今年の夏はスペインの南北縦断の旅の企画があり参加。
出国は8月8日(月)、帰国したのは8月15日(月)の8日間の旅だった。
言うまでも無くスペイン王国は、ヨーロッパ南西部のイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める立憲君主制国家。首都はマドリード。
正式名称は特に定められていないが、1978年憲法ではスペイン語で、España:エスパーニャや、Estado Español(エスタード・エスパニョール)などが用いられている。(写真は、アントニィ・ガウディが設計した『サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)』)
【歴史】
紀元前500年から紀元前300年頃にフェニキア人とギリシャ人が地中海沿岸部に植民都市を築いた。ポエニ戦争の過程でカルタゴが一時的に地中海沿岸部の大半を支配したものの、彼らは戦争に敗れ、ローマ人の支配に代わった。
415年頃、西ゴート族が南ガリアに西ゴート王国を建国し、418年頃に最終的にヒスパニア全域を支配した。552年には東ローマ帝国もジブラルタル海峡の制海権を求めて南部に飛び地のスパニアを確保し、ローマ帝国再建の手がかりにしようとした。西ゴート王国治下の589年にトレド教会会議が開催され、国王レカレド1世がそれまで西ゴート族の主流宗旨だったアリウス派からカトリック教会に改宗し、以後イベリア半島のキリスト教の主流はカトリックとなった。
イスラームの支配:711年に北アフリカからターリク・イブン=ズィヤード率いるイスラーム勢力のウマイヤ朝が侵入し、西ゴート王国はグアダレーテの戦いで敗れて718年に滅亡した。この征服の結果イベリア半島の大部分がイスラーム治下に置かれ、イスラームに征服された半島はアラビア語でアル・アンダルスと呼ばれようになった。
『アル・ハンブラ宮殿』内のイスラム式庭園
イスラーム支配の終焉と統一:レコンキスタ(再征服運動:Reconquista)は数百年にわたるスペイン・キリスト教諸国の拡大であった。キリスト教勢力の勝利によって北部沿岸山岳地域にアストゥリアス王国が建国された。
キリスト教諸王国は1085年にトレドを奪取し、その後キリスト教諸国の勢力は半島の北半分に及ぶようになった。12世紀にイスラーム勢力は一旦は再興したものの、13世紀に入り、1212年のラス・ナバス・デ・トローサの戦いでキリスト教連合軍がムワッヒド朝のムハンマド・ナースィルに大勝すると、イスラーム勢力の南部主要部がキリスト教勢力の手に落ちることになった。
スペイン帝国:1516年、ハプスブルク家のカール大公がスペイン王カルロス1世として即位し、スペイン・ハプスブルク朝が始まる。カルロス1世は1519年に神聖ローマ皇帝カール5世としても即位し、ドイツで始まったプロテスタントの宗教改革に対するカトリック教会の擁護者となった。
スペイン帝国はその最盛期には南アメリカ、中央アメリカの大半、メキシコ、北アメリカの南部と西部、フィリピン、グアム、マリアナ諸島、北イタリアの一部、南イタリア、シチリア島、北アフリカのいくつかの都市、現代のフランスとドイツの一部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダを領有していた。
(最近終わった、日曜23:00からNHKで放映されていた『マスケティアーズ(パリの四銃士) 』を観ても分かるように、当時のスペインは強大であり、イギリスのエリザベスⅠ世やフランス国王の王権、そしてその生命さえをも脅かすほどのものであった。)
植民地からもたらされた富によってスペインは16世紀から17世紀のヨーロッパにおける覇権国的地位を得た。
16世紀末から17世紀にかけて、スペインはあらゆる方面からの攻撃を受けた。
1588年、アルマダの海戦で無敵艦隊が英国に敗れて弱体化を開始。
これらの戦争はスペインの国力を消耗させ、衰退を加速させ、 スペインの黄金時代は終わりを告げた。
斜陽の帝国:1789年にフランス革命が勃発すると、1793年にスペインは革命によって成立したフランス共和国との戦争(フランス革命戦争)に参戦したが、戦争で敗れて1796年にサン・イルデフォンソ条約を結び、講和した。その後スペインはイギリス、ポルトガルに宣戦布告し、ナポレオン率いるフランス帝国と結んだスペインは、フランス海軍と共に1805年にイギリス海軍とトラファルガーの海戦を戦ったものの惨敗し、スペイン海軍は壊滅した。
第二次世界大戦終結後、ファシズム体制のスペインは政治的、経済的に孤立し、1955年まで国際連合にも加入できなかった。しかし、東西冷戦の進展とともにアメリカはイベリア半島への軍事プレゼンスの必要性からスペインに接近するようになり、スペインの国際的孤立は緩和した。
王政復古から現在:1975年11月22日にファシズムで独裁のフランコ将軍が死ぬと、その遺言により フアン・カルロス王子(アルフォンソ13世の孫)が王座に就き、王政復古がなされた。フアン・カルロス国王は専制支配を継続せず、スペイン1978年憲法の制定により民主化が達成され、スペイン王国は制限君主制国家となった。
※ 平成5年に自分が行った『ヨセミテ・グランドキャニオン・アメリカ8日間の旅』でも書いたが、15世紀半ば~17世紀半ばの所謂”大航海時代”は、ポルトガルと共に海洋国家であったスペインが南北アメリカに与えた影響は膨大なものであり、特に南アメリカ大陸における征服行為は、かつてロシア東端のチュクト半島とアラスカが地続きだった大昔に、陸伝いや船で渡って来たのであろうと言われている我々日本人と同様のモンゴロイド系のアメリカ先住民(ネイティブアメリカン又はアメリンディアン、インディアンとも言われる)を駆逐し、中南米大陸の「アステカ文明」や「マヤ文明」、「インカ文明」を滅亡させた。
北アメリカにおいてはフロリダ半島を皮切りに、ジョージアを通り、西部に近いテキサスに入った。 また、別動隊はフロリダ上陸後アパラチア山脈を北上し、ミシシッピーを渡り西のオクラホマまで探検した。 他の別隊は西海岸から探検を行い、メキシコシティを北上してアリゾナに入り、グランドキャニオンを発見しカンサスに到達した。 他の隊はコロラド川に入り、サンフランシスコ湾の北まで行ったという。
アメリカ合衆国の西部諸州には「ロス・アンジェルス」、「サン・フランシスコ」、「シェラ・ネバダ」、「ラス・ヴェガス」等のスペイン語の地名が多い。 私の平成2年の茨城県水戸市在住の頃の英語教師で、日本人男性と結婚し、社会人の息子さんがいた「ダーナ・フランシス・ステラ(星の意)・ハラタニ」さんも、カリフォルニア生まれのスペイン系の人だった。
そして、当初はアメリカ大陸の東海岸沿いの ①ニューイングランド植民地群;ニューハンプシャー;マサチューセッツ;ロードアイランド;コネチィカット、②中部植民地群;ニューヨーク;ニュージャージー;ペンシルベニア;デラウェア、③南部植民地群;メリーランド;バージニア;ノースカロライナ;サウスカロライナ;ジョージア、等のイギリス13州植民地から始まった”アメリカ合衆国”は、その後の独立戦争を経て、”フロリダ購入”、”ルイジアナ購入”、”オレゴン領有”、”テキサス併合”、”ネバダ・アリゾナ・ニューメキシコ・カリフォルニア等のメキシコからの割譲”等を経て、現在の”アメリカ合衆国”の姿になった。 その他スペインやフランス、オランダ等とのアメリカ大陸での戦争で勝ち取った領土も多い。
現在でも、アメリカ合衆国には州独自の兵隊がいたり、州法に重きが置かれたりして州の権限が強いのは、元来が別の邦(くに)であったともいえる”州”が、自分達の権益を守る為のものなのであろう。
【大陸への移民】
大陸に渡ったアメリカ人は、”選民思想”ともいうべき「明白な天命(マニフェスト・デステニー:自分達がアメリカ大陸を発見し、それらを手中に収める事は天命である…と言う考え方。)」をスローガンを基に奥地への開拓を進め、”例え貧民でも、自らの労働で土地を得て、豊かな暮らしを手に入れる事が出来る。”という文化を醸成して、「自由と民主主義」理念の源流を形作っていき、その成功が誇張を含めて旧大陸に伝わり、更なる移民を誘発する事ともなった。
【アメリカ独立】
北米大陸がヨーロッパ諸国の支配を受ける中、イギリスと13植民地との間で経済・租税措置をめぐって対立が生じた。
1775年に「アメリカ革命(独立戦争)」が勃発し、13植民地は1776年7月4日(独立記念日)に「独立宣言」を発表し、イギリス優位を崩すためにフランスと同盟を締結した。当時は北アメリカ東海岸のほんの一角だった13植民地が勝利すると、1783年にパリ条約が結ばれ、【アメリカ合衆国】として正式に独立した。そして13州に加えてミシシッピー以東と、五大湖以南をイギリスから割譲させた。
【西部開拓】
『北西インディアン戦争』の勝利により、1795年に北西部を手に入れる。 更に未開の地であった西部への勢力拡大を目指し、1803年にはフランス領ルイジアナ買収、1919年のスペイン領フロリダ買収、1836年のメキシコ領テキサスでの『テキサス共和国樹立』とアメリカ合衆国への併合(映画”アラモの砦”やデイビィ・クロケット等の奮闘が有名)。 1846年の米墨(メキシコ)戦争による『ニューメキシコ』の割譲により、領土は西海岸に達し、現在の”アメリカ本土”と呼ばれる北米大陸エリアを確立したのであった。
