ロシアへは、以前から行こうと思っていた。
高校生の頃は、ロシア文学の、大して読みもしないドストエフスキーの小説に傾倒したり、現在の山容が出来てから五千万年経つといわれるマッターホルンやユングフラウが、地上にうごめく人間どもの成長を見守りながら会話する
「下の人間どもも少しはまともに成ってきたようだなあ・・・。
・・・再び山は眠るそれからさらに何千年。」
といった雄大な大自然を詠んだ詩に感動したりしたものだった。
また、当時は満二十歳を越しての成人式だったため、先に二十歳になった友人が、「二十歳になったお祝いに、自分がフランスのコース料理を奢るので、君たちが二十歳になった時には逆に自分に振舞ってくれ!」と言い出して、故郷の福島県いわき市平(たいら)のフランス料理店で、彼の恩人だった歯科医の先生に渡された作法書を見ながら、それに従って三名で食事をした事があった。
ワインを飲みながら、途中ではスコッチウィスキー、そして、サラダ、カナッペ等のオードブル、スープ、パンとメインディッシュ(ステーキ)、デザート、最後にはコーヒーといった感じだった。
言い出した友人は、”若い我々友人への祝福”と今後の奮起を促すために言い出したものだったのだろう。
翌年には、自分が「ロシア料理を振舞う!」と言い、東京の渋谷駅前にあった、確か『ロゴスキー』という店でコース料理をふるまった。 ロシア料理もフランス料理も、一人当たり三千円ほどの金額だったが、当時の我々にとってはそれなりのお金だった。
但し、いわきから東京までの電車代は、自分はよく覚えていないので、彼らが自前で払ったものと思われるが、多分「電車代まではいい。自分たちが出すよ。」という事ではなかったかと思う。
心意気なのである。 電車代の方が高いというのに!
そんな事を思い出す・・・
ロシアは日本とは地理的にも隣接しており、また昔から因縁の深い国であり、第二次世界大戦終戦時の満州における日本人虐殺やシベリア抑留の悲惨な過去があり、現代でも戦後の北方領土問題で未解決の事案が深刻である。
現在は、通貨”ルーブル”の下落等で経済的には大分落ち込んでいるとはいえ、”ソ連時代”はもとより、今でもアメリカと比肩する軍事大国であり、かつては共産主義陣営の盟主であり、現在でもその意識は強く、プーチン政権になってからは「アメリカ何するものぞ!」という気概は顕わである。しかし、原水爆等の化学兵器を盾に、好んで他国を恫喝するような国の体制にあるとは思えない。
”ロシア”というと、毎日ウオッカをあおる酒好き。 映画『アルマゲドン』の宇宙ステーションの飛行士の様に「機械の故障などは、蹴飛ばしゃ治る!」みたいなラフな気性の持ち主が多くて乱暴者。
…といったイメージを持つ人が多く、実際”YouTube”の『おそロシア』といった動画サイトや投稿画像を覗くと、”ラフ”で”喧嘩っ早い乱暴者”や”美的感覚が奇抜すぎる”といった動画や画像が多い。
「確かに、あんな極寒の地で、事細かい事にいちいちこだわっていたら死んでしまうでしょう!」とも思えるが、「ウオッカをあおるのは、旧ソ連時代の話で、物不足でそれしか無かった。」事や、勿論観光資源ではあるものの、『エルミタージュ美術館』や『エカチョリーナ宮殿』が所蔵する膨大な美術品の数々とそれらを大事にするシステム。”バレエ”や”音楽”といった芸術を嗜好する国民性。
”北のベニス”とも言われ、中世時代が現存している様な”サンクト・ペテルブルク”の街並みやそこで暮らす人達を見てきた今の自分にとってはそれらのイメージは大きな誤りであったことが分かった。
国の体制や政治はともあれ、ロシアで暮らす人達は共産主義の信奉者の面影は無く、又、田舎で暮らす人々は純朴で宗教心に篤く、まじめで誇り高い人達だ。
そして、力強い国であり、民族であると思う。
我々日本に住むものにとっては、今後好むと好まざるとに関わらずロシアという国とは関わっていかざるを得なく、大きな度量を持ちつつも、したたかに付き合っていく必要性があるものと思われる。
(下は、モスクワからバスで約1時間半、距離にして70Km程の、
”宗教の村落”にある、セルギエフ・ポサード入口にて)
① 国名…「ロシア」の正式名称は、”ラスィーイスカヤ・フィジラーツィア”、又は”ラスィーヤ”であり、憲法で双方とも正式名称であるとされている。
”ロシア”の国名は、現在のロシア西部とウクライナ、ベラルーシ(白ロシアという意味)にあたる”ルーシ”という国家のギリシア語の発音によって生まれた名前であるといわれている。
(サンクト・ペテルブルクのエルミタージュ美術館”本館”前にて)
② 歴史(古代)…現在のロシア人は様々な民族の混血によって成立しているので、その起源を一つに絞る事は出来ないが、国家や文化、言語の変遷において「ロシア民族」の祖となる人々は、北東ルーシと呼ばれる地域に古くから居住していたらしい。その地に暮らした東スラブ系の諸部族はフィン(フィンランド)系の民族と隣接しており、言語や文化、習慣において大きな影響を受けた。
やがてその多くは同化し、他の地域の東スラブ(ウクライナやベラルーシ)人とは異なる文化を築いていったとされている。
北東ルーシには、ノルマン人ではないかと推測されている、民族系統不明の人々「ヴァリャーグ」が進出しており、交易や略奪やがては入植を行った。862年にはヴァリャーグの長リューリクが大ノヴゴロドの公となり、町は東ローマ帝国との貿易拠点として発展した。
それから13世紀にかけてのルーシの中心は、現在はウクライナの首都となっているキエフであり、現在のロシアの中心である北東ルーシはむしろ辺境化し、モスクワの街もまだ歴史には登場していなかった。
数多くいるルーシ諸公の一人に過ぎなかったモスクワ公は、モンゴル支配下でルーシ諸公がハンに納める貢納を取りまとめる役を請け負うことで次第に実力をつけ、15世紀にキプチャク・ハン国の支配を実質的に脱してルーシの統一を押し進めた。府主教座もモスクワへ遷座した。国家は独立性の高い大公国となった。のち、モスクワ大公はイヴァン3世のときツァーリ(皇帝)の称号を名乗り、その支配領域はロシア・ツァーリ国と自称するようになった。ただし、国内の生産力は低く、西欧諸国からは異質の存在と見られており、侮蔑を込めて「モスコーヴィヤ」(モスクワ地方)と呼ばれていた。
16世紀にイヴァン4世(雷帝)が近代化と皇帝集権化、シベリア進出などの領土拡大を進めたが、彼の死後はその専制政治を嫌っていた大貴族の抗争で国内が大混乱(動乱時代)に陥った。
モスクワ大公国の主要貴族(ボヤーレ)たちはツァーリの宮廷の権威を認めず、士族民主主義の確立していたポーランド・リトアニア共和国を慕った。この民主派のボヤーレたちはポーランド・リトアニア共和国とモスクワ大公国との連邦構想さえ打ち立て、ツァーリ専制を嫌っていた農民や商人をまとめ上げ、さらには共和国軍をモスクワ領内に招き入れてツァーリ派と戦い、共和国軍と共にモスクワを占領した。いっぽう、ツァーリ派の貴族や商人たちは政商ストロガノフ家の援助でニジニ・ノヴゴロドにおいて義勇軍を組織した。義勇軍側は、モスクワ政策を巡ってローマ・カトリック主義のポーランド国王兼リトアニア大公が信教自由主義のポーランド・リトアニア共和国議会と激しく対立していたことを絶好の機会とし、「反ローマ・カトリック闘争」の形で急速に数を増した。
そして1612年、ドミートリー・ポジャールスキーとクジマ・ミーニンの指揮の下、モスクワ市内のクレムリンに駐屯していた共和国軍の治安部隊を包囲攻撃、11月1日に撃破モスクワを解放した。この民主派に対するツァーリ派、およびローマ・カトリックに対するロシア正教会の勝利は現在国民の祝日となっている(11月4日)。ここで中世ロシアは終わりロマノフ朝の成立とともに近代ロシアが始まることになる。
(サンクト・ペテルブルクのエルミタージュ美術館の”新館”前にて)
③ 歴史(ロシア帝国)… 1613年にロマノフ朝が成立すると、大貴族と農奴制に支えられ、封建色の強い帝国の発展が始まった。17世紀末から18世紀初頭にかけて、ピョートル1世(大帝)は急速な西欧化・近代化政策を強行し、新首都サンクトペテルブルクの建設(1703年)、大北方戦争(1700年 - 1721年)での勝利を経てロシア帝国の基盤を築いた。彼の時から正式に皇帝(インペラートル)の称号を使用し、西欧諸国からも認められた。1762年に即位したエカチェリーナ2世はオスマン帝国との露土戦争(1768年 - 1774年、1787年 - 1792年)に勝利すると共に、ポーランド分割に参加し、欧州での影響力を増加させた。彼女の治世においてロシアはウクライナとクリミア・ハン国を併合し、名実ともに「帝国」となった。また、大黒屋光太夫が彼女に謁見したことにより、アダム・ラクスマンが日本に派遣され、日露関係史が実質的に始まった。
