閲覧注意!日本の凶悪殺人犯が残した”不気味な名言”たち。怖いけれど考えさせられるかも…

日本のサイコパス・シリアルキラー・凶悪殺人鬼が残した、語り継がれる怖い言葉を紹介。今回は「宮崎勤・阿部定・永山則夫」です。

執筆者: 雨宮あすか
日本の殺人犯が残した、狂気の言葉

殺人犯は時に奇異な発言を残し、人々を驚かせます。

Twitterではbot(自動的にツイートをするシステム)を作られている殺人犯もおり、多くの人にフォローされています。

 

ここでは、世間を騒がせこの世を去った殺人犯の言葉の中から、人々の記憶にいまだ残るものをご紹介いたします。

 

 

「死刑になることはないんだよ。だって私はやさしい」
宮崎勤(1962年)

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人である宮崎勤の言葉。

この言葉のほか、「判決は何かの間違い」「(被害者や遺族に対して)いいことができて良かった」など、非常に身勝手な発言が多く、死刑の最後まで事件や遺族に対する謝罪の言葉は出ませんでした。

 

被害者が4~7歳の幼い女の子であるということや、新聞社に犯行声明を送ったり、遺族に被害者の遺骨を送る、祖父を復活させる藁人形儀式を女児を殺すたびに行ったなどの異常な行動が見られ、その影響から漫画やアニメ、残虐なシーンを含む映画などが「有害である」という偏見を引き起こすほど、社会に強い衝撃と影響を与えました。

 

日本で知らない人はいないほどの有名殺人犯と言えるでしょう。

 

「体や首を持って逃げるわけにはいかないので。一番思い出の多いところを切り取っていったのです」
阿部定(1905年)

被害者の局部を切り取った「阿部定事件」の犯人、芸妓・娼妓であった阿部定(あべ さだ)の発言。

 

犠牲となったのは阿部定が女中として働いていた料理店の主人・石田吉蔵で、二人は愛人関係でした。

犯行は石田が眠っているときに行われ、定は腰紐を使って彼を絞め殺しました。

もともと行為中に首を絞めたり、刃物で身体を傷つけるなどサディズム極まる行いを繰り返しており、精神鑑定でもその残忍性と淫乱性の結果が出ていたとされています。

 

定が庶民の間で有名であったことや、猟奇性の高い事件であることから街は大変なパニックとなり、「昭和11年の三大事件」と呼ばれるほどでした。

※残り2つは二・二六事件、上野動物園クロヒョウ脱走事件。

 

定は子供のころから評判の美少女で、おまけに家は裕福な商家。

甘やかされチヤホヤされて育ちましたので、大変高慢で我儘な性格だったと言われています。

若いころから男の取り巻きを引き連れ、派手に遊び歩く極道顔負けの不良娘でしたが、見かねた親に女衒へ売られてしまいました。

 

男性であれば思わず顔を顰めてしまう箇所を切り取った…この言葉は恐ろしいながらも、なんだか悲しい意味も籠められていると思いませんか?

 

「『悪い』と思って行なわれる『犯罪』は存在しないのです」
永山則夫(1968年)

連続ピストル射殺事件「永山則夫連続射殺事件」の犯人の言葉です。

 

永山は幼いころからネグレクトを受けており、父親はギャンブル狂、母親は精神を病んで家出という、家庭崩壊の環境で育ちました。

やがて東京に集団就職し、職を転々とした後、ピストルと弾丸を盗み、4人を射殺。

犯行理由は「社会への復讐」であると言われています。

 

永山則夫は当時まだ19歳の未成年でしたが、指名手配されていたため当初から実名で報道されていました。

永山は学校教育をまともに受けさせてもらえなかったため、逮捕時は読み書きもほとんどできない状態でした。

しかし獄中で独学し、1983年には小説「木橋」で日本文学賞を受賞するまでになりました。

 

印税は被害者遺族へ渡しましたが、受け取らなかった遺族も当然います。

 

貧乏で無知だからこういう事件が起きたのだ

永山の言葉の1つです。

善悪の判断がつかず殺人を犯してしまうシリアルキラーもいれば、永山のように、社会への恨みつらみを消化しきれず、あえなく殺人を犯してしまう…。

 

当時の社会背景や、彼の生まれ育った家庭環境は、犯行に大きな影響を与えていたとされ、裁判は死刑判決から無期懲役、そしてやはり死刑と揉め、約29年間もの獄中生活を過ごしました。


永山則夫の裁判判決は現在の死刑基準にも大きな影響を与えており、「永山基準」と呼ばれています。

 

おわりに

殺人は絶対に許されないことであるにも関わらず、中には殺人犯のファンになる人も存在します。

 

家と学校・会社を行き交いするだけの変わりばえのない毎日を送っている人々にとって、殺人犯の中に潜むアブノーマルな部分が、そんな現実から目を逸らさせてくれるように思えてしまうのかもしれません。