古都・京都の歴史を辿る!都を守る役割を果たした御土居(おどい)を訪ねる旅
御土居(おどい)とは、豊臣秀吉が京都の都市改造の一環で造った土塁で、その断面は底の部分が約20m、頂上の部分が幅約5m、高さも約5mの台形状の土塁でした。
それが1周22.5kmの範囲で造られていまして、その中を洛中、外を洛外と言います。
現在は取り壊されているので見れる所が少ない御土居、一体どこにあったのでしょうか。
弘前城を囲む土居
御土居とは、外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街を守る堤防として、1591年に造られました。
北は鷹ケ峯、東は鴨川、西は紙屋川、南は九条近辺に築かれていたそうです。
しかし、そんな大きな土塁が京都を一周していると、出入りが出来ません。
その為に、7つの出入り口を設けて、出入りが出来るようにしたのが「京の七口」です。
京の七口は、今でも地名にその名が残っています。
京の出入口を表す京の七口の「口」は、鎌倉時代後半から使われていたようですが、御土居を築いて京の出入口を土塁に開いた「口」として具現化したことによって、七口という表現が一般化されました。
御土居による京の七口とは、長坂口、鞍馬口、大原口、粟田口、伏見口、鳥羽口、丹波口を指します。
京の七口(きょうのななくち)とは、京(京都)につながる街道の代表的な出入口の総称として用いられる。 七口として示される出入口の場所および名称は史料によっても異なり、定まっていない。
(wikipediaより引用)
京の七口、出入口と御土居
今ではほとんどその姿を見ることが出来なくなった御土居ですが、下記の場所では今もその名残が残っています。
ただ、現在では普通の住宅地や土地が広がっていることもあるので、名残のみを楽しんでおきましょう。
- 北区紫竹上長目町・堀川町(加茂川中学校敷地など)
- 北区大宮土居町
- 北区鷹峯旧土居町2番地
- 北区鷹峯旧土居町3番地(御土居史跡公園)
- 北区紫野西土居町
- 北区平野鳥居前町
- 上京区北之辺町 (廬山寺)
- 中京区西ノ京原町 (御土居上に市五郎神社社殿)
- 上京区馬喰町 (北野天満宮境内)
JR京都駅の0番のりば(旧1番線)のホームは、御土居の盛土を利用したものという噂がありますが、実はこれは間違いなのだそうです。
このホームは1914年に、2代目京都駅開業時に作られたものですが、それ以前の明治時代の地図にも、御土居は描かれていないそうです。
周辺にある東塩小路村の記録によると、1877年の鉄道開通に先立って、この地域周辺の御土居は取り壊されました。
ちなみに、1993年に行なわれたホーム西端での発掘調査で、堀の跡と思われる泥土層が見付かっています。
つまり、この場所に御土居があったらしいのですが、盛土は利用していないようですね。
JR京都駅の0番ホーム付近
京都の人でも、その存在を知らない人が多い御土居。
洛外や洛中の意味が、この御土居の存在から話すと驚く人が多いです。
豊臣秀吉がいかに京都の町に手を入れたか、この御土居の話しだけでもその都市改造の規模の大きさが分かります。
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田中英哉(たなかひでや)37歳
京都生まれ京都育ち。24歳まで京都で暮らしたが、3年間
名古屋で勤め、京都を離れて初めて京都の魅力に気付く。
Uターン後、京都観光に関する仕事で地域貢献をしようと
「ことぶら」を立上げ。「京都の魅力発信、感動を共有、感
謝される仕事で社会貢献」を理念としてビジネス展開中。
第7回、京都文化ベンチャーコンペティションにて、エフエム京都賞・京都銀行賞を受賞。
ことぶら公式サイト
http://www.lifecrew.jp/kotobura/
【資格】
国内旅行業務取扱管理者(国)
2級ファイナンシャルプランニング技能士(国)
3級知的財産管理技能士(国)
環境社会検定(eco検定)(公)
京都検定2級(民)
旅行地理検定3級(民)
メンタルケアカウンセラー(民)
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