19世紀末には、ロシアはそれまでのドイツ・オーストリアとの三帝同盟からフランスとの露仏同盟に外交の軸足を移し、汎スラヴ主義によるバルカン半島での南下を極東での南下政策と平行させた。
また、フランス資本の参加によりシベリア鉄道の建設が行われている。1904年に日本との間で日露戦争が始まったが、1905年に血の日曜日事件など一連の革命騒動が発生し、ポーツマス条約を結んで敗れると、戦後の1907年にロシアはイギリスと英露協商、日本と日露協約を締結し、三国協商に立ってドイツやオーストリアと対立し、国内ではドゥーマ(国会)の開設やピョートル・ストルイピンによる改革が行われたが、皇帝ニコライ2世の消極的姿勢もあって改革は頓挫し、帝国の弱体化は急速に進行した。その中で都市部の労働者を中心に社会主義運動が高揚した。
④ 歴史(ソビエト連邦)… 1914年に勃発した第一次世界大戦では連合国の一員としてドイツ・オーストリアの中央同盟国と開戦したが、敗北を重ねて領土奥深くまで侵攻された。第一次世界大戦中の1917年2月に起こったロシア革命でロマノフ王朝は倒された。
革命後、旧帝国領土には数多の国家が乱立し、外国の干渉軍も加わって激しいロシア内戦となった。1917年11月7日には十月革命でロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ政権が樹立され、そのトップとなったウラジーミル・レーニンはポーランド・バルト三国・フィンランドの独立承認で帝国の西方領土の一部を手放した後、ボリシェビキを改称したロシア共産党を率いて内戦に勝利し、1922年の年の瀬にソ連共産党の一党独裁によるソビエト連邦を建国した。旧ロシア帝国領の大部分を引き継いだソ連を構成する4共和国(その後15まで増加)のうち、ロシア人が多数派を占める大部分の地域はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国となった。ソビエト連邦とロシア連邦共和国の首都がサンクトペテルブルクからモスクワへと約200年ぶりに復され、同時にサンクトペテルブルクはレニングラードに改称された。
1930年代の世界恐慌で多くの資本主義国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けず、レーニンの後を継いだスターリン独裁的な主導の下で農業集団化と重工業化が断行され、高い経済成長を達成した。しかし、その実態は農民からの強制的な収奪に基づく閉鎖的な工業化であった。農村弾圧の結果、特にウクライナやロシア南西部では大飢饉が発生した。 その歪みが政治的な粛清と強制収容所の拡大など恐怖に基づく支配をもたらす結果となった。
1940年にはバルト三国を併合してソビエト連邦の一部とし、さらにルーマニアからベッサラビア地方を割譲させた。1941年6月には独ソ不可侵条約を一方的に破棄したナチス・ドイツのヒトラーに攻め込まれて西部の広大な地域を占領され、危険な状況に陥った。
しかし、1942年初頭に首都モスクワの攻防に成功した後、英米をはじめとする連合国の助力もあってスターリングラード攻防戦及びクルスクの戦いを境に1943年後半には反攻に転じて独ソ戦の主導権を握り最終的には大戦に勝利し、更にポーランド東半、ドイツ、ルーマニア、フィンランド、チェコスロバキアの一部などを併合して、西に大きく領土を広げた。極東方面では、1945年8月に日本との日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦。満州国やサハリン南部、千島、朝鮮北部に侵攻して占領した。
1946年には旧ドイツ領の東プロイセンの北部をカリーニングラード州、日本に侵攻して占領したサハリン島南部(南樺太)とクリル列島(千島列島、歯舞群島・色丹島を含む)全域を南サハリン州として編入した(南サハリン州は1947年にサハリン州に吸収)。
日本はサンフランシスコ講和条約で一部領土を放棄したものの、千島列島南部の北方領土の返還を要求。それ以外の千島列島および南樺太はロシア領土ではなく帰属未定地となっている。なお、ロシア(当時はソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印していない。
戦後、ソ連は強大なソ連軍の軍事力を背景に1949年の北大西洋条約機構 (NATO) 結成に対抗して1955年にワルシャワ条約機構 (WTO) を結成し、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどの東欧諸国を衛星国として東側諸国の盟主となり、自国と同様の人民民主主義体制を強要して世界の二大超大国の一つとしてアメリカ合衆国を盟主とする西側諸国と冷戦を繰り広げた。
1985年にソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフは冷戦を終結させる一方、ソ連を延命させるためペレストロイカとグラスノスチを掲げて改革に取り組んだものの、かえって各地で民族主義が噴出し、共産党内の対立が激化した。
党内抗争に敗れた改革派のボリス・エリツィンはソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を自らの権力基盤として活用し、1990年に最高会議議長となると、同年6月12日にロシア共和国と改称して主権宣言を行い、翌年にはロシア共和国大統領に就任した。1991年のソ連8月クーデターではエリツィンが鎮圧に活躍し、連邦を構成していた共和国は、そろって連邦を脱退していった。同年12月25日にはソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、ソビエト連邦は崩壊した。
(絢爛豪華なエルミタージュ美術館内の”ピョートル大帝の間”)
⑤ 歴史(ロシア連邦)… 1991年12月25日、ソビエト連邦崩壊により、ロシア共和国が連邦から離脱しロシア連邦として成立、エリツィンが初代大統領に就任した。また、ソビエト連邦崩壊により世界規模のアメリカの覇権が成立し、当時はこれを歴史の終わりと見る向きも現れた。ロシア連邦は、ソ連構成国の連合体である独立国家共同体 (CIS/СНГ) 加盟国の一つとなった。
ロシア連邦は、ソビエト連邦が有していた国際的な権利(国連の常任理事国など)や国際法上の関係を基本的に継承し、大国としての影響力を保持している。
(”サンクトペルブルク劇場”でのバレエ『白鳥の湖』観劇の開幕前)
⑥ 宗教…(キリスト教)ロシアには東ローマ帝国からキリスト教が伝えられ、東方正教会が多くの信徒を獲得した。17世紀に奉神礼の改訂が行われ、それに抵抗する人々により正教古儀式派(主流派ロシア正教会は「分離派(ラスコーリニキ)」と蔑称」)が形成された。古儀式派は主流派ロシア正教会及び国家に弾圧された。
正教徒はカトリック教会に対して距離をとる人が多い(これはロシア正教会所属の正教徒に限ったものではなくギリシャ正教会所属の正教徒などにも同様の傾向がみられる)。
こうした正教会と西方教会の間における、緊張持続と緊張緩和という両局面をもつ数々の現象は、ロシア正教会に限らず全世界の正教会組織と西方教会との間にみられる。 ロシア連邦政府とバチカンとの間には正式な国交が無かったが、2010年12月3日にメドヴェージェフ大統領がバチカンを訪問し、教皇ベネディクト16世と会談し、国交樹立の為に協議を重ねる事で合意した。
⑦ 言語・文字…ロシア語は、インド・ヨーロッパ語族のスラヴ語派東スラヴ語群に属する言語。ロシア連邦の公用語。ロシア連邦の国語表記には、キリル文字を使用する。近縁の言語にウクライナ語とベラルーシ語がある。
1日目)3月25日(金)、仙台空港より07:45発のANA3232便で成田空港第二ターミナル行。
成田空港10:45発のJAL0441便→モスクワ・ドモジェドヴォ国際空港15:00着。「ルーブルは、なるべく使いきれる分での両替を!」という事だったので、成田空港では5,000ルーブル(10,700円)と100USドル(11,453円)を両替した。
(成田空港で両替した100ルーブル”約200円”と500ルーブル紙幣)
(食前酒の白ワイン)
(暫らくの間、食べおさめとなるので日本食を選んだ。)
(デザートのハーゲンダッツのアイスクリーム)
(2回目のカツサンドの軽食と赤ワイン)
(赤ん坊を連れた、ロシア人家族)
(氷原が目立つ、着陸前の眼下のモスクワ近郊)
(モスクワ・ドモジェドヴォ国際空港の到着口)
