【奈良:桜井・飛鳥・橿原・斑鳩行…古代のロマンを求めて!】 - Latte

【奈良:桜井・飛鳥・橿原・斑鳩行…古代のロマンを求めて!】

  • 旅行期間: 2017/03/28 ~ 2017/03/31
  • 作成日:2017/04/02 16:25
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平成29年3月28日(火):相馬~仙台空港~伊丹空港~奈良~桜井(三輪大神神社・長谷寺行)
平成29年3月29日(水):桜井(藤原鎌足の産湯跡・飛鳥寺・飛鳥板葺宮跡・橘寺・石舞台古墳・甘樫丘公園・高松塚古墳・キトラ古墳行)
平成29年3月30日(木):橿原(神武天皇陵・橿原神宮・久米寺・法隆寺行)
平成29年3月31日(金):奈良新大宮~伊丹空港~仙台空港~相馬
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 昨日も午後から”青葉温泉”行。 今日4月2日(日)の昼には、この3月から始めているという『こぶきの里』にて、今年初めての蕎麦を味わってきた。

 塩竃での単身赴任も3月一杯で無事終了した。我々『発注者支援業務』も人員が11名から約半数の6名となった。塩竃漁港の震災復興もそれだけ進んだということである。

 明日の4月3日(月)からは、東京飯田橋での勤務が長かったエンジニアリング会社のかつての同僚で、今は某建設コンサルタント会社で決定権を任せられている重要なポストにいる友人の以前からの声がかりで、仙台までの電車通勤の身分となった。  

 一年間休んでいた『社交ダンス』の練習も今日から復活する。


 バタバタと忙しかったが、設計変更処理や引継ぎも無事終了し、有給休暇が大分余っていた事と、ANAとJALのマイレッジが大分貯まり、しかもJALにあっては使用限度期間が近づき、4~6月の間に毎月1,500マイルずつ使用不可となってしまうといった事情もあり、3年前(平成26年4月)の『伊勢・奈良紀行』では足を伸ばせなかった奈良の「橿原・飛鳥・斑鳩」方面へ行く事にした。

 もう少し早めに出たかったのだが、この時期は宿も含めて飛行機の予約がなかなか取れなかった。


 出発したのは3月28日(火)。 早朝4:30頃に起床し、コンビニで買い物をして、常磐自動車道の新地インターチェンジから下り線に乗ったのが06:00頃。 仙台空港インターチェンジを降りたのは06:30過ぎだった。 

 07:35発のJAL2200便で仙台空港を出発し、大阪の伊丹空港着は定刻どおりの08:55。 リムジンバスでJR奈良駅に降り立ったのは11:00前だった。

(仙台空港正面)


 運行ルートの関係でリムジンバスは近鉄奈良駅前を通り、興福寺・猿沢の池・春日大社・奈良公園などの観光名所の前を経由してきたが、何処も観光客でいっぱいで、しかも外国人の多さが目立った。
( JR・近鉄”両駅間は遠くない”を問わず奈良駅周辺は観光名所が集約していて、前回(平成26年4月)の自分がそうだった様に、下調べさえしておけば、自転車で丸一日をかければ”興福寺・猿沢の池・奈良公園・春日大社・東大寺”、少々遠くても”平城宮跡・西大寺・法華寺・海龍王寺”等を見て回ることが出来る。)

 3年ぶりの奈良駅前に降り立った自分は、久しぶりの奈良の空気を存分に胸いっぱいに吸い込んだ。

(懐かしのJR奈良駅前)


…と同時に、朝飯にコンビニの赤飯握り飯1個しか食べていなかったので空腹を感じ、近くのとんかつ屋に飛び込んで”上・ロースかつ定食”を平らげた。

 肉のうまみ成分である脂肪分が少し足りなかったが十分に旨かった。

(JR奈良駅前での昼食)


 その後、近くのスーパーで飲み物を仕入れてJR桜井線で桜井駅に着き、2日間の連泊予約が取れた宿泊先『プチホテル・サンチェリー』にチェックインしたのは13:00頃だった。
 今回の旅が楽しみで、ワクワクして早朝に起床しての旅で少々疲れてはいたが、そのまま休憩してしまうにはあまりにも勿体ないので、ホテル側から無料での使用を勧めてくれた自転車で出かける事にした。

(下は、「プチホテル・サンチェリー」)


( 桜井市(さくらいし)は、奈良県中部、中和地域に位置する市。
縄文時代や弥生時代の土器の欠片が一般の畑などでも見られるなど歴史の深さを窺わせる。また、弥生時代や古墳時代の前方後円墳などの古墳が多く今日まで残っている。そのことからヤマト王権の中心的な地域であったと考えられ、その前期は三輪王権とも言われるが、今日の三輪地域を指していると見られる。
日本最古の神社といわれる三輪の大神神社、初瀬の長谷寺、多武峰の談山神社、等弥神社などの由緒ある社寺も数多く見られる。宗教的にも歴史が深く古代信仰の形体を知る上でも重要な地区である。また、土舞台(現桜井公園)は日本芸能発祥の地と言われ、“万葉のあけぼのの地”などと呼称されることもある。
 また、日本に仏教が初めて伝来した土地であると伝う。)


 小休止の後ホテルを14:00頃出発して先ずは、日本で最初の神社と云われる、三輪山の「大神神社(おおみか神社)」を目指した。

 三輪大神(おおみか)神社は、神武東征以前より纏向一帯に勢力を持った先住豪族である磯城彦が崇敬し、代々族長によって磐座祭祀が営まれた日本最古の神社の一つで、皇室の尊厳も篤く外戚を結んだことから神聖な信仰の場であったと考えられる。 旧来は大神大物主神社と呼ばれた。
 三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、江戸時代に地元三輪薬師堂の松田氏を棟梁として造営された拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。 4~5世紀の布留式土器や須恵器・子持勾玉・臼玉が出土した。三輪山から出土する須恵器の大半は大阪府堺市の泉北丘陵にある泉北古窯址群で焼かれたことが判明している。
 つまり「三輪大神(おおみか)神社」とは、「出雲大社(此方は身体)」に祀られる大国主命の意志により、大和朝廷を守護するために建てられたと伝わる「神体を祀る為の社」であり、三輪山本体を身体とするため、本殿がなく拝殿のみが存在する神社である。

 ホテルで頂いた地図で検討を付けながら三輪山を目指して、山の麓で地元の人に道を尋ねたりしつつ山麓に沿いながら自転車を駆った。
 山あり谷ありの結構きつい道を走りながら「大神(おおみか)神社」にたどり着いたが、後刻に聴くと遠回りだがもっと平坦な道もあったと聞いた。 しかしながら、お蔭で「長谷寺」への初瀬街道へと向かうショートカットの山道を発見できた。   

