今朝は6時に起床。「気は心!」と、朝晩日課の視力回復に良いと言われる大粒の乾燥ブルーベリーを妻の分も渡して口に放り込み、愛犬の散歩へと出掛けた。
元朝の空は、多少曇り勝ちながら陽射しがあり、北には”登山の練習”には最適な鹿狼山(かろさん)の頂上のモヒカン頭が見え、西には”難コース”だが楽しめた、今は閉鎖されてしまった”天明(てんみょう)ゴルフクラブ”のあった天明山にも暖かな陽が射していた。
自分の気力は十分体力は何とか!まだまだいけそうな気配である。
昨年の11月17日~11月21日迄、4泊5日でカンボジアのシェムリアップ(アンコール遺跡群)を妻と共に再訪する事が出来た。。
今回の旅行は、一昨年行ったのとまったく同じコースだが、違うのはベトナムでの観光が無く、成田空港(前回は羽田空港)発のベトナム航空(前回はJAL)だった事。 旅行費用は100,000円程/1人と格安で、あまりにもいいコースだったので妻に紹介したら、珊瑚婚(35周年)にかこつけて「連れてって!」という事になった。 前回の自分のアンコール遺跡群の話を聞いていて「行きたい!」と思っていたらしい。 妻は、ヨーロッパ方面には殆ど興味を示さないが、東南アジア方面には関心が深い。
”東南アジア”と言う餌を付けて釣り糸を垂れると『妻』と言う大物が釣れる事が解った。 これで、”植物が大好きな妻”に「シンガポール」という上等の餌を付けたら、即食いつく事は間違いなく、時々その名が彼女の口から出てくる。
自分の我儘な旅行に、何も言わず何時も気持ち良く送り出してくれる妻が「行きたい!」と熱望する事は滅多にない事なので、自分は”二番煎じ”になるかも知れないが今回の旅行に同行する事にした。
旅行日の1日目となる11月16日(水)に妻は相馬から、自分は赴任先から仙台空港手前で待合せ、2台の車を駐車場に入れてから駐車場の送迎バスで空港まで送って貰った。
成田空港までのANA便の搭乗手続きを済ませてから、初めての1階の牛タン専門店で昼食を食べた。 3つの部位の牛タンが出されて、調理人の講釈を聞きながら食したが存外旨かった。
(下は、3カ所の部位の牛タン定食)
成田空港へは15:20着。 ANAの発着ターミナルは翌日便乗するベトナム航空と同じ第一ターミナルとなる。 US$の両替の後、時間がふんだんに余っていたので、北ウィングにある何時ものレストランで、夕食としてキャラメルマキアート(?)アイスコーヒーと妻はデラックス・パンケーキ、自分はビーフ・サンドウィッチをゆっくりと食べた。
『成田ビューホテル』へは、シャトルバスが結構な本数が運航されていた。
(第一ターミナルの北ウィングで、何時もの『ターリーズ』で食べた夕食)
2日目となる翌日の11月17日(木)は早朝に起床し、『成田ビューホテル』のビュッフェを食べた。 少々割高ではあったが、内容は和洋中何でも有の上とても美味く、朝からステーキが出る豪華さだった。
ホテルから第一ターミナルまではシャトルバスでおよそ15分。
北ウィング4階の旅行会社にて、eチケットや注意事項を聴いた後に、ベトナム航空のカウンターで搭乗手続きをして早速飛行機に乗り込んだ。
昨年10月頃にANAとの共同運航を始めたベトナム航空の機内でのサービスは、前回の『ベトナム南北縦断の旅』で乗った一昨年3月の時よりもサービスの質が洗練(向上)されている様な気がした。 食事内容も、味も前回より数段美味かった。(下は、往路での機内食)
成田発09:30のVN0301便は、ホーチミン空港には定刻の13:50頃に到着。 自分達は”transfer”の案内板に沿ってシェムリアップへの搭乗手続きを行ったが、間違えて”arrival”の案内板でベトナムに入国しそうになった人達もいた。
待ち時間がふんだんにあったので、搭乗口付近の免税店や土産物店を覗いたがあまり買うべきものが無かった。 唯一、妻が孫娘用の可愛いベトナムの靴等があったので購入したが、現金のUS$で支払ったら、多少の釣銭の過不足は良いとしても、50¢の釣銭が50円硬貨で帰ってきて変な気分だった。
タンソンニャット空港16:25発のVN0813便にてカンボジア・シェムリアップ国際空港着は17:30だった。 空港に出迎えには、現地ガイドの「ターン」さんが来てくれた。今回の旅仲間は全員で11名だった。ホテルまではマイクロバスで30分程で着いた。
我々8名のホテルは”スーペリアクラス”という、前回同様の『シティ・アンコール』で他の3名は『ミラクル・アンコール』と言う別のホテルだった。
この日の夕食は、「ご自分でご用意下さい。」という事だった。
食べ続けてばかりの旅程だったので、我々は夫婦の二人だけでホテルのレストランにて”カンボジア風フォー”の軽めの食事をした。
(下は、カンボジア風フォー)
その後、翌日の観光のための補給用の水を買うために、道路を挟んでホテルの向かい側のコンビニに妻と二人で出かけたが、途中の沿道には薄暗い灯火をともしながら、食事用の屋台や野菜、果物を売る店がびっしりと並んでいて、妻が興味をそそられて随分と覗き込んでいた。
(下は、夜店の屋台に所狭しと並べられた数々の果実に興味津々の女房殿)
(この野菜は、一体なんだったんだろう?)
(夜の屋台食堂の情景)
(下は、ホテル『シティ・アンコール』の部屋でくつろぐ妻)
(下は、前回同様のホテル『シティ・アンコール』の部屋)
(下は、初日の朝食のビュッフェ…帰国後のダイエットが大変だった!)
