山陰方面(天橋立・城崎温泉・鳥取砂丘・松江・大山温泉・出雲大社・姫路城)旅行 - Latte

山陰方面(天橋立・城崎温泉・鳥取砂丘・松江・大山温泉・出雲大社・姫路城)旅行

  • 旅行期間: 2016/05/04 ~ 2016/05/08
  • 作成日:2016/07/17 16:25
/static/img/space.gif
1日目) 5月4日(水):JR仙台駅の東口から、23:40発の夜行バスにてJR東京駅八重洲口のバスターミナルへ向かう。 JR東京駅八重洲口のバスターミナル着は06:00頃。

2日目) 5月5日(木):JR東京駅八重洲口よりJR浜松町経由で羽田空港北ターミナルへ、
9:30発のJAL111便にて大阪・伊丹空港へ。
 バスにて日本三景の「天橋立」へ向かい、観光後は「城崎温泉宿泊(外湯めぐり)」

3日目) 5月6日(金):城崎温泉からバスにて「白兎海岸」を経由して「松江」観光後、
「足立美術館」を見学。 その後「大山温泉」泊。

4日目) 5月7日(土):「大山温泉」からバスにて出雲へ出発。 
「出雲大社」にて昇殿祈祷後にバスにて蒜山高原経由で兵庫県姫路市へ、「姫路城」への入場見学後にはバスにて大阪・伊丹空港へ。 伊丹空港より20:20発のJAL138便にて羽田空港着。
 羽田空港よりJR浜松町経由でJR東京駅八重洲口へ。
JR東京駅八重洲口のバスターミナルから23:30発の夜行バスでJR仙台駅東口のバス停へ。

5日目) 5月8日(日):JR仙台駅東口のバス停へは06:00頃到着。
2016
715
2016
55
2016
56
2016
55
2016
56
2016
55
2016
56
2016
57
2016
56
2016
57

 今週の木曜日に、業務の精算に向けての作業を開始しようとした際に”思わぬ違算”がある事に気付き、それが膨大な事案であったが為に予定の期日に間に合いそうも無く、今日は用事で相馬に戻らねばならず、「すわっ!これは7月17日(日)と7月18日(月)の2日間は休日出勤か…?」と思いきや、実はそれが違算では無く、残された作業も7月14日(木)だけで片付ける事が出来、予定通りの三連休を確保する事ができてほっとした週末となった。

 業務上、この様な事態はよく有る事である。


5月の連休に、2年前の『伊勢・奈良旅行』の時から行きたかった

「出雲大社」を始めとする山陰方面への旅行に出かる事ができた。

 この旅行企画は東京を起点とするものであり、自宅の相馬から山陰方面への旅行に行くには、相当に余裕のあるスケジュールを組まなければならず、今年3月初めの旅程への参加にはかなり強硬スケジュールを組まなければならず、「無理だ!」とあきらめた経緯があった。
 なかなかスケジュールがたたない中、5月の連休を挟んでやっと取ることが出来た今回の旅行の企画も、かなりの強行スケジュールとなり、案の定職場のレオパレスへの直帰後には風邪をひいてしまい、1日間の病欠を余儀なくされた。
 今後、今回と同じような強硬な旅程を組む旅行は出来ないだろうと観念した。

1日目)5月4日(水):相馬から職場のある宿舎に車を置き電車で仙台迄出た。

 夕食は「たんや善次郎」にて”牛タン定食”を食べ、翌日の昼食用に更に”牛タン弁当”を作って貰った。又 「くら寿司」にて翌早朝用の折詰を買い込んだ。 

(牛タン定食:牛タン、麦ご飯、とろろ、テールスープ)


 仙台駅の東口から出ている夜行バスにて23:30頃出発。東京駅八重洲口へと向かった。

2日目)5月5日(木):”リクライニングシート付の広々スペース”

と謳われてはいたものの、なかなか寝付けない車中での夜を過ごしながら、東京駅の八重洲口バスターミナルには06:00頃に到着。  待合室にて「くら寿司」にて翌早朝用の折詰を食べた。

 JR東京駅から浜松町駅経由でモノレールに乗り羽田空港第一ターミナルへと向かった。
 モノレールの車窓からは、かつて若かりし頃に過ごした品川や仕事場で通った平和島の海辺の風景が久し振りに目に飛び込んできて懐かしかった。
 集合場所である羽田空港第一ターミナル北ウィングの”時計台③”前には07:00頃到着。

(下の写真は、北ウィング搭乗口前の土産物店の様子)


 東京駅からは約1時間程だった。 集合の8:30には、必要なツアーバッジや航空券を受け取り、09:30発のJAL・111便にて大阪・伊丹空港へ出発した。今回の旅行の参加者は30名程だった。
 伊丹空港へは10:30頃に到着。 早速、ツアーバスの”滋賀観光バス”に乗り込み、日本三景の一つである「天橋立」へと向かった。 ”滋賀観光バス”は京都のバス会社であり、女性のバスガイドさんも京都のベテランガイドさんだった。
 車中での楽しみの昼食は勿論、仙台の「たんや善次郎」で買い込んだ”牛タン弁当”だ。 バスのシートは余裕があったので、自分を含む一人旅の旅客は男性の添乗員さんの配慮で二人用の座席を一人で独占出来、とても快適だった。

 午後の13:30頃に「天橋立」着。 『天橋立』は、勿論日本三景の一つであり、京都府宮津市の宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる砂州である。
 形成についての詳細には諸説ある。2万年前に宮津湾が完全陸地化して後、約7~8千年前に氷河期が終わって海面上昇が落ち着くなか当初水中堆積で発達が始まり、縄文時代の後氷期(完新世、約6千年前)に急速に成長し2〜3千年前に地震により大量に流出した土砂により海上に姿をみせ有史時代に現在の姿にまで成長したとされる。
 砂嘴の幅は20メートルから最長170メートルに達し公路となっている。宮津湾の西側沿岸流により砂礫が海流によって運ばれ、天橋立西側の野田川の流れから成る阿蘇海の海流にぶつかることにより海中にほぼ真っ直ぐに砂礫が堆積して形成されたとされている。