入国審査の後、空港内での軽食を摂り、ドモジェドヴォ国際空港18:20発・シベリア航空S70043便→サンクト・ペテルブルクのプルコヴァ空港20:00着。 その後、サンクト・ペテルブルグのホテル”ソコス・オリンピア・ガーデン”泊。
(空港内でのレストランのケーキ類の陳列状況)
(空港内でのレストランでのスナック類の陳列状況)
(自分が食したサンドウィッチとジュース。フランスパンの様なパン生地で、レンジで温めてくれたが、少々固かったが美味かった。空港内なので960円程と割高。英語は通じないので、ジェスチャーで購入。掌の1.5倍程で大きかった。)
(到着したサンクト・ペテルブルクのプルコヴォ国際空港の夜景)
(サンクト・ペテルブルグのソコス・オリンピア・ガーデン)
(部屋の内部)
(部屋の浴室)
(初日に集まった、ルーブル紙幣と小額のルーブルコイン)
モスクワのドモジェドヴォ国際空港には21:00(現地時間は-6時間なので15:00)頃に着陸した。 現地は15:00なので明るく、寒さが和らいでいる時期とは言え、着陸直前の飛行機の窓から見た眼下のモスクワ近郊は、殆ど氷の世界(氷原)しか見えなかった。
ロシアでの入国審査は、前評判通り時間がかかった。
その後、シベリア航空S70043便(18:20発)でサンクト・ペテルブルクのプルコヴァ国際空港へ向かったが、19:00頃に機内食で”ツナ・サンドウィッチとコーヒー”が出た。
前評判通りパンは相変わらず少々固かったが美味かった。
プルコヴァ国際空港へは20:00頃に到着。
そして、宿泊先となるサンクト・ペテルブルグのホテル”ソコス・オリンピア・ガーデン”泊。 ホテルのフロントや観光土産物店等以外では、「ロシア語以外は通じない」との事だった。
翌2日目の3月26日(土)、朝の7:00頃に、自分は早々とホテル1階のレストランで、どれもとても美味かったが、肉類、スモークサーモンを始めとする魚の酢の物やヨーグルト、コーヒー等、特に果物を多めの朝食を済ませ、前日教えて貰っていた近くのスーパーマーケットに早々と出掛けて行った。安くて美味しいと評判の『アリョンカ・チョコレート』外の土産物を物色するためだった。
「海産物も置いてある。」との添乗員さんの説明だったので、買わないまでも『キャビア』等の情報も得たかったのだった。
なにせ、英語など殆ど通じない現地の人向けのスーパーマーケットである。「チョッコレット。アリョンカ。」などと英語の様な、日本語の様なもの言いでは全く通じなかったが、「ロシア語は、日本語の様な”高低アクセント”とは異なり、”強弱アクセント”である。強調したいアクセントは強く長く発音する。」という事を思い出し、「”チョッコ”レット。”アリョ”ンカ!」と大きい声で言ったら、その店の店長またはオーナーと思しき男性が、「オー!アリョンカ!アリョンカ!」と言いながら、売場に案内してくれて手に入れる事が出来たのだったが、「あの人にも。この人にも…」と考えている内に、約20袋程の全てを買い込んでしまった。
そうこうしている内に、添乗員さんが下見に来て、「マア!全部買い占められたんですね!」と驚いていたので、自分は「少し戻しましょうか?」と言ったところ、「他所でも売っていますので大丈夫です!」と言い、「とても珍しくて美味しいので!」と、彼女が勧めてくれた『アカシアの蜂蜜』を3個程買込んだ。
『キャビア』の方は、ジェスセチャーをしようが、「キャビアー」とか「イクラー!」とか叫ぼうが、海産物売場の女性には全く理解してもらえず、店を出るころになってやっと、「あの日本人っぽいのが言っているのは、もしかして”あれ”の事かしら?」といった感じであった。
そも「キャビア」とは、英語やフランス語での言い方であって、「チョールナヤ・イクラー(イクラはロシア語、すなわち”黒い魚卵”)」とロシア語で、そして大声で、しかも巻き舌で言うべきだったのだ。 後で確認したら、キャビアは主にカスピ海やアムール川で獲れる関係上、地理的にサンクト・ペテルブルクでの販売は殆ど無く、その多くがモスクワで販売されているとの事だった。
(ホテル1階のレストラン入り口)
(ジュースコーナー)
(パンコーナー)
(私の朝食のほんの一部。毎回がっちり食べた。)
(ホテルフロントのサービスドリンク)
(買い占められた、アリョンカちゃん達の一部)
この日から2日間、このホテルを拠点にして、サンクト・ペテルブルクにある『エルミタージュ美術館』の見学や、『エルミタージュ劇場』でのバレエ観劇。 ”琥珀の間”を含む絢爛豪華な55の部屋を持つ『エカテリーナ(正確にはエカチョリーナ)宮殿』の入場観光。 『聖イサク寺院』、『血の上の教会』、『青銅の騎士像』、『ペトロパブロフスク要塞』等の下車合観光等の予定だった。
”サンクト・ペテルブルク”という都市は、
① 地理的には、フィンランドの首都ヘルシンキまでは300Km、エストニアの首都タリンまでは350Kmと近い。 モスクワとは直線距離で600Km程である(日本で言えば、東京~函館間)。 モスクワに次ぐロシア第二の都市であり、行政上ではモスクワと共に単独で連邦市を形成しており、人口が100万を超える都市としては世界で最も北に位置する。
市街は、ネヴァ川河口デルタの島々と両岸に広がり、運河網が発達して、バルト海における重要な港都市の市を占める。
ネヴァ川は、運河や河川等によって白海、ドニエプル川、ヴォルガ川等と結ばれているため、サンクト・ペテルブルクはカスピ海やウラル、ヴォルガからの船舶のバルト海への出口となっている。
港は冬季である11月~4月に凍結してしまうが、厳冬期を除いて常に砕氷船が航路を維持している。 また、市中心部に運河が縦横に巡り美しい街並みを有する事から”北のヴェネツィア”とも称される。
② 歴史
イ) 名前の変遷:都市の名前は「聖ペテロの街」という意味である。 これは、建都を命じたピョートル大帝が自分と同名の聖人ペテロの名にちなんで名付けたものである。
ロ) 都市の建設以前:ネヴァ川河口域は、古くはバルト海からヴォルガ川、ドニエプル川といった内水路を通じて黒海へと向かう「ヴァヤリーグからギリシアへの道」と呼ばれた交易ルートに位置し、ルーシの北辺に位置していた。 一方で、ネヴァ川河口はフィンランドを支配下に置くスウェーデンの国境地帯ともなっており、1240年には両国の間に”ネヴァ河畔の戦い”が起こった。 この戦いはノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーが勝利したが、1617年にはスウェーデンがここを奪取し、以後ピョートル大帝時代に至るまでこの地域はスウェーデン領となっていた。
ハ) ロシア帝国時代:サンクト・ペテルブルクは、ピョートル大帝の命により、1703年5月27日に築かれた人工都市であり、現在でも5月27日は”建市記念日”として市の祝日となっている。
大北方戦争の過程で、スウェーデンから奪取したバルト海・フィンランド湾沿岸のイングリアに新都として造営されたが、造営前のサンクト・ペテルブルク一帯は荒れ果てた沼地であり、河口付近にはペトロパブロフスク要塞も同時並行で建設されるなど、建都作業は過酷なもので、多くの人命が失われその数は一万人とも言われる。
建設後は、ロシア帝国の首都としてふさわしい街となる様、歴代の皇帝による整備・西欧化が行われた。 1925年には科学アカデミーが、1757年には王宮として冬宮が完成。ネフスキー大通りが整備され、冬宮を中心とした放射状の街並みが造られていった。
1757年には演劇アカデミーが創設され、エカチョリーナ2世時代には冬宮の一角にエルミタージュ美術館の基となる展示室が開設した。 1819年にはサンクトペテルブルク大学が創設。
1825年にデカブリストの乱がこの街で起きたがすぐに鎮圧された。 1837年にペテルブルクとツァール・セローとの間にロシア初の鉄道が建設され、1851年にはモスクワとペテルブルク間の鉄道が完成した。人口も増加し、1868年には67万、1910年には190万人に達した。
ニ) ソ連時代以降:ロシア革命では、二月革命・十月革命の2つの革命の中心地となり武装蜂起によるボリシェビキの政権奪取やレーニンによる憲法制定会議の解散が起こった。 その後ソビエト政権は外国からの干渉を恐れ、首都をより国境から遠いモスクワに移転し、1922年に正式に定められた事でこの街は政治の中心地から外れた。
ロシア革命以降で、サンクトペテルブルク(レニングラード)出身者がトップに上り詰めたのは、ソ連崩壊後、21世紀になって大統領や首相に選ばれたウラジミール・プーチンが初めてである。
※ 自分はかつて放送大学の面接授業で『ロシア文学の楽しみ』という講義を、2日間受講した事が有った。
① 19世紀ロシア文学の巨匠達への創作の為の豊かな材料を提供
② ピョートル大帝とは何者?