※ アメリカ先住民(「インディアン」と一括りに呼ばれることも多いが、実際には多くの部族が存在し、また部族に固有の文化形態や社会様式を持つことから、さまざまな時期にさまざまな経路を通って段階的に渡来した人々の末裔であると考えられている 。
インディアンの人権は近代化の名のもとに踏みにじられてきた。)は、土地の搾取や虐殺、貧しい土地への強制移住等悲惨を極めた。
※ 自分が知る限りにおいて、アメリカドル紙幣に描かれている人物でも、100ドル紙幣のベンジャミン・フランクリン、10ドル紙幣のアレクサンダー・ハミルトン以外の人物は、南北戦争でその名を馳せた、50ドル紙幣の第18代ユリシーズ・グラント、20ドル紙幣の第7代アンドリュー・ジャクソン、5ドル紙幣の第16代エイブラハム・リンカーン、2ドル紙幣の第3代のトマス・ジェファーソン、そして1ドル紙幣の初代大統領ジョージ・ワシントンをも含めて、
彼等はその政策故に大統領になり、またはアメリカ合衆国大統領になったが故に、アメリカ先住民封じ込め等に関して、多くを関わった人達である。
本多勝一氏の著書『アメリカ合”州”国』は、”USA”の日本での命名、”アメリカ合衆国”を黒人やネイティブアメリカンを中心に取材してスポットライトを当てたもので、”差別や貧困”等のアメリカ合衆国の現実を描き出して、「アメリカという国家は、それぞれの人種(民衆)が溶け合って一つの社会を築いている理想的な”民衆の国家”とは言い難い。 人種(民衆)は分離され、不平等なままにある。
単に”州”が寄り集まっただけである。
(故に、こういった現実を改め、より平等な社会にするべく、政治家たちは努力しなければならない。)」という主張なのだろう。
現在の中国やロシアと同様に、アメリカ合衆国という大きい国は、事を決するにあたって、躊躇したり弱腰だったりでは国全体の体制を維持する事は出来ないのであろう。 言わば、”銃”で勝ち取って国土を形作ってきた、1776年7月4日の『独立宣言』から僅か240年の若いアメリカ合衆国は、未だに臨戦態勢にあると常々感じる。
以前に観た映画で、ショーン・コネリー主演の『風とライオン』の様に、たとえ相手国内にあっても、国益の為とあれば命令一下に躊躇なく、まるで事務的に見えるほどに戦端を開いて戦う海兵隊の有様はアメリカ合衆国の成り立ちと無関係では無い様な気がする。
現代のアフガニスタンやパキスタン、対テロ等の戦いを見ていても、いざ戦いの戦端を開くのに、全く躊躇は無い戦い方である。
また、映画『真昼の決闘』や『OK牧場の決闘』でお馴染のワイアット・アープが、バージルやモーガンの兄弟保安官たちや友人のドク・ホリディと共に、リンゴー・キッドを擁する”カウボーイズ”達と銃撃戦を繰り広げたのは1881年の事であり、彼がロス・アンジェルスで死去したのは1929年1月13日と言われる。
僅か、いまから87年前の事なのである。
未だに、アメリカ合衆国の銃社会が続いている所以でもある。
(アメリカ合衆国に関する記述が長くなったのは、その成立にスペインが多くを関った事と、常に我が日本はもとより、世界にとってその影響力が最も大きく、無視できない現実があるからである。)
※ スペインへ出発したのは8月8日(月)。 仙台発07:45のANA3232便に便乗したが、実際の出発は大幅遅れの08:00過ぎ。
これは、この便の乗客が遅れた事と、出発手続きの係員のあまりの対応の緩慢さ由縁であった。 便乗してからも更に遅延客を待つ事15分程。合わせて約30分程の遅れである。 成田空港着は9:15頃であった。 ANAの到着は第一ターミナルビルである。
荷物を受け取って周回バスに乗りフィンエアの第二ターミナルへ向かい、旅行会社のカウンターに飛び込んだのは9:50頃だった。
出発が11:00だったので、自分一人の為に心配して待ち構えていた添乗員さんとフィンエアの搭乗手続きをしたのは1時間前ぎりぎりの時間だった。
ともあれ、先ずは受け付けを済ませ、搭乗までは少々時間があったので何時もの両替所へ行き約2万円程をユーロに両替した。
後はカードで決済をするつもりだった。一安心したら腹が空いたのでターミナル内のファーストフード店で朝食をとった。
(写真は、5€(ユーロ)と10€紙幣)
EUへの旅は今回が初めてだった。 航空会社はフィンエア。
成田空港を出発し、フィンランドのヴァンターにあるヘルシンキ国際空港へ向ったのは、ほぼ定刻通りの11:00発AY0074便だった。
日本からヨーロッパ方面への旅をするには便利な距離や位置にあり、政治的な意図も絡んでヘルシンキは最近、ヨーロッパへの中継基地としてその利用度が高くなっているとの事である。
(出発前のフィンエア)
(フィンエアでの一回目の食事)
(フィンエアでの二回目の食事)
1日目:8月8日(月)、成田~ヘルシンキ間の所要時間は約10:20程だった。
前述の様に、フィンエアのシートは前後にゆとりがあり長い飛行時間の割には疲労が少なく、殆どは前部シートのディスプレイモニターで映画などのビデオを観て過ごした。
ヘルシンキ空港へは15:20頃に到着。ここでEUへの入国手続きを行った。後は、同じEUであるスペインなので搭乗時の手荷物検査はあるが入国手続きは無し。
ヘルシンキ空港からスペインのマラガへの乗継便は同フィンエアの20:30発のAY0735便しか無く、我々旅仲間はこの空港で搭乗手続きまでのおよそ3時間半程をこの空港内で免税店へ行ったり、食事を取ったりしたりして過ごした。
此処で一旦空港を出て街に出る事も出来たが、再度入国審査を受けなければならず、厳しいヘルシンキ国際空港の入国審査を受ける気が無いらしく誰も空港を出なかった。
ヘルシンキ空港からは20:30発のフィンエア:AY0735便にてスペインのマラガへ向かった。ヘルシンキ~マラガ間のフライトでは、コーヒー、水、ジュース等のソフトドリンクは無料だが、アルコールやスナック類は有料だった。
マラガ空港着は00:00頃。 そこからバスで1時間半程バスに乗り、ミハスのホテル(TRH MIJAS)に着いた。
(写真は、早朝の”ホテル・ミハス”)
ミハスは、スペインの最南端のジブラルタル海峡に近いアンダルシア州マラガ県の自治体で、コスタ・デ・ソルにあり、リゾート地とも言える”白い村”の中心的な街として、スペイン有数の観光地であり、経済は主に観光によって成り立っている。何故この地が初日の宿泊地になったのかは、時間の関係は勿論、2日目の観光地である”グラナダ”に近い事と、地中海沿いの風光明媚な場所に加えて、素敵な佇いの白壁の家々に囲まれた人生や旅の疲れを癒すにはもってこいの場所だからなのだと納得した。
2日目:8月9日(火)、6:30頃のモーニングコールで起床。
機中で、睡眠は嫌と言うほど取ったので眠くは無かった。
そして今回も、”時差ボケ”という感覚は一切なかった。
子午線(経度)は、スペインはロンドン(世界標準時:日本よりも9時間遅れ)よりも西に在りながら、歴史的なつながりや利便性等から西ヨーロッパ(イタリア・ドイツ・フランス等)時刻を採用しているので、日本との時差は-8時間(サマータイム:-7時間)だった。
部屋はフロントから2階下だったので、未だ薄暗いフロントに上りベランダに出てみると、海沿いの街灯りと地中海を行き交う大型船の灯りが見えてとても美しい景色であった。
(”ホテル・ミハス”のベランダからの地中海方面の眺め)
(”ホテル・ミハス”の玄関前にて)
ビュッフェ方式の朝食を済ませ、我々はホテル前からバスに便乗し、約2時間程をかけて”レコンキスタ(キリスト教徒による失地回復戦争”完了の地であるグラナダにある『アルハンブラ宮殿』へ向かった。
グラナダは、スペイン・アンダルシア州グラナダ県のムニシピオ(基礎自治体)。グラナダ県の県都。 かつてはイベリア半島最後のイスラム王朝ナスル朝グラナダ王国の都であり、壮麗なアルハンブラ宮殿が有名。
シエラネバダ山脈が抱える「ベガ」と呼ばれる肥沃な平野を基盤にして栄えた。
『アル・ハンブラ宮殿』には11:00頃に着いた。前述したように、”アル・ハンブラ”とは”赤い城”という意味で、「赤い大地の上に築かれたからだ」とか、「篝火を赤々と焚いて夜を徹して城を築いたからだ」と言われている。
途中の車窓からは、乾燥した大地に植えられた数多くのオリーブ畑や、乾燥した大地に強いサボテン類が多く見受けられた。 スペインと言う風土より、西部劇や「快傑ゾロ」といった映画やその他の映像で”メキシコ”の大地に馴染みがある自分としては、当初、その風景はあたかも”メキシコ”の大地を観ている様な間隔であった。 その後に訪れた各地に行ってみても、かほどにスペインの風土は自分が知っているメキシコの風土に酷似していた。 そのことは逆に、元々風土が似ていたメキシコという土地を支配したスペインが、メキシコを建物や文化等も含めて”スペイン化”したという事なのだろうと理解した。
『アルハンブラ宮殿』は、ウマの背のような形をした丘は頂上部が長さが740m 、幅 205 m にわたって平坦になっており、夏場非常に暑いと言われるグラナダの中でもとても涼しい場所に位置している。
宮殿と呼ばれているが城塞の性質も備えており、その中に住宅、官庁、軍隊、厩舎、モスク、学校、浴場、墓地、庭園といった様々な施設を備えていた。