日本では、外洋に面さない湾内の砂州としては唯一のものであり、白砂青松を具現するかのごとく一帯には約8,000本の松林が生え、

東側には白い砂浜が広がる。

 天橋立の眺めは一般に下記のものが有名で、とりわけ斜め一文字と飛龍観は著名である。
① 南側からの眺望…飛龍観斜め一文字:北側の傘松公園からの天橋立の眺め。 斜め一文字に見える景観からその名がついた。
② 飛龍観:文珠山の山頂にある天橋立ビューランドから見る南側からの眺め。龍が天に登る姿に見えることからその名前がついた。
③ 一字観:西側の大内峠一字観公園からの天橋立の眺め。
天橋立が横一文字に見える景観からそのように呼ばれている。
④ 雪舟観:東側からの天橋立の眺め。
左に掲げた雪舟筆「天橋立図」が描かれたことが由来である。

 到着早々に、我々は先ず”飛龍観”を観るべく、文珠山の山頂にある天橋立ビューランドへケーブルカーで登頂した。我々は団体だったので、ショートカットができ、さほど時間を待たずに登頂できた。
 この日は”快晴”に近い程に天気が良かった。
「天橋立」は奇観であり、眺望も素晴らしかった。 展望台には「股のぞき台」と言うものが数脚設置されてあり、入れ代わり立ち代わりで賑わっていた。
 「天橋立股のぞき」とは、自身の股の間から顔を出し、逆さまにものを見る日本の民俗風習のひとつ。股屈み、股眼鏡とも言う。上下前後が全てアベコベとなる状況を体現したしぐさで、妖怪や幽霊にまつわる伝承や、日常空間と異世界との境界的役割を示唆する俗称などが多数残されている。
  日本三景のひとつとして知られる京都府の天橋立は、傘松公園や天橋立ビューランドからの股のぞき・袖のぞきが観光ポイントのひとつとなっている。

(下は、天橋立ビューランドからの”飛龍観”の展望)


(”股のぞき”体験。日本海にちなんで「凄いガニ~!」のポーズ?)


 天橋立は『丹後国風土記』にイザナギが天へ通うために作ったものとあるように、股のぞきを行うことで、天地が逆転し、細長く延びた松林が一瞬天にかかるような情景を愉しむことができる。

 これは吉田皆三によって明治後期ごろに観光事業活性化の一環として喧伝された手法で、観光客を通して広まったとされる。
 自分も試みてみたが確かに「天橋立」が逆さに見え、あたかも

”天空に橋が架かっている”かの様にも見え、後日その写真を見てみると、確かにそのようにも思えるが、なにせ観光客が列をなして入れ代わり立ち代わりの”股のぞき”であったので、あまり感慨にふける心の余裕が無かった。
 京都のバスガイドさんは、「ご自分の股から覗くんですよ。
人の股から覗いたら駄目ですよ!」と、すました顔で際どい事を言っていた。

 その後自分はケーブルカーにて下山し、天橋立への入り口にある『智恩寺』を見学した。『天橋山智恩寺』とは、京都府宮津市にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は天橋山(てんきょうざん)または五台山。「切戸(きれと)の文殊」、「九世戸(くせど)の文殊」、「知恵の文殊」とも呼ばれる。

 奈良県桜井市の安倍文殊院(安倍文殊)、山形県高畠町の 大聖寺(亀岡文殊)などとともに日本三文殊のひとつとされる。

 ”日本三景の天橋立”は、この寺を含んでのものと言われる。

(下は、智恩寺門前に建ち並ぶ土産物店)

(下は、智恩寺への参道)

(下は、智恩寺の仏塔)

(下は、智恩寺の本堂)

(下は、智恩寺の”知恵の輪”の案内)

((下は、水路入り口近くの智恩寺の”知恵の輪”))

(下は、智恩寺入り口の”由緒書き”)


 その後、智恩寺の入り口の右側から二つの橋を渡って天橋立に降り立ち、付近を散策してゆっくりとした時間を過ごした。
 智恩寺の入り口には、宮津湾と内海の阿蘇海を結ぶための水路に掛る”回転橋(行き来する船舶来ると、真中の橋脚を中心に橋が90度回転して船舶を左右から通すことが出来る橋)”と潮の干満での海水を通すための二橋が架かっており、この回転する橋を見物するのもまた一興である。

(智恩寺入り口の参道から「天橋立」へ渡る為の水路の”回転橋”)



(智恩寺入り口の参道から「天橋立」へ渡る為の二つ目の橋)

(橋を渡った右端が「天橋立」)

(下は、「天橋立」へ渡っての”日本三景”の碑)



 この宮津湾で獲れるイワシ(真鰯と片口鰯)のオイルサーデンが名物だという事で、自分は添乗員さんお奨めの真鰯のオイルサーデン二缶他を買い込んだ。 

(下の写真は、マイワシのオイルサーディン)


 「天橋立」でゆっくりとした後、我々はこの日の宿泊地である「城崎温泉」へと15:30頃に出発した。  御存知の様に、「城崎温泉」はつとに有名な温泉で、兵庫県豊岡市城崎町(旧国但馬国、旧城崎郡城崎町)にある温泉。平安時代から知られている温泉で、1300年の歴史をもつ。江戸時代には「海内第一泉(かいだいだいいちせん)」と呼ばれていて、今もその碑が残る。

※ 「城崎温泉」は、高校生の頃の”現代国語”の授業で、『城崎にて』という志賀直哉の短編小説を題材にして学んだ覚えがある。

「城崎温泉」には17:30頃に到着。
此処の温泉は歴史は古いが、”外湯”を基本とする温泉場なので、何処の旅館も皆小規模なために、我々旅客は4件の宿に分宿する事になった。

(下は、投宿した「つたや晴嵐亭」の入り口)


(下は、自分が泊った部屋”東山”)

(部屋の内部)


(自分の泊った宿は『つたや晴嵐亭』という『つたや』という老舗旅館の新館だった。(然しながら、宿の部屋は”旅館という旅をもてなす心休まる部屋”というにはあまりにも安普請で、隣室の夜中に流すトイレの音で何度も目を覚まして安眠できなかった。)

部屋に荷物を置き、先ずは湯船に入って疲れを取りたいと思い内湯へ向かった。
「それでもここ(つたや新館)の旅館の内湯(宿の湯)は大きい方ですよ!」と言うツアーバスの運転手さんと一緒になった内湯での入浴の後は夕食をとった。
 山陰では、3月の旬な時期には豊富に獲れる”松葉蟹”が必ず膳に出されるのだが、時期外れとあって代わりに”但馬牛の牛鍋”が出るとの事だった。  然し、予想外に膳には冷凍物ながら”松葉蟹”が付き、結構豪華な食事だった。