(下は、食事をする妻)
(ビュッフェの一部:フォーは注文を受けてから作ってくれる)
(下は、ホテルの部屋の窓の眼前に見える遺跡)
3日目となる11月18日(金)、07:00からホテルにて朝食。
ベトナム同様のピーナッツ入りの美味しいお粥、フォーを初め、野菜やフルーツ等をたっぷりと戴いた。
シェムリアップは”遺跡の街”。前回は玄関側の道路沿いだった部屋は今回は裏側になり窓の目前にも大きい遺跡が迫っていた。 外気温は約30℃と熱かったが、乾季の始めとあってカラリと乾燥していて天候も良く、心地良かった。
観光の順番は前回の旅行同様、古い順の遺跡から案内してくれるとの事だった。
現地のガイドは「トーン」さん「トン(豚)ではありませんよ!」と彼は笑っていた。 彼の言によれば、同じ観光会社の前回の現地ガイドの「ヨン」さんは今でも頑張っているとの事だった。
毎年、世界から3百万人の観光客が訪れると言うシェムリアップの街は、自分が来たH26年7月頃に比べて、いたる所で建設ラッシュだった。
(下は、ホテル玄関前の道路を挟んで向かい側の街の風景)
(下の写真は、ホテルを出て右側の道路沿いの帽子屋さん)
(ベトナム同様の、バイクの数の多さとその活気!)
(下は、小児専門の無料の病院前で順番を待ったりしている人々)
(下は、スーパーマーケット等で賑わう繁華街の風景)
先ず最初は、遺跡観光の為の”顔写真付きの一週間フリーパス”を造る為の撮影場所へ行くのだが、前回は雨が降ったら濡れてしまう3ブース位しかない場所だったのが、今回は30ブース程もあり、勿論大きな屋内で待つ立派な建物になっていた。
(下は、40$/1週間のフリーパス作成をするブースで待つ人達)
(40$/1週間のフリーパス作成をするブース前の土産物売り場)
それ程アンコール遺跡群を訪れる観光客が増えたという事なのだろう。 パス料金は旅行代金に含まれており、2年程前も今回も40US$だったが、来年からは15$アップの55US$になるとのトーンさんの言だった。 この観光パスの料金は、カンボジアにとって多大なものになる事だろう。
この”パス発行所”の入口に向かって右側付近には、北朝鮮政府によって最近建てられたと言う立派な博物館があったが、あまり入場客はいないとのトーンさんの言だったが、「ロシア寄りのベトナム、中国(北朝鮮をも含む)寄りのカンボジア」と言われる図式が相変わらず続いているという事なのだろう。
(下は、北朝鮮によって建てられたという立派で真新しい博物館)
最初の遺跡観光は9~10世紀に造られたという、『アンコール・ワット』の原型になったと言われる『バコン寺院』、破壊神である”シヴァ神”を祀る『プリア・コー』、貯水池に建てられた古いヒンドゥー教寺院様式の『ロレイ』等の”ロリュオス遺跡群”であり、何れもが相変わらず美しかった。
(下は、修理中の”ロレイ遺跡”)
(下は、”ロレイ遺跡”の中にある、僧侶たちの食堂)
(下は、修理中の”ロレイ遺跡”の一部)
(下は、破壊神である”シヴァ神”を祀る『プリア・コー遺跡』)
(下は、畏れ多くもシヴァ神の乗物の"ナンディン"に跨る女房殿)
(下は、プリアコー遺跡の建物の内部)
(下は、神殿を守る軍神の石像)
(プリアコーの疑似門の上を彩る”リンテル(まぐさ模様)”の飾り)
(下は、神殿の由来を記した”クメール文字”)
(”アンコールワット”のモデルと言われる『バコン遺跡』への入口)
(下は、バコン遺跡手前にある仏教寺院)
(下は、独特の風貌の『バコン遺跡』)
(バコン遺跡の上からの眺望:右正面は納経の建物(お経の図書館))
(下は、バコン遺跡の頂上部分)
(下は、バコン遺跡の上からの眺望)
(下は、バコン遺跡を降りてからの美しいブーゲンビリアの前で)
(下は、バコン遺跡の傍らにある静かな”沐浴所”)
行く途中の建設ラッシュの街中にはひときわ大きな建物があり、カンボジア政府が建てた「無償の小児専用の病院」だという事だった。 ずいぶん遠くの地域から泊まり込みで何日もかけてこの病院を訪れる人達が多いとの事で、カンボジアの国民への福利厚生がある程度の整備がされているという事だ。
小中学校は相変わらずの二部(午前と午後)制という事であり、まだまだ学校不足が続いているとの事である。
トーンさんによれば、学校が午前の子供達は午後から、午後からの子たちは午前中に、親の手伝いで観光客達への土産物売りをするとの事だったが、今回は前回に比べてその子供達の数は圧倒的に少なかった。
”ロリュオス遺跡群”観光の後は”名物アモック付のクメール料理”というふれ込みのコース料理は、前回に比べて迫力が落ちた…と言うより日本人の舌に合った味付けとなっており、あんなに酸っぱかった『ソムローモチュー』等はただの甘いスープとなってしまっており、最初はその酸っぱさに驚いたが後味が旨かった当時の味が懐かしかった。
(下は、旅仲間達との昼食風景)
(下は、”豚肉のカレー風味”)
(下は、”茄子と挽き豚肉”と”カンボジア風牛肉スープ”)
(下は、デザートの”無視南瓜のココナッツミルクかけ”)
(下は、昼食後にホテルのロビーでくつろぐ妻)
昼食後はホテルに戻り、暑い盛りを避けて小休憩をした後に、”東洋のモナリザ”で有名な『バンテイアイスレイ遺跡』へと出掛けた。
相変わらず、『バンテイアイスレイ(女性の砦という意味)遺跡』は”東洋のモナリザ”と共にその建物群やレリーフが素晴らしかったが、遺跡の保護の為に一部が撤去されたり、ロープが張られて遠目でしか見れない場所があったり、遺跡保護の為なのかそれとも壊れたのか、はたまた女性観光客を慮っての事なのか”リンガの男性器”のみが無く、不審に思った自分がトーンさんに尋ねたところ、「それはあちら側ですよ!」と在らぬ方向を指さしてとぼけられたので、恐らくは後者の理由によるものなのだろうと思われた。
(『バンテアイスレイ遺跡』の素晴らしい建物やレリーフの数々)
(『バンテアイスレイ遺跡』の池の前で。「私はアプサラーか!」)
(下は、2番目に美しいといわれる「東洋のモナリザ」)
(またもや、「アプサラーかっ!」)
(今は無い”リンガ(男女のシンボル:生命力の象徴)”…前回写真より)