建築の材料には、レンガ、木材、練土などのもろいものが多く、彫刻を施した石材などは最低限しか使用されていない。アルハンブラ宮殿の中心は、いくつかの建造物に囲まれた中庭(パティオ)におかれ、他のイスラーム建築の例に倣っている。
アルハンブラ宮殿は現在スペイン屈指の世界遺産であり世界中からの観光客が訪れる名所となっているが、これが元はスペインに屈服させられたイスラム教徒の宮殿であるということは象徴的な意味を持っている。即ち、現在のスペイン国家は公式にはレコンキスタの過程で、それまでのイスラム的な文化を払拭(カトリック教会側から見れば浄化)して建てられたカトリック教国であるが、現実にはスペインをスペインたらしめる数多くの文化がイスラムにその多くを負っているということである。
スペインを訪れるイスラム教徒たちは、このアルハンブラを他の誰にも増して特別な気持ちで見るという。彼等にとってアルハンブラはイスラム=スペイン(アル=アンダルス)の象徴であり、イスラムの支配と信仰が砕かれてもなおスペインに残った輝かしい遺産なのである。
(写真は、”アルハンブラ宮”への入口)
前述の様に旅行中は殆ど快晴で、暑くはあったが湿度が少なく空気はカラッとしていて快適だった。 スペイン屈指の観光地とあって現地は世界各国や各方面からの旅行客でごった返しており、入場も順番が決められてた。 我々のグループも2班に分けて入場見学をした。
我々は、①カルロス5世の噴水、②裁きの門、メスアール宮(メスアールの間・黄金の間・マチューカの中庭)、③コマレス宮(アラヤネスの中庭・水鏡・アリカタード”モザイク”・バルカの間・大使の間(広間の天井・アラベスク模様・漆喰細工・アラブ装飾書体)、④ライオンの中庭(ライオンの噴水・諸王の間・二姉妹の間・リンダラハのバルコニー)、⑤パルタル(貴婦人の塔・庭園)、⑥ヘネラリーフェ(果樹園・ポロの中庭・アセキアの中庭・水の階段・ロマンティシズムのバルコニー・糸杉の散歩道)等を1時間余りをかけて入場観光した。
『アル・ハンブラ宮殿』内のイスラム式庭園
『アル・ハンブラ宮殿』の建物群
(建物内のアラベスク)
『アル・ハンブラ宮殿』内の”ライオンの庭”
『アルハンブラ宮殿』は総じて水や噴水をふんだんに使用した庭園やアラベスク(アラビア紋様)の室内装飾が素晴らしかったが、観光客が多すぎてゆっくりとした時間が取れずそれが残念だった。”アルハンブラ宮殿の想い出”というギターの名曲があり、かつては”ナルシソ・イエペス”の見事な演奏をよく聴いたが、夏が終わった初秋の今、改めてその曲を聴くと心に沁み込んでくる…。)
その後我々は、近くの街のレストランで昼食をとった。
メニューは、①赤いガスパッチョ(発祥の地はスペインのアンダルシア地方。パン、ニンニク、塩、オリーブオイル、酢、水だけから成っていたが、19世紀までにはトマト、キュウリ、ピーマンなどが入るようになった。 トマトを主成分とした「赤い」ガスパチョが最も有名である。)、②パン、③メインのポークソテーとライス、④店主が自家栽培していると言う山盛りのトマト、⑤デザートのビスケットの乗ったプリン、そして食前酒としてサングリア(スペインやポルトガルでよく飲まれているフレーバードワインの一種。赤ワインに、一口大またはスライスした果物と甘味料を入れ、風味付けとしてブランデーあるいはスパイス(シナモンなど)を少量加え、一晩寝かす。使用する果物にはレモン、リンゴ、バナナ、オレンジなどがある。甘味料としては砂糖・蜂蜜あるいはオレンジジュースなどの果物ジュースを用い、風味付けとしてはラム酒の場合もある。炭酸水や水で割って飲む場合もある。清涼感があるため夏場によく飲まれる。)が振舞われたが、思いのほかアルコール度数が低かった。
(写真は、レストランの入口)
食後には、何を感激したものかそのレストランの店主が、外まで見送りに出た挙句、我々のバスの発着や誘導までしてくれたのだった。
我々はその後、一旦ミハスのホテルまで戻って小休止をした後に、陽光とよくマッチする白壁の建物の街であるミハスの街中の散策をした。
陽光が降り注ぐミハスの街は、清潔で小洒落ていて、とても心地よかった。
散策をしていてとても心地よく、日頃の疲れが癒される感じであった。
地中海が見渡せる展望台のある丘まで登り、大型船が航行する地中海を背景にして記念撮影をした。 記念撮影は日本からの添乗員さんが買ってでてくれ、彼女の「はじけたポーズでお願いします!」とのリクエストに応えて写真を撮って頂いた。
(写真は、展望台からの眺め。後ろは地中海)
ミハスには土産物店が多く建ち並び、日本人の経営する店も何件か出店していた。 自分はその中に気に入った土産物が置いてあった『アマポーラ』という店で、押花を樹脂で封じ込めたペンダントを6個とオリーブオイルの石鹸を数個買い込んだ。それからホテルに近いスーパーマーケットにて、旅行記①の写真の、ビール6缶と店でお奨めの赤ワイン1本、それとカモミールのティーパック1箱と生ハム1袋を買い込んだ。
(写真は、スーパーで買った赤ワインやビール類)
(写真は、高品質のオリーブオイル石鹸と押花を樹脂で封じたペンダント類。)
此処で買った赤ワインは、お土産にもらったイタリアの白ワインを飲み干した後の赴任先の宿舎にて、そして帰りのヘルシンキ空港の免税店で購入した、スペインは”リオハの赤ワイン(14%:750m㍑)”とポルトガルの赤ワイン(OFFLEY:1000m㍑:20%)は週末に帰宅した自宅で時々飲んでいるが、日本のそれよりアルコール度数が強くとても美味い。
ポートワインは、一昨夜飲んだブランディ(XO)やサングリアの様に甘くて濃厚で、ウィスキーのショットグラスで飲んでいるが、食前酒としては格好の飲み物かも知れない。
3日目:8月10日(水)、6:30頃のモーニングコールで起床。
この日は大移動日で、ミハスを朝8:00頃に出発してバスに便乗し、約2時間半程かけてイスラムの一大文化が栄えた街”コルドバ”へ、そこでキリスト教とイスラム教の宗教文化が混在する『メスキータ(モスク)』への入場観光の後、昼食後には約4時間程をかけて”ラ・マンチャ”にて風車や『ドン・キホーテ博物館』を見学後には、更にバスに便乗して約2時間程をかけてマドリッドに到着というハードなスケジュールだった。
途中トイレ休憩でパーキングに立ち寄った。 行く先々のパーキングで目立ったのは”ハモンセラーノ(ハモン・セラーノはスペインで作られる生ハムである。
「ハモン」とはハム、特に熟成したものをいい、「セラーノ」は「山の」という意味である。 塩漬けにした豚肉を長期間気温の低い乾いた場所に吊るして乾燥させる。 主に改良種の白豚の後脚から作られ、イベリア半島原産の黒豚であるイベリコ豚から作られるハモン・イベリコとは種類が異なる。ハモン・セラーノは鮮やかなピンク色でやわらかい食感と塩味が特徴。薄く切ってそのまま、または生ハムメロンのように果物とともに前菜として食べる他、食材としても広く用いられる。 イタリアのプロシュット、中国の金華火腿と並んで世界三大ハムのひとつといわれる。)”がぶら下がっていた事である。
コルドバには9時頃に到着。
”コルドバ”は、スペイン・アンダルシア州コルドバ県の基礎自治体。
コルドバ県の県都である。 グアダルキビール川に面する。
(写真は、”ローマ橋”からメスキータの方向を臨む)
”メスキータ”とは、「モスク」(ひざまずく場所)、ムスリム(回教徒)の礼拝堂の意味で、スペインに現存する唯一の大モスクである。アブドールラフマン1世は、グワダルキビール川の流れが変わるコルドバの小高い丘にメスキータの建設を始める。ここは紀元2世紀、戦勝祈願を行ったローマ神殿があったという伝説があり西ゴート王国時代には聖ヴィアンテ教会があった神聖な場所だった。
その後、カトリック教徒が権力をにぎった1236年からは、内部に礼拝堂を設けたりカテドラルが新設されて、メスキータはイスラム教とキリスト教、2つの宗教が同居する世にも珍しい建築となった。
(写真は、ローマ橋からのメスキータへの入口)
(独特なメスキータの建物の外壁)
(独特のイスラム風の円柱飾り)
メスキータの中は、イスラム教の礼拝場所:ミフラーブ(聖龕〈せいがん〉は、モスクのキブラ壁(カアバの方向を示す礼拝堂内部正面の壁)に設置された窪み状の設備。モスクにはマスジド・ハラームを例外として必ずある。 モスクはキブラに礼拝するためのものなので、あえていうならばミフラーブがあればそれでモスクなのである。)のすぐ隣にキリスト教の礼拝所が設けられていたり、アラベスクの幾何学紋様や円柱が建ち並ぶ中にキリスト教の大きなパイプオルガンがある礼拝所があったり、守護神等の像や展示物が多く飾られていたりする、世界の中でもここで下見られないであろう不思議な光景に暫し魅了された。
(写真は、メッカ(カーバ神殿)の方向を示すイスラム教の礼拝場所:ミフラーブ(聖龕〈せいがん〉))
(写真は、聖龕のすぐ脇にあるキリスト教の礼拝所)
(保存?盗難防止?鉄格子で閉め切られた数か所ものキリスト教の礼拝所。)
その後我々は、再びバスに便乗して約30分ほど離れた市内にある”国営ホテル・パラドール”の1階レストランで昼食をとった。(13:00~14:00)