(下は、夕食のお膳)


 自分は、前日からの寝不足やらの疲れもあって、夕餉の旅仲間の殆どがそうである様に、ビールでも飲んで即休みたい気分だったが、皆さんと同じ様に日常の”ゴルフ”等の会話をしたりして寝てしまう気にもなれず、「折角の城崎温泉なので…!」と気を取り直して外湯巡りをすることにした。
 「つたや新館」は外湯の中心地からは少々離れていたが、外湯に出掛ける客が一人でもいればマイクロバスで夜遅くまで送迎してくれる。 夕食の後に、『外湯めぐり無料パス券』を首にぶら下げ、浴衣のままで掛けた。 温泉場の中心地で下車し、古き良き時代の情緒が残る温泉街を暫し歩いた。

(下は、散策時の温泉街の様子)

(旅館)

(土産物店)


(下は、ゲーム場)

(下は、土産物店の中の様子)


 (自分が若かった頃には、社員旅行などで静岡の「熱海温泉」や「伊東温泉」にはよく行ったし、仕事に疲れた時などは当時一心同体だった今はあまり見かけない2サイクルエンジンのマリンブルーの自動二輪車『カワサキA7(エーセブン)・305cc・通称:じゃじゃ馬』にまたがって、熱海等へ出掛けたものだった。

 ”愛車:じゃじゃ馬”は2サイクルエンジンで初速は遅く、ロードレースでは4サイクルのホンダのCB350やCB450にはついぞ勝てなかったが馬力があって、少々の坂道などはトップギアのままでトコトコと登ってしまうのだった。)

 前日で観光のピークが去った温泉街は、盆踊りが終わった後の様な、夏が終わった海辺の様な、自分が育った夜の港町の様な「何やら寂しげな…」情緒がかもし出されていた。 散策した夕暮れは、そんな寂しげな街の風情であったが、夜が更けると共に外湯巡りの観光客達が増えてきた。
 外湯は、宿の手前から「鴻の湯」「まんだら湯」「御所の湯」「一の湯」「柳湯」「地蔵湯」「さとの湯」の七湯あるが、自分はガイドさんお奨め「一の湯」から入り「地蔵湯」「柳湯」「まんだら湯」「御所の湯」の5湯に入湯した。

(下は、外湯めぐりの「一の湯」)

(下は、「地蔵湯」)

(下は、「柳湯」)

(下は、「御所の湯」)

(下は、外湯めぐりの「まんだら湯」の入り口)

(下は、外湯めぐりの「まんだら湯」の入り口正面)

(下は、外湯めぐりの無料パス)


 自分のお奨めとしては、先ずは「一の湯」で、小規模の温泉ながら泉質がピリッとしていて湯上り気分が満点。疲れが吹っ飛ぶ心地良さだった。次が「柳湯」で、「一の湯」と同じ様な感じで少々熱めの湯が好きな人にお勧めだと思う。その次が「御所の湯」で、広々とした脱衣所や湯船や洗い場等を備え、泉質も柔らかくゆったり出来る。但し、この外湯は人気がある為か多少混んでいた。
湯あたりがしそうだったので残念ながら七湯制覇は出来なかった。

 外湯の帰りには近くの「つたや(本館)」に立ち寄り、新館からの迎えのマイクロバスを手配して貰い休憩をとったが、この旅館の玄関の待合室には明治維新の立役者の「桂小五郎」の掛け軸や妻の「幾松」の書簡が多く展示されていた。
彼が幕府から”危険人物”とみなされ、捕吏から逃れてこの「つたや」に隠れ住んでいた時期があったのだという。

(下は、「つたや本館」の展示物)




(下は、「つたや本館」の展示物:幾松への書と伝う。)




 また、当時『竜馬がいく』を執筆中の司馬遼太郎もその桂小五郎の取材をするために同宿に投宿していたという事で、司馬遼太郎の書簡も展示されていた。

(下は、「つたや本館」の展示物。若き日の司馬遼太郎。)



 さらには、『つたや新館:晴嵐亭』にも志賀直哉が投宿していた事があるとの事で、彼の奥さんの葉書なども展示されていた。

(晴嵐亭に展示されている、「つたや本館」前の司馬遼太郎)

(晴嵐亭に展示されている、志賀直哉に関する書物や妻の手紙。)



3日目)5月6日(金):「つたや晴嵐亭」にて朝食後、城崎温泉を07:30頃に出発し、この日は「鳥取砂丘」→因幡の白ウサギで有名な「白兎海岸」を経由して国宝「松江城」を見学の後は「足立美術館」、そしてこの日の宿泊先となる「大山温泉」へという予定だ。 旅館の人達に見送られて出発。
 朝の城崎温泉は、思いのほか温泉場としての情緒が感じられた。

(下は、「晴嵐亭」での朝食)

(下は、朝の「城崎温泉」の街並み)






 小雨の中「鳥取砂丘」へは9:30頃に到着し、駐車場からのリフトに乗り砂丘に降り立った。
 鳥取砂丘(とっとりさきゅう)は、鳥取県鳥取市の日本海海岸に広がる広大な砂礫地で、代表的な海岸砂丘。山陰海岸国立公園の特別保護地区に指定されており、南北2.4 km, 東西16 kmに広がる。観光可能な砂丘としては日本最大で、一般が立ち入れないものも含めると青森県の猿ヶ森砂丘に次ぐ規模を誇る。1955年(昭和30年)に国の天然記念物に、2007年(平成19年)に日本の地質百選に選定され、伯耆大山と並んで鳥取県のシンボルの一つとされている。
砂丘への入り口で長靴に履き替え、海岸に盛上がる”馬の背”と呼ばれる砂丘まで歩いて登った。

 この日は小雨が時折降り注いだが、風も無く穏やかであり、観光客を乗せるラクダも見当たらず、時期的にも少々寂しげな情景ではあったが、これが冬場の日本海からの北西からの強風が吹き、吹雪が吹き荒れる様を想像するとさぞかし壮観であろうと思われた。

(下は、駐車場~砂丘間のリフト)

(下は、砂丘への入り口付近)

(下は、砂丘のメイン「馬の背」)

(下は、「鳥取砂丘」の碑)