 まるで自分の人生を見る様な心地である。

 (決して楽な道では無く、ともすれば敢えて困難な道を辿ってしまうが、そのお蔭で通常では見れない様なものを見る事が出来てしまったりする。)
 「三輪山そのものが御神体」であるので、境内の大きな建物は『拝殿』等の少しの建物で、概して広くは無いが壮大な造りの神社であり、参拝客も多かった。自分は何時もの通り、参拝後に御朱印を頂いて神社を降りた。

(拝殿の正面)

(正面では無く、山道を通った脇道からの入口)


(拝殿全体)

(正面の参道からの拝殿。三輪山自体が神体なので、拝殿のみである)


 時間は15:00を過ぎていた。曇りがちだったので17:00頃には暗くなってしまうと思い、少々躊躇ったが「長谷寺」へ行く事にした。「大神(おおみか)神社」のすぐ裏の山道を下り、伊勢街道をひたすら「長谷寺」へ向かった。
(「長谷寺」とは、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺。本尊は十一面観音、開基(創立者)は僧の道明とされる。西国三十三所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。寺紋は輪違い紋。
 大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬〜5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。)
 「長谷寺」への道は国道ではあったが、その多くの旅程は上下線の両路肩側の歩道は人一人が通れるほどの幅しかなく、車道の路肩側に降りると結構なスピードで車が追い越していくので、相当な注意を払いながら運転する必要があった。
しかしながら「長谷寺」へ着いてみると、「嗚呼!来て良かった。」と思わせるに十分な景観を持つに見事な造りの寺であった。
 外からのその寺の概観もさることながら、門を入ってからの参道の両側の樹木の美しさ、屋根の付いた幅広の石段の回廊の美しさ、それらから見上げる頂きの寺の美しさ、そしてきつい階段を登り切り本堂から見下ろした門から階段の回廊を至った寺までの流れるの美しさ。そして見下ろした街並みの美しさであった。

(門前から見上げた「長谷寺」)

(参道入り口)

(屋根と幅広の石段つきの美しい参道)

(参道から本堂への別道)

(頂上の本堂と鐘楼)

(本堂の舞台)

(舞台端から眺めた本堂)


※ 本堂からの参道や街並みはとても素晴らしかったが、スケールが大きすぎて写真では、とてもではないが伝えられない。

 そこでもお参りをし、御朱印を頂いて帰路に就いたのは16:30頃であったが、未だ明るいうちにホテルに着く事ができた。
寒い予報で、この日は少々厚着をしていたので、着いた時には汗みどろだった。  

 この日は夕食を頼んでいなかったので外食をした。


 翌3月29日(水)は、早めに起きてシャワーを浴びて心身を目覚めさせ、前日頼んでおいた7:30からの朝食はモーニングを頂いた。

 隣のグループが食べていたセットメニューの朝食は、膨大な量であった。

(ホテル1階の食堂)

(食べたモーニングメニュー。手造りのパンとジャム。コ-ヒー付で¥400.-)


 さて、いよいよ今回の旅のメインメニューである飛鳥方面への旅である。

作家「黒岩重吾(くろいわじゅうご)」をメインに言えば、『古代史への旅』、『鬼道の女王・卑弥呼』、『白鳥の王子・ヤマトタケル』、『紅蓮の女王・推古女帝』、『聖徳太子(日と影の王子)』、『落日の王子・蘇我入鹿』、壬申の乱(天智天皇側と天武天皇との戦い)を描いた『剣は湖都に燃ゆ(壬申の乱秘話)』や『影刃(えいとう)』、『天風の彩王・藤原不比等』、蘇我馬子によって殺害されたと言われる崇峻天皇を描いた、作家「豊田有恒」の『崇峻天皇暗殺事件』、等々を読み漁った自分にとっては、未だに古代の面影を残す飛鳥地方への旅は、実に”血沸き肉躍る”ほどの楽しみであった。


 ホテルで提供してくれた自転車に跨って、颯爽と出発したのは8:30頃。

ホテルの女性従業員で、「学生の頃に自転車で飛鳥地方へ行った事があり、もうあまり行きたいとは思わない!」と言うほどの上り坂が続くとは言われたが、「それであれば、無理をせずに、それなりの行程を組みながら行ってみよう。」と思って出発した。

 これまたホテルで頂いた”明日香村観光マップ”を頼りに飛鳥方面へ向かったが、成程ホテルを出てすぐからの登り坂であった。

 坂はダラダラと続く登り坂は微妙な勾配になっており、ペダルをこいで登れば登れるが、こぎ続けるにはキツク、急勾配な箇所では自転車を降りて押したりしながら登った。 しかしながら、この行為は周りの風景を観渡したり、汗を拭いたりするには丁度良いペースで、お蔭で丸一日自転車を漕ぎ続る事が出来た。

 飛鳥地方はいたる所”旧跡”だらけで、立ち寄る気になれば枚挙に遑が無く、日数が幾らあっても足りないので、先ずは最初に予定していた所を目指した。

 9:30頃に、蘇我氏に関わりの深い『山田寺跡』を通りすぎて、坂を下った『奈良文化財研究所・飛鳥資料館』に立ち寄り、そこの職員さんに道を尋ねが、丁寧に道を教えて頂き、その資料館の展示物の説明までして頂いたりして出発。

(『奈良文化財研究所・飛鳥資料館』前にて)

(『奈良文化財研究所・飛鳥資料館』)


(実際に中央公民館近辺に存在する、”亀石”のレプリカ)

(あちこちに存在する、”猿石と人頭石”のレプリカ)





(墓のレプリカ)






(別名、”鬼のせっちん”のレプリカ)


(下は、”須弥山(しゅみせん)石”のレプリカ)




 飛鳥寺を目指して出発したが、これまた胸坂上りの急勾配だったが、暫く行くと”藤原(中臣)鎌足誕生の地”と記された場所があり、廟が建てられていた。

そこでは、「鎌足が産湯を浸かった。」と伝わる井戸などを観る事ができた。

(”藤原(中臣)鎌足誕生の地”への入口)

(”藤原(中臣)鎌足誕生の地”の廟のある場所の案内板)

(”藤原(中臣)鎌足誕生の地”の入口)


(「鎌足が産湯を浸かった。」と伝わる井戸のある場所)


(「藤原鎌足が詠んだ。」と伝わる歌)