③ 西欧風・石造りの首都建設におけるピョートルの施策
④ ペテルブルクの光と影
⑤ ニコライ・ゴーゴリ(『外套』、『鼻』のあらすじ)
⑥ 都市伝説が生まれる原因
⑦ 都市伝説と重なるフォークロア(古くからの伝承・風習)
…といった内容だった。
ネヴァ川河口にあって、高低差の無い地形が故に、低気圧や北西風による川の逆流や氾濫。 海沿いでの湿気が多く寒い気候。 都市建設や戦争、その他による原因での多くの死者。 それが故の”幽霊伝説” …。それらが裏付けられるような ”歴史と風格のある趣のある都市” といったものが感じ取られた。
(市内の様子)
(ネヴァ川には流氷が流れていた。)
(ネヴァ川沿いの土産物店)
(ロシアの子供達は、皆おしゃれで愛くるしい)
この日、ロシア旅行2日目の3月26日(土)は、ホテルを10:00に出発し、昼食を挟みながらの丸一日の『エルミタージュ美術館(本館、及び新館)』観光と、夕食後の20:00頃からおよそ4時間程の『エルミタージュ劇場』でのバレエ”白鳥の湖”の観劇だった。
現地のガイドさんは、「ナターリア」さんと言う40~50歳ほどの女性だった。 「”ナターシャ”と呼んでください。」と言っていた。
確か、出身はジョージア(かつての”グルジア”)か、その付近だと言っていたようだった。 これは、2日目辺りに彼女が言っていた事だったが、彼女には旦那さんとの間に23歳になる男のお子さんがいるとの事だった。
彼女はかつて、兵庫県の神戸市に語学留学の経験があり、勿論日本語には堪能で知識量が豊富、時と場所を選んで言葉や会話の内容を選んで話したりと、頭の回転の速い女性だった。
彼女の父母や兄弟達は皆、教師か公務員であり、「ガイドを職業とする自分は、家族の中では異色の存在だ。」と言っていた。
これも後日談だが、ナターリアさんはかつては”バレエダンサー”を目指しており、現在の旦那さんはその時の先生だとの”ロマンス”も語っていた。
(豪華な装飾の扉。右端が現地ガイドのナターリアさん)
(見事な回廊の天井画。左側は現地ガイドのナターリアさん。)
自分は、ロシアでの寒さ対策で毛糸の帽子を初め、マフラー、イヤーマッフル、皮手袋、毛糸の手袋、インナー付のズボン、バックスキンのブーツ、厚手の靴下等を準備して行ったのだが、館内に入場しての6時間観光という事だったので、相当歩き回る為には薄着にしようと思い、半袖下着にタートルネックスウェータ、上には厚手の毛糸のベスト、そして館内で脱げるように内側はボア付きだが薄手のジャンパー、そしてヒートテック無しの裏がフリースで厚手のズボンのみと軽装だったが、エルミタージュ美術館前でバスを降り館内入場までの事前説明や写真撮影タイムの間はやはり寒かった。
(エルミタージュ美術館の本館前)
『エルミタージュ美術館』は、①小エルミタージュ、②旧エルミタージュ、③新エルミタージュ、④エルミタージュ劇場、⑤冬宮の5つの建物が一体となって構成されており、現在本館となっている冬宮はロマノフ朝時代の王宮である。
《歴史》 1764年にエカチョリーナ2世がドイツから美術品を買い取ったのが、エルミタージュ・コレクションの始まりである。 エルミタージュ美術館の起源は、エカチョリーナ2世が1775年に建てた自分専用の美術品展示室であり、一般公開はされていなかったが、1863年に初代館長となったゲデオーノフによって市民も観覧が可能となった。
《主な所蔵品》 絵画…①イタリアルネッサンス(レオナルド・ダ・ヴィンチ:『聖母ブノア』『リッタの聖母』、ラファエロ:『コネスタビレの聖母』『聖家族』、ティツィアーノ:『ダナエ』『懺悔するマグダラのマリア』、外)
②スペイン(エル・グレコ:『使徒ペレロとパウロ』、ベラスケス『昼食』、ゴヤ:『アントニオ・サラテの肖像』)
③フランドル・オランダ(ルーベンス:『大地と水の結合」』『ペルセウスとアンドロメダ』、レンブラント:『フローラに扮したサスキア』『ダナエ』『放蕩息子の帰還』、外)
④印象は以降(ルノワール:『ジャンヌ・サマリーの肖像』『扇子を持つ少女』外、セザンヌ:『ピアノを弾く少女』『煙草を吸う男』外、モネ:『庭の女』『ヲータールー橋』外、ゴッホ:『アルルの女たち』『夜の白い家』外、ゴーギャン:『果実を持つ女』、アンリ・マティス『赤い部屋』『ダンス』外、)
※ 総収蔵品は約300万点とされるため全てを詳しく見るのは困難。 少し余裕をもって見るにも数日間が必要になる。
コート類はクロークに預けなければならず、またカバン類はA4サイズ以下のもに限り持ち込むことができる。写真撮影は可能だがフラッシュと三脚は禁止。
朝一番から入場すると、途中で休憩することも大切で、館内に軽食の取れる簡易カフェがあるので、サンドイッチに飲み物程度しか無いが、必ず昼食をとって英気を養う必要があると思う。
(本館内の”大使の階段”のレッドカーペット前にて)
(エルミタージュ美術館本館内の”大使の階段”のレッドカーペット前)
(エルミタージュ美術館本館内の”大使の階段”のレッドカーペット前)
(エルミタージュ美術館の本館内の”大使の階段”の上の回廊)
(ピョートル大帝とエカチョリーナ2世の肖像画:エカチョリーナ2世にとって、ピョートル大帝は”憧れの人”だったのだろう…)
(ピョートル大帝の間のとなりの謁見の間)
(ピョートル大帝の間のとなりの謁見の間)
(ルーベンス:大地と水の結合)
(バッカス”酒の神”:戒めの為、太った醜い姿で描かれている)
(レンブラント:ダナエ)
(レンブラント:フローラに扮したサスキア)
(レンブラント:放蕩息子の帰還)
(イコン)
(イコン)
(この絵画が、絵画にサインをした始まりと言う。)
(レオナルド・ダ。ヴィンチ:リッタの聖母)
(金箔を施された豪華な扉)
(ティティアーノ:ダナエ)
(ティティアーノ:懺悔するマグダラのマリア)
(ラファエロ:聖家族)
(この絵の人物は、彼が左手に持つ同じ架台で磔刑になったという。)
(焼物の数々)
(ロシアで採掘されるという、孔雀石で造られたテーブルと壺)
(実際、蛇の上から土をかぶせて焼かれたという焼物)
(暖炉)
(シャンデリア)
(化粧の間)
(置物)
(”将軍の間”に飾られていた、歴代の将軍たちの肖像画の一部)
(本館の昼食で食べた、数少ないメニューのスナックとコーヒー)
(本館の中のトイレ)
(本館の中のトイレ:豪華さを出すためか、何故か異常に大きな扉だった。)
※ 印象派以降の絵画は、新別館(ブランチ)に移動している。(新館の入り口)
(古い建物の上に建てられたことを示す造りになっている。)
(印象派以降)
(モネの庭池か?)
(ルノワール:ジャンヌ・サマリーの肖像)
(ポール・ゴーギャン:タヒチでの絵画)
(ポール・ゴーギャン:果実を持つ女)
(ピカソ:青の時代)
(ピカソ:青の時代…自画像)
(ピカソ:キュービズムの初期)
(アンリ・マティス:赤い部屋)
(アンリ・マティス:ダンス)
(豪華な展示物の一部)
自分はデジカメやスマフォ用に、ロシア(ベトナムも同じ)での充電用のコンセント(今の日本の電化製品は100~220V迄対応できるので、殆ど専用充電器は不要)と18GBのSDカードを持ってたので、740枚程の画像と100個程の動画を収録してきたが、一つ一つ紹介する事は枚挙に遑が無い事になるので止めるが、”エルミタージュ美術品”はネットでも検索できるのでご覧になられたい。
2階に上がって暫くして、ナタ-リアさんが我々に小声で、「皆さん!スリがいるようですので十分に注意して下さい!」と言った。
そして、「彼等は”スリ”と言う日本語が分かりますので、私は ”注意して下さい”という言い方をしますので、その時は身の回り品やお財布には気を配って下さい。」と注意した。「ロシア人にとって”お金持ち”とは日本人の事なのです。」と言っていた。
以前、彼女が別の日本の観光客を案内している際に、彼等の前で「スリに注意して下さい!」と注意を促したところ、仕返しを受けて、ハンドバックの中の貴重品を根こそぎ盗られた事があったという事だった。
本館での入場見学は14:00位で終え、一旦外に出てから今度は新館へと向かった。 新館には、印象派以降の絵画が多く展示されており、ルノワール、セザンヌ、モネ、ゴッホ、ゴーギャン、ルソー、マティス、ピカソ等々、名画がズラリと展示されていた。 何れも、美術図鑑等で見知った絵画も多かった。
驚きながら観て回ったが、あまりにも名画が多すぎて一つ一つの絵画への感動を憶えていられなかったのが現状だ。 機会があったら、今度はユッタリと是非もう一度訪れてみたいものである。
『エルミタージュ美術館』での入場見学は17:00頃に終わり、その後我々はバスにて少々移動してから少し街中や道路を歩き、ネヴァ川沿いにあるとあるレストランにて18:00頃から夕食を食べた。
その後、19:30頃から『エルミタージュ劇場』に入場を開始して、20:00頃からのバレエ”白鳥の湖”を観劇した。 会場は”ボリショイ(大きいという意味)”では無かったが、舞台のそでにはオーケストラが陣取り、開演前や幕(4幕迄あった。)の合間にはそでや廊下で一所懸命に練習するなど真剣さが伝わってきた。