 その後は神話『因幡の白うさぎ』の舞台といわれる白兎海岸。弓なりに連なる美しい白い砂の浜、沖合いに浮かぶのは白兎が渡ったとされる淤岐ノ島(おきのしま)、そして、神話どおりワニザメのような島の近くに点々と続く黒い岩礁を車窓見学した。


 松江には13:00頃に到着した。
我々は、土産物店兼レストランにて「十割出雲そば食べ放題」の昼食をとった。
 出雲そば(いずもそば)は、島根県の出雲地方で広く食べられる郷土料理の蕎麦。割子そば・釜揚げそば等がある。三大そばの一つ(ほかの二つはわんこそば、戸隠そば)。蕎麦粉を作るときソバの実を皮ごと石臼で挽くためそばの色は濃く黒く見え、香りが強い。最近は日本各地のそば粉が使われているが、本来は奥出雲町など地元産のそば粉を使う。
 我々が食べたのは”割り子蕎麦”であり、かつて岩手県で食べた”わんこ蕎麦”に似ていた。 ”出雲蕎麦”は見かけによらず大変美味しくて5杯ほどを食べたが、一緒に食べていた若い女性の旅仲間が、目の前で「嗚呼っ!」と言う間に5杯平らげたのには驚いた。

(下は、「出雲蕎麦」)


 国宝「松江城」は、別名・千鳥城。現存天守は国宝に、城跡は国の史跡に指定されている。この他に日本さくら名所100選や都市景観100選に選ばれている。
 平山城で江戸時代には松江藩の藩庁として、出雲地方の政治経済の中心となったが、明治時代初頭に廃城令によって存城処分(陸軍省所管)となったため、天守以外の建物はすべて払い下げられ撤去された。城跡は現在、松江城山公園として利用され、また、江戸時代初期建造の天守を有する城跡であり、天守は山陰地方の現存例としては唯一である。天守からは宍道湖を眺望できる。江戸時代まで遡り城郭建築の雛型が残っているのは8城あるが松江城はその1つである。 また国宝天守では唯一、江戸期からの雛型が残っている。

 自分は最初「松江城登城観光」を選んでいたが、少々疲れていたのと多少小雨が降っていたので、「松江城堀川遊覧船観光」に変更した。「松江城堀川遊覧船観光」は、ガイド兼船頭さんが懇切丁寧な説明と共に、松江の民謡を謡うなどしてゆっくりとした時間を過ごすことが出来た。

(下は、「松江城堀川遊覧船観光」の船乗り場)

(下は、「松江城堀川遊覧船観光」の遊覧船)

(下は、「松江城堀川遊覧船観光」の遊覧船の中)

(下は、「松江城堀川遊覧船観光」の遊覧船の中からの眺め)


 国宝「松江城」は、「松江城堀川遊覧船観光」から遠望できた。また、出発までに空いている時間に情緒ある城下町の観光をする等有意義な時間を過ごせた。

(「松江城堀川遊覧船観光」の遊覧船の中からの国宝「松江城」)



 その後、松江を14:30頃出発し、「足立美術館」を目指した。

 「足立美術館」へは15:30頃に到着。 17:00頃までのおよそ1時間半を、オプションのガイディングレシーバーを付けて説明を聞きながら見学した。館内のTVによるガイダンスを観た後に、多くの絵画や美術品等を観て回ったが、何と言っても圧巻は、美しくも見事な”庭園”だった。
 苔庭(こけにわ)、枯山水庭(かれさんすいてい)、池庭、白砂青松庭(はくさせいしょうてい)、等々時間のたつのも忘れさせるほどで、小粋な窓枠が一幅の絵の額縁に見立てる等の配慮に富んだ造りが成されていて、できれば持ち帰りたい位だった。

 「足立美術館」とは、島根県安来市にある、近代日本画を中心とした島根県の登録博物館。運営は、公益財団法人足立美術館。130点におよぶ横山大観の作品と日本庭園で有名。
 地元出身の実業家・足立全康(あだちぜんこう、1899年 - 1990年)が1970年(昭和45年)、71歳のときに開館したものである。質量ともに日本一として知られる大観の作品は総数130点にのぼり足立コレクションの柱となっている。

 大観のほかにも、竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂、上村松園ら近代日本画壇の巨匠たちの作品のほか、北大路魯山人、河井寛次郎の陶芸、林義雄、鈴木寿雄らの童画、平櫛田中の木彫なども収蔵している。
足立全康は裸一貫から事業を起こし、一代で大コレクションをつくりあげたが、その絵画収集にかける情熱は並外れたものであったらしく、数々の逸話が残されている。なかでも大観の名作『紅葉』と『雨霽る』(あめはる)を含む「北沢コレクション」を、1979年(昭和54年)に入手した際の武勇談は有名である。

(下は、「足立美術館」内の展示物と絵画の一部)


(間違って撮影した、本来は撮影禁止の絵画。伊東深水か?)


 足立美術館のもう一つの特色は、その広大な日本庭園である。庭園は「枯山水庭」「白砂青松庭」「苔庭」「池庭」など6つに分かれ面積5万坪に及ぶ。全康自らが、全国を歩いて庭石や松の木などを捜してきたという。 専属の庭師や美術館スタッフが、毎日手入れや清掃を行っていて「庭園もまた一幅の絵画である」という全康の言葉通り、絵画のように美しい庭園は国内はもとより海外でも評価が高い。 日本庭園における造園技法のひとつである借景の手法が採られ彼方の山や木々までも取り込んで織り成す造形美は秀逸である。

(下は、「足立美術館」内の、名園の数々。)












 米国の日本庭園専門雑誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』が行っている日本庭園ランキング(Shiosai Ranking)では、初回の2003年から2015年まで、13年連続で庭園日本一に選出されている[1][2][3]。2012年のランキングは日本国内約900箇所の名所・旧跡を対象にしたもので「庭そのものの質の高さ」「建物との調和」「利用者への対応」などが総合的に判断されたもので、とくに細部まで行き届いた維持管理が評価されている。
2015年のランキング上位5位は、1位・足立美術館(島根県)、2位・桂離宮(京都府)、3位・山本亭(東京都)、4位・養浩館庭園(福井県)、5位・御所西京都平安ホテル(京都府)。
 また、フランスの旅行ガイド『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』や『Guide Bleu Japon』にて、それぞれ三つ星(最高評価)を獲得している。