ここの遺跡だけでも相当傷んでいるのが確認された。 因みに、一番美しい”東洋のモナリザ”像は奥まった一般の観光客からは見えない位置にあり、我々が「一番美しい!」と紹介されて観るのは”№2”だという事だった。
ここの遺跡観光を終えて戻った出口付近には、前回の旅行の際に、余ったカンボジアの小額紙幣(リエル)を渡した、熱湯をかぶってしまったものか? 無残にも顔全面が引き攣れをおこしてしまっている少女が、同じ様な場所で物乞いをしていたが、身なりは前回よりはよっぽどましなっており、洒落た帽子を横っちょに被っており、自分は何やらホッとした気分だった。
その後、”リンテル(まぐさ模様)”や多くの石像が温存されている『東メボン』や、基壇の上にレンガ造りの5つの塔堂が並び、中央塔には巨大なヴィシュヌ神とガルーダ、北側の塔にはヴィシュヌ神の妃ラクシュミーのレリーフが残る美しい『プラサットクラバン遺跡』を観光し、”『プレループ遺跡』の上からの夕日鑑賞を!”という事だったが、生憎の長いスコールに見舞われてしまい、17:30の入場制限時間になってしまったので「翌日のアンコールワットからの夕日鑑賞」となった。
(保存状態も良くて美しかった『プラサットクラバン遺跡』)
(下は、今度は”獅子”に跨る女房殿)
(保存状態の良い「ヴィシュヌ神」やその妃を描いたレリーフ。)
(下は、『東メボン遺跡』への入口)
(下は、象の石像が多かったゾウ…? 『東メボン遺跡』)
(下は、『東メボン遺跡』からの出口)
この日の夕食は、前回同様”アマゾン・アンコールレストラン”での『宮廷舞踊アプサラダンス』を鑑賞しながらの”アジアンビュッフェ”だったが、演目は前回同様で仕上げは”アプサラダンス(天女の舞)”だった。踊子の片足立ちでの身体のアップダウンは”天女の空中浮遊”を現しているのだとは今回初めてしった。
料理はフォーから焼肉・焼鳥?迄あり、相変わらず美味かった。 懇意になった旅仲間達とビールを飲みながら美味しく戴いた。 その後ホテルへ戻った。
(下は、レストラン「アマゾン・アンコール」での夕食風景)
(下は、”アプサラーダンス(天女の舞)”)
(メカラ(雷神)とアプサラーとの駆引きを演じた”メカラ・ダンス”)
(下は、”アプサラーダンス(天女の舞)”)
(艶やかなアプサラー達)
(前回の旅行でのレストラン「アマゾン・アンコール」での写真)
シェムリアップ4日目となる11月19日(土)は、午前中は”東南アジア最大の湖・トンレサップ湖クルーズ”と称しての水上生活者の見学だった。 シェムリアップの南に位置するトンレサップ湖へと流れる川の流域には多くの水上生活者がいて、漁業を営みながら生活をしている。そこには水上生活者の家屋を初め、学校、商店、韓国政府によって建てられたと言うキリスト教教会等が、発泡スチロール等のフロートによって浮かんでいた。流石に大きな仏教寺院だけは多くの太い支持杭の上に立派に建設されていた。
(下は、”トンレサップ湖クルーズ”の乗り場)
(下は、雑貨店)
(下は、欧米人の乗ったクルーズ船)
(下は、我等がクルーズ船・・・小船はお寺へ向かう僧侶)
(下は墓地と言うが、メコン川が溢れたら水没してしまう!)
(下は、一般の家屋・・・子供たちが河に飛び込んでいた。)
(下は、韓国政府が建てたという”キリスト教の教会”)
(下は、水上生活者の子供たちの小中学校)
(下は、遥か遠方に見えた仏教寺院)
トーンさんが「船中にはマッサージをする少年たちが同乗します。私達としてはあまり勧めないが、貧しい家庭の子供達なので宜しければ協力してやってください。嫌なら”ノーサンキュー”と言えば無理強いはしません。」と言っていたが、果たして二人の少年が同乗していて、後ろから順に肩もみを始め出したのだが、マッサージをして貰ったのは自分ともう一人のご夫婦の男性の二人だけだった。 確かに、何日も風呂に入ってないらしく(通常彼等は川で体を洗うのみと聞いていた。)臭かったしマッサージもさほど上手では無かったが、「それ位いいじゃないか!」と自分は思うのだった。 チップは1$/1人だった。
一番奥の到着の大きな土産物店には、鰐皮を取る為の生きたワニや食用となる大きな魚が飼われていた。 また土産物としては、鰐皮の財布やバッグなどの製品やアルコール漬けのサソリや蛇の酒類、カンボジアシルクや木彫り製品、食用とするための鰐肉の干物等が多く並べられていた。 現地ガイドのトーンさんは、「食べ物は不衛生なので買わない方が良いですよ。その他の土産物も最後の日に行く”オールドマーケット”に安くて同じようなものがあります。」などと言っていた。 そして、自分は缶のポカリスウェットを購入して飲んでいた。 自分は「多少売上協力をしてあげても良いじゃないか?」と怪訝な思いだった。
確かに、ベトナムの食堂とは違って、シェムリアップの水事情はあまり良くないようで、インドと同様道端の屋台店等で食べるのは止めた方が良いようだ。 旅仲間でも屋台などで食べてもいないのに、腹の調子を崩した人がいたようだった。
(下は、一番奥の土産物店)
(養殖ワニがいた。)
(土産物店に並べられた、サソリや蛇の焼酎付け)
(妻は、大好きな革製品を物色中)
(下は、店の屋台裏)
(下は、ワニの肉等の干物)
(中央は、マッサージをしてくれた少年)
(水上生活者の小中学校)
(下は、水上生活者の家屋)
(水上生活者の人達の結婚式の準備が行われていた。)
(下は、水上生活者の人達の家屋)
ベトナムのハロン湾でも”水上生活者”が居て、「観光資源としてのハロン湾の景観を損ねる。」と言うベトナム政府の施策によって陸上生活へど移住した後で一昨年の3月に”ホーチミンからハロン湾迄ベトナム南北縦断の旅”で訪れた時には観れず、TVの映像のみでしか見れなかったが、彼等と同様に貧しい生活ぶりだった。