(後に、「大化の改新」で中大兄皇子(後の天智天皇)と共に豪族の蘇我大臣家を討ち滅ぼして古代政治史上の大改革を行い、後の藤原氏栄華の礎を築いた中臣(なかとみ:後に藤原)連(むらじ)鎌足はこの地の出身であり、古くから神を祀る事によって朝廷に仕えた家柄であり、元来仏教信仰の礎を築いた蘇我家とは相反する立場であった。 渡来系であり仏教を広めようとする新興豪族の蘇我氏が、古くからの有力豪族であり古来からの神を信奉し、廃仏を唱える物部守屋大連(もののべのもりやおおむらじ)や大伴氏等の政敵を討ち滅ぼした事と因縁浅からぬものを感じる。


※ 余談ではあるが、かつてNHKの大河ドラマでも放映された、高橋克彦著の『炎(ほむら)立つ』でも描かれたように、”前九年の役(ぜんくねんのえき)”や   ”後三年の役(ごさんえんのえき)”)で源頼義・源(はちまんたろう)義家父子と戦い、現在の宮城県亘理出身で奥州藤原氏の祖となった「藤原経清(ふじわらのつねきよ):祖は藤原秀郷(ふじわらのひでさと)=俵藤太(たわらのとうだ:室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ勢力を拡大。死後、贈正二位を追贈された。

 源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出した。) 奥州藤原氏・初代藤原清衡(ふじわらのきよひら)の父。」 と共に戦った、当時の陸奥の雄「安倍(あべ)一族」は、「神武天皇と戦ったとされる『長脛彦(ながすねひこ)の子孫である。」と言う説と、その「安倍一族」との関わりが深く、奥州での”金の採掘”に携わったと言われる「金売吉次(かねうりきちじ)らの一族は、陸奥へ落ち延びた物部氏の末裔であった。」という説がある。


物部守屋大連征伐の蘇我氏の軍には厩戸皇子(うまやどのおうじ:後の聖徳太子)も参加させられたという。

厩戸皇子は、祖父の欽明天皇と父の用明天皇が双方ともに蘇我氏の娘を妃とし、厩戸皇子自身も蘇我馬子の娘「刀自古目:とじこめ」を妻としており、後に蘇我入鹿によって殺害された厩戸皇子の皇子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、蘇我入鹿にとっては従弟同士、聖徳太子は叔父という間柄であった。

 この”一族総殺戮”により、聖徳太子の血筋は絶える事になったのである。

(下は、聖徳太子関係図)


 当時は、第25代天皇である「武烈(ぶれつ)天皇」に子が無かった為に、それまでの血筋が絶え、代わって”現皇室の祖”と云われる第26代「継体(けいたい)天皇」を迎える事となった。

 この第26代「継体(けいたい)天皇」は、謎が多い人物で、

『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。

 『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人らが協議した。まず丹波国にいた仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を抜擢したが、迎えの兵士をみて恐れをなして、倭彦王は山の中に隠れて行方不明となってしまった。そこで、次に越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王にお迎えを出した。男大迹王は心の中で疑いを抱き、河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)に使いを出し、大連大臣らの本意を確かめて即位の決心をした。翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女を皇后とした。

 継体は、ようやく即位19年後の526年、大倭(後の大和国)に都を定めることができたが、その直後に百済から請われて救援の軍を九州北部に送った。しかし新羅と結んだ磐井によって九州北部で磐井の乱が勃発して、その平定に苦心している(磐井の乱については諸説ある)。日本書紀の記述では継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年もかかっており、皇室(実態はヤマト王権)内部もしくは地域国家間との大王位をめぐる混乱があったこと、また、継体(ヤマト王権)は九州北部の地域国家の豪族を掌握できていなかったことを示唆している。

※ 「継体天皇」と伝わる肖像画を見ると、「明治天皇」の写真や肖像画に酷似している事がわかる。

 聖徳太子の父である第31代「用明(ようめい)天皇」は、継体天皇の孫であり、推古天皇は用明天皇の妹、聖徳太子にとっては叔母にあたる人である。

…といったような、天皇家にっても将に”動乱期”の時代であったと言えよう。


(下は、当時の皇室系図)


 道がよく解らなくなったので通りすがりの地元の人に道を尋ね、坂を下って『飛鳥神社』の前を通り、町中をグルリと廻って『飛鳥寺』にたどり着いた。

(下は、飛鳥神社)


 …と、よく見ると『奈良文化財研究所・飛鳥資料館』で自分の後に来て飛鳥寺への道を尋ね、自分より後に出発したはずの、同じ桜井市から来た”福岡”からの自転車の二人連れが居るではないか? 彼等に聞いてみると、あの後『奈良文化財研究所・飛鳥資料館』の職員さんから、「案内板通りに行くと坂道が厳しいので、もう一つ先の道が平坦ですよ。」と教えられたとの事で、自分に声をかけようとした時にはもう見えなくなってしまっていたとの事だった。

が、そのお蔭で自分は”藤原(中臣)鎌足誕生の地”で産湯を浸かった跡を見れた。

この事により、危うく見損ねる筈だった”鎌足誕生の地”が観れたのである。

「急がば廻れ!」という事にもつながる事であろうか。


 飛鳥寺(あすかでら)は蘇我馬子が建てた、日本で最初の寺と云われている。

奈良県高市郡明日香村にある寺院であり、蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である。本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子である。山号を鳥形山(とりがたやま)と称する。現在の宗派は真言宗豊山派。

 蘇我稲目の子である蘇我馬子は、いろいろな文献を読むにつけ、当時にあっては他に類を見ない、将に”清濁を併せ呑む”稀有の大政治家であったと思われる。

(「飛鳥寺」駐車場前の案内板)

(「飛鳥寺」駐車場前)

(「飛鳥寺」の案内板)

(「飛鳥寺」前)

(「飛鳥寺」の本堂)



(「思惟殿」と鐘楼)

(鐘楼)

(思惟殿)

(本堂正面)




(「飛鳥大仏」と通称される、本尊である釈迦如来)

(「飛鳥大仏」は、寺が何度も火災にみまわれて傷みが激しい。)

(聖徳太子立像)

(本殿奥の、参観用の展示物)




(「蘇我入鹿の首塚」写真:展示物)

(「蘇我入鹿の首塚」と伝わる、寺院裏への案内板)

(飛鳥寺の裏にある「蘇我入鹿の首塚」。晒し者の様で哀れであった。)


(飛鳥寺の裏にある「蘇我入鹿の首塚」…裏からの撮影。)

(「飛鳥寺」の復元図)

(「飛鳥寺」の裏の風景)