※ 常陸国水戸(現在の茨城県水戸市下市)出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した横山大観や、東京美術学校(現、東京芸術大学)第2代校長で近代日本における美術史学研究の開拓者で、英文による著作での美術史家、美術評論家としての活動、美術家の養成、ボストン美術館中国・日本美術部長といった多岐に亘る啓蒙活動を行い、明治以降における日本美術概念の成立に寄与した岡倉天心については、自分の故郷である福島県いわき市勿来町の隣の茨城県の県境近くの茨城県北茨城市大津町五浦にあった「茨城大学五浦美術文化研究所 - 岡倉天心の住居跡に設立。1955年に岡倉天心遺跡顕彰会より茨城大学に移管されたもの。旧天心邸(1904年)、六角堂(1905年)などが残されている。」には何度か訪れた事があった。
「足立美術館」は外観は大して大きくは見えずとてもあのような庭園や絵画や美術品類が詰め込まれているとは信じがたい程だった。

 その後我々は、17:00頃に「足立美術館」を出発し、大山温泉にある、この日の宿となる「大山ロイヤルホテル」へと出発した。
 ホテルに着いたのは、大体18:00頃だった。


 「大山ロイヤルホテル」は、国立公園大山の中腹、山陰観光・大山周辺観光の宿泊拠点施設として、地上12階・地下1階、客室数全219室、収容人数700名の規模を誇るハイグレードな白亜のリゾートホテルで、大山が一望できる部屋は、和室、洋室、スイートルーム、キャラクタールーム、備長炭いやしのルームとお好みに合わせて選べるす。また、ホテル内には、スカイレストラン

「マウントビュー」をはじめ中華、和食、いろり焼、麺処、バーベキュー、ショットバー、ティーラウンジ等多彩な店も並んでいる。

 部屋は9階の927号室で、セミダブルのベッドが二つのツインルームであり、前日の「晴嵐亭」とのあまりの違いに「この落差は、一体どういう事なんだろう?」と、驚くばかりだった。先ずは荷物を降ろして、ベッドに寝転がって一息ついた後に、地下一階へ下りて行き、大風呂に入ってゆっくりした。

(下は、「大山ロイヤルホテル」の927号室)



(下は、ホテルの部屋からの”境港”方向の眺め。)

(翌朝に撮影した、ホテルの大浴場)

(同じく、翌朝に撮影したホテルの露天風呂)


  その後は、夕食で2階でのビュッフェだったが、自分は事前に追加料金でのオプションのセットメニューを頼んでいた。

《夕食のオプションプラン》は、


①「日本料理」
【前菜】三種盛/【吸物】鯛の吸物/【造り】五種盛/【煮物】蟹東寺巻/【鍋物】ハタハタはりはり鍋/【蒸物】甘鯛若竹蒸し/【揚物】烏賊シュウマイ/【酢物】白魚生姜酢ジュレ/【食事】白御飯・香の物・赤出汁/【水菓子】ゼリー と、

②「フランス料理」
アミューズ/本日のオードブル/本日のポタージュ/本日の魚料理/お口直しのシャーベット/本日の肉料理/デザート/コーヒー又は紅茶 だった。

自分は女房とも相談して、「魚料理はある程度地元でも壁れるので、折角だからフランス料理」にしよう。」として申し込んであった。

(自分達は最初、女房同伴でこの旅行に参加する予定で申し込んだのだが、申し込んだ時点では「同伴者との旅行は閉め切られ、相部屋でのお一人様のみの受付だけになります。」との事だったので断念したのだったが、いざ旅行に出かけてみると”バスの座席”は空いており、”ホテル等の部屋”も相部屋では無く、『お一人様でごゆっくり!』の”余裕の”状態であり、返す返すも残念な事であった。)

 夕食は19:00からという事で、「日本食」は2階で、「フランス料理」は12階の”マウントビュー”でという事だった。
 マウントビューに入ってみると、そこは展望が開けた最上階で、この日も又翌日も見れずに、女性のガイドさんが口を酸っぱくして残念がっていた「大山」が、雲が多少かかっているとは言え席の後ろの窓から、夕映えにくっきりと見え、遥か西方には、これまた夕日を浴びながら境港市の街灯りが美しく瞬いていた。

(下は、12階の”マウントビュー”への入り口)

(後ろは夕闇に溶け込もうとする”マウントビュー”からの「大山」)

(下は、自分のテーブル)

(下は、ディナーのメニュー)


ディナーの最初は、

① ”アミューズ(お楽しみ)”という事で、日替わりのこの日は『スウィートコーンと小ジャガイモの野菜の付けあわせ』だった。 スウィートコーンの柔らかさと甘さが十分に味わえ、小ジャガイモに関しては、こんな小さいのにジャガイモとしての野生味が物凄く濃く、単なる野菜の煮物であるにも拘らず、厳選された材料を使ってのこんな味を引き出すシェフの料理の手際に舌を巻く思いだった。   

 厨房の奥で「お味は如何でしょうか?」と微笑んでいるシェフの姿が思い浮かんでくるようだった。(残念ながら、美味さにかまけて写真は撮れなかった。)


② ”本日のオードブル”という事で”厚めのローストビーフの上に粒マスタードと小トマトと香草乗せ”、”レンゲの様な器に乗った蛸のマリネ”、”人参と胡瓜のハム巻”、その他1品で、少量ながらどれも皆舌鼓を打たせる美味さだった。

(下は、オードブル)


③ ”アスパラガスの温度差スープ”という事で、シャンパングラスの下には冷たい緑のアスパラ、上には暖かい白アスパラのスープを入れ込んだもので、そのままグラスを傾けてゆっくりとスープを喉に流し込むと、白と青の温度差のあるスープが、丁度良い絶妙な温度と味で口中と喉に広がって来てこれまた「やられた!」と言う感じの絶妙な美味さであった。

(下は、”緑と白のアスパラガスの温度差スープ”)



④ ”銀鮭のポワレ・春菊リゾット添え”という事で、将にポワレ! それでなくても美味い銀鮭が、表面はカリッと、中身はジューシーで垂涎の一品だった。

(これも、食べるのに夢中で、写真を撮り忘れる。)


⑤ ”お口直しのシャーベット”という事で、直径が3cm程の丸い表面はミルクでコーティングされた様な中身は苺がベースのシャーベットだったが、それまでの口中に残った脂や味の口直しにはちょうど良い爽やかな味と美味さだった。

(下の中央が、シャーベット)