それらを見終えて出発口となった浮桟橋に戻ってきたが、そこは漁業で生活する人達が捌いて投げ捨てられた、魚の余り物の異臭がしていた。 そこから渡り板を登って陸上の出入口に着くと、行く時には居なかった手足の無い”地雷による負傷者の人達”が粗末な楽器で演奏を奏でながら”寄付”を募っていた。 シュムリアップ周辺では、今は無くなったが地雷による負傷者の数が多い。 周辺の遺跡では、この様に寄付を募る人達が多い。 但し此処でのの負傷者の人達は、前回来た時に見た同様の人達や、最後の『タ・プロム仏教寺院』での人達に比べて服装などが非常に貧しかった。
怪訝に思った自分がトーンさんに「無償の子供達の病院や学校等の国民への福利厚生がすすむ中、この地雷による被害者の人達への援助はあるんですか?」と敢えて突っ込んで聞いてみたところ、「地雷の被害者への援助金等は元軍人の人達だけです。」との事だった。 また、同じ様に寄付を募る人達には元軍人の人達と一般の民間の人達とがいるとの事だった。
※最近のカンボジアでは、「持てる者と持たざる者」の貧富の差が極端になってきているとの事だった。
その後”飲茶の昼食”と謳われた昼食を頂いたが、内容は①前菜三品、②鰹節入り海鮮酸辣湯、③大根のクリスピーパイ、④海鮮揚げ春巻き、⑤蒸し海老餃子、⑥ジャージャー麺、⑦手造りデザート(パンプキンパイ)、⑧季節の野菜(ドラゴンフルーツ等)だった。 パンプキンパイは丸っと南瓜の中にプリンを詰め込みそれをカットしたものだった。 (下は、レストランでの”飲茶”の昼食)
それ等を頂いた後は、ホテルでの小休止後に”アンコール建築の集大成”と謳われる『アンコール・ワット』の観光だった。
アンコール・ワットの観光は14:00(現地時間)頃からだった。
アンコールワットは”ビシュヌ神”を祀るヒンドゥー教の寺院である。
カンボジア北西部に位置するユネスコの世界遺産(文化遺産)であるアンコール遺跡の一つであり、その遺跡群を代表するヒンドゥー教寺院建築。 サンスクリット語でアンコールは王都、クメール語でワットは寺院を意味する。大伽藍と美しい彫刻を特徴としクメール建築の傑作とされ、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれている。
12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、ヒンドゥー教寺院として30年を超える歳月を費やし建立される。
正門は”西門”であり、西参道を渡って環濠を渡る陸橋と西大門に到達する。 そこをくぐって初めてアンコールワットの回廊が見えてくるのである。
(下は、西参道へ向かうところ)
(下は、西参道を渡り、西大門を臨むところ)
(下は、西大門に安置されている”ビシュヌ神”)
(下は、西大門から回廊へ向かう参道)
(下は、西大門から回廊へ向かう、今は巨人の足跡が無い参道の下で)
(池の水面に映る回廊が美しかった)
そこの陸橋の両端にはかつて『乳海攪拌(にゅうかいかくはん)は、ヒンドゥー教における天地創造神話であるところの、
① 『マハーバーラタ』…サンスクリット語: महाभारतम् Mahābhārata)は、古代インドの宗教的、哲学的、神話的叙事詩。ヒンドゥー教の聖典のうちでも重視されるものの1つで、グプタ朝の頃に成立したと見なされている]。「マハーバーラタ」は、「バラタ族の物語」という意味である。
《 インド(ヒンディー語;ラテン文字転写;バーラト・ガナラージヤ;バラタ族の国の意)は、インド憲法によれば正式名称はヒンディー語のバーラトであり、バーラト(サンスクリットではバーラタ)の名はバーラタ族に由来する。》
や、② 『バーガヴァタ・プラーナ』、③ 『ヴィシュヌ・プラーナ』、④ 『ラーマーヤナ』などで語られている。…に出てくる物語を描いた、神々とアスラ(インド神話・バラモン教・ヒンドゥー教における神族または魔族の総称。)が引き合ったとされるナーガ(大蛇)の石像が欄干代わりに有ったとされるが、現在は濠の中に落ちてしまっているとの事である。 しかしながら、神々とアスラが引き合い踏ん張ったとされる巨大なレリーフは2年前の旅行では残されていたが、今回は発見できず、これもトーンさんに聞いてみたが解らず終いだった。
(このナーガを引き合う神々とアスラの石像は『アンコール・トム』の南大門で観る事ができる。) (下は、今回は見つけられなかった西参道の”ナーガを引き合う巨人の足”のレリーフ…前回旅行時の写真より)
それにしても陸橋の道路の壊れ具合は悲惨であった、3百万人のシェムリアップ観光の人達の殆どが訪れるであろうアンコールワットは何故か赤砂が巻かれており、道路の大石が陥没して居たり傾いていたりと前回の保存状態の良かった道路の傷み具合は”隔世の感”があった。 「フランスや日本の専門家たちが遺跡保存の為に援助している。」という事だったが追いつかない現状なのだろう。
アンコールワット寺院は相変わらずの美しさだったが、回廊への階段は前回は石段だったが、今回はその上に木の階段が設置されていて、現在は専らそれを登るようになっていた。第一回廊の『乳海攪拌』を描いたレリーフは相変わらず素晴らしく、かつてはレリーフの上に漆や金泥が塗られていた跡も見る事が出来る。
『乳海攪拌』は所謂”天地創造”的な物語で、16世紀にペルシアで翻訳・制作された『マハーバーラタ』の写本に出てきたり、タイ・バンコクのスワンナプーム国際空港の建物内にある乳海攪拌を表現した彫刻もある。
(下は、回廊へと進む道)
(下は、神話”マハーバーラタ”の物語を現したレリーフ)
(下は、王が后を取り返そうと魔王と戦う図柄・・・赤色は漆)
その他第二回廊には、古い昔に日本からの貿易でこの地に来て行方知れずになった父親を探しに来た息子が、父の無事を祈って”無事安穏の願いの言葉”を柱に書き残したが、”ポルポト政権”によって消された跡等もあった。
(ポルポト時代に消された、父の無事帰還を願って書いた願文の跡)
(下は、第二回廊の沐浴場跡)
前回は、第三回廊を登った後は東参道に抜けたのだったが、今回は”夕日鑑賞”の為に西参道を戻って環濠の手前の壁に陣取り、環濠を挟んで向こう側の森林に落ちる夕日を鑑賞できた。
プレループの頂上などからジャングルの落ちる夕日も良いものだが、アンコールワットの西大門から眺める夕日も”マッタリ”としてなかなか良かった!