最初にはフランスパン(但し中はとても柔らかい)とビーフシチューが出た。 パンは食卓に用意されているオリーブオイルをたっぷりつけながら食べた。
一杯のビールはからりと晴れ渡った程良い暑さの観光後にはとても美味かった。
次がメインディッシュの”オックステールの煮込み”で、仙台で食べる牛タン定食の”テールスープ”とは、牛タンの舌の下の付け根のとても柔らかい部位の事だが、スペインのオックステールの煮込みは将に牛の尻尾の部位の煮込みだった。
最後には、皿の上に撒かれたブルーベリーのシロップの上に乗せられたチョコレート付のチーズケーキが出たが、これもとても美味かった。
(写真は、”国営ホテル・パラドール”の1階レストランの玄関外の風景。)
(写真は、ビーフシチュー)
(写真は、オックステール(牛の尾)の煮込み。)
それからまた、バスに便乗してアンダルシア州を抜け、バスで4時間程をかけてラ・マンチャ地方へと向かった。
長いバス乗車だったので途中では2回ほどの買物を兼ねたトイレ休憩があった。
ここで自分は、何かと世話をやいてくれる母親のような女性コンビに勧められるままに麦藁帽を買い入れた。
途中には、車窓から広大なオリーブ畑やスペインらしい建物群等を見ながら、そして添乗員さんからは作家:ミゲル・デ・セルバンテスの冒険小説「ドン・キホーテ(・デ・ラマンチャ)」についてのおさらいと詳細な説明がなされた。
(写真は、スペインらしい車窓からの風景。)
冒険小説「ドン・キホーテ」は、騎士道物語(当時のヨーロッパで流行していた)を読み過ぎて妄想に陥った郷士(下級貴族)の主人公が、自らを伝説の騎士と思い込み、「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」(「ドン」は郷士より上位の貴族の名に付く。「デ・ラ・マンチャ」は「ラ・マンチャ地方の」の意で、出身地を表す。つまり「ラ・マンチャの騎士・キホーテ卿」と言った意味合い)と名乗り、痩せこけた馬のロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ遍歴の旅に出かける物語である。
1605年に出版された前編と、1615年に出版された後編がある。
主人公の自意識や人間的な成長などの「個」の視点を盛り込む など、それまでの物語とは大きく異なる技法や視点が導入されていることから、最初の近代小説ともいわれる。
騎士道を信じて疑わない主人公の不条理かつ突拍子もない言動の数々を喜劇仕立てで描いていると同時に、年老いてからも夢や希望、正義を胸に遍歴の旅を続けるその姿が多くの人の感動をよんでいる。
『ドン・キホーテの村』に着いたのは15:30頃だった。
それは、17世紀初頭の出版の頃の「ドン・キホーテ」がいたとされる村を再現した造りの中に、物語に関わる家屋や荷馬車、書籍や絵画等を展示した館にレストランと土産物屋を兼ねたものだった。
自分はそこで1㍑に飲み水と共に、老馬ロシナンテに跨ったドンキホーテとロバに跨った従者のサンチョ・パンサ(太っちょと言う意味)が青い顔料で描かれた絵皿を購入した。
(写真は、”ドン・キホーテの村”の様子。)
(村の中の、”ドン・キホーテ博物館”)
(気のふれたドン・キホーテとの記念撮影。)
その後、そこから少々離れた風車群がある場所へと向かったが、ふもとの村には多くの家屋があるにも拘らず、それこそまるで”神隠し”にでもであったのではないかと思うほど、歩行者はおろか、人っ子一人も見受けられなかった。
「”シエスタ(スペイン語でお昼もしくはその時間の昼休憩(13:00~16:00が目安)を指す言葉である。 すなわち日の出を基準として「第6時」(日の出から6時間後)、つまり、おおよそ正午辺りの時間帯の意味である。ポルトガル語では、同語源の語で sesta(セスタ)と呼ばれる。siesta を昼寝を意味するものではなく、長い昼休みに何をしてもよいということである。”にしてもふしぎですね?」と添乗員さんが言っていたが、日本では馴染みのない長い昼休みのシエスタに違いないとしか思えなかった。
”ラ・マンチャ”とは、「赤茶けた乾いた大地」と言う意味だそうだが、その赤茶けた小高い山の上にその風車群はあった。 もとは”粉挽き”が目的だったという事だが、今は動いておらず、殆どが観光用だとの事。
その中の一つに人がいて風車の上まで登らせてくれると言うので登ったが、階段や階上がとても狭かったが、窓から覗く先刻通り過ぎてきた下の村や向かい側の山々などの風景が展望出来て良かった。
登るのは無料だが、下に降りた時にある店で何がしかの買い物をするのが通例になっているとの事だった。
(風車の前で、添乗員さんとハジケテいます。)
(風車の内部)
その後我々はそこを17:00頃出発しバスで1時間半程をかけてこの日から2日間の宿泊先となる首都のマドリッドを目指した。 マドリッドには18:30頃到着。
この日の夕食は繁華街の中にあるレストランで食べる予定だった。
夕闇が迫る中、探すレストランがなかなか見つからず、添乗員さんが我々を置いて一人で探しに行き、やや暫く待たされたが、30分程してからそこを探し当てて戻ってきた。 レストランは雑踏の中にあり、なかなかスリリングだった。
料理は、前菜が揚げパンの上に生ハムを楊枝で刺したもの、次は野菜スープの上に半熟卵を乗せたもの、鳥のシチュー、最後はプリンのデザートといった創作料理の様なものだったが味はまあまあといった所だった。
(マドリッド市内の繁華街の様子)
(露天のカフェ)
(食事前の旅仲間達)
(レストランにて)
(食事の内容)
(丸っと食べてしまった鳥の煮込み)
(デザートのプリン)
(食後の外の様子)
此の夜は、「ユーロスターズ・スウィート・ミラシエラ」という五つ星ホテルのスミ・スウィートという事で、中にはキッチンもあり、部屋も広々として備え付けの立派なホテルだった。
(写真は、「ユーロスターズ・スウィート・ミラシエラ」)
(リビングルーム)
(ベッドルーム)
(リビングルーム)
(台所付のダイニングルーム)
(バス・シャワールーム)
(写真は、朝の「ユーロスターズ・スウィート・ミラシエラ」)
4日目:8月11日(木)、7:00頃のモーニングコールで起床。
流石に「ユーロスターズ・スウィート・ミラシエラ」ホテルのビュッフェは品数が豊富で有る事はもとより食材も新鮮であり、
味付けもとても美味しかった。
自分はクロワッサンなど2種類のパン、結構な量の生野菜、オレンジジュース、コーヒー、フルーツポンチ、スモークサーモン、生ハム、オリーブのアンチョビ漬、サラミ、各種のハム類等々朝から食欲旺盛だったが、中でもアンチョビの乗った柔らかく炒めたパプリカは絶品だった。
初めての味で病み付きになってしまった。
食事を終え、広々としたフロントのソファーで暫しくつろいだ。
(写真は、広々とした1階フロント前のフロアー)
(食事の風景)
(整然と並んだ、豊富な内容のビュッフェ)
(整然と並んだ、豊富な内容のビュッフェ)
(整然と並んだ、豊富な内容のビュッフェ)
(整然と並んだ、豊富な内容のビュッフェ)
(ビュッフェでの旅仲間の食事風景)
この日は、日本で言えば奈良にあたろうかというスペインの古都”トレド”への旅だった。 トレド(Toledo)はスペイン・カスティーリャ=ラ・マンチャ州のムニシピオ(基礎自治体)。 カスティーリャ=ラ・マンチャ州の州都であり、トレド県(人口約60万人)の県都である。
マドリードから南に71kmの距離で、タホ川に面する。
かつての西ゴート王国の首都であり、中世にはイスラム教・ユダヤ教・キリスト教の文化が交錯した地である。「町全体が博物館」と言われ、タホ川に囲まれた旧市街は世界遺産に登録されている。
ホテル前を9:00頃に出発し、トレドに着いたのは10:30頃だった。
「トレド」は、カスティーリャ=ラ・マンチャ州の州都でありトレド県(人口約60万人)の県都である。マドリードから南に71kmの距離で、タホ川に面する。
かつての西ゴート王国の首都であり、中世にはイスラム教・ユダヤ教・キリスト教の文化が交錯した地である。「町全体が博物館」と言われ、タホ川に囲まれた旧市街は世界遺産に登録されている。また、ルネサンス期のスペインを代表するギリシア人画家のエル・グレコが活躍した町としても有名。 バスは最初に、タホ川に囲まれたトレドの旧市街が見渡せる対面の丘に停車したが、
旧市街全体が城の様な造りになっており、その景観がとても美しかった。
(タホ川に囲まれた、美しい城郭都市「トレド」)
最初に土産物店に立ち寄った。
その店は刀剣や鉄製品、ファティマの手のネックレス(ファティマはマホメットの4女として生まれ、生涯を社会奉仕に尽力したという。慈悲深い彼女の手を幸福を呼ぶお守りとして、あるいは魔よけとしてマグレブ(日の沈む国)の国々では広く用いられている。あらゆる女性の装身具としてあるいは家屋の入り口のドアーノックとしても用いられている。)が豊富に置いてあった。
トレドは鉄製品、特に剣の生産で有名となり、現在でもナイフなど鉄器具の製造の中心地である。トレド征服以降、カスティーリャ王国やスペイン王国は定まった首都を持たず、トレドは一時的な宮廷の所在地であった。1561年、フェリペ2世がトレドからマドリードに宮廷を移すと、マドリードが首都として確定し、トレドはゆるやかに衰退を始め、現在に至っている。
(土産物店内の情景)