 蘇我入鹿は、自らが天皇にとって代わろうとした節がある。

当時にあっては、朝廷の政府首脳の中には政治首脳部を蘇我氏を中心にして固めるか、天皇を中心ににするか?という問題が有った。 蘇我馬子と聖徳太子の両頭政治が行われていた推古朝以来、未解決のまま持ち越されていた懸案である。

 両者の対立は、皇極二年に温厚な蘇我蝦夷(えみし)が病気ために引退し、若くして自信家の入鹿(いるか)が父の後をついて大臣(おおおみ)となってから、急に激しくなった。 若い入鹿には、父の蝦夷や祖父の馬子が、諸豪族と強調しながら勢力を築いてきた苦心が解らなかった。 彼は天皇を抑えて、性急に蘇我氏の地位を絶対化しようと図った様である。 入鹿が自分の邸を「宮門(みかど)」と称し、子を「王子(みこ)」と呼ばせたと云う「日本書紀」の記載は、蘇我氏を悪く言うための後からの作り話かも知れないが、入鹿はそういわれても仕方の無い様な、傲然たる態度を身に着けていたのであろう。

 確かに、六世紀以来政治をリードしてきた蘇我氏には、そうして良いだけの実績があった。 しかしながら蘇我氏のその地位も、機内諸豪族の勢力を無視しては成立しない事も、馬子や蝦夷は見通してはいた。

 畿内豪族たちは、急激に専制化・独裁下してきた蘇我氏、特に入鹿に対しては反感を抱き始めていた。 蘇我氏の内部にも、入鹿のやり方に不満を抱く者があった。 入鹿の足元に、大きな地滑りが起こりかけていたのであるが坊ちゃん育ちの入鹿はそれに気が付かなかった。

 643年(皇極二年)11月、入鹿は山背大兄王の「斑鳩の宮(いかるがのみや)」を攻めて、大兄王とその一族を皆殺しにした。確かな原因は分からないが、蘇我氏の勝手なふるまいを、大兄王の一族の「上宮大娘姫王(かみつみやのおおいらつめのみこ)」が非難したのが一因であるという。

 長い伝統を持つ天皇家の隠然たる勢力に対して、入鹿が各個撃破の策に出たのかも知れないが、しかし、それならば入鹿の焦りと言うべきものであろう。

 蝦夷も入鹿の暴行を怒ったと伝えられるが、結果的には蘇我氏にとって大きなマイナスであった。 天皇家の人々は勿論、朝廷の諸豪族も入鹿の専制化に一層の不安を持ち、反入鹿勢力の結集が、これ以降急速に進行し『大化の改新』へと向かったのである。 

※ 大化の改新(たいかのかいしん)は、飛鳥時代の孝徳天皇2年(大化2年)春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革。中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変の後に行われたとされる(ただし、蝦夷・入鹿暗殺の乙巳の変からとする場合もある)。天皇の宮を飛鳥から難波宮(現在の大阪市中央区)に移し、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされる。 また「大化」は日本最初の元号である。

(下は、蘇我氏と皇室の関係図)


 10:40頃に飛鳥寺を出発し、聖徳太子の生まれた「橘(たちばな)寺」を目指したが、その途中に「飛鳥板葺宮(いたぶきのみや)」跡があった。

 板蓋宮(いたぶきのみや)は、7世紀中葉に皇極天皇が営んだ皇居。一般には飛鳥板蓋宮と呼称される。奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡にあったと伝えられている。

 この辺りは、天武天皇の「浄御原宮(きよみはらのみや)」跡などが重なっているものと考えられており、今後の調査が待たれるところである。

 飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや、あすかきよみがはらのみや)は、7世紀後半の天皇である天武天皇と持統天皇の2代が営んだ宮。奈良県明日香村飛鳥に伝承地があるが、近年の発掘成果により同村、岡の伝飛鳥板蓋宮跡にあったと考えられるようになっている。

(下は、「飛鳥板葺宮(いたぶきのみや)」跡の碑)


 途中、飛鳥村役場などで道を尋ねたりしながら、橘寺(たちばなでら)に着いたのは10:50頃だった。


 橘寺(たちばなでら)は、奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。

  橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。 

 橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は聖徳太子建立七大寺の1つとされている。太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。史実としては、橘寺の創建年代は不明で、『日本書紀』天武天皇9年(680年)4月条に、「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)とあるのが文献上の初見である。

 発掘調査の結果、当初の建物は、東を正面として、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置だったことが判明している。発掘調査により、講堂跡の手前に石列が検出されたことから、回廊が金堂と講堂の間で閉じていた(講堂は回廊外に所在した)可能性があり、その場合は山田寺式伽藍配置となる。ただし、検出された石列の長さが短いことと、石列と講堂跡とが接近していることから、講堂の手前を回廊が通っていたか否かは明確でない。皇族・貴族の庇護を受けて栄えたが、鎌倉期以降は徐々に衰えている。


 聖徳太子については、今更ながら述べるべくもないが、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))・厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)は、飛鳥時代の皇族・政治家。「聖徳太子」は後世の諡号。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。

 推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど進んでいる中国の文化・制度を学び冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を取り入れ神道とともに厚く信仰し興隆につとめた。 

 厩戸の前にて出生したので厩戸(うまやど・うまやと)と命名されたとの伝説がある。また母が実母・蘇我小姉君の実家(叔父・蘇我馬子の家)にて出産したので馬子屋敷に因み厩戸と命名されたとする説や、生誕地・近辺の地名・厩戸に因み命名されたなど様々な説がある。

 豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)との別名も有り、顕真が記した『聖徳太子伝私記』の中で引用されている慶雲3年(706年)頃に作られた「法起寺塔露盤銘」には、上宮太子聖徳皇、『古事記』(和銅5年、712年)では上宮之厩戸豊聡耳命、『日本書紀』(養老4年、720年)では厩戸(豐聰耳)皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王、東宮聖徳と記されている。

 聖徳太子という名称は死没129年後天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる。 そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期には、

「聖徳太子」の名が一般的な名称となっていたことが伺える。


(下は、橘寺の碑)

(道路からの橘寺)

(下は、自分が入館した”西門”)

(下は、西門前に敷詰められた、美しい瓦欠片(かわらけ)。)

(下は本堂(太子堂)…元治元年(1864年)に再建された建物で、本尊として聖徳太子坐像が安置されている。)

(下は、”蓮華塚の桜”の前の馬の銅像。…飛鳥は紅梅・白梅が見事であった。)

(下は、本堂左側の『二面像』…境内にある高さ約1mほどの石造物で、左右に善相と悪相が彫られており、人の心の二面性を表現しているという。)


(下は、向かって左側からの本堂。)