(下は、アンコールワットの最頂部である”第三回廊”)
(下は、帰りに見た第二回廊のレリーフ)
(午後5時頃の日没は美しかった!)
その後はレストランで伝統芸能の”ラーマ・ナーヤ”等を演じる『スバエクトーイ(影絵)』を鑑賞しながらの”クメール料理”と言う事だったが、何故か2時間程の長丁場となっており、皆さんの殆どが時間を持て余していたようだった。 (下は、夕食の情景)
(下は、『スバエクトーイ(影絵)』が演じられる様子)
(下は、『マハー・バーラタ』の影絵)
その後ホテルに戻ったが、この日はオプションで『カンボジア式マッサージ』と言うのがありこれに妻が飛びついた。 応募は我々だけだったので、店にはいかず、ホテルの部屋まで出張ってくれるとの事だった。
間もなく来たのは未だ30歳前後の女性だった。 自分はあまり疲れた感じが無かったので、女房だけ約1時間の施術を受けたが、その間に自分はベッドで眠りこけていたが、タイマーを用いての1時間きっかりのマッサージは、妻曰く「とても心地良かった。」との事で料金は20$。 ホテルの伝票にサインしてマッサージの女性には、肉体労働なのでチップを2$渡した。 翌日のチェックアウトの際に、初日の2人分の夕食のフォーと共に精算したが、両方合わせて税・サービス料無しの25$だった。
シェムリアップ観光最後の日となる5日目の11月20日(日)は午前中が城郭都市『アンコール・トム』と”神秘の遺跡”と言われる『タ・プロム』の両仏教寺院。
昼食を挟んだ午後からは、活気あふれる”オールドマーケット”の散策と伝統工芸学校である『アートデザイン・アンコール』を見学… という事だった。
この日の早朝には、早朝4時起きの”アンコールワット西参道から眺める朝日鑑賞”というオプショナルツアーが有ったのだが、自分は前回の同ツアーに参加しており、「昨日のアンコールワット観光で十分事足りる!」と思った事と、天候があまり良くなさそうだったので止めにした。 その他のオプショナルツアーとしては、前回”ナイトマーケットツアー”というものがあり、前回の参加で此方のツアーの方が面白かったので、「是非とも参加したい!」と、楽しみにしていたのだったが、どうも最近、事故か何らかのトラブルが有ったらしく、今回は企画されてなく残念な思いだった。
(又もや、朝食はしっかりと!)
(下の真中の、塩ピーナッツ入りのお粥がとても旨かった。)
『アンコール・トム(当初からの仏教寺院)』観光は9:30頃から始まった。ここは、アンコール・ワット寺院の北に位置する城砦都市遺跡。12世紀後半、ジャヤーヴァルマン7世により建設されたといわれている。周囲の遺跡とともに世界遺産に登録されている。
アンコールは、サンスクリット語のナガラ(都市)からでた言葉。またトムは、クメール語で「大きい」という意味。
アンコール・トムは一辺3kmの堀と、ラテライトで作られた8mの高さの城壁で囲まれている。外部とは南大門、北大門、西大門、死者の門、勝利の門の5つの城門でつながっている。各城門は塔になっていて、東西南北の四面に観世音菩薩の彫刻が施されている。
アンコール・トムの中央にバイヨン (Bayon) がある。その周囲にも象のテラスやライ王のテラス、プレア・ピトゥなどの遺跡も残っている。
ここでも、入り口から回廊への階段は前回の様な石段を直に登るのではなく、木の階段だった。 そして、石門から入って目前の回廊を臨むと、フランスや日本からの文化財保護団体が立ち向かっている遺跡補修の人達用のテントがぱらぱらと在り、明らかにその辺りは崩落しているのが垣間見えた。 そして回廊全体を改めて見回すと、『アンコール・トム』は遺跡と言うよりはまるで”戦争の跡の廃墟”に見えた。(下は、バスに乗り込んで観光パスに鋏を入れる係員)
(『アンコール・トム』の前で土産物を売る人達)
(『アンコール・トム』への南大門へ渡る陸橋)
(『アンコール・トム』への南大門へ渡る陸橋でナーガを引き合う巨人の像)
(下は、前回の写真より…案内は現地ガイドのヨンさん)
(南大門の頭部の四面菩薩像)
(いよいよ、アンコール・トムへと入る。)
(素晴らしい、アンコール・トムの壁画)
(下は、隣国シャム(現在のタイ)との戦の様子を描いたレリーフ)
(下は、クメール族の生活の様子を描いたレリーフ)
(下は、レリーフの説明をする現地ガイドのトーンさん)
(下は、戦いの様子を描いたレリーフ)
自分は「前回の2年前には、こんなにも荒廃していたっけ?」という愕然とし、何やら悲惨なものを見るた思いだった。 その後も”バイヨン”に登ったが、砂岩の階段は擦り減っていた。頂上ともいえる石像”クメールの微笑み”の前は、人でごった返しており、中国や韓国などの東洋系の人達が多かった。”バーツ硬貨”も落ちていたので隣国タイからの観光客も多いのかと想像された。 その他、同遺跡界隈の”パプーオン”や静かな佇まいの美しい”ピミアナカス(天空の宮殿)”や象の石像が立ち並ぶ”象のテラス”、”ライ王のテラス”等のを見て回った。
(下は損傷が著しく、まるで”廃墟”の様相の『アンコール・トム』)
(柱に描かれた、”アプサラー・ダンス(天女の舞)”のレリーフ)
(バイヨンの上にて)
(下は、有名なバイヨンの”クメールの微笑み”の前にて)
(下は、バイヨンを降りた北側の回廊)
(下は、”パプーオン寺院”の前にて)