⑥ いよいよメインディッシュの”牛ホホ肉の赤ワイン煮込み”という事で、2種類のフランスパンと共に頂いたが、ホホ肉も少々歯ごたえのある肉と脂身の柔らかい肉(ステーキで言えばフィレとサーロイン)の二種類が入っており、それぞれの旨みが味わえてこれまた「絶品!」と言うほかなかった。

(下の右側が、”牛ホホ肉の赤ワイン煮込み”)


⑦ ”牛乳プリン”という事で、キウイをベースにしたプリンにラズベリーやオレンジやキウイの果肉が添えられていて、食後にはぴったりのデザートだった。

(下が、”牛乳プリン”)


⑧ 最後には、コーヒーを頂いた。


 これらのメニューは、早く遅くも無い絶妙なタイミングと、少々間を置く様な緩慢さ(おそらく此方の食事の進み具合を見て判断しているのだろう。)で運ばれてきて、タップリと時間(1時間半程)を掛けての食べさせ方にも感心した。

 食事は19:00前から始まり、コーヒーを飲み終えたのは20:30過ぎだった。(これらの絶品を食べさせたシェフも、さぞかしご満悦だろうと思う。)


 食べ終わった自分は、身(腹)も心も大変満足し、この人生の中での贅沢で優雅なひと時に感謝したが、それと共に妻を連れてこなかった事を大変後悔した。
 こんな優雅で贅沢な時間は、人生の中にそう多くあるものでは無いし、一人で味わうには勿体なく、自分が大事にする人と共有できなかった事はとても残念な事だった。


4日目) 流石に日本海とあってハタハタの焼き魚付の朝食を食べて、「大山ロイヤルホテル」を7:30頃に出発し、昇殿祈祷をするべく「出雲大社」へと向かった。

(これより、出雲の国に入る)


 国譲り神話の舞台でもあり、「伊那佐の小濱」(『古事記』)、「五十田狭の小汀」(『日本書紀』)などの名が見え、また稲佐の浜から南へ続く島根半島西部の海岸は「薗の長浜(園の長浜)」と呼ばれ、『出雲国風土記』に記載された「国引き神話」においては、島根半島と佐比売山(三瓶山)とをつなぐ綱であるとされ、ここに神々が集って翌年の『縁結び』外を話し合ったとされる「稲佐の浜(いなさのはま)」の車窓見学をしながら「出雲大社」に着いたのは09:00頃だった。 「出雲大社」は、2014年の3月の頃から是非とも来たかった場所だった。

(下は、「神々が集う」と言われる『稲佐の浜』)




※ 「出雲大社」は、式内社(名神大)出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠。
 古代より杵築大社(きづきたいしゃ、きづきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。 正式名称は「いづもおおやしろ」であるが、一般には主に「いづもたいしゃ」と読まれる。二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。 

(下は、「出雲大社」の案内板)

(下は、「出雲大社」入り口の拝殿前の”お祓い所”)


 創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。現在の宮司は84代国造千家尊祐で、國學院大學を卒業後太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格すると、2002年(平成14年)宮司に就任し翌年神社本庁より神職身分特級を拝受している。また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく黒綾にご神紋である二重亀甲剣花角の文様を練り込んだものであり他に類を見ない。現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。約60年に一度行われている本殿の建て替えに際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が公開されることがある。

(間もなく取壊される事になる、『仮殿』)


【 祭神 】
 大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。 1142年(康治元年)在庁官人解状に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記された。

 神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり、神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日 - 17日)。 …現地では神在月(かみありづき) 。

 出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、すべての神が出雲に出向くわけではない。そのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神様としてあらわれるほどに、全国的な信仰をあつめるようになった。

(下は、「大国主と因幡の白兎」像)


(下は、「大国主」像)




【 創建 】
 出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。
 大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
 高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)
 所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)
 神魂命が「「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)
 崇神天皇60年7月、天皇が「武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))(天穂日命の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。(『日本書紀』)
  垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)
  659年(斉明天皇5年)、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)

伝承の内容や大社の呼び名は様々であるが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。

【 本殿 】
 玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている。本殿内北西には御客座五神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神)が祀られている。 大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、正面である南側ではなく西側を向いている。これは本殿が古代の高床式住居とほぼ同じ構造になっているため、高床式住居における入口と最上席の配置と向きの関係から、御神座は西側を向くことになるためと考えられる。 天井には7つの雲の絵が描かれている。現在の本殿は1744年(延享元年)に建てられたもので、高さは8丈(およそ24m)と、神社としては破格の大きさである。

(下は、”お浄め所”)

(下は、本殿への参道)



(手前が拝殿で奥が本殿)



(この塀の裏側が本殿内の敷地)


【 神楽殿 】
 神楽殿 - 拝殿の西側、荒垣外に位置する神楽殿(かぐらでん)は明治12年の出雲大社教創始の際に、本殿とは別に大国主大神を祀ったことに由来する。

正面破風下に張られた長さ13m、周囲9m、重さ5tの大注連縄は日本トップクラスである。神楽殿では婚礼なども執り行われている。
 国旗掲揚台 - 神楽殿南側には高さ47mの国旗掲揚台があり、日本国内で最大の日章旗が掲げられている。旗の大きさは畳75枚分、重さは約50kgに達する。通常は朝掲揚され夕方に奉降されるが悪天候時にはこれを行わない場合がある。
「一月一日」歌碑 - 神楽殿東側には唱歌「一月一日」の歌碑が建っている(同唱歌を作詞した千家尊福は出雲大社第80代出雲国造である)。

(下は、5tもあると言われる大注連縄を持つ『神楽殿』)


(下は、5tの注連縄を神楽殿の中から外を写す。)


(下は、昇殿祈祷の際、”間違えた?”、撮影禁止の”神楽殿”の中。)


※ 「出雲」は、古代のロマンに満ちている。
大和朝廷によって日本国が統合される以前や過程の出来事が沢山隠されている。
 八岐大蛇退治の素戔嗚尊が祖先と言う説や、イザナギ(伊弉諾/伊邪那岐/伊耶那岐)やイザナミ(伊弉冉、伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥)との関わりも深そうにも思える。

「大国主大神」は、地方の豪族にとどまらない『大王』的な存在であったという事だ。 大和朝廷側からの命を受け、大国主へ『国譲り』の説得に出向いた朝廷の皇子が大国主という人物に惚れ込み、大国主に仕える事を懇願して受け入れられた話も残っている。