専門家ではない自分が感じた事なので、あまり信憑性は無い話だが、TV等で観る所謂”一流どころ”の演技の技術力より見劣りするように感じられたが、あの跳躍力や演技力、そして代幕でのオディール(黒鳥)の”グラン・フェッテ・アントゥールナン(32回転:軸が少々ずれていた様には見えたが)”の演技はやはり驚愕すべき技術力だと思った。 「こうやって彼等は、更なる高みに登って行くのだろう!」とエールを送りたい気持ちになった。
この夜、ホテルに戻ったのは24:00前頃であった。
(ネヴァ川沿いにある、夕食を食べたレストラン)
(『エルミタージュ劇場』への入り口ドア)
(『エルミタージュ劇場』の中から入り口方面の写真)
(開演前の『エルミタージュ劇場』)
(『エルミタージュ劇場』でのバレエ”白鳥の湖”)
ロシア旅行3日目の3月27日(日)は、ホテルを9:00に出発し、サンクト・ペテルブルク市内の”世界遺産観光”と『エカチョリーナ宮殿』への入場観光、そして土産物店への立ち寄りだった。
市内観光の最初の
① 『聖イサアク大聖堂』とは、サンクトペテルブルク中心にあるロシア正教会の大聖堂である。ドームの高さは101.5メートル。聖イサーク大聖堂、聖イサーク寺院とも表記される。聖イサアク大聖堂の名称は、ピョートル大帝の守護聖人、ダルマチアの聖イサアク(聖イサク・ダルマツキー)に由来する。
②『血の上の教会』はサンクトペテルブルクにあるロシア正教会の聖堂である。 ロシア皇帝アレクサンドル2世は、「解放皇帝」と呼ばれ、農奴解放を初めとする「大改革」を行ったが、次第に反動化していった。同時にナロードニキ運動の急進化に伴い、ナロードニキの一部はニヒリズム、テロリズムに走り、1881年3月1日ついに皇帝もテロの標的となって斃れた。 その跡地に建てられた教会。
③ 『青銅の騎士像』は、サンクトペテルブルクにあるピョートル大帝の騎馬像で、同市の観光名所の一つである。
この都市を創建したピョートル大帝の偉業を称えたプーシキン作の叙事詩『青銅の騎士』が有名になったため、この名で呼ばれるようになった。
④ 『ペトロパブロフスク要塞』は、サンクトペテルブルクの要塞である。 ロシア語で「ペトロとパウロの要塞」という意味で、ペトロ・パウロ要塞、あるいはペトロ・パヴロ要塞とも表記される。
それから少々移動した後に、近くのレストランで昼食を取った。
メニューは”ピロシキ”、”ボルシチ”、”パン”、”フルーツ”、”アイスクリーム”、”コーヒーか紅茶”という事だったが、急遽”ピロシキ”が、何故かとても小さい”餃子”になった。
あまり詳しい説明は無かったが、自分はこの変更はご愛嬌として受け止めたが、お世辞にも「あまり美味しい代物ではなかった!」
※ ”ピロシキ”は、その後の『セルギエフ・ポサート』で食する機会があった。
また、”ボルシチ”はあっさりとした”赤カブのスープ”であり、健康的で美味しかった。但し、多分自分の記憶違いなのだろうが、”二十歳のお祝い”で東京の渋谷のロシア料理店『ロゴスキー』で食した”ボルシチ”は、もっとこってりしていたような気がした。
それから我々はバスに乗り『エカチョリーナ=エカテリーナ・宮殿』へと向かった。
『エカチョリーナ宮殿』は、サンクトペテルブルク中心部から南東25kmの郊外の避暑地、ツァールスコエ・セローに存在するロシア帝国時代のロココ建築の宮殿。
宮殿の名前は、ピョートル大帝の后でもあった、第2代ロシア皇帝エカチョリーナ1世(在位:1725年 - 1727年)に由来する。エカチョリーナがドイツの建築家Johann-Friedrich Braunsteinを雇って夏の避暑用の離宮として1717年に作らせたのが最初のもので、その後、第4代ロシア皇帝アンナ(在位:1730年 - 1740年)がロシア人建築家に命じ増築させた。
※ とりわけ『琥珀の間』が有名である。琥珀は、第二次世界大戦のレニングラード包囲戦中にドイツ軍に持ち去られたが、1979年から始まった復元作業により、2003年に完全に復元された。
1791年、日本人の漂流民大黒屋光太夫が帰国を願うため、エカチョリーナ2世(在位:1762年 - 1796年)に謁見した場所としても知られる。一般に夏の間過ごしたことから「夏の宮殿」とも呼ばれる。
名称として冬宮殿と対になる「ペテルゴフ宮殿」は、サンクト・ペテルブルク中心部から30km離れたペトロドヴォレツの100以上の噴水があることで著名なペテルゴフにピョートル大帝時代に建設されたものであるが、冬宮殿と同じく壮麗なロココ建築のエカチョリーナ宮殿の完成以降、実質的に本宮殿が夏の宮殿として用いられた。
※ その中にある『琥珀の間』とは、サンクトペテルブルクにあるエカチョーナ宮殿内の一室である。その名の通り、部屋全体の装飾が琥珀で出来ており、これは世界で唯一のものである。
琥珀が第二次世界大戦のレニングラード包囲戦中にドイツ軍に持ち去られたため、琥珀の間は失われていたが、1979年から始まった復元作業により、2003年に琥珀の間は完全に復元された。
※『琥珀の間』は写真撮影をすることが禁じられていて、大変残念だったが、 何時までも見飽きない『エカチョリーナ宮殿』を、後ろ髪をひかれる様な思いで立ち去り、その後我々はバスで移動し、街中のネヴァ川沿いにあるレストランで”チーズサラダ”、”黒パン・白パン”、”壺焼きシチュー”、”デザートのケーキ”、”コーヒー”等を食した後、ツアー仲間の皆から人気のあった現地ガイドの「ナターリア」さんと別れたのであった。
彼女は、観光のガイドのみではなく、「ロシアと日本の架け橋にでもなれば…。」と思ってか、いろいろなロシアの現状についても多く語ってくれた。 中でも、今印象に残っているのは、「ロシアでの一番のステータスは自家用車を持つ。」という事で、裕福な人たちは会社へは車通勤をする事だそうだ。
それ以外の、多くの人達は地下鉄通勤をしているとの事。
また、ロシア人と言えば「大酒のみ」というイメージで受取られがちだが、多くのロシアの人達の殆どは、車通勤という事もあって、週末以外は殆ど酒を飲まない人達が多いとの事だった。
現に、ナターリアさんも23歳になるという彼女の息子もお酒は一切飲まないとの事だった。 多少酒を嗜むナターリアさんの旦那さんに、息子さんが身体の事を心配して「パパ、あまりお酒を飲まない方が良いんじゃない!」と言うらしいが、それに対する旦那さんの息子さんへの返答は、「僕は、もう子供じゃないネー!」との事だそうだ。 また、ロシアの公務員の年金は非常に低く、学校の数学の先生であったナターリアさんの母親の年金は、日本円で言えば約3万円程だという事であり、当然それでは生活が出来ないのでナターリアさんが仕送りをしているのだと言っていた。
明日は、サンクト・ペテルブルクに別れを告げてモスクワへの移動の日となる。
(聖イサアク大聖堂の前にて)
(青銅の騎士像の前にて)
(ペトロパヴロフスク要塞の前にて)
(ペトロパヴロフスク要塞)
(血の上の救世主教会)
(血の上の救世主教会前にて)
(血の上の救世主教会前の車でのパンの出店)
(ネフスキー通りの土産物店)
(ネフスキー通りのレストラン近くの『国立ロシア美術館』)
(ネフスキー通りの『国立ロシア美術館』のプーシキン像)
(レストランで出された”ボルシチ”とパン)
(レストランで出された”餃子”)
(『エカチョリーナ宮殿』の近くにある”琥珀の工房”)
(『エカチョリーナ宮殿』の近くの”琥珀の工房”での琥珀の作品)
(『エカチョリーナ宮殿』内の”鏡の間”)
(『エカチョリーナ宮殿』の”鏡の間”
(『エカチョリーナ宮殿』内の豪華な部屋の数々)
(陶器で造られている”暖炉”)
(絵は「エカチョリーナ二世」)
(現地ガイドの「ナターリア」さんと)
(ロシアで流行っているのかこの乗り物に乗る子供が多かった。)
(空の色の青を基調とした、美しい『エカチョリーナ宮殿』)
(『エカチョリーナ宮殿』まえの”出店”)
(ネヴァ川沿いにあるレストランにて、夕食を食べた。)
(チーズサラダと白パン・黒パン)
(壺焼きシチュー)
(デザートのケーキとコーヒー)
(レストランの周囲の、サンクト・ペテルブルクの街の風景)
(レストランの脇のネヴァ川の風景)
(ネヴァ川:この日は流氷が流れていなかった。)
ロシア旅行4日目となる3月28日(月)は殆ど移動日だった。
ホテルを7:30に出発してサンクト・ペテルブルクのプルコヴォ国際空港へ向かった。 そして、緑色のシベリア航空のS70048便(10:05発)にておよそ1時間半程をかけて、モスクワのドモジェドヴォ国際空港には11:35頃に到着した。その後、ドモジェドヴォ国際空港から専用バスでモスクワ市内へ向かった。
予定通りにバスで1時間半ほど走った13:00頃に、ドライブインの様なレストランで”野菜スープ”、”白・黒パン”、”ポークソテー”、最後には”デザート(アイスクリーム)とコーヒー”の昼食をとった。
14:00頃に出発し、それからまた1時間ほど走った15:00頃に、我々は『ロシアン・プレゼンツ』という土産物屋に立ち寄った。 日本からの添乗員の村内さん(女性)によれば「この店は、モスクワでも”キャビア”が置いてある数少ない店で、しかも品質が保証されていて我々が立ち寄る店で”キャビア”が置いてあるのは此処だけです。」との事だった。