パプーオンは、ピミアナカス寺院より半世紀ほど後の11世紀中期に、王都ヤショーダラプラ(第1次)の中心寺院として、14代目の王ウダヤディティヤヴァルマン2世(1050~1066)が建立したピラミッド型寺院です。寺院へは、、高さ1メートルほどの支柱の上に170mにもおよぶ参道が続き、空中参道と呼ばれている。 11世紀中期にヒンドゥー教寺院として建立されたバプーオンは、15世紀後期には仏教寺院に改修され、裏側(西側)は釈迦涅槃像が彫られた。仏教寺院に改修された際に、シバ神の祠堂とリンガが取り壊されてしまったようである。
(下は、”象のテラス”)
(下は、テラスを支える”ガルーダ(鳥神:ビシュヌ神の乗物)”の彫り物)
ピミアナカス遺跡は旧王宮の敷地内に建つヒンドゥー教の寺院。スールヤヴァルマン1世の頃11世紀初頭に作られた。ピミアナカスの意味は「天上の宮殿」。
写真は王宮の敷地へ入るための正門である東塔門。敷地内にはピミアナカスを始め、小さな施設や男池、女池と呼ばれる池などが残されている。ちなみに王宮自体は木造であったために、散在する瓦などの他にはほとんど何も残っていません。 ピミアナカスが王宮の敷地内に建てられた当初は、王族が儀式を行う場所として使われていて、他の人は近付くことを許されなかったという。
ピミアナカスはピラミッド式の小規模な寺院で、急な階段が付いている。ピラミッドは須弥山の象徴とされている。ラテライトの基壇が三層積み上おり、中央塔のある最上段の基壇上にまで登ることができる。
(下は、”ピミ・アナカス”へ入る為の入場門となる東塔門)
(林の中にある、静かな佇まいの”ピミ・アナカス(天空の宮殿)”)
この”城郭都市アンコール・トム”を建設した王は熱心な仏教徒であると共に、隣国タイを初めとする国々との戦争に明け暮れた人であったらしい。それ故に、国が傾いて滅んだと言われている。
広大な”象のテラス”はそれらの戦士たちを閲兵する場所であったらしい。 広場には4カ所の門があり、戦いに勝利した時には『勝利の門』、負けた時には『使者の門』を通って帰還したとの事である。 また、他の2つの門には門の上部にロープが架けられ、アプサラ(天女)の衣装をまとった女性が命綱を付けずに渡ったという。残酷な行事もあったという事である。
その後、11:30頃から我々は『タ・プロム仏教寺院』へと観光の場を移した。『タ・プロム寺院』は、12世紀末に仏教寺院として建立され、後にヒンドゥー教寺院に改修されたと考えられている遺跡。創建したのは、クメール人の王朝、アンコール朝の王ジャヤーヴァルマン7世。 この遺跡は、アンコール遺跡の中でも他に類を見ない美しい様式の寺院である。
そして、長年放置されている間に寺院の中に植物が繁茂し、中でもとてつもない”ガジュマルの大木”がこの寺院を覆っている。
(下は、『タ・プロム寺院への入口』)
(この『タ・プロム寺院』も、前回の訪問時より崩落や損壊が著しかった。)
(下は、巨大な”ガジュマルの樹”)
このガジュマルの樹は、石垣島や西表島でも至る所にあってその景観が美しかったが、こんな大木は見た事がなかった。
当初は、この遺跡の保護の為にガジュマルの樹を撤去しようと言う計画だったそうだが「今やこの大木は遺跡を壊すと言うより支えている役割の方が大きいのでは?」と言う結論に至り、今のところは「現状維持をして見守る。」という事になったようである。
この遺跡は第一回廊のみのさほど大きくないものなのだが、独特の佇まいと言うのか、オアシス的な趣があって何故か癒されるのだった。 午前中の観光は此処で終わり、我々は『カンボジアヌードル』と言う謳い文句の昼食をとったが、何やら今回の旅行の何処かでとった同じ様なメニューであり豪華で無くとも良く現地の味付けでも良いから、一寸変わった食事がしたいところであった。
食事後、我々は”活気溢れるオールドマーケット散策”という事で場所を替えたが、そこは前回の旅行でもシェムリアップ最後の日に立ち寄った土産物店の前だった。
トーンさんが言っていた「最後の日には、一番安い土産物店があります。」と言う触込みの場所だった。 前回はこの店で「カンボジアの経済と、私の為に何か買っていって下さい!」と言う店員の女の子の言葉に突き動かされて、”粒の黒胡椒”や”レモングラスティー”等を買ったが、今回は何も買うべきものが無かった。 唯一妻が「欲しい!」と言った、胡椒や薬草をすり潰す直径が15㎝程の”石臼”を探したが、木製の臼しか無かったので結局何も買わなかったが、たまたま今回我々に付いた女店員も前回と同じ、「私の為に何か買っていって下さい!」と言っていた、細くて小さい女の子(実際は26~27歳位と思われたが、童顔で女の子風)だった。 当然自分の顔は覚えていないだろうが、妻が土産物を物色する場所から距離を置いて、店の前の椅子に腰かけて眺めている自分に「アンタもコッチに来て、奥さんと一緒に土産物を買っていけ!」と、愛嬌のある顔にほっぺを膨らませ、口を尖らせて「カモン!」と言う様に大きく腕を振り上げて自分を呼んでいた。
(下は、オールドマーケットの界隈:左手前から2件目が土産物店)
(中国系の雑貨店)
(下は、オールドマーケットの外郭)
(飲み物を売る屋台)
店を出た我々夫婦は、活気のある市場の中の、日本には持ち帰れない”生(なま)物”や”乾物”や”カンボジアシルクのマフラーや衣類”等を見て回ったが、妻は「沖縄の牧志公設市場も昔はこんなだった。」と言っていた。
(妻の苗字は「牧志(まきし)」であり、義父は出身が首里の山川町で恐らくは元士族。首里の自宅を叔母(妹さん)に譲って、自分は仕事の関係もあり石垣市に越したが、妻は幼い頃は首里に住んでいて、街の界隈をよく覚えているのであろう…。)