 かつての本殿は現状の倍ほどもあり、中古(平安時代)には16丈(48m)、さらに上古(神の時代の後、平安の前)には32丈(およそ96m)であった。という伝承があり、「ありえない!」と言われていたが、近年には直径が1.2m程の丸太を三本に束ねた柱の遺構が発見されており、それらの柱が何度も倒れて、その度に造り替えられたという記録がある。


 大国主へ『国譲り』の説得に出向いた大和朝廷側からの使者に対し、息子である『タケミナカタ』が「自分と相撲を取ろう。お前が勝ったら国譲りに同意する。」と言って相撲を取ったが負け、現在の長野県の諏訪地方に逃げ延びたという言い伝えがある。

 「諏訪大社」の祭神は諏訪大明神ともいわれる建御名方(タケミナカタ)神とその妃・八坂刀売神であり、他の諏訪神社もこの2神を主祭神とするほか、

  「諏訪大神」と総称することもある。諏訪大社より祭神を勧請する際には薙鎌に神霊が移され、各神社ではこれを神体としている。また、中世には狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟、漁業を守護する神社としても崇拝を受ける。

  これらは諏訪大社の山神としての性格を表していると言われる。


 諏訪大社では6年に一度、御柱(おんばしら)と呼ばれる4本の杭を立てる御柱祭が行われるが、全国の諏訪神社でも同様の祭が行われる。
この『御柱』は、出雲大社の本殿の柱が原型ではないかと言われている。
 また「伊勢神宮」等の大和朝廷系列の神社の”注連縄”は、神社に向かって右側から左側に巻き締められているが、「大国主」の系統の「出雲大社」や「諏訪大社」の注連縄は左側から右側に向かって巻き締められており全く逆なのである。
 そんな違いを織り交ぜながら、「出雲大社」を観て回ると面白いのである。

(過去の巨大柱の跡が発見された「八脚門」)



(下は、「八脚門」前の過去の巨大柱の跡。)



(八脚門前の『御朱印』発行所:2枚頂いた。)

(下は、各説明書き)


(下は、”八百万の神々たち”の宿舎)



(天照大神の子の天穂日命を祖とするとされる出雲国造家の家屋)



(「出雲大社」の裏側の門柱)


 「出雲大社」は全てが大きく、使用している材料は野太く、造りは壮大で圧倒されるものだった。

 「出雲」は、とても一日では廻り切れるものでは無かったが、時間は限られており、我々は11:00頃に出雲を出発し、途中『蒜山高原』に立ち寄るなどして、「姫路城」には15:00頃到着した。



 「姫路城」はご存じの様に、兵庫県姫路市にある、江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されている。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されている。また、ユネスコの世界遺産リストにも登録され、日本100名城]などに選定されている。別名は白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう)である。

・城郭構造:渦郭式平山城。 天守構造:連立式望楼型。 5重6階地下1階。

・築城主:赤松貞範。 築城年:1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)。

・主な改修者:黒田重隆・羽柴秀吉・池田輝政

・主な城主:小寺氏・黒田氏・池田氏・本多氏・酒井氏

・遺構:現存天守・櫓・門・塀・石垣・堀・土塁・庭園

・指定文化財:国宝(大小天守と渡櫓等8棟)

・国の重要文化財(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)、国特別史跡、ユネスコ世界遺産

・代表紋章:揚羽蝶

・名称の由来と別名:姫路城天守の置かれている「姫山」は古名を「日女路(ひめじ)の丘」と称した。『播磨国風土記』にも「日女道丘(ひめじおか)」の名が見られる。


※ 橋本政次『姫路城の話』では、別名「白鷺城(はくろじょう)」の由来として、推論も含め、以下の4説が挙げられている。
・姫路城が「鷺山」に置かれているところから。
・白漆喰で塗られた城壁の美しさから。
・ゴイサギなど白鷺と総称される鳥が多く住んでいたから。

・黒い壁から「烏城(うじょう)」とも呼ばれる岡山城との対比から。

(姫路城の”大手門”)

(大手門付近からの「姫路城」)



・屋根瓦・鯱(丸軒瓦と滴水瓦):建物や塀の屋根に用いられている鬼瓦や軒丸瓦などには、その瓦を作った時の城主の家紋が意匠に使用されており、池田氏の揚羽蝶紋、羽柴(豊臣)氏の桐紋、本多氏の立ち葵紋などがよく見られる。家紋の他には、桃の実(カの櫓、への渡櫓)、銀杏(井郭櫓)、小槌(への門)、波頭と十字(にの門)などが意匠に使用されている。  また、軒平瓦に滴水瓦が使用されているのは現存城郭では姫路城だけである。大天守に使われている瓦は昭和の大修理時に集計した約8万枚とされてきたが、平成の修理時に再集計したところ1割ほど少ない約7万5000枚であることが分かった。
 姫路市城周辺整備室では昭和の大修理での数字は葺き直した瓦の枚数ではなく取り外した枚数ではないかと推測している。

(大手門の次に、本丸へと続く中門)


(城造りを担った、各藩のリサイクル材)


(中門に入ってすぐに展示されている、実物大の『鯱(しゃちほこ)』)




・内曲輪の通路と門:内曲輪の通路は迷路のように曲がりくねり、広くなったり狭くなったり、さらには天守へまっすぐ進めないようになっている。
 本来の地形や秀吉時代の縄張を生かしたものと考えられている。門もいくつかは一人ずつ通るのがやっとの狭さであったり、また、分かりにくい場所・構造をしていたりと、ともかく進みづらい構造をしている。これは防御のためのものであり、敵を迷わせ分散させ、袋小路で挟み撃ちにするための工夫である。

(素直に通させてくれない、迷路のような道)









・本丸( 太鼓櫓と石垣。天守丸・備前丸):天守丸は連立した天守群によって構成され、天守南の備前丸には御殿や対面所があり池田氏時代には政務の場であった。御殿や御対面所などは明治時代に焼失している。
 姫路城の天守は江戸時代のままの姿で現在まで残っている12の現存天守の一つで、その中で最大の規模を持つ、まさしく姫路の象徴といえる建物である。

姫路城の天守群は姫山(標高45.6m)の上に建っており姫路城自体の高さは、石垣が14.85m、大天守が31.5mなので合計すると海抜92mになる。 天守の総重量は、現在はおよそ5,700tである。かつては6,200tほどであったとされるが、「昭和の大修理」に際して過去の補修であてられた補強材の撤去や瓦などの軽量化が図られた。天守内には姫路城にまつわる様々な物品が展示されている。

(下は、天守閣への回廊)


(下は、地階から最上階へ突き抜けている”大黒柱”)

(実戦向きの急な階段)

(下は、三階の案内板)

(下は、四階の案内板)

(下は、五階の案内板)

(実戦向きの急な階段)

(下は、最上階(六階)の天守)


(下は、天守からの眺望)


(下は、地階から最上階へ突き抜けている”大黒柱”)




(城内の”流し場”)

(下は、見事な漆喰で固められた瓦。「白鷺城」の面目躍如!)