※ キャビアは世界各地で作られているが、チョウザメの種が同じでも餌としているプランクトンが異なるとキャビアの味にも違いが生じるため、カスピ海産のキャビアの価値は相対的に高い。そして、同じカスピ海産でもイラン産のキャビアとロシア産のキャビアではロシア産の方が高級である。川を遡上するチョウザメを捕らえるロシア式に対して、イラン産のキャビアは釣ったチョウザメから採取されるためストレスがかかっており、使われる塩もロシアのものと違う、という理由からであるという。
《種類》
① ベルーガ:チョウザメの仲間の中では最も大きく、体長3〜4m、体重300kgを超えるものもある。普通は体重100〜200kgでその約15%に当たる15〜30kgがキャビアとして取れる。成熟まで約20年を要する。近年漁獲量が減少し、希少価値が高まっている。卵のサイズは1グラムあたり30粒と大きい。キャビアの特徴は大粒なこと。色の濃淡はあるが灰色で明るい色ほど好まれる。皮は柔らかくマイルドである。
② オシェトラ:カスピ海に生息する2種類のチョウザメ(ロシアチョウザメ・シップチョウザメ)を指す。いずれもチョウザメ類の中では平均的な大きさで体長2m、体重40〜80kg。成熟に12〜13年を要する。キャビアは1グラムあたり50粒と中粒で色は茶色がかった灰色からゴールドまで変化に富む。ナッツの味が珍重されている。
③ セヴルーガ:3種の中では最も小型でスマートな体型をしている。口先が尖っているのが特徴。体長は最大で1〜1.5m、体重は25kgを超えることは滅多にない。成熟に掛かる時間は比較的短く平均8〜9年である。キャビアは1グラムあたり70粒と小粒で色は暗灰色。繊細で独特な風味がある。
以上の様な事である。
自分は、①ベルーガと(青色蓋)と②オシェトラ(黄色蓋)の二種類を購入した。 大きさは直径が6㎝、厚さが3㎝程の小瓶に入ったものでおよそ28gのものだったが、値段は其々125ユーロ(15,625円)と100ユーロ(12,500円)という事で、合計額が28,125円のはずだった。カード決済をしたが、精算は何故か”ルーブル”での決済になっていて、18,000ルーブルという事で、後日のカード決済額を確認したら30,783円(1.68円/ルーブル)となり、決済額が2,658円多かった事になる。 これは、空港の免税店でも同様で、18ドル(約2,100円)のウォッカが1,237.59ルーブル(2,113円)となっていた。空港免税店の方は相場とあまり変わらなかったが、キャビアを買った『ロシアン・プレゼンツ』の方は、ユーロからルーブルへの換算の際に価格操作をしているものと思われた。しかしながら自分は”イクラ”を購入する事が目的だったので不信感は持ちながらもそれを手に入れた。 自分はかつて、”イクラのオードブル”を食べたことが有った。
自分としても、「家族に本場の”キャビア”という代物を一回くらいは食べて貰って味を知っておいてもらおう。」という事からだった。
自分は、後刻にホテルに帰ってから、”キャビア”購入時の『ロシアン・プレゼンツ』の売り子(男性)への不信感が抜けきれずに、添乗員さんに部屋まで来ていただいて、自分が購入した2種類のキャビアの色の違いや瓶詰状態の確認をして貰った。彼女曰く「色はこんなものだと思います。”ベルーガ”に関しては、私こんな大きなキャビアは、今まで観た事が無いですよ!」と驚いていた。
また、顔見知りで、翌朝のエレベータで出くわした他の旅行グループの男性の添乗員さんに確認したら、彼曰く、「『ロシアン・プレゼンツ』の品物は大丈夫ですよ。あんな品質の良いものはあそこでしか売っていません。」との言質を受け、自分としては安堵の胸をなでおろす思いだった。
それから我々はまたバスに乗り、約30分程かけて『クレムリン』に到着し、入場観光を行った。 クレムリンの中には、
① クレムリン大宮殿(大クレムリン宮殿、
② ロシア大統領官邸、
③ ロシア大統領府、
④ 武器庫(武器宮殿、アルジェイナヤ・パラータ)
⑤ アルハンゲリスキー大聖堂:1505年から1509年にかけて建立。設計はイタリア・ミラノ出身の建築家アルヴィン・ヌオヴォ。5個の丸屋根を持ち、内陣にはタタールのくびきからロシアが解放された絵やイコンによって飾られる。イワン雷帝他歴代皇帝の納骨保管所となっている。
⑥ 生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー大聖堂):1475年から1479年にかけて建立。設計はイタリアの建築家アリストートル・フィオラヴァンティによる。大聖堂広場の北側・グラノヴィータヤ宮の北隣に位置する。帝政時代には皇帝の戴冠式が挙行された。現在でもロシア連邦大統領就任式でロシア正教会による祝福が行われる場所である。
その他、多くの建物が建ち並んでおり、どれも皆素晴らしいものばかりであり、特に寺院の静かなその佇まいは心が癒されるものばかりだったが、時間もない事とて我々は、その内の”大クレムリン宮殿”、”大統領官邸”、”大統領府”、”武器庫”、”クレムリンの赤い星”、”クレムリンの塔”、”スパスカヤ(救世主)塔”、”ウスペンスキー大聖堂”、”アルハンゲリスキー大聖堂”、”ブラゴヴェシチェンスキー聖堂”等の素晴らしい寺院類や、”鐘の皇帝”、”大砲の皇帝”等を入場観光した。特に寺院の一つ一つはどれもこれも皆素晴らしかった。
現地のガイドの女性は、サンクト・ペテルブルクの「ナターリア」さんよりも大分年上の女性で、多分覚える気が無かったのだと思うが全く覚えていない。
しゃべり方が早口で聞きづらい上、日本語での喋り方が下手で、相手に伝えようという意思があまり感じ取れなかった。
また、過去に何かあったものなのか?日本からの添乗員さんとのコミュニケーションが全くと言っていいほどとれておらず、岡内さんが説明する事柄を我々の前で真っ向から否定するなど、我々は大分嫌な思いをさせられた。
この日のホテルは、”ホリディ・イン・スシチェフスキー”泊。
夕食は、1階のレストランにてのビュッフェ。 どれもこれも美味しく、デザートで3種類のミニケーキもしっかりと頂いた。
明日は、いよいよ『セルギエフ・ポサート』への観光へと向かう。
(レストランで食べた”野菜スープ”と”白・黒パン”)
(”ポークソテー”)
”デザート(アイスクリーム)とコーヒー”
(ドライブインの様な市中のレストラン)
(『ルシアン・プレゼンツ』での展示キャビア)
(最高級品キャビアの”ベルーガ”の説明写真)
(自分が買った2種類のキャビアと、白樺の樹皮の小物入れ)
(『クレムリン』への入場観光の入り口)
(クレムリンの中の『ウスペンスキー大寺院』)
(クレムリンの中の『アルハンゲリスキー大聖堂』)
(クレムリンの中の『大砲の皇帝』)
(クレムリンの中の『鐘の皇帝』)
(クレムリンの中の『アルハンゲリスキー大聖堂』)
(クレムリンの中の『ウスペンスキー大聖堂』)
(クレムリンの中の『ウスペンスキー大聖堂』入り口のフレスコ画の”イコン”)
(クレムリンの中の『ウスペンスキー大聖堂』の屋根の十字架)
(クレムリンの中の『ウスペンスキー大聖堂』の屋根の八端十字架”後ろから”)
ロシア旅行5日目となる3月29日(火)は、モスクワからバスで約一時間半程の所にある『セルギエフ・ポサード』への観光だった。
『セルギエフ・ポサード』とは、、ロシア、モスクワ州の都市、セルギエフ・ポサード地区の首府でもある。モスクワの北東70kmの地点に位置する。人口は2002年現在で11万3858人。
セルギエフ・ポサードは、1340年代にセルギー・ラドネシスキーによって創建された至聖三者(父と子と聖霊)聖セルギイ大修道院の周辺にできた門前町(ポサード)を起源として成長してきた。1742年には周辺の村落と合併して市域を拡大している。セルギエフの地名であったが、ソ連時代の1930年に宗教的な市名を理由にザゴルスクと改称した。ソ連崩壊後の1991年、「セルギイの居住地」を意味する現名称に改称。
最初は『ウスペンスキー寺院』への入場観光を行った。
16世紀には、至聖三者聖セルギイ修道院の横に、ウスペンスキー聖堂(生神女就寝大聖堂)が建設された。ウスペンスキーとは、ロシア語で「永眠」を意味するウスペニイェに由来し、ウスペンスキー大聖堂とは、カトリックにおける聖母マリア被昇天教会にあたる。
ここセルギエフ・ポサードのウスペンスキー聖堂の外観は、キリストをあらわす金色屋根を中心に、周囲に聖母マリアをあらわす青色屋根が配された、色合いの美しいものであった。
聖堂内部は、イコン(ギリシア教会で祀るキリスト・聖母・聖人・殉教者などの画像。ビザンチン美術の一表現で、6世紀に始まり、11~17世紀に特にロシアで盛行。)で覆われた壁(イコノスタシス)が印象的で、びっしりと絵が描き込まれていた。 セルギエフ・ポサードの建物は、どれも内部にはイコンが描かれているが、中でもウスペンスキー聖堂のイコノスタシスが最も見事で荘厳そのものと言われており、中はイコンで覆い尽くされていた。