それから、我々は市場を見まわった後に外で時間を潰したが、自分は見かけた事のある川沿いの風景に引き寄せられて道路を渡ったが、よく見るとと言うより良く考えてみると、そこは前回の旅行の『ナイトマーケット・ツアー』で買物をした後、”ナイトマーケット”へと出掛け、”足つぼマッサージ”や”フィッシュマッサージ(小魚に足裏の古い角質を食べて貰う)”や”蛇やサソリを焼いて食べさせる屋台”があったり、”ドリアン”を切って食べさせたり、自分に「社長!愛してるよ!」等と新宿の歌舞伎町や錦糸町のキャバレーの呼び込みみたいな手慣れた言葉を発する女性が居たりした『ナイトマーケット』へと通じる川の橋だった。
「昼と夜とではこんなにも情景が違うものなのだ!」とは改めて思ったが、今回『ナイトマーケット・ツアー』が無かった事はやはり残念に思った。
(この橋を渡った向こう側が”ナイト・マーケット”だった。)
(夜になれば、この川の浮提灯にも灯がともり、情緒ある風情になる)
土産物店は、仕入れの都合なのかはたまた金銭的な資金繰りの都合なのかよく解らないが、品揃えは相変わらず悪かった。「折角の広い店構えなので、もう少し考えれば儲かりそうなのに…!」と、他人事ながら自分は思うのだった。
我々はその後、日本人の技術者が指導しているという『伝統工芸学校:アートデザイン・アンコール』の見学をした。 伝統工芸の内容としては、木や石などの材料を使ってのアンコール遺跡の仏像等の制作。 金や漆等を使ってのエッチングの様な額入りの絵作り。 カンボジアシルクを使用した高級衣類等々であった。
何れも、アンコール遺跡等をモチーフにしての観光物産であり、今後のカンボジアの重要な外貨獲得の資源にしようと言う意気込みの品物と言えるであろう。 売り込み方にもよるが、以前にはない”高級品”ばかりであり、果たして重要な観光物産となりうるのか否か、カンボジアの手腕が問われるようである。
(下は、『伝統工芸学校:アートデザイン・アンコール』の様子)
以上で今回のシェリアップ(アンコール遺跡群)観光は全て終わった。
※ クメール王朝はかつて強大であった。
【扶南王国】
中国の書物によると、1世紀ごろ、ほぼ現在のカンボジア南部からベトナム南部のメコン・デルタ地帯に跨る地域に扶南(フナン)という王国があった。1942年フランス人考古学者ルイ・マルレ(フランス語版)によって、ベトナム南部アンザン省バテ山とその付近の港市跡オケオから、装身具や交易品多数が発掘された。当地の後背地では後期新石器時代から人々が居住していた。プレ・オケオ文化の土器や遺跡がアンザン省ゴーカイトゥン遺跡やロンアン省付近の遺跡から発見されており、そこから西方に拓かれていたカンボジア平原まで人々が居住し、往来があった。
3世紀までは未開の地であったが、インドと中国の中間地点にある水路の要衝に位置していたため外国文化が流入し、商業国家として繁栄した。稲作が発達していた。
【真臘王国】
6世紀には、カンボジア国家の起源とみなされている国、すなわち中国史料にいう北方クメール人による真臘(しんろう、チェンラ)が勃興した。この国は扶南の属国であったが、7世紀には扶南を滅ぼし、さらに真臘王イシャーナヴァルマン1世(611年-635年)に影響を受けた地域がドヴァーラヴァティー王国から独立し、ラヴォ王国がロッブリーに出来た。 真臘王国はジャヤーヴァルマン1世(657年 - 681年)の治世の頃に最大となった。インド文化の影響を受けサンスクリット文字を使用したが、クメール文字も使われ始めた。真臘は現在のカンボジアとラオス南部、つまりメコン川流域を領土としていたと推測されている。
【シャイレーンドラ朝】
ジャヤーヴァルマン1世の死後、古代カンボジアは、中国の記録に見える北の陸真臘(現在のラオスチャンパーサック県)と南の水真臘に分裂し弱体化し、8世紀には水真臘がシャイレーンドラ朝ジャワ王国の支配下に入った。シャイレーンドラは、その意味(「山の王家」)から、扶南のプノン(山)と関係があり、シャイレーンドラ朝とシュリーヴィジャヤ王国は何らかの意味で扶南の後継者にあたるのではないかとする見方がある。
【クメール王朝】
シャイレーンドラ朝からの独立は、ジャヤーヴァルマン2世(802年 - 854年)により行われた。ジャヤーヴァルマン2世はプノン・クレン丘陵の頂上で即位を行い、シャイレーンドラ朝からの解放を宣言した。これがアンコール王朝(クメール王朝)の始まりである。9世紀の末、ヤショーヴァルマン1世(889 - 910年頃)がアンコールに新都城「ヤショーダラプラ」(889-1190)を築いた。このときの勢力範囲は、現在の東北タイ地域まで広がっていた。その後何代かの王が続くが、勢力争いや逝去でどの王朝も長くは続かなかった。
1113年、スールヤヴァルマン2世が即位し、国内各地の敵対勢力と戦い国内を統一、国外においても西方のチャオプラヤー川デルタのシャム人やモン人と戦い、南隣のチャンパ王国や東隣の李朝へ攻め入った。王国の範囲は、タイ中部、マレー半島、ベトナム南部に及び、また、彼は寺院建築にも熱心で、クメール美術の最高傑作であり、自身の墓でもあるアンコール・ワットを始め、トマノン、バンテアイ・サムレなどのヒンドゥー教寺院を建築した。この王の治世も平穏安泰ではなかった。1150年頃死去した。
スールヤヴァルマン2世死後、王位を巡り争いが続いた。さらに1177年には、チャンパ王国の大軍が都であったヤショーダラプラを破壊した。
