スコットランド発祥の紅茶文化!イギリスで発展したティーの歴史と立役者たち (1/2)
2014年9月18日に実施されましたスコットランド独立を問う住民投票は、世界中の関心を呼びました。
結果は皆さんご存知の通り、イギリスに留まることになりました。
歴史的に見て、今こそ独立をという意思も沢山ありましたが、やはり経済安定を選択した結果ですね。
このスコットランド、実は英国紅茶を語る上で、多くの役割を果たしてます。
スコットランド人がいなければ、英国紅茶は成り立たなかったと言っても過言ではありません。
ここでは、話題を呼んだスコットランドと紅茶について述べていきます。
ロバート・フォーチュンは、エディンバラ出身の植物学者・冒険家でプラントハンターと呼ばれています。
1842年の南京条約後、1843年から1846年まで中国にいました。
植物学者としての立場で活動をしていましたが、時には中国服に身を固め、弁髪を付けて、中国語を駆使し、奥地の茶園をスパイして回りました。
そして、秘密にされていたお茶の製法を探りました。
≪中国種≫の茶樹の種子や若木を密かに持ち出し、当時の植民地インドで栽培を試みました。
紅茶と緑茶は、製法が違うだけで同じ茶樹から出来ることを探り当てました。
帰国後、英国で発刊された報告書は、紅茶業界者にとって福音書になりました。
茶樹をどうやって育て、摘んだ茶葉をどうやって仕上げるのか、皆目見当がつかなかったからです。
しかしこの≪中国種≫の茶樹は、インドではダージリン地方を除いて根付くことなく、枯れてしまいました。
中国の呪いと呼ばれたこともあるくらいでした。
チャールズ・アレキサンダー・ブルース(C・A・ブルース)は、兄ロバートと共に、インドアッサム地方で、自生の茶樹の存在を知りました。
1823年のことです。
その茶樹の葉っぱは、今までの≪中国種≫より、大きな葉っぱで、それを見た英国当局者は、茶としては認めようとはしませんでした。
スコットランド人であるC・A・ブルースは、諦めずに根気強く栽培と報告を続け、1835年にようやく英国王立協会が≪アッサム種≫として認めました。
アッサムインド茶産業の責任者に任命された後も、紆余曲折がありましたが、死ぬまでアッサムの地で紅茶に携わりました。
英国紅茶には不可欠なアッサムティ。
C・A・ブルースは、インドアッサム茶業の父と呼ばれてます。
ジェームス・テーラーが、セイロン島に渡ってきた17歳(1852年)の時は、コーヒー生産が主流でした。
テーラー自身もコーヒー園で働くために、継母が来てから居場所がなくなったスコットランドの故郷から移住しました。
ところが、1860年代にコーヒーが錆菌病で全滅しました。
テーラーは、1867年にインド≪アッサム種≫の茶の苗木を与えられ、栽培を始めます。
孤独なテーラーは、愛情の全てを茶の栽培と紅茶製造に注ぎ、死ぬまで休むことなく働きました。
やがてテーラーが愛情込めて作った紅茶は、美味しいと英国で評判を呼びます。
1880年には、セイロン農園主協会から表彰されましたが、人前に出るのが嫌なテーラーは、非公式にしてもらったのです。
1892年に死ぬまで、セイロンの地で紅茶に携わりました。
人々から「セイロン紅茶の父」と呼ばれるようになりました。
トーマス・J・リブトン
トーマス・J・リブトンが、銀行からのオファーでセイロン島の土地を買い始めたのは1890年です。
次々と買い取り、紅茶園を広げていきます。
グラスゴー出身のリプトンは、食料品チェーン店が成功して、直接紅茶園を経営し「茶園から直接ティーポットへ」の考えで、チェーン店でその紅茶を販売しました。
また、その土地の水に合ったブレンドをしていき、英国の紅茶供給に貢献しました。
王室からSir (サー)の称号をもらい、セイロン紅茶王と呼ばれました。
英国紅茶で欠かせない、スコットランド由来の焼菓子があります。
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長年大手紅茶会社勤務。紅茶専門店勤務(大阪・名古屋)経験有。
2012年から独立し、大手紅茶会社時代の仲間が立ち上げた紅茶ブランドRegent Garden Tea と Royal Walton Tea で紅茶教室・ティーサービス実施。またそのブランド紅茶を委託販売。
活動地区は東海(愛知県、岐阜県、三重県)と北陸(石川県、福井県、富山県)
ブログ名【紅茶雑館】http://morikawa201205.blog.fc2.com/
*ブログは毎日UPしています。
ホームページ【紅茶館M's tearoom】http://morikawa201208.jimdo.com/
*紅茶活動全体が判ります。
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