我々はカテドラル(キリスト教における司教座聖堂・主教座聖堂)前でバスを降り、長いエスカレーターに3回ほど乗ってトレドの旧市街に入った。
旧市街を歩くと、中世にはイスラム教・ユダヤ教・キリスト教の文化が交錯した街であるトレドの市街は、かつての”ダビデの星”の紋章があるユダヤ人街の家屋があったり、シナゴーグ(ユダヤ教会)があったり、キリスト教に関する建物や建物同士を結ぶ司教専用の階上廊下があったり、アラビアンナイフ等の売店があったりと一風変わった街の造りであった。
(長い3段程のエスカレーターを登った先がトレド市内)
その後、エル・グレコの最高傑作と言われる『オルガス伯の埋葬』がある”サント・トメ教会”への入場観光を行った。 この絵は、エル・グレコが1586年から1588年にかけて描いた絵画と言われ、トレドのサント・トメ教会の所蔵で、グレコの最高傑作と言われている。非常に大きな作品で、画面上は天界と現世に明確に上下分割されている。(残念ながら、内部は撮影禁止となっていた。)
この絵画は、その死後に伯爵位を綬爵されたトレド出身のオルガス首長ドン・ゴンサロ・ルイスが1312年に死去したときの伝説を題材としている。オルガス伯ルイスは信心深い篤志家で、正義感に満ちた騎士であり、グレコの教会区教会でもあったサント・トメ教会の拡張、内装のために多額の遺産を残した。伝説によればルイスが埋葬されるときに聖ステファノと聖アウグスティヌスが天国から眩く降臨し、葬送に参列していた人々の目の前で、手ずからルイスを埋葬したといわれている。 この絵画の中には、エル・グレコ本人や彼の息子も葬儀に参加する一員として挿入して描かれている。
その後自分は、プラド美術館でも彼の作品を多く鑑賞する事になるが、一般に彼の絵は人物が異様に細長く描かれ、”シエナの聖ペルナルディーノ”は15頭身程もあろうか。 この事は、エル・グレコの特徴をよく表わした作品で、作者の視点が低く、聖人の姿は天にも届くばかりに見える。 彼がよく描いた、”人間界から上を見上げる天上界”といった構図の絵を描き表わすには、より効果的な手法なのだろうと考えられる。
その後我々は更にサント・トメ教会の内部見学の後そこを出て市内巡りをした。 入口に”ダビデの星”の紋章が飾られた家屋が残る旧ユダヤ人街や、シナゴーグ(ユダヤ教教会)の前を通り、キリスト教関係の多くの建物や、主教の執務室やそこから他の建物へ行くための専用の階上廊下等の建物群や家屋。 その昔イスラム教の人達の家屋跡でもあったものか、アラビアンナイフや金属加工品が並ぶ土産物店などの多くの建物が並ぶ旧市街を巡った。 此処もやはり他に類を見ない、独特の街の風情であった。
(トレド市街地への入場案内看板)
(市内のキリスト教会の建物)
(”ダビデの星”が掲げられた、ユダヤ人の住居跡)
(市内のイスラムの土産物店)
(市内のキリスト教教会の内部)
(市内の”エル・グレコ記念館”)
(豪壮だった”トレド大聖堂”)
その後、我々は”トレド大聖堂(スペイン・カスティーリャ=ラ・マンチャ州・トレドにあるカトリックの大聖堂。現在、トレド大司教座が置かれている(トレド大司教は、スペイン・カトリック教会の首位聖職者とされている)。)”前で待ち合わせを行った。 トレド大聖堂は”豪壮”といえる建築物だった。
それから再度長いエスカレーターを降りてバスに便乗し、昼食を取る為に市内に向かった。
「RAYUELA」というレストランに着いたのは丁度12:00頃。
メニューは、①パン、②ポテサラに牛のフレークの載せたもの、③焼き飯とトマトの丸ごと煮込み、④牛肉の煮込み、⑤デザートは丸ごと林檎のアップルパイといった具合だった。
(レストラン入り口)
(店内での旅仲間達)
(食事の内容)
(牛肉の煮込み)
(丸ごとのアップルパイ)
その後、我々は『王宮』の車窓見学、『スペイン広場』の下車観光の後、『プラド美術館』へと向かった。 美術館に着いたのは16:00頃だった。
(マドリッドのスペイン広場前の”ドン・キホーテとサンチョ・パンサ”銅像)
(スペイン広場前にて)
『プラド美術館』とは、スペイン・マドリードにある美術館。歴代のスペイン王家のコレクションを展示する美術館である。 プラド美術館には約7,600枚の油彩画、約1,000の彫刻、約4,800枚の版画、約8,200枚の素描、多くの美術史に関する書類が収められている。2012年の時点で約1300点が展示されており、約3,100点は他の美術館や研究所へ貸与されている。その他の作品は保管されている。 (写真は、プラド美術館前の”ゴヤ”の銅像)
(プラド美術館への道すがら)
(プラド美術館の入口)
(プラド美術館内の待合室の風景)
現地の案内人は、「コウさん」だったか?名前は忘れたが初老の男性だった。
背の高い、飄々とした感じの世なれた風の人物で、軽く冗談を飛ばしつつも、「ディエゴ・ベラスケス」、「フランシスコ・デ・ゴヤ」、「ピーテル・パウロ・ルーベンス」、「エル・グレコ」といった大作の説明は詳細に渡り、自分の主観を織り交ぜながらの説明には舌を巻くほどだった。
『受胎告知(フラ・アンジェリコ)』、『十字架降架(ロヒール・ファン・デル・ウェイデン)』、『弟子の足を洗うキリスト(ティントレット)』、『死の勝利(ピーテル・ブリューゲル)』、『ラス・メニーナス:女官たち(ベラスケス)』、『裸のマハ・着衣のマハ(ゴヤ)』、『我が子を食らうサトゥルヌス(ゴヤ)』等々を観て回った2時間半程の『プラド美術館』の入場観光はあっという間に終わってしまった。 中でも、『ラス・メニーナス:女官たち(ベラスケス)』は近くで見るとただの遠近法を用いただけの画風だが、離れて観てみるとより際立って絵が鮮明に見えるのである。 これは遠近法に加えて、手前の女官達と奥に描かれた人物(国王フェリペ4世夫妻)をぼやかして描き、中心となるマルガリータ王女を鮮明に描くことにより遠近法がより際立つ手法なのだと言う。
また、『裸のマハ・着衣のマハ(ゴヤ)』は、最初に自分だけの観賞用として「裸のマハ」が描かれ、来客があった時の為に着衣のマハが描かれたという事で、「展示された壁は”どんでん返し”になっていて使い分けがなされていた。」との「コウさん」の説明だった。
機会があった時によく観られたら良いと思うが、確かに『裸のマハ』は写実的に描かれているが、『着衣のマハ』は一言で言えば「雑」である。 これは人物を観て描いたと言うより、絵を模写したとしか言い様のない物である。
そして、『三美神(ルーベンス)』に描かれている三人の女性のモデルは、実はルーベンスの奥さんと2~3番目の奥さん達だった。 …といった、「本当?」と言いたくなるような逸話が説明の中にふんだんに盛り込まれていてとても面白かった。
名残惜しかったが、プラド美術館を出て恒例の日本人が経営する土産物店で1時間程の買い物の後、土産物店からのキックバックなのか、袋に入った物を店から渡された「コウさん」は、我々へのあいさつの後、ふらりとマドリッドの雑踏の中に消えて行った。
(プラド美術館内の絵画鑑賞後に訪れた土産物店)
(コウさんが消えて行ったマドリッドの街並み)
この夕方は『フラメンコショー』を観るとの事で、我々は19:00頃劇場に入った。 御存知のフラメンコ(Flamenco)はスペイン南部のアンダルシア地方に伝わる芸能で歌、踊り、ギターの伴奏が主体となっている。フラメンコの歴史と発展にはヒターノ(スペインジプシー)が重要な役割を果たしている。さらにさかのぼるとムーア人の影響もみられる。フラメンコの歴史には不明な点も多い。
劇場では一杯のドリンクが振舞われ、それを飲みながらのフラメンコ鑑賞だった。ショーは約1時間程行われた。 独特の雰囲気と人達(民族)によるその踊りは独特の雰囲気の劇場で踊られ、ともすれば異様にも見え、我々日本からの旅仲間は飲み物を飲んでいるのか固唾を飲んで見守っていたのか、物音も立てずに実に静かだった。小劇場だったので、我々以外では3~4人程の外国の若い女性観光客だけだった。
あまりにも静かでは、演奏したり手拍子をたたいたり踊っている方も張り合いが無いだろうと思い、自分は酔いに任せて裏声での「ヒューヒューッ!」といった掛け声を飛ばしたり拍手を送ったりした。
フラメンコでは、演舞の際の手拍子は踊り手の調子を狂わせたりするのであまり歓迎されないが、踊ってる最中での掛け声や拍手は良いとの事である。
此処でのフラメンコは、狂おしいばかりの情感が漂い、踊りもなかなか迫力があった。 (写真は、独特の熱気があるフラメンコ)
ショーが終わり外に出たが、劇場の外は未だ明るかった。
再度バスに乗り、我々は夕食を食べるべく「DUDUA」というレストランに入った。メニューは、①パン、②盛りだくさんのラザニアサラダ、③メインディッシュは、本来白身魚のグリルだったが、特別メニューでステーキを1人だけ選べるとあって、自分はいち早く手を挙げた。 しかし、隣席でも魚が苦手な人がいて、ステーキを食べたい旨伝えたら、女性支配人の計らいで2人分のステーキが供された。④デザートは美味しいチーズケーキだった。
同席の老婆が「自分もステーキを食べたい。」と言い出したのでおすそ分けをすると、丸っと手つかずの白身魚のグリルが回ってきた。
スペインのステーキは美味しかったが、うわさどおりに肉は少々固めだった。
ホテルへの到着は22:00頃だった。
