかは知らないが、「自分の将来の夢は、日本で商売をしながら暮らす事です。」と言っていた。

 どうするのか解らなかったが、前日は、「日本語が書かれた、空のペットボトルや、余っているテッシュペパーが有れば下さい。」と言っていて、彼の人柄の良さもあって、これには自分も含めて賛同者が多く、相当量のテッシュが彼に届けられたようだった。「メイドイン・ジャパンが良ければ、これもあげるよ。」と、持参の”うちわ”を渡す人もいた。

 ふるまいの500mm㍑のビールを、我々と共にバスの中で飲み、少々酔ったゴーさんは、「自分が、如何に日本が好きか証明する。」と言い出して、スマートフォンで自分の娘さんに電話をかけて、「日頃、自分が教え込んでいるのだ。」と言う”日本童謡”の『さくら』、外1曲を歌わせ、ラウドスピーカーにして我々に聴かせたのだった。「娘は、自分と同様にオンチなので…」と言っていたが、たどたどしいながら、彼女は確かに日本語で歌っていた。

 また彼は、「本当は日本の皆さんに、こんなインドの現状をお見せしたくは無いんです。私は、とても恥ずかしいんですよ…。」と、本音を漏らしていた。

 彼が、彼自身を含め、インドという国の現実に矛盾を抱えながら、そして悩みながら生きている人間だという事だろう。

 それから、世界遺産『レッドフォート』の車中見学の後、そこから近いという自宅から、ゴーさんは奥さんと息子さんを呼び寄せて、バスに乗車させ、我々ツアー客に紹介したのだった。

(ゴーさんとそのご家族。)

(ゴーさんと彼の息子さん)


 すべての観光が終わり、多少夕闇に包まれた18:00頃、我々は今回のインド旅行での最後の夕食をとった。 この夕食は、今までで一番美味かった気がする。最後には、デザートのアイスクリームとチャイがふるまわれた。

(デリーでのレストラン)

(食事)

(アイスクリームとチャイ)


この夕食をとった行きと帰りには、サリーをまとい赤子を抱いた母と娘の3人の物乞いがいたが、身なりはさほどひどくは無かった。

 ヒンドゥー教徒のゴーさんは、「物乞いは、殆どが職業乞食で、イスラム教徒が多い。」と嫌っているようだったが、彼女等を押しのけ、その界隈の、土産用の駄菓子類を買う様な度胸は自分には無く、無言で「腹が減っているんだ」とばかりにサリーをたくし上げて、自分のお腹を見せてアピールし、自分の足元を触ってくる少女を邪険には出来ず、「どぶに捨てるわけでは無く、彼女等の糧にはなるのだろうから。」と、「芝居なのだろう。」とは思いつつ、娘には10ルピー、母親には100ルピーを渡した。インドでは物価が安く、街中の屋台では60ルピー程で食事ができ、倹しい家庭では、1USドル程で1日の生活が出来る。という事を聞いていた。

 一方、デリーの確か”南地区”という場所だったと思ったが、この地区にはとてつもない大富豪ばかりが住んでいるということであり、アーグラからデリーに入った際に、その一角をバスで通り抜けたことがあったが、1階には3台ほどの駐車スペースが有る、大きい邸宅ばかりが建ち並んでいた。ガイドのゴーさんが、何らかの意図があってそこを通ったのかのかどうかは解らないが、彼は、「まるで人種が違うのです。」と言っていた。

(下は、バスを待つ人々)

(バス停を生活の拠点にする人もいる様だった。)


(市内の屋台。)

 (道路の中央分離帯で、芸を見せてお金を貰う少女。 時々車に轢かれる人もいるため、本来は禁止されているのだという。)


その後、我々は19:00頃に”インディラ・ガンディー国際空港”に到着した。  (下は、空港内の待合室。)

(下は、搭乗口)

「空港内に入ってしまうとルピーは使用できない。」とゴーさんが言うので、チェックイン前には残った1,500ルピー程で土産用の菓子類を購入したが、ゴーさんの情報が古かったのか別の意図があっての事か解らないが、チェックイン後の空港内ではルピーが殆ど何処でも使用でき、しかも安い土産物が沢山あった。


 家族への土産には、菓子類の外に、事前にゴーさんの会社が斡旋し「安い!」というふれこみの、

①紅茶(ダージリン・アッサム・外)3箱、 ②アーユルベーダの石鹸5個セット、 ③女房が興味津々の香辛料(カリーパウダー・チキンマサラ・グラハムマサラ)3箱を買い込んであった。

(下は、土産物)

(チェックイン前に買った菓子類。)



(下は、帰路での機内食。)

(下は、機内で出た軽食類。)


(帰国後の天婦羅うどんは美味かった!)


残念ながら、”ルンギー”や”パージャマー”は購入できなかった。 帰路は、全日空・NH0828便(7月21日の01:25発)にて、成田には13:20分着で帰国した。


同日、7月21日(火)、成田発・仙台空港行の全日空・NH3235便(18:55発)は、仙台空港付近の悪天候のため、「最悪は引き返す」ことを条件にしての”冷や冷や飛行”だったが、何とか無事に定刻に着陸できた。


(帰国後のアルバム)


 こうして、短くも長かった「インドへの旅」が終わったのだった。


           【 旅行記終了 】

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