1181年、チャンパに遠征していたジャヤーヴァルマン7世が帰国し、即位した。彼は粘り強く国づくりを進め、1190年には宿敵チャンパを降伏させた。また、8メートルの高さの堅固な城壁の「輝ける新都城」アンコール・トム(1190-1431)を都として造成した。アンコール王朝の最盛期であった。熱心な大乗仏教の信者であった王は、都の中心にバイヨンを建設し、バンテアイ・クデイ、1186年にタ・プローム(僧院)、1191年にプリヤ・カーンなどの仏教寺院を建設した。
また、ジャヤーヴァルマン7世は、国内に102箇所の病院と主要街道に宿場を建設し、庶民の生活も重視した。しかし、大規模な寺院建設と領土獲得の遠征のため、死後(1220年)は国力が衰退していったと考えられている。その後、インドラヴァルマン二世、ジャヤーヴァルマン8世(1243-1295)が継いだ。1283年にクビライのモンゴル帝国の軍がアンコール・トムに侵攻した。ジャヤーヴァルマン8世は、1285年と1292年に元朝に朝貢した。この治世に廃仏事件が起こり、ヒンドゥー教に由来する題材に彫り直された。1295年に仏教徒のインドラヴァルマン三世がジャヤーヴァルマン8世を殺害し、王位に就いた。
13世紀に入り、元の侵攻が始まり後半からはシャム(アユタヤ王朝)の侵攻が始まった。
上記までの歴史が、アンコール遺跡群が造られるまでの歴史の概略である。
かつて「プレノコール」と呼ばれた豊穣の地、ベトナムのホーチミン市(昔のサイゴン)は、元来クメール人が居住しており、プレイノコールという地名で知られていた。プレイノコールとは「森の街」、或いは「森のある土地」を意味するクメール語(プレイ=森、ノコール=街、場所をそれぞれ意味する。)である。プレイノコールという地名は、今日でもカンボジア人やメコンデルタに居住する少数民族の低地クメール人(クメールクロム)によって用いられることがある。
現地ガイドのトーンさんの言葉からは時折、「かつてのカンボジアが如何に強大であったか(それに比して現在のカンボジアや如何に…)。」という思いが伝わって来るのだった。
何よりも残念なことは、かつての『ポルポト政権時代』に、あまりにも多くの有為な人材を、多くは虐殺などによって失っている事である。
※ 今回の旅で一番感じた事は、年間3百万人の観光客が訪れるという『アンコール遺跡群』は、「日々傷んでいる。」という思いだった。「病んでいる。」と言ってもいい様な状態では無かろうかという思いである。今のカンボジアは国内の主な産業は農業・漁業・林業等の第一次産業であり、主な鉱物資源としてはリン・マンガン・宝石等があるが未開発部分があり、これといった輸出が無く、辛うじて観光産業と縫製産業(カンボジアシルク等)の成長が見られると言われる中、言い方は悪いが自分の感覚としては「観光資源うを切り売りせざるを得ない状態のアンコール遺跡は、今病んでいる!」と言わざるを得ないような気がするのである。
トーンさん曰く、「フランスや日本やその他の国々の文化財保護団体が援助してくれている。」とは言うものの、それらの行為がどれだけ追いついて補修・修繕が出来るものか否か…。
自分は危惧して止まないのである。
中華風の夕食の後は帰路に就くべくシェムリアップ空港へ向ったが、この空港も前回に来た時より規模が大きくなっていて驚いた。
現地ガイドのトーンさんは空港内には入らず、我々自身が搭乗手続きをするのだったが、2転3転して搭乗口が変わった。我々夫婦は2人だけで必死に搭乗ゲートや案内板を見つけて確認しながら搭乗受付カウンターを探したが、他の殆どの人達はトーンさんが言った通りの搭乗受付カウンターに疑わずに並んでいたが、一度替わり二度替わり三度も替わりで結局我々が一番先頭で搭乗手続きをする事ができた。
夕食時に皆で別れの盃を躱しながら「酔っていても、皆で間違えば怖くない!」等と冗談を言っていた人達が居たが、危うくそうなりかけるところであった。
セキュリティチェック後に入ると、以前は無かった立派な真新しい”免税店”が何か所か出来ており、自分達は此処で買い足りない土産物を求めた。 我々が使った免税店は、どうやら中国系の店の様だった。 相変わらず、カンボジアは中国との結びつきが強いという事を再確認する思いだった。
シェムリアップ空港からは20:30発のVN0834便にて、今度はホーチミン市のタンソンニャット空港では無く、ハノイのノイバイ空港での乗継となった。
ノイバイ空港には22:15に着き、乗継の搭乗手続きを行ったが、このノイバイ空港も新しく造られた立派な空港になっており、初めてハノイに来た時の様な空港内全体が薄暗くてトイレ臭かった空港が逆に懐かしかった。
出発は真夜中の出発で待ち時間に大分余裕が有ったので、前回の一昨年の3月『ホーチミンからフエ・ホイアンそしてハロン湾・ハノイ迄ベトナム縦断の旅』の時のレストランで我々夫婦は飲み物を飲んだりして過ごした。
ハノイ発は00:25のVN0310便。 約4時間半の飛行時間だったが、やはりベトナム航空の機内サービスは向上・洗練されてきている様で機内食も大変美味かった。 サービスドリンクは”カンパリ”を飲んだが見た目とは違ってとても薬臭く、何故わざわざ『カンパリ・オレンジ』という存在があるのか?(=飲み易い)という理由が解った気がした。
(帰りのベトナム航空の機内食は、何れも美味しかった。)
成田空港には07:00頃到着。
その後、成田発10:00のANA3231便にて仙台空港着は11:00。往路と同様1階の牛タン定食を食べ、”妻は相馬へ、おら北へ”と別れて帰った。(旅行記終了)
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