(下は、レストランへの入口)
(ラザニアサラダ)
(少々固かったが美味しくいただけたステーキ)
(白身魚のグリル)
(デザートのケーキ)
この日は少々疲れていたので、入浴の後の缶ビールを飲んで早々に就寝した。
5日目:8月12日(金)、7:00のモーニングコールで起床。
この日のビュッフェの朝食では、残念ながら”アンチョビ”は無く、代わりにハモンセラーノ(生ハム)が出ていた。 主に食べたのは、当然生ハムと山のような生野菜、フルーツポンチ、チーズとサラミと焼きベーコン、オリーブの実の酢漬け、そしてパンとナンにはオリーブオイルをたっぷりかけながら食べた。
飲み物はコーヒーとトマトジュースを2杯ずつ飲んだ。
(朝食のビュッフェ)
この日は本当の大移動日となった。
8:30にマドリッドのホテルを出発し、バスで約4時間半程走って「サラゴサ」を見学し、昼食後には更に4時間余りを走ってバルセロナへ、夕食を食べてバルセロナのホテル到着は21:00頃だった。
高速道路を走り、最初のサービスエリアでのトイレタイムは09:00頃だった。
此処の売店は規模が大きく、土産物が多く売られていた。
天井からブロックのままぶら下げられたハモンセラーノの数々、何種類ものワイン、オリーブの実や白アスパラやアンチョビなどの瓶詰、胡桃などのナッツ類の缶詰、チョリソー(腸詰のサラミ)その他多くの飲み物類等々。
スペイン独特の多くの品々が並んでいた。 アンチョビ等の名産品は、最後の観光の日となる明日、「マドリッドのスーパーマーケットを案内します。」との添乗員さんの言だったので、ここでは飲み物だけを飲んだ。
(サービスエリアの売店入り口)
(並べられたハモンセラーノ)
(店内の豊富なナッツ類)
(チョコレートやチョリソー類)
(種類の豊富なワインの数々)
(店内で食事をする人達)
(蜂蜜等々)
(豊富なケーキの数々)
バスに便乗して、昼食を食べるべくサラゴサ市内のレストランに入ったのは12:00頃だった。
レストランでは、先ずは皿の上に煮付けジャガ芋2個と厚い卵焼きとブリトーの様な物、フライドチキンとイカの胴体の煮物、別皿にはスライスされたハモン・セラーノだった。 パンは、トマトに香辛料を加えたペーストを塗った様なトーストが供された。 飲み物は”サングリア”を頼んだが、2日目のグラナダのレストランの昼食で出されたサングリアと違いってアルコール度数が高く、気持ちよくアルコールが回った。
食事を終えて外に出ると、強烈だが湿気の無いカラリとしたスペインの夏の日差しの中で、酔いが心地よく回った。
(レストランへの入口)
(冷やされた美味しそうなワインたち)
(濃厚で美味しかったサングリアと共に)
(辛いトマトペーストが塗られたトースト)
(生ハム)
(クレープの様なデザート)
(心地よいスペインの陽光)
レストランを出てバスに乗り、出発したのは13:00頃。
「サラゴサ」に着いたのは13:30頃だった。
「サラゴサ」は、ウエルバ川が合流するエブロ川中流、川谷の中心地であり、カスティーリャ王国とともにスペインの基礎を作ったアラゴン王国の古都として知られる。マドリード、バルセロナ、バレンシア、ビルバオ、トゥールーズ(フランス)の各主要都市とは約300kmの距離にあり現代でも交通の要所である。
観光としては、
① ピラール聖堂 - 紀元40年1月2日、この地でヤコブの前に聖母マリアが柱(ピラール)の上に立って現れたという伝説がある。
② カテドラル「ラ・セオ」(en) - ロマネスク、ゴシック、ムデハルなどの建築様式が融合している。「セオ」はアラゴン語で「大司教座」のこと。
③ アルハフェリア宮殿(en) - タイファ時代にイスラム君主によって建てられた城で、アラゴン王国の宮殿としても使われた。
世界遺産「アラゴンのムデハル様式の建築物」には、サラゴサの3つの建築物が含まれている。
① アルハフェリア宮殿のムデハル様式の遺跡
② ラ・セオの後陣、礼拝堂(パロキエタ)、ドーム。
③ サン・パブロ教会の塔と教区教会
我々は、『ヌエストラ・セニョーラ・デル・ピラール聖堂』の入場観光をした。
”ピラール聖堂”は、スペイン・サラゴサのカトリック教会の聖堂。『柱上の聖母』こと聖母マリアに献堂されている。ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって『スペイン系の人々の母』と讃えられた。この聖堂は史上初めてマリアに捧げられた教会とみなされている。
地元の言い伝えによれば、この聖堂の歴史は、12使徒の一人でスペインにキリスト教をもたらしたヤコブの前にマリアが姿を現したという逸話に始まる。これは聖母の被昇天以前にマリアが出現した唯一の例として知られる。
近隣にはサルバドール・デ・サラゴサ聖堂がある。ピラールはバロック様式で、現在の建物は1681年から1872年の間に建てられた。
(写真は、サラゴサの中のメインとなる広場)
(スペイン広場の前のゴヤの銅像)
我々は聖堂の入場観光を行ったが、中はとても広くそして荘厳な雰囲気が漂っていた。そして多くのカトリック信者の人達が至る所で礼拝をしていた。
我々の旅仲間の女性の中にも一人、熱心なカトリック信者の方がいて、行く先々の聖堂や教会で熱心に祈りを捧げている方がいた。
自分達は歩き疲れて、礼拝場所に設えてある長椅子に腰かけていたが、目前の長テーブルの下にある足置きの様な長い板は、実は信者の方達が祈りの際に椅子を降りてテーブルの上で肘を組み、膝をついて祈る為の板で有る事を、彼女が熱心に祈る様子を見ていて気付き、慌てて土足の足を下したのだったが、それを見て知っている筈の彼女からは非難の態度や目つき等が一切無く、その態度が彼女の信仰する敬虔な姿勢なのだろう事を観て感じ入ったのだった。
(美しいピラール聖堂の中)
(熱心に祈りを捧げる人々)
(美しいピラール聖堂の中)
(柱状のマリアに詣でる人達)
(美しいピラール聖堂の中)
『ヌエストラ・セニョーラ・デル・ピラール聖堂』での見所が多すぎて、約2時間程の観光の時間では他のの入場観光は出来ず、後はサラゴサ中心部の『ラ・セオ』、『サン・パブロ教会』、『スペイン広場』、『ピラール広場』等を見て回った。 その後、我々は中心部から外に出て、エブロ川に架かるピエドラ橋の絶景ポイントからから、美しい『ヌエストラ・セニョーラ・デル・ピラール聖堂』の外観の写真を撮影したりしてバスを待ったが、スペインに街は何処へ行っても建築物等は個性的なのであった。 電灯柱一つとっても個性的かつ芸術的な造作物が多く見受けられた。
(美しいエブロ川に架かるピエドラ橋からの”ピラール聖堂”)
(エブロ川ゲートの入口)
公共物等、いろんな物が画一的で経済性等を重んじて建てられる日本のそれらとは対称的である。 この事はスペインの国民性なのかと思う。
14:30頃にバスで”サラゴサ”を出発し、16:30頃に最初のパーキングでのトイレタイムが取られたが、ここで事件が起こった。
自分は買い物が無かったので、用を済ませるとさっさと建物を出て外で旅仲間達と雑談をしていたが、レストランや豊富な土産物が置いてある売店など広い建物の中で、旅仲間の一人の男性が盗難があったという。 この方は、自分よりは少々年配の男性で、定年退職をした方だった。 娘さんと二人連れだったが、売店で土産物を物色していたところ、中高校生位の二人組の少女から売店に置いてある品物についてスペイン語で話しかけられ、解らないスペイン語へのその対応でバタバタした後に、どうにか別れたが、暫くしてから半ズボンのポケットからクレジットカード入りの財布がなくなっていることに気が付いたという事である。 彼は「とっても可愛い女の子達だった。」としきりに言っていた。
盗られた事もショックだが、その事の方が余程ショックだった様である。
この方の格好は、折畳み式の様な麦わら帽子に半ズボン、草履履きで半袖シャツの上から釣りの時に使う様なポケットのたくさん付いたメッシュのベストを着ていた。「アッ!と言う間の出来事だった」と言っていた。
クレジットカードの方は、早速添乗員さんを通して至急日本に連絡を入れて使用の差し止めを依頼し、その後被害が無かった事が確認されたが、多くの現金を喪失した事は大きなショックであり、彼は事ある毎にこの件について口に出して嘆き、翌日も元気が無かったのだった。
(事件の有った、大変混み合っていたパーキングエリアの売店)
そんなこんなで、我々はパーキングをバスで出発し、高速道路を降りたのが18:00頃「バルセロナ」に入った。
バルセロナは、スペイン・カタルーニャ州の州都であり、バルセロナ県の県都である。人口はマドリードに次いでスペインで第2位。
1992年にはバルセロナオリンピックが開催された。 また、比較的低廉な賃金水準と地価を背景として外国資本が進出しており、自動車産業においてはセアト(当初はフィアットの関連会社。現在はフォルクスワーゲン子会社)の本社や日産自動車の生産拠点(日産モトール・イベリカ)が設けられている。
バルセロナ市内のレストランで夕食を食べたのは19:30頃だった。
メニューは、①パン、②皿に山盛りに乗せられた生野菜の上に載った揚物、③ビーフステーキとフライドポテト、④デザート:ブルーベリー・チーズケーキだった。 この夜のビーフステーキは柔らかく、美味しかった。
(レストランでの夕食の情景)
(サラダと揚物)