(下は、本堂に向かって左側の池。)

(下は、本堂に向かって左側の池の奥の御堂。)

(下は、”蓮華塚”聖徳太子が仏典の講義を行った際に散った蓮の華を埋めた所。大化の改新の際に一畝(約100m2)の基準にしたので一畝塚とも言われる。)

(下は、不動明王堂)


(下は、焼失した金堂の跡)

(下は、聖徳太子立像が安置されている御堂。天井の絵画が素晴らしい。)

(何故か存在感が感じられた『観音堂』:如意輪観音坐像が安置されている。)



(下も、何故か存在感のあった”土蔵”)


(下は、聖徳太子が仏典の講義を行ったとされる建物。)



(拝観の際に、「鐘を突いても良いですよ。」と云われた鐘楼。)

(下は、遠慮してか誰も突く事が無かったが、自分が突いてきた梵鐘。)

(下は、『中門』の跡)

(下は、五重塔の跡)


(下は、東門の様子。)

(下は、橘寺の由来の碑。)

(下は、西門の外にある『右近橘(うこんのたちばな)』。)

(梅の香りの橘寺からの里の情景。右端の赤チャリはホテルで借りた自転車。)

(下2枚は、「石舞台古墳」へ向かう途中の裏から見た「橘寺」)



 橘寺を出たのは、11:40頃だった。

寺で教えて頂いた橘寺のすぐ後ろの裏道から自分は「石舞台古墳」へ向かった。 

此処で、文秀が一句詠む。「橘寺(きつでら)や 里に梅の香 鐘一つ」ゴ~ン♬


 「石舞台古墳」に着いたのは11:50ころ。美しく続く林道を自転車を漕ぎながら山里の冷たい空気を胸一杯に吸い込みながら「国定飛鳥歴史公園」に着いた。

 「石舞台古墳」は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。国の特別史跡に指定されている。 元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたが、その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出している。

埋葬者としては蘇我馬子が有力視されている。 

 墳丘は現在失われているが、下部は方形で、20-50センチメートル大の花崗岩の貼石を約30度の傾斜で積み並べられていた。墳丘の周りに幅5.9-8.4メートルの空堀がめぐり、幅約7.0メートルの外堤が設けられている。外堤を復元すれば一辺約80メートルで、高さは約1.2メートルである。

 封土(盛土)の上部が剥がされているため、その墳形は明確ではなく、2段積の方墳とも上円下方墳とも、あるいは、下方八角墳とも推測されている。また、一辺51メートルの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83メートル、東西81メートル)をめぐらした壮大な方形墳である。 

 埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、西南方向に開口している。花崗岩で作られた石組みである。玄室は、長さ約7.7メートル、幅約3.5メートル、高さ約4.7メートル、羨道は長さ約11メートル、幅2.5メートルの規模を有する。また、石室内部には排水施設がある。約30の石が積まれ、その総重量は2,300トンに達すると推定されている。石は古墳のかたわらを流れる冬野川の上流約3キロメートル、多武峰のふもとから運ばれた。

 石室はすでにほとんどの埋葬品が盗掘に遭った後であり、石棺の欠片等が発見されるに留まった。羨道部と外堤から土師器と須恵器や銅の金具などが見つかり、時代が下る宋銭や寛永通宝も出た。 

 被葬者は蘇我馬子であったとする説が有力である。『日本書紀』の推古天皇34年(626年)5五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」とあり、大臣は、蘇我馬子を指している。封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰ではなかったかとする説もある。

ただし、異説があり、奈良大学の水野正好は、石の種類、築造年代などから蘇我稲目説を唱えている。

(下は、橘寺から公園までの道どり)


(自転車で駆け抜けた遊歩道)

(公園手前の案内図)


(下は、公園手前の飛鳥川に架かる石橋)

(下は、公園の案内図)


(標高の高い公園内は、桃の花が満開で見事だった。)

(桃の花の見事な状況は写真では伝えられない!)

(入場門を入ってすぐの「石舞台古墳」)


(「石舞台古墳」の突出した墓の屋根石)

(古墳の玄室内部への入口)


(玄室の内部)

(玄室の内部から外へ)

(下は玄室の正面…この位置で『古墳の製造過程』をパノラマで見せてくれる。)



((「石舞台古墳」の石棺模型)


 古墳の形は時代の変遷によって形が変わり、方墳、上円下方墳、八角墳、下方八角墳、前方後円墳、円墳等々諸々あるが、次第に簡素化されていったという。

( 「石舞台古墳」では、玄室(納棺室)の正面に地元のボランティアの人が居て、数台のパノラマカメラが置かれており、当時の「石舞台古墳」のリアルな製造過程を見る事が出来るようになっている。)


 この日は、今回の旅行のメインとなる日であり、少々欲張って「高松塚古墳」と「キトラ古墳」へも足を延ばそうと考えていたので「石舞台古墳」を12:15頃出発した。少々空腹を感じたので、地元の食堂にでも入ろうかと思っていたが、地元の人にに聴いた通りに、一気に坂を下り切ってしまったら少々後戻りしてしまった。 このような双方の思い込みでの行き違いはよく有る事である。

 大分時間に余裕はあったので、再び登り坂を自転車のペダルを漕いだ。

登り坂の頂上には「甘樫の丘公園」があって、少し先にコンビニが見えたので、そこで弁当を買い、「甘樫の丘公園」まで戻って昼食を食べた。

(「甘樫の丘公園」とは、奈良県高市郡明日香村豊浦にある丘陵のことで、標高148mの、東西数百m、南北1kmほど広がる丘陵である。 

 丘全体が国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区となっている。丘の北側には甘樫丘展望台、南側には河原展望台が整備されており、明日香村内や橿原市内の大和三山や藤原京などの風景を望むことができる。散策路は万葉集などで歌われた植物が植えられた「万葉の植物園路」が整備されている。この他、芝生広場・休憩所・駐車場なども整備されている。

 古くは日本書紀などにも記述が見られ、誓盟の神(甘樫坐神社)が鎮座し允恭天皇の時に盟神探湯(くかたち)が行われた。大化の改新以前には蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子が権勢を示すために丘の麓に邸宅を構えていたという。山腹には明日香村の保全に尽力した犬養孝揮毫の万葉歌碑(志貴皇子)がある。2007年2月1日、東麓遺跡において7世紀前半から中頃のものと見られる建物跡や石垣を発見したと発表され、蘇我氏の邸宅跡ではないかと注目されている。)

(下は、「甘樫の丘公園」の入口)