次は『セルギイ修道院』への入場観光だった。
『トロイツェ・セルギエフ大修道院』とは、正教会でラドネジの克肖者聖セルギイと呼ばれる聖人が1340年代に森に分け入り小さな教会堂を建設したのがセルギエフ・ポサードの起源と言われている。
聖セルギイは熊とパンを分け合う清貧な生活を行い、至聖三者(トロイツキーすなわち父と子と聖霊)に生涯をささげた。
その後、聖セルギイの徳を慕う修道僧が多く集まり弟子となり、修道院を建設した。聖セルギイは、ロシアをモンゴルの支配から守ったとされることから、守護聖人として崇敬された。その死後、ロシア正教会により列聖され、遺体は不朽体として至聖三者聖セルギイ修道院に収められた。 そして、ロシア正教会の中心的修道院として発展し、その周囲に新たな教会や鐘楼が建てられ、門前町が形成されていき、「黄金の環」のひとつとなった。
現在でも、聖セルギイの不朽体が収められている聖櫃にお参りするのが、セルギエフ・ポサードへの巡礼者の大きな目的である。
至聖三者聖セルギイ修道院はシンプルな外観で、清貧の聖者にふさわしいもの。 内部は写真撮影禁止で、私語も厳禁できわめて厳粛なムードに身が引き締まる。
観光客は、ロシア正教の信者が順番にお参りし修道僧から祝福を受けるのを見学することができる。
ロシア正教の聖地として有名な場所だが、意外に小さな内部でイコンや聖櫃、聖具などが見られとても敬虔な雰囲気に包まれている。
我々は、多くの観光客達の順番を待って中に入ったが、外を歩いていた修道士や修道女がそうだったし、一般の参拝者もそうだったが、殆ど皆黒ずくめの服装で頭を垂れ、主教や牧師たちに合わせて祈ったり、十字を切ったりしていた。 足腰の悪いお年寄りたちは椅子や車いすに座っていたが、その他の人々は両膝をたたんだり立ち膝をしたりして熱心に祈っていた。それほど広い空間では無かったので、中は人々で埋め尽くされていた。 中では香の入った壺が揺れ、祈りの対象となる祭壇に向かって、中央には主教が立ち、両側には牧師たちが並び、端の暗幕で覆われた中からは少年たちの清らかな讃美歌が美しくそして心地よく聞えてきて、キリスト教徒ではない自分も厳かで敬虔な心持になった。
《 中は、慈愛と悲しみと祈りで満ち溢れていた・・・ 》
”ロシア正教”とは、カトリックでもなくプロテスタントでも無い、独立したキリスト教である。ロシア正教会は、教派としては正教会に分類される。世界史教科書などでは「ギリシャ正教」が一般的に用いられるが、「ギリシャ正教」は誤りではないものの、誤解を呼びやすい呼称である。
無神論を標榜するソ連邦時代には一貫して弾圧を受け続け、大多数の聖堂を破壊され、聖職者・修道士・修道女・信徒が虐殺されるなどの甚大な被害を受けたロシア正教会であるが、ソ連邦崩壊後には復活を遂げ、教勢を増している。
※ ローマ帝国が分裂して、西ローマ帝国と東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に別れ、東ローマ帝国経由でキリスト教を受容した”ロシア正教”は、西ローマ帝国での変貌を遂げたキリスト教(ロシア正教会はかつて、十字軍による侵略を受けている。)よりも”本来のキリスト教”としての姿を色濃く受け継いでいる様に見受けられた。
※ 西側(西欧や米国等)のキリスト教との目に見える大きな違いは、
① 十字を切る際には、カトリックでは”額→胸下→左肩→右肩”
の順であるが、ロシア正教では”右肩と左肩の順序が逆”である。
② 写真をよく見て貰えば解るが、西欧の十字架は十字のみだが、ロシア正教では十字架の上には罪状を示す札と、下に斜めになった足台がある。 これは「八端(はったん)十字架」とよばれ、見せしめの為の磔刑に処せられたイエスがすぐ死なない様に、長く苦しむようにという目的のために足台があった。 という事と、同時に磔刑にされた盗賊の内、右(磔刑にされた者から見て)の盗賊はイエスを救世主と認めた(上:天国に行った)。 しかし、左側の盗賊はイエスを罵った(下:地獄に行った)。 と言う事に基づくものと言われている。
より忠実に史実に近い表現をする事により、
「イエス・キリストの受けた苦しみを共有するのだ。」という意思を表したものであると思われる。
③ テトリスの画像でお馴染の『聖ワシリー寺院』が分かりやすいかと思うが、”玉ねぎ屋根”とか”たまご屋根”とか言われ、時には面白がられたり不思議がられたり、場合によっては揶揄されたりするロシア正教の屋根と建物は、実は、イエスという”聖者・人類愛の推奨者・精神の英雄”といった尊い存在に対して、
人々が「イエス・キリスト」に捧げる祈りの心(ロウソクと灯火)の形だという事だそうである。 その祈りの大きさに、圧倒される思いだった。
よく「政教分離」と言われて久しいが、我々人間が生活して行くための代弁者といえる”政治”と、それとは逆に、極端に言えば対極にあり「自己犠牲」、「隣人愛」、「清貧」といったものを推奨する
”宗教”というものとは、ある意味相反するものであり、
バランスを取りながら営んでいくことは容易な事ではない。
だからこそ、”宗教の違いによる争いが起こる。” という事は、
「それらを悪用する政治が悪い!」としか言いようがない。
(『セルギエフ・ポサード』への入り口)
(『セルギエフ・ポサード』への入り口の”イコン”)
(『セルギエフ・ポサード』の入り口付近)
(『セルギエフ・ポサード』の”ウスペンスキー大修道院”と鐘楼)
(”トロイツキー大修道院”の聖櫃)
(”トロイツキー大修道院”のイコン)
(”トロイツキー大修道院”の八端十字架)
(『セルギエフ・ポサード』の大鐘楼)
(”聖なる水の汲み場” 湧水をペットボトルで持ち帰れる)
(『セルギエフ・ポサード』の”ウスペンスキー大修道院”の前で)
(”ウスペンスキー大修道院”の外の八端十字架)
(『セルギエフ・ポサード』の入り口前のレストランにて)
(レストランにて…大きかった”ロールキャベツ”)
(レストランにて…”デザート”)
その後自分は中の売店で売っていた”ピロシキ(ポテト)”を買った。
(”ピロシキ”とは、簡単に言えばジャムパンやコロッケパンの様なパン生地のパンの中のジャムやコロッケの代わりにポテトサラダや肉類を詰め込んだ様なものと思えば良いかもしれない。)
自分はこれを食べる機会を失い、口にしたのは翌日の空港内の空時間だった。
そして同じく「セルギエフ・ポサード」”の中の土産物店で、家族用のマトリョーシカと白樺の小物入れ、天使の陶器等を2~3品ずつ買い求めた。 ”マトリョーシカ”はロシアの土産物として有名だが、ここセルギエフ・ポサードが発生の地であるとの事。
そしてこの原型は日本であり、マトリョーシカの第一号が飾られているセルギエフ・ポサードの博物館には「日本に教わった」という縁起が記されており、隣にはモデルとなったとされている
”箱根七福神”の入れ子人形も展示されている。
その後、我々はセルギエフ・ポサードの外にあるレストランで”ロールキャベツ”等の昼食を済ませ、一旦ホテルへ戻った。
ホテルでシャワーなを浴び少々休憩をした後「スーパーマーケットでの買い物を案内します。」という添乗員の岡内さんの呼びかけに応じて殆どのツアー仲間が夕食前のホテル界隈に繰り出した。
すぐそばの駅舎等を見学した後、我々は地下道をくぐって道の向こう側のスーパーへと向かったが、まだ寒い地下道の中には5~6人の物乞いが居た。 身なりはそれ程みすぼらしくは無かったが、殆どが老婆で小銭を受ける為の皿を手に持って階段で通行人に声をかけていた。
それから我々はスーパーへ向かったが、スーパーの入り口付近で旅行中に懇意になった男性から、「地下鉄構内の駅舎が素晴らしいと言われているので、地下鉄に乗りながら、ついでに”赤の広場”の下見をしてきませんか?」と誘われた。
自分はこの時、スーパーに行くだけが目的だったので軽装だった。 最初は「どうしようか…?」と迷ったが、こんな機会は滅多に無いので意を決して行く事にした。 スーパーに行くツアー仲間の最後尾につき、スーパー入り口の地下鉄乗り場の前で我々は”ドロン”した。 切符(確か、何処まで行っても50ルーブル程)を買い、東京駅の地下深い”内房線乗り場”程では無かったが、危ない程速いエスカレーターで地中深い乗り場まで我々は降りた。
現代においてその有効性は疑問視されるが、ロシアの地下鉄は、核攻撃を受けた際の”核シェルター”だと聞いた事がある。 プラットホームから地下鉄に乗ると、外国人と思しき人間は流石に我々だけであり、周囲のロシアの人達からはジロジロ見られはしたが”危険性”は全く感じなかった。所謂、犯罪の多発する”ニューヨークの地下鉄”といったイメージは全くなかった。”貧しい、下層の人達”といったイメージも無く、”少し混んでいる東京の地下鉄”といった感じであった。 しかし、ロシアの地下鉄の乗り換えは、「同じ番号なのにも拘らず、乗り場が違う。上り線と下り線がよく解らない?」といった塩梅で、ロシアの地下鉄に余程慣れていないと外国人が乗るには困難だった。 添乗員の村内さんは、多分そんな事から口を酸っぱくして「地下鉄に乗るのは、あくまでも自己責任でお願いします。」と言っていたのだと思う。