(ステーキ)
(デザートのブルーベリーチーズケーキ)
バルセロナ市内のホテル「アバ・ガーデン」に着いたのは21:00頃だった。
(アバ・ガーデンの室内)
(アバ・ガーデンの玄関)
6日目:8月13日(土)、7:00のモーニングコールで起床。
この日のビュッフェの朝食は①コーヒーとオレンジジュース、②クロワッサンと白・黒パン、③スクランブルエッグと生野菜、④2種類のハムとモルシージャ(豚の血入りソーセージ)やサラミ2種類、⑤オレンジやスイカなどの果物だった。
(ビュッフェでの朝食風景)
この日はスペインでの観光の最後の日だった。 この日の観光は、
①建築家アントニィ・ガウディが設計した『グエル公園』への入場見学。②同じく『カサ・バトリョ』、③同『カサ・ミラ』の車窓見学、④『ムンジュイックの丘』にて市内を一望した後に昼食、午後から⑤アントニィ・ガウディが設計した『サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)』への2時間の入場見学(鐘楼へもエレベーターで昇り、徒歩で降りる子-スも含まれる。)の予定だった。
食後にホテルのロビーで集合し、バスにて08:30頃出発して『グエル公園』へ向かった。
公園到着は9:00頃だった。 グエル公園は、スペインのバルセロナにある公園で、バルセロナの街が一望できる。1984年にユネスコの世界遺産に登録された。アントニ・ガウディの作品群の1つである。
施主のエウゼビ・グエイ伯爵(スペイン語読みではグエルとなる)とアントニ・ガウディの夢が作り上げた分譲住宅で、1900年から1914年の間に建造された。彼らが最も傾注していた芸術はリヒャルト・ワーグナーの「楽劇」で、ガウディは同じ芸術センスを持つグエル伯爵の下で、自然と調和を目指した総合芸術を作り上げようとした。
しかし、ふたりの進みすぎた発想と自然の中で暮らす価値観は、当時理解されなかった。結局、広場、道路などのインフラが作られ60軒が計画されていたが、買い手がつかず、結局売れたのは2軒で、買い手はガウディ本人とグエイ伯爵だけであったという。
グエル公園の入口に建つ門衛の小屋と東屋をみてサルバドール・ダリは「砂糖をまぶしたタルト菓子のようだ」と評した。「ギリシア劇場」と名付けられているテラス、大階段に鎮座する人気のトカゲ、敷地中央にあるホール天井の円形モザイク装飾等、粉砕タイルを使用してのデザインはガウディの助手ジュゼップ・マリア・ジュジョールの貢献が大きい。
(グエル公園の建物の数々)
我々は『グエル公園』を10:00頃出発し、再びバスで『カサ・ミラ』と『カサ・バトリョ』の車窓見学をしながら、『ムンジュィックの丘』を目指した。
①『カサ・ミラ』は、バルセロナのグラシア通り (Passeig de Gràcia) にある建築物である。ガウディが54歳の時に設計した。1906年から1910年にかけて実業家のペレ・ミラとその妻ルゼー・セギモンの邸宅として建設された。1984年にユネスコの世界遺産に登録された。
(写真は、カサ・ミラの外観)
②『カサ・バトリョ』は、アントニ・ガウディが手がけた建築物の1つ。2005年にユネスコの世界遺産に登録された。
カサ・バトリョとはスペイン語(カスティーリャ語)発音によるもので、カタルーニャ語ではカザ・バッリョーと発音する。バッリョー邸。
バルセロナ、アシャンプラのグラシア通り43番地に位置するカサ・バトリョは1877年に建設された建物である。大繊維業者ジュゼップ・バッリョ・イ・カザノバスの依頼を受け、1904年から1906年にかけてガウディはこの邸宅の改築を行った。この改築でガウディは、建物に5階と地下室を加え、玄関広間を広げ、階段や内壁を作り直し、各部屋に曲線的なデザインを持ち込んで、タイルやステンドグラスの装飾を施した。
(中央の建物が”カサ・バトリョ”)
(カサ・バトリョのベランダ)
(美しいカサ・バトリョの景観)
その後、『ムンジュイックの丘』には10:30頃に着いた。
此処にも多くの観光客が居て、丘から港や市街を展望していた。 知る人ぞ知るが、わが故郷の福島県いわき市小名浜の”三崎公園”から”小名浜港や小名浜の市街地を臨んだ様な風情”といった様なところだろうか…。
(『ムンジュイックの丘』からのバルセロナ港方面の眺め)
それから街中に戻り、12:00頃からレストランで昼食を食べた。 内容は、①冷たいパンプキンスープ、②野菜やキノコ類と一緒に煮込んだ白身魚、③キウイやリンゴやオレンジの果肉のフルーツポンチといった所だったが、贅沢な事に、育ちが海沿いであり、多少海の美味しいところを食べて育った自分にとっては何やら物足りない食事だった。
(レストランの入口)
(店内の様子)
その後我々は13:00頃から、入場者が多数で大混雑の中アントニィ・ガウディが設計した『サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)』へ2時間の入場見学した。
『サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)』とは、、カタロニア・モダニズム建築の最も良く知られた作品例であり、カタロニアの建築家アントニ・ガウディの未完作品である。
バルセロナ市のシンボルであるこの建物は、綿密に構成された象徴詩的なシンボロジーと共に、パラボリックな(放物線状の)構造のアーチや、鐘楼に据えられた自然主義と抽象主義の混在する彫刻などで、大胆な建築様式を誇っている。2004年の統計によれば、サグラダ・ファミリアはアルハンブラ宮殿やマドリッドのプラド美術館を抜いてスペインで最も観光客を集めたモニュメントとなり、2008年には270万人を集めた。生前のガウディが実現できたのは地下聖堂と生誕のファサードなどであるが、これらは2005年にユネスコの世界遺産に登録された。
贖罪教会なので、作業の財政は喜捨に頼っている。 そのために別々の箇所を同時に建設することはできなかったのだが、1990年代以降は訪問者の流れと作品の世評の高まりが財政状況を好転させた。 (贖罪:体刑の代わりに物品を差出して罪の許しを乞う事。)
2010年11月7日に教皇ベネディクト16世が訪れ、ミサを執り行い、聖堂に聖水を注いで聖別。 サグラダ・ファミリアはバシリカとなった。 9代目設計責任者のジョルディ・ファウリは、ガウディの没後100年にあたる2026年に完成予定と発表している。
ガウディは仔細な設計図を残しておらず、大型模型や、紐と錘を用いた実験道具を使って、構造を検討したとされる。スペイン内戦でそれらの模型は破片となり、ガウディの構想に基づき弟子たちが作成した資料などは大部分が消失した。
ガウディの死後、もはや忠実にガウディの構想通りとはならないこの建築物の建造を続けるべきかという議論があったが、職人による伝承や大まかな外観のデッサンなど残されたわずかな資料を元に、時代毎の建築家がガウディの設計構想を推測するといった形で現在も建設が行われている。
(建設中の『サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)』)
(入り口となる”東ファサード”は大混雑だった。)
①北ファサード、②イエスの誕生を表す東ファサード、③イエスの受難を表す西ファサードや内陣、身廊などはほぼ完成したがイエスの栄光を表すメインファサード、18本建てられる内の10本の塔が未完成である。これらの塔の12本が12使徒、4本が福音記者、1本が聖母マリア、1本がイエス・キリストを象徴するものとされている。
※ つまり、「イエス・キリスト」とその家族である父ヨセフと母マリア達への
祈りを捧げる為の教会である。
東側の生誕のファサードでは、キリストの誕生から初めての説教を行うまでの逸話が彫刻によって表現されている。3つの門によって構成され、左門が父ヨセフ、中央門がイエス、右門が母マリアを象徴する。中央の門を構成する柱の土台には変わらないものの象徴として亀が彫刻され、中央の柱の土台にはリンゴをくわえた蛇が彫刻されている。
また、門の両脇には変化するものの象徴としてカメレオンが配置されている。中央門では、受胎告知、キリストの降誕、祝福をする天使、東方の三博士や羊飼い達などが彫られている。左門ではローマ兵による嬰児虐殺、聖家族のエジプトへの逃避、父ヨセフの大工道具などが彫られ、右門には母マリア、イエスの洗礼、父ヨセフの大工仕事を手伝うイエスなどが彫られている。
(東ファサードの入口)
中に入ると、窓やステンドグラスが多く使用され、採光が施されていて斬新な建築ながらも厳かな雰囲気が漂い、一般の教会のイメージとは違いとても明るかった。 観光客が犇めく中においても、一般の信者の熱心な礼拝が普段通りに行われていた。
(意外に明るい教会の内部)
(祈りが捧げられている教会の内部)
それから、6~7名ほどが定員のエレベーターにより鐘楼まで昇ったが、バルセロナ市内の景色が遠くまで見渡せた。 また、未だ建築中の教会の状態が内側から垣間見ることが出来て面白かった。 その後徒歩で階段を下まで降りたが、途中の窓からはいろいろな建物の風景が覗けてとても面白かった。
(エレベーター乗り場から後ろを振り返って)
(鐘楼からのバルセロナ市街の眺め)
(建設中のサグラダ・ファミリアを内側から見る!)