(本丸下の、「番町皿屋敷」のモデルになった『お菊井戸』)



・西の丸:西の丸は本多忠政が伊勢桑名から移ってきた時に整備・拡張された曲輪。北端に位置する化粧櫓及び櫓群とこれらを結ぶ渡櫓(長局)が残っている。

(これより、『西の丸』へと入る。)



(下は、”西の丸”からの城下の眺め)

(下は、化粧櫓及び櫓群とこれらを結ぶ渡櫓(長局))

(下は、姫路城の変遷書き)


(下は、歴代の城主たち)






(下は、”近代の姫路城”の説明書き)



(下は、化粧櫓及び櫓群とこれらを結ぶ渡櫓(長局))


(姫路城の模型)



・渡櫓(長局):渡櫓の城外側は幅1間の廊下が「カの渡櫓」から「レの渡櫓」まで長さ約121間(約240m)に渡って連なっており「百間廊下」と呼ばれている。城外に向けて石落としや狭間、鉄砲の煙出しの窓も付設されている。

城内側は侍女達の部屋があり主室と付属室等に区分され長局を構成している。  昭和の大修理の際に、草花模様で彩色した痕跡のある柱が発見されている。


・化粧櫓:化粧櫓は、千姫が忠政の嫡男・忠刻に輿入れする際の化粧料10万石で1618年(元和4年)に建てられたものである。外観は二重二階、内部は畳が敷かれた座敷部屋が3室に区分され床の間がある奥御殿になっている。
戦前の修理までは、化粧櫓にはその名の通り当時の化粧品の跡が残っていたという。 千姫は西の丸内に設けられた中書丸(天樹院丸)と三の丸脇の武蔵野御殿に住んでいたが、いずれも現在は失われている。

※千姫(せんひめ)は、安土桃山時代から江戸時代の女性。豊臣秀頼・本多忠刻の正室。 父は徳川秀忠、母は継室の江。号は天樹院。

その生涯:慶長2年(1597年)4月11日、秀忠と江の長女として、山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれる。慶長8年(1603年)に7歳で秀頼と結婚し乳母の刑部卿局とともに大坂城に入る。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では祖父・徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。その後、秀頼と側室の間の娘・天秀尼が処刑されそうになった時に千姫は彼女を自らの養女にして命を助ける。

 元和2年(1616年)、桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。この時、津和野藩主・坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は家臣により殺害され、それを直盛が自害したように見せかけたが、坂崎家は改易処分となった(千姫事件)。

 同年9月26日に桑名城に着いた。この時に10万石の化粧料を与えられたといわれる。翌年の元和3年(1617年)、本多家が播磨姫路に移封になった時には8月28日に桑名を発って姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになる。翌元和4年(1618年)には長女・勝姫(池田光政正室、池田綱政生母)、元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれた。しかし、元和7年(1621年)に幸千代が3歳で没したのを始め、寛永3年(1626年)には夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。江戸城に入り、出家して天樹院と号す。 出家後は娘と2人で竹橋御殿で暮らした。寛永5年(1628年)に勝姫が父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。池田家に嫁いだ一人娘のことを心配し、「天樹院書状」を送っている。

(下は、”化粧櫓”にある「千姫」の”説明書き”) 




 寛永9年(1632年)、父・秀忠が薨去。寛永16年(1639年)、光政と勝姫の嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。
知恩院の千姫の宝塔:寛永20年(1643年)、鎌倉の東慶寺の伽藍を再建する。正保元年(1644年)には家光の厄年を避けるために江戸城から移った弟・徳川家光の側室・夏(後の順性院)とその後生まれた家光の三男・綱重と暮らすようになる。このことで大奥で大きな権力を持つようになったとされる。

  寛文5年(1655年)の越前松平家(福井藩主・松平光通)の婚姻に関して、嫁側である越後高田藩の勝姫(千姫の妹、越後高田藩主松平光長の母)に依頼されて、幕府に対して介入を行った。明暦3年(1657年)の明暦の大火で竹橋の邸が焼失した時には、叔父の徳川頼宣(紀州藩主)の屋敷に一時寄留する。

 寛文6年(1666年)2月6日、江戸で死去。享年70。
姫路城での千姫の生活は、愛する夫と子供を得て、暫し幸せであったという。

『白鷺城』と言われる由縁の白さは石垣と屋根瓦を繋ぐ為の漆喰の色だという。
 この漆喰の塗替え作業には膨大な時間と費用を必要とし、15万石の姫路藩の財政を逼迫させたというが、これは徳川幕府の命で行われたとの事だった。

 この日の「姫路城」は、この漆喰の塗替え作業が終わったばかりで、確かに白く美しかったが、バスガイドさん曰く「この時期の姫路城を、”白過ぎ城”というのですよ!」との事だった。


(どの角度から見ても美しい、「白鷺城」の建ち姿)










「姫路城」観光は、15:00~17:00までのおよそ2時間程だった。
観光を終えた我々が、大手門から外に出ると、そこでは多くの女子高校生達が、『熊本地震災害』で被災した人達への募金を大声で呼びかけていた。  こういった若い意志と力が、これからの世界を支えて行くのである。 多少間違えも良いから、どしどし力を発揮して行って欲しいと思うのである。

 『姫路城観光』を終えた我々は、17:00過ぎにバスに乗って大阪・伊丹空港へ向かい、20:20発のJAL138便で羽田空港へは21:30頃に到着し、再びJR浜松町経由でJR東京駅へ、そして八重洲口のバスターミナルから23:30頃出発の 夜行バスにて、翌朝5日目の06:00頃に仙台に帰り着いた。

           【 旅行記・終了 】

  • ※ボタンを押すとコメントを投稿します。
 

 旅の地図

LATTE TRAVELに関しての機能要望・ご意見はこちらからどうぞ