さて一方我々にあっては、ガイド代わりの仙台の彼は、”地球の歩き方”等で調べた地図を頼りににり場の番号や邦楽の検討をしたり、地下鉄の通過駅の確認をしたりしながら電車を選び乗り返して流石に目的の地下鉄駅に(それでも一つ手前の駅だったが)到着した。
それからが又、「あれは”ボリショイ劇場”だから、”赤の広場”はこちらだ。 此方が”グム百貨店”だ。」と歩き回り、我々は等々”赤の広場”まえにたどり着き、周囲の有名な建物や明日は巡らない建物などを観て回る事ができた。
迷いながら歩き回っている内は良かったが、落ち着いて下見の観光をして廻っていると、薄着の自分は流石に寒くなってきて「風邪でもひきはしないか?」と危惧したが、どうやら大丈夫だった。
その後も帰路では、「○○駅の構内は”素晴らしい!”という事なので寄っていきましょう。」と誘われて2駅程見学したが、そこは豪華なシャンデリアやレリ-フ等で飾られていて、さながら美術館や博物館の中にでもいる様な装飾で構内が飾られていた。
本当か嘘かは分からなかったが、ロシア政府により、「地下鉄構内での撮影は禁止!」と言う噂を聞いたことはあるが、少々撮影した我々が咎められることはなかった。
そんなこんなで我々はホテルに戻り、楽しい夕餉のビュッフェに間に合った。
明日は、ロシア旅行の最後の日「赤の広場」を中心とした観光の日となる。
(下は、セルギエフ・ポサードの中にあるパン屋。2段目がピロシキ)
(ホテルの窓から見たモスクワ市街地の風景)
(ホテルの窓から見たモスクワ市街地の風景)
(モスクワのホテル”ホリディ・イン・スシチェフスキー”の玄関)
(モスクワ市内からセルギエフ・ポサードまでの残雪が残る風景)
(モスクワ市内からセルギエフ・ポサードまでの残雪が残る風景)
(ホテルからの地下道への入り口)
(ホテル近くの地下道)
(ホテル近くの鉄道の駅舎入り口)
(ホテル近くの鉄道の駅舎の中)
(鉄道の駅舎の中)
(ホテル近くのスーパーマーケット)
(高速で地下深く移動する駅からホームまでのエスカレーター)
(赤の広場近くの『ボリショイ劇場』)
(赤の広場近くの『国立歴史資料館』)
(赤の広場への『ツインタワーの門)
(『グム百貨店』)
(『ワシリー寺院』)
(『ワシリー寺院』の裏側)
(地下鉄の構内)
(地下鉄の構内)
(地下鉄の構内の柱のレリーフ)
今回の、ロシア旅行最後の日となる3月30日(水)は、ホテルを9:30頃に出発して”赤の広場”へ向かった。
この日は、”モスクワ市内観光”という事だったが、バスの車窓からの見学が多く、入場及び下車観光したのは殆ど”赤の広場”周辺だけだった。
10:00頃に”赤の広場”前の駐車場に降り、「いざ!赤の広場へ向わん」としたところ、”赤の広場”での何かのイベントがあり、政府の要人の出入りがあったものか”立ち入り禁止”になっていた。
自分達は、前日に下見と言うより殆ど”赤の広場”観光を終えていたので焦らなかったものの、暫く外で待機していても状況が変わりそうも無かったので、手荷物検査を受けた後に一旦『グム百貨店』の中に入り、安くて美味しいソフトクリーム(50ルーブルだった。)などを食べながら時間待ちをしたが、暫くはどうにも入場できそうも無かったので、『グム百貨店』を一旦素通りをしてから”赤の広場”以外の観光をすることになった。
クレムリンの前での”衛兵交代(ベトナムの『ホーチミン廟』前での衛兵交代はこれを模したものではないのか?と思われた。)”の時間帯にタイミングが合っているという事で、先ずはこの見学をした。
衛兵たちは皆大柄で屈強そうであり、観光客を意識しての選抜なのか皆美男子が多かった気がする。 ベトナムでもそうだったが、交代は厳粛にそしてテキパキと行われて近寄り難かったが、あまりピリピリとした感じでは無く、行く手を遮る観光客への注意も先遣隊の軍人たちによって穏やかに行われた。
その後”赤の広場”に戻ると”入場制限”は解除されていて、我々は入場して『聖ワシリー大聖堂』や『レーニン廟』『スターリンの墓』等の簡単な説明を受けた。
『聖ワシリー寺院』とは、モスクワの赤の広場に立つロシア正教会の大聖堂。正式名称は「堀の生神女庇護大聖堂。
1551年から1560年にかけて、イヴァン4世(雷帝)が、カザン・ハーンを捕虜とし勝利したことを記念して建立した。ロシアの聖堂でもっとも美しい建物のひとつと言われる。1990年にユネスコの世界遺産に登録された。
ゲームソフト等で有名なテトリスでは、ロシア文化をイメージとした背景や音楽等がよく用いられており、聖ワシリイ大聖堂もしばしば背景画像やパッケージとして使われている。
それから、『レーニン廟』は”赤の広場”のクレムリンの城壁前に設置されており、廟の中に入場して冷凍保存されたレーニンの遺体を観る事が出来る。
やはりベトナムの『ホーチミン廟』の中にあるホーチミンの冷凍保存された遺体は、これを模したものと思われる。
一方、スターリンの墓は『レーニン廟』の外に左右に並んでいる、ソ連時代からの歴代の他の指導者の墓同様、『レーニン廟』のすぐ脇の一番最初の左側にぽつんと建っていた。
簡単な説明の後は”自由行動”となったが、約30分程の時間しか無く、『レーニン廟』に入場観光するつもりは無く、『国立歴史博物館』への入場観光するには時間が足りなくて、赤の広場前の写真撮影をする事で終わってしまった。
その後、我々は再度『グム百貨店』に入場し出発時間まで、思い思いの時間を過ごすことになった。
この時の時間は11:30頃であり、「昼食は各自でお取下さい。」という事になっていたので、3階にあるレストランに入ったところ、添乗員の岡内さんが居てコーヒーとピロシキ風の物を食べていた。 自分は、ロシアでの最後のランチという事もあって、この店の”サービスランチ”を食べる事にした。 少々固かったがマカロニ盛り合わせのハンバーグと白黒のパン、サラダ、野菜スープ、飲み物で合計が295ルーブル(約500円)で、ランチ以外の時間帯は450ルーブル(約750円)という事だった。流石にお腹はいっぱいになった。
ここのランチは人気があるようで多くの地元の人達も食べていた。
その後、昼食を終えた我々は13:30頃に”赤の広場”前を出発し、日本への帰国の為にドモジェドヴォ空港へ向かった。
空港へは14:00頃に到着したが、出発は17:15との事で大分時間があった。
空港の免税店には、空港内での限定品だという”ウオッカ”や、残されたルーブルの紙幣で小土産用のロシア限定の菓子類等を購入した。
モスクワからは、JAL0442便にて、予定通りドモジェドヴォ空港を17:15に離陸し、9時間20分程かけて飛行し、成田空港には08:25頃に到着。その後は何時もの通りANA3231便にて10:15に成田空港を出発し仙台空港11:20着。常磐自動車道で相馬に帰宅した。
※ ロシアは、自分の見る限りでは、国力とは別に、一部の人達を除いてその生活水準は身近な国と比較すると、アメリカや西欧諸国は勿論、日本や中国、韓国などよりも低いと思われ、
所謂”豊かな国”とはまだほど遠いように思われる。
歴史的にも前述の為政者からの搾取や略奪、圧政を受け、多くの虐殺に遭い、多くの人命を失っており、「ロシア革命」や、その後のソ連時代の政策の失政でも多くの餓死者や犠牲者を出していると言った悲惨な歴史を持っている。
そして、日露戦争でのロシアの敗北以前は「北方領土は自分達ロシアの領土だった。」という思いがあるのかも知れない。
今後におけるロシアという国との関わりは、簡単なものでは無く、日本としては真剣に取り組んで行くべきなのだと思う。
※ 毎回海外旅行から帰国して思う事は、自分にとっては勿論、
俯瞰的に見ても、諸々問題は多いが、今まで見てきたどんな国よりも「現在の日本ほど、安全で住みやすい国は少ないのではないか」という事だ。
※ 「ロシア革命」期の状況や”貴族階級の没落”、当時の”人々の暮らし”、そして厳しい環境での”ロシアでの生活”といったものを垣間見たい方は、映画『ドクトル・ジバゴ』を是非ご覧いただきたい。
(レンタルでもDVDで出ていると思う。)
(今回のロシア旅行での最後となる、ホテルでのディナー)
(今回のロシア旅行での最後となる、ホテルでの朝食)
(『聖ワシリー大聖堂』の裏側)
(『グム百貨店』の内部の様子)
(『クレムリン』前での衛兵交代の様子)
(『グム百貨店』の正門)
(『グム百貨店』前で警備する警官)
(『グム百貨店』のレストラン)
(『グム百貨店』のレストランのお品書き)
(『グム百貨店』のレストランでのランチ)
(ドモジェドヴォ国際空港内の免税店の一部)
(JAL0442便の機内食)
(JAL0442便の機内食で出たデザートのロシア製のアイスクリーム)
(JAL0442便で出た、2回目の機内食)
(ドモジェドヴォ国際空港内の免税店で購入した、空港内限定の”ウォッカ”)
【 2016年のロシア旅行記・完】
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