(徒歩で降りた螺旋階段)
(塔の上を見上げる)
(塔の下を見る)
下まで降りた我々は、一旦西側ファサードの出口付近に集合した。
西側の受難のファサードには、イエスの最後の晩餐からキリストの磔刑、キリストの昇天までの有名な場面が彫刻されている。東側とは全く異なり現代彫刻でイエスの受難が表現されており、左下の最後の晩餐から右上のイエスの埋葬まで「S」の字を逆になぞるように彫刻が配置されている。最後の晩餐→ペテロとローマ兵たち→ユダの接吻と裏切り→鞭打ちの刑→ペテロの否認→イエスの捕縛→ピラトと裁判→十字架を担ぐシモン→ゴルゴタの丘への道を行くイエスとイエスの顔を拭った聖布を持つヴェロニカ→イエスの脇腹を突くことになる槍を持つ騎兵ロンギヌス→賭博をするローマ兵→イエスの磔刑→イエスの埋葬と復活の象徴そして鐘楼を渡す橋の中央に昇天するイエスが配置されている。
(中央ファサードの情景)
(西側ファサードの風景)
それから、トイレタイムを挟んで、約1時間程の自由時間が設けられた。
我々は出口を出たわけでは無いので、西側ファサードから入り直して、素晴らしい1階の教会の内部を見直したり、地階の資料館に入り、サグラダ・ファミリアの歴史や建物の詳細、アントニー・ガウディのデスマスクも置いてある彼に関する資料などを観て回る事が出来た。
(地下にある、資料館の様子)
(サグラダ・ファミリアの歴史)
(サグラダ・ファミリアの模型)
(ガウディのデス・マスク)
その後14:30頃にサグラダファミリアを出て、一旦集合場所である『カタルーニャ広場』に集まり、その後に自由行動の時間がとられた。
『グエル邸』を観に行く人、『カサ・ミラ』を観に行く人等いろいろだったが、自分は6~7人の仲間達と共に添乗員さんに引っ付いて”ランブラス通り”を東に向かい”コロンブスの像(塔が設置されているだけで、彼がこの地から出航した訳では無い。)”が建つ港方面を目指した ”ランブラス通り”は、バルセロナの繁華街に位置し、カタルーニャ広場からコロンブスの塔まで続いている。夜遅くまで多くの人通りでごった返し、花屋、鳥屋、大道芸人、カフェテリア、レストランが並ぶ大通りである。
(賑やかなランブラス通りへいざ出発)
(ランブラス通りの種々雑多な店の数々)
ランブラス通りにはさまざまな建造物が立ち並んでいる。世界的に有名なリセウ大劇場、サン・ジュゼップ市場、レイアール広場(Plaça Reial)、そこに設けられたアーチやシュロの木を見ることができる。南の終端にはクリストファー・コロンブスの像がある。
スペインの詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカは「終わってほしくないと願う、
世界に一つだけの道」と述べた。
(バルセロナ港近くの”コロンブスの塔”)
”コロンブスの塔”の前で暫し過ごした後、我々は再び”カタルーニャ広場”に取って返す事になったが、聖堂や教会に入る度に何時も熱心に祈っていた女性が、道の途中で「私は此処で皆さんと解れて『サンタ・エウラリア大聖堂』を見て行きます。」と言い出した。 誘われて自分も同行する事になった。 彼女は事前に下調べしていて、道に迷いながらも大聖堂に行き着いた。
此処でも、彼女は立ったままで両手を組み熱心に祈っていた。 ゴシック建築のとても美しい大聖堂だった。
(『サンタ・エウラリア大聖堂』への途中の数々の美しい建物)
(美しい『サンタ・エウラリア大聖堂』)
(美しい『サンタ・エウラリア大聖堂』へ同行して頂いたT・N女史)
これにて自分のスペインでの観光は終了した。
他の教会へ行くらしい彼女と別れて、自分は『カタルーニャ広場』で、待ち合わせをしていた添乗員さんと合流して、すぐ近くのデパートの地下にあるスーパーでの買い物をした。
①オリーブの実入りのアンチョビの缶詰5缶入りを3パック、②塩胡椒ならぬ塩トリュフのパック詰め5個、③ミニュチュアのオリーブオイルセット(5本入り10セット)等だった。
(アンチョビの缶詰や塩トリュフ等々)
(オリーブオイルの詰め合わせ等々)
その外には、帰路のヘルシンキ国際空港の免税店で、①リオハの赤ワイン(700m㍑)、②ポートワイン(1000m㍑)、③有名なチョコレートを4種類(10個程)、④スペイン産の可愛いボールペンを8本等を購入した。
(美味しさで有名なスペインのチョコレート類)
(750ミリ㍑のリオハの赤ワインと、1㍑のポートワイン)
ポートワインは昨夜も飲んだが、とても気に入って大事に飲んでいる。
つとに有名なポートワインは、ポルトガル北部ポルト港から出荷される特産の酒精強化ワイン。日本の酒税法上では甘味果実酒に分類される。ポルト・ワインともいう。
(ポートワインは、まだ糖分が残っている発酵途中にアルコール度数77度のブランデーを加えて酵母の働きを止めるのが特徴である。この製法によって独特の甘みとコクが生まれる。また、アルコール度数は20度前後と通常のワインの10〜15度に対し5〜10度程も高く、保存性が非常に優れている。)
ちょっとしたブランデー感覚で飲め、とても飲みやすく美味しいのである。
この日のスペインでの最後の夕食は、”コロンブスの塔”の近くのマリーナ沿いのレストランでの”パエリア”やムール貝の煮込み等を中心とした食事だったが、米の種類が違うのと、水分が多すぎてのグジャグジャ感があり、自分としてはあまり美味しくなかった。 日本人である自分にとっては、やはり日本で食べる美味しいパエリアを思い出してしまうのである。
(地中海を背に、バルセロナ・マリーナ近くの海岸で)
(いざ!マリーナ沿いのレストランへ)
(レストランの食事風景)
(大きなムール貝の載ったパエリア)
(べたべた感が、ちょっと残念)
(デザートのケーキ)
(豊富な海の食材が並ぶ、マリーナの各レストラン)
これにてスペイン旅行は全て終わった。
”8日間の旅”とは言っても、1日目と7・8日目は全くの旅行日であり、実質5日間の南のミハスから北東のバルセロナ迄の駆け抜ける様な旅であったが、主な観光箇所はほぼ見る事が出来たと言えよう。
次回また行く機会があったら、今度は是非ゆっくりと旅をしたいものだと思う。
(今回の旅の最後となる、ホテルから見る地中海の夕焼け)
(さて、日本への帰国へといざ出発。)
(結構厳しかった、ヘルシンキでの出国手続き。)
(ヘルシンキから成田間での、フィンエアでの機内食)
(二度目の機内食)
( 2016年/スペインへの旅・おわり)
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