 コンビニ昼食を取り、「甘樫の丘公園」を出発したのは12:30過ぎだった。

途中で道を尋ねながら「高松塚古墳」に着いたのは13:15頃だった。

( 「高松塚古墳」とは、奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)に存在する古墳。藤原京期(694年~710年)に築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった。

 2009年に本来の形状に復元され、一般に公開されている。 

高松塚古墳の発掘調査は、1972年3月1日から開始された。発掘の始まったきっかけは、1970年の10月ごろ村人がショウガを貯蔵しようと穴を掘ったところ、穴の奥に古い切石が見つかったことである。地元の人達が明日香村に働きかけ、明日香村が資金を捻出し奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査することになった。発掘は明日香村が事業主体となり、橿原考古学研究所が実際の発掘を担当した。当時、明日香村では村の発足15周年を期に村史を編纂するため、未調査の遺跡の発掘を進めており、高松塚の発掘もその一環であった。奈良県立橿原考古学研究所所長の末永雅雄の指揮のもと、現場での発掘は伊達宗泰と関西大学助教授の網干善教を中心とした関西大学と龍谷大学の研究者・学生グループによって行われた。石室が検出され、鮮やかに彩色された壁画が発見されたのは同年3月21日のことである。古墳は1973年4月23日、特別史跡に、また極彩色壁画は、1974年4月17日に国宝に指定されている。

 古墳は鎌倉時代頃に盗掘を受けており、石室の南壁には盗掘孔が開けられていたが、壁画の彩色は鮮やかに残り、盗掘をまぬがれた副葬品の一部もこの時検出された。極彩色壁画の出現は考古学史上まれにみる大発見としてトップニュースとなり、文化庁はさっそく壁画の保存対策および研究調査にとりかかった。壁画発見からほどなく高松塚古墳応急保存対策調査会が設置され、発見から1か月も経たない1972年4月6日と4月17日に初の学術調査が実施された。また、応急保存対策調査会とは別に、考古学、美術史、保存科学などの専門家から構成される高松塚古墳総合学術調査会が設置され、1972年10月に同調査会による学術調査が実施された。 古墳の年代 盗掘を逃れて残っていた銅鏡などから7世紀末から8世紀初めの終末期と推定されていたが、2005年の発掘調査により、藤原京期694年~710年の間だと確定された。)

(下は、「高松塚古墳」の側面からの写真)

(下は、後ろからの写真)




(下は、「高松塚古墳」下にある”壁画館”の案内板)

(下は、”壁画館”内部の玄室の模型)

(下は、”壁画館”内部の展示物)




 「高松塚古墳」は、13:20頃に出発して「キトラ古墳」へ向かった。 

「高松塚古墳」から「キトラ古墳」までは、更にアップダウンの繰り返しだったが、楽しみの方が勝り、最後の「キトラ古墳」までの長い登り坂もなんのそのだった。 「キトラ古墳」着は14:00前頃だった。

( キトラ古墳(キトラこふん)は、奈良県高市郡明日香村の南西部、阿部山に築かれた古墳。亀虎古墳とも書く。墳丘にある石室内に壁画が発見され高松塚古墳と共に保存事業が進められている。 

 二段築成作りの円墳であり、墳丘は小高い阿部山の南斜面に位置している。

名称の「キトラ」は、「北浦」の転訛といわれる。

 1983年11月7日、石室内の彩色壁画に玄武が発見され、高松塚古墳に次いで2例目となる大陸風壁画古墳として注目を集める。

 1998年の探査で青龍、白虎、天文図が確認され、2001年には朱雀と十二支像が確認された。カビなどの被害が発生していたため壁画ははぎとられて保存されている。 2000年7月31日、国の史跡に指定され、同年11月24日には特別史跡に指定された。 2013年に石室の考古学的調査は終了したため石室は埋め戻されて墳丘の復元整備が行われている。

円墳であり、四神を描いた壁画があるなどの類似点から、高松塚古墳の「兄弟」といわれることがある。

 壁画などにみられる唐の文化的影響が高松塚古墳ほどには色濃くないことから、遣唐使が日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に作られた古墳であると見られている。

 誰が埋葬されているかは未だ判然としていない。年代などから、天武天皇の皇子、もしくは側近の高官の可能性が高いと見られている。また、金象眼が出土したことから、銀装の金具が出土した高松塚古墳の埋葬者よりも身分や地位の低い人物が埋葬されていると推測される。)

※ 「高松塚古墳」もそうだったが、「キトラ古墳」も周囲が広大な公園として整備されており、観光客や地元の人達が多かった。

(下は、古墳の下方に設けられている『キトラ古墳の案内館』)



(下は、「キトラ古墳」…とても小さく、発見できたのは僥倖といえる。)





  「キトラ古墳館」は入場無料で、古墳製造過程の詳細・形状の変遷や発掘調査や保存方法の手順などをビデオ映像で事細かく説明してくれ、盗掘された手順や入り込むために開けられた穴の形状 や内部の模型が展示されていて良かった。  

 別館には休憩施設等が設けられていて、利用者の便宜が図られていた。


 「キトラ古墳」を見終えて、ホテルに戻るべく出発したのは15:30頃だった。

この日は、ホテルでのセットメニューの『コース料理』を頼んであり、ホテルの女主人からは「18:00から始めますので、17:30頃までには戻って下さいネ!」と云われていた。

 おそらく、帰り着いたら”誇りまみれの汗まみれ”だろうし、疲れ切っているだろうし、「ディナーの前には一風呂浴びて一休みしたい!」と考えていた。


 ホテルを出てからは県道214号線を通り、飛鳥寺→飛鳥板葺宮跡→橘寺→石舞台古墳を見て県道209号線に出、高松塚古墳を観た後に県道210号線を経由してキトラ古墳も観た。

 帰りも同様のコースを辿ろうとしたが、県道209号線から214号線を右折して山田寺跡の前を通る予定が、214号線を突っ切って一気に坂を駆け下りてしまった。 仕方がないので、藤原宮跡を左に見ながら国道165号線を左折してホテルに戻る事にした。

 国道165号線にアップダウンは無く、道は平坦ではあったが、往路の様な自転車道と遊歩道が一緒になったような、幅広で自転車が走りやすい道路では勿論無く、歩道は狭くて、ともすればそれすらない様な車の通行量が激しい道路をヒヤヒヤしながらホテルに向かった。

 今回の行程では、マップによれば約20㎞。 実際はそれ以上の距離を、殆ど丸一日自転車を漕ぎ続けた事になる。 我ながら驚いた体力だと言える。

和歌山の友人が、”スーパー爺(マン)”という所以なのであろう!

ホテルに着いたのは、17:00頃だった。

 シャワーを浴び、18:00頃までの間、ベッドに寝っ転がって暫し休んだ。

そして、ディナーは18:00頃から始まった。


 (赤ワインと前菜の”ホタテの貝柱のクリーム煮キウイ載せ”?)

(サラダとパンプキンスープ)

(しめじのスフレ)

(甘鯛のホィール蒸しと、手造りの米パンとイースト菌入り麦パン)

(メインディッシュの野菜の牛肉包み煮込み)

(デザートのチーズケーキとヨーグルト、そしてレモンティー)


 このホテルの女性オーナー兼シェフはこだわりのある方で、パンやジャムは自家製で、野菜も自分達で栽培しているとの事だった。

コース料理のお客は、自分を含めて二人だけだった。

 料理は食べ終わるとすぐに出され、食事は1時間程で終わった。

勿論好みや味覚は個人差があり味は申し分なかったが、自分はつい『出雲旅行』での「大山(だいせん)ホテル」でのディナーを思い出してしまうのだった。

あのスカイラウンジでの食事はそれ程”凝った料理”という風に思えなかったが、アスパラにしろ小ジャガイモにしろ肉にしろ、素材の味が実によく引き出され、「うん!確かにアスパラはこんな味だ。生まれて初めて食べたジャガイモは確かにこんな味だった!」と改めて感じさせられるほどに材料の味がしたのだった。料理の出され方も実にゆったりとしていて決して早からず、と言って遅すぎず。  

 料理の味の良さもさることながら、貴重な人生の時の流れを、優雅なほどにゆったりと味あわせてくれ、「嗚呼、自分は貴重な人生の流れの中にいる。」

と言う思いの中で、将に旅の疲れが癒されていく思いがしたものだった。

「これぞ人生の貴重なひと時」と感じさせてくれる演出は「流石一流」と思う。

少々生意気だが「ホテル大山」と「サンチェリー」の違いはその辺なのだろう。


 翌3月30日(木)の朝食は、前日のディナーとのセットメニューで「三輪そうめんセット」だった。 量は多かったが、軽い食事で丁度良かった。

(下は、朝食の「三輪そうめんセット」美味しかった。)


 食事を終えて間もなくの08:00頃、ホテルのオーナーへお世話になったお礼を述べ、桜井駅から近鉄橿原線で『畝傍御陵前駅』へ向かった。

 途中『八木駅』で大荷物のスーツケースをロッカーに預けた。橿原周辺には、「香具山」、「耳成山(みみなしやま)」、「畝傍山」等の大和三山が間近にあり、三輪山も含めて登ってみたかったが、今回それは叶わなかった。


 『畝傍御陵前駅』から歩いておよそ20分程だろうか、木々の生い茂る静かな森の中に「神武天皇陵」があった。 

 神武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日 - 神武天皇76年3月11日)とは、日本の初代天皇とされる神話・伝説上の人物(在位:神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年3月11日)。

 和風諡号は、『日本書紀』では「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)」、『古事記』では「神倭伊波礼毘古命」。また幼名は「狭野尊(さののみこと)」、諱は「彦火火出見(ひこほほでみ)」。

 以下は主に『日本書紀』に拠った神武天皇の事跡であるが、その内容が神話的で、歴史学では、神武天皇の実在も含めて、筋書きそのままが事実であるかは不明である。『古事記』にも神武天皇の物語があり、大略は同じだが遠征の経路などが若干異なる。『日本書紀』『古事記』の神武天皇の記述は東征が大部分を占めている。 

 神武天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県橿原市大久保町にある畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)に治定されている( 位置)。公式形式は円丘。考古学名・俗称は「ミサンザイ」。

 『古事記』には、137歳で亡くなり、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」御陵は、畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にありと記されており、『日本書紀』には127歳で亡くなり「葬畝傍山東北陵」畝傍山の東北陵に葬ると記されている。また、壬申の乱の際に大海人皇子が神武陵に使者を送って挙兵を報告したという記事がある。天武期には陵寺として大窪寺が建てられたとみられる。 

 現陵は橿原市大久保町洞(古くは高市郡白檮<かし>村大字山本)に所在し、畝傍山からほぼ東北に300m離れており、東西500m、南北約400mの広大な領域を占めている。毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっている。

また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに神武天皇の霊が祀られている。

 (写真は「畝傍山」。「神武天皇陵」は、この東北の位置にある。)





(御陵前にて)

(奥の御陵)


 陵墓は静かな森の奥にあった。 

賛否両論あるだろうが、自分にとっては、日本の歴史を辿るには避けて通れない存在である。


 自分は、「神武天皇陵」を9:45頃出て、「橿原神宮」へ向かった。

橿原神宮(かしはらじんぐう)は、奈良県橿原市の畝傍山の東麓、久米町に所在する神社である。 

 記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、1890年(明治23年)4月2日に官幣大社として創建された。 1940年(昭和15年)には昭和天皇が同神社に行幸し、秋には日本各地で紀元2600年奉祝式典が挙行された。この年の参拝者は約1000万人に達したという。現在でも皇族の参拝がある。

 近代の創建ではあるものの、奈良県内では春日大社と並んで初詣の参拝者数が多い神社である。他にも、勅使参向のもと紀元祭が行われる2月11日(建国記念の日)や、神武天皇祭が行われる4月3日および奉祝行事「春の神武祭」の開催期間にも多くの参拝者が訪れる。

 畝傍山東麓は北側が神武天皇御陵、南側が橿原神宮となっている。

付近は多数の陵墓が存在する。

(下は「橿原神宮」入口)

(参道から「橿原神宮」への東門)

(参道を入ってすぐの広場)

(拝殿)

(拝殿から見た本殿)

(拝殿前にて)

(西門)

(西門前の参道)

(西門前の池)


御朱印を頂いた後に、自分は西門前を10:30頃出て、すぐ南側にある「久米寺」へ向かった。

 久米寺(くめでら)は、奈良県橿原市久米町にある真言宗御室派の寺院。

山号は霊禅山。詳しくは霊禅山東塔院久米寺と称する。本尊は薬師如来坐像。開基(創立者)は聖徳太子の弟の来目皇子(くめのみこ)ともいうが未詳。『扶桑略記』や『今昔物語集』においては久米仙人により創建されたと伝えられる。

 大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つに数えられる。 

歴史:大和三山の1つ、畝傍山の南方に位置し、橿原神宮からも近い。開基は聖徳太子の弟・来目皇子(くめのみこ)とも久米仙人とも伝わるが、詳細は不明である。空海(弘法大師)が真言宗を開く端緒を得た寺として知られる。娘のふくらはぎに見とれて空から落ちたという久米仙人の伝説が残る。

 『和州久米寺流記』には来目皇子の開基を伝える。一方、『扶桑略記』『七大寺巡礼私記』などは当寺を久米仙人と結び付けている。久米仙人の伝説がフィクションであることは言うまでもなく、創建の正確な事情は不明だが、ヤマト政権で軍事部門を担当していた部民の久米部の氏寺として創建されたとする説が有力である。境内には古い塔の礎石があり、境内から出土する瓦の様式から見ても、創建は奈良時代前期にさかのぼると思われる。空海はこの寺の塔において真言宗の根本経典の1つである『大日経』を感得(発見)したとされている。空海が撰文した「益田池碑銘并序」(ますだいけひめいならびにじょ)には「来眼精舎」(くめしょうじゃ)として言及されており空海とも関係があったと思われる。

なお、橿原市の隣の明日香村奥山に「奥山久米寺跡」があり、この寺についても来目皇子創建とする伝承がある。


(下は、迷いながらたどり着いた「久米寺」)

(下は、参道からの境内)


(本堂)





※ 「久米寺」は、聖徳太子の弟の来目皇子が幼少の頃眼病を患い両目を失明したが、聖徳太子のお告げにより薬師如来に祈願したところ平癒したと言う伝説があり、これにより皇子は、自らを来目皇子と称したという説がある。創建のきっかけは、推古天皇の眼病全快のお礼だったと言われ、本尊の薬師如来は、眼病に効くと言われた。
 境内には京都の仁和寺から移建された禅宗の影響が見られる多宝塔(重要文化財)や本尊の薬師如来坐像、久米仙人像などがあり、弘法大師空海ゆかりのお寺でもある。 境内は拝観自由(あじさい祭の時期は、有料)で、仙人弁当や中風(ちゅうふう)よけになるという南瓜の酢の物料理も楽しめるという事である。また、ユキヤナギ、ツツジ、アジサイの美しいお寺としても有名である。


「久米寺」を出たのは11:00頃だった。

 近鉄橿原線で『橿原神宮前駅』から『八木駅』でロッカーの荷物を受け取り、昼飯にはまだ早かったので、八木駅の売店で奈良名物の『柿の葉寿司』を買い、そのまま近鉄橿原線で筒井駅迄行き、そこからバスで斑鳩の「法隆寺」へ向かった。 バスで法隆寺前に着いたのは12:00頃と思われる。


 今更ながらだが、「奈良法隆寺」は、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院。聖徳宗の総本山である。別名は斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問寺など。

法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。

 法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。 

 法隆寺のある斑鳩の地は、生駒山地の南端近くに位置し、大和川を通じて大和と河内とを結ぶ交通の要衝であった。付近には藤ノ木古墳を始めとする多くの古墳や古墳時代の遺跡が存在し、この地が古くから一つの文化圏を形成していたことをうかがわせる。

 『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手し、推古13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。 

 現・西院伽藍の南東に位置する若草伽藍跡が焼失した創建法隆寺の跡であり、この伽藍が推古朝の建立であったことは、発掘調査の結果や出土瓦の年代等から定説となっている。また、昭和14年(1939年)、東院の建物修理工事中に地下から掘立柱建物の跡が検出され、これが斑鳩宮の一部であると推定されている。 「日本仏教の祖」としての聖徳太子の実像については、20世紀末頃から再検討がなされており、『書紀』などが伝える聖徳太子の事績はことごとく捏造であるとする主張もある。ただし、こうした聖徳太子非実在論に対しては根強い反論もある。また、聖徳太子非実在論説を唱える大山誠一も、厩戸皇子という皇族の存在と、その人物が斑鳩寺(創建法隆寺)を建立したことまでは否定していない。

 金堂の「東の間」に安置される銅造薬師如来坐像(国宝)の光背銘には「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。しかし、正史である『日本書紀』には(後述の670年の火災の記事はあるが)法隆寺の創建については何も書かれていない。 その他諸々、事「聖徳太子」や「法隆寺」に関する文物や諸説には枚挙に遑(いとま)が無い。


 自分は先ず、インフォメーションセンターへ行って荷物を預かって貰い、『柿の葉寿司』を食べながら、自分で調べてきたより膨大な量の知識を、そこで放映されていた「法隆寺」に関する宝物や仏像等の詳細な情報を観た。

 およそ1時間余りもそこに居ただろうか?

「法隆寺」へと向かう参道に出たのは13:15頃だった。

 「法隆寺インフォメーションセンター」には、『斑鳩の里 観光ボランティアの会』が主催する参加費無料の”あなたに見せたい斑鳩三塔と古道を歩く会”や、無料ガイドによる『法隆寺案内』等が開催されており、依頼する事も出来たが、多分、連日の旅の強行軍で何よりも疲れていたので、折角お善意で説明して下さるボランティアさんの懇切丁寧な説明を受け取るだけの余力がありそうも無く、煩わしくなったのとで、それは申し出なかった。

 高校時の修学旅行で、ある程度は観ていた事もあり、今回は膨大で詳細な知識を求めるのではなく、のんびりと自由気ままな”法隆寺散策”を行う事に決めた。

 

(下は、「法隆寺インフォメーションセンター」を出てすぐの参道)

(下は、南大門への入口)

(「法隆寺」の説明)

(「法隆寺」の南大門)

(境内の参道)





(「法隆寺」の西円堂)



(「法隆寺」の五重塔)

(内側から見た南門)

(「法隆寺」の聖霊院)


(下は、大宝蔵院)


(八脚門の、国宝「東大門」)


(東大門を出て、「夢殿」へと向かう参道)



(「夢殿」への門)

(下は、インフォメーションセンター展示の「夢殿」の模型)

(下は、帰路の東大門)


(帰路の南大門)


※ 「法隆寺」は、喉かな季節の所為もあり気分も穏やかに、ゆっくりと散策できた。 そして改めて思った事は、とても半日で廻り切れる様な所では無く、機会が有ればいずれ、紅葉の季節にでもゆっくりと訪れたいと思う次第であった。

その後、「法隆寺」を出て再びバスで筒井駅へ出て、そのまま近鉄線に乗り、「奈良新大宮駅」へ出て「東横イン 奈良新大宮駅前」に投宿。
翌3月31日(金)に、リムジンバスで伊丹空港へ出て、09:50発のANA735便で仙台空港着は11:05。 常磐自動車道にて無事帰相できた。
 今回の旅は、多少気ぜわしくはあったが、実に充実した旅であった。


    【奈良:桜井・飛鳥・橿原・斑鳩への旅